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構成・文/宮下悠史

斉(戦国) 春秋戦国時代

斉貌弁(さいぼうべん)は主君の寵愛に答えた人物

2021年10月26日

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名前斉貌弁(さいぼうべん)
生没年不明
斉(戦国)
コメント周りの評判は悪かったが、いざという時に役立つ人物

斉貌弁は斉の靖郭君・田嬰に寵愛された人物です。

斉貌弁の素行が悪かったのか、多くの食客らは斉貌弁の事を快く思ってはいませんでした。

人々は田嬰に斉貌弁を追放する様に求めますが、田嬰は逆切れを起こし、斉貌弁を側に置き続ける事になります。

田嬰は斉の宣王と不仲であり、薛の領地に戻りますが、ここにおいて斉貌弁が活躍する事になります。

今回は戦国策の斉策に記述されている斉貌弁の話を解説します。

 

諫めを聞かない田嬰

斉貌弁は主君の田嬰には寵愛されていましたが、性格に問題があり多くの人々から嫌われていたわけです。

田嬰の食客の一人である士尉は田嬰を諫めます。

しかし、田嬰は士尉の言葉には耳を傾けず、士尉は田嬰を見限ったのか、暇を請うて出て行ってしまいます。

田嬰が斉貌弁が寵愛する事で、不利益を被る者が多くいると考えたのか、孟嘗君(田文)が田嬰を諫めました。

孟嘗君は田嬰から食客の管理を任されていた話しもあり、食客の和を乱すと考え、斉貌弁を追放する様に田嬰に求めたのでしょう。

孟嘗君が田嬰を諫めると、田嬰は怒りだし、次の様に述べています。

田嬰「お前たち一族を斬り捨てようが、俺の家が破産しようが、斉貌弁が気に入りさえするなら、俺は拒む事をしない。」

田嬰は一族よりも財産よりも、斉貌弁の方が大事だと宣言した事になります。

田嬰は斉貌弁に対し、最大限の待遇を与え、自らの長子は斉貌弁に仕えさせるなど、普通ではありえない程の待遇をしたわけです。

こうなってしまうと、孟嘗君であっても、どうする事も出来なくなってしまったのでしょう。

この当時の孟嘗君からしてみれば、父親の田嬰が斉貌弁を重用する意味が、分からなかった様に思います。

 

斉貌弁の活躍

斉の宣王が即位

斉では威王が亡くなると、宣王が即位しました。

田嬰と斉の宣王の仲は険悪であり、田嬰は朝廷を去り領地の薛に戻る事になります。

斉貌弁も田嬰に従い薛に行き共に暮らしますが、暫くすると、斉貌弁は田嬰に斉の宣王の元に向かわせて欲しいと願い出ました。

田嬰は斉貌弁の言葉を聞くと、次の様に述べています。

田嬰「今の斉王は私の事を嫌っている。其方が斉王にまみえれば命を落とす事は必定である。」

田嬰は自分が寵愛する斉貌弁が斉の宣王に会えば不快に感じ、処刑されてしまうと考えたのでしょう。

しかし、斉貌弁は「それを覚悟で宣王に面会を求める。」と話し、斉の宣王の元に向かいます。

この時に田嬰は斉貌弁を止める事が出来なかったとあるので、斉貌弁の意思はかなり強かったと言えます。

 

斉貌弁が斉の宣王に説く

戦国策によれば、斉の宣王は田嬰を嫌っていた事もあり、斉貌弁が来ると怒りを秘めて待ち受けていたとあります。

斉の宣王は斉貌弁に面会すると、次の様に述べます。

斉の宣王「田嬰は其方(斉貌弁)を気に入っており、其方のいう事であれば何でも聞くと聞いているが本当だろうか。」

斉貌弁は次の様に答えます。

斉貌弁「私は靖郭君(田嬰)に気に入られてはいますが、何でも聞き入れられるとは限りません。

私は斉王様が太子だった頃に靖郭君に向かい、太子には不仁の相があり、太子を廃し衛姫が生んだ郊師様に太子を変える様に要請しました。

しかし、靖郭君は涙を流し「その様な事は出来ない。」と述べています。

私の言う事を靖郭君が聞き入れていたならば、今日の禍は起きなかったでしょう。

靖郭君が薛に戻ると楚の宰相である昭陽は数倍の土地と、薛の領地を交換しようと持ちかけてきました。

私は靖郭君に「昭陽の話に応諾しましょう。」と述べたのですが、靖郭君は『薛は先代から賜わった土地であり、先代の霊廟も薛にある。先祖の霊廟を楚にくれてやる事は出来ない。』と述べらました。

私は靖郭君には気に入られておりますが、全て私の言論が用いられるわけではないのです。」

斉貌弁の話を聞くと斉の宣王は嘆息し、次の様に述べています。

斉の宣王「靖郭君がそこまで儂の事を考えていてくれていたとは思わなんだ。

私は世間知らずの若年であり、靖郭君の心意気を無下にしていたと気が付いた。

其方は、靖郭君にこちらに来るように骨を折っては貰えぬか。」

斉貌弁は斉の宣王の要請を応諾し、靖郭君は斉の朝廷に上る事になります。

 

宰相になる様に要請される

この時の田嬰は威王の衣冠を身に着けて、斉の朝廷に向かった話があります。

斉の宣王は田嬰に配慮し、先王の衣冠を下賜したのでしょう。

この時に斉の宣王は田嬰の為に、郊外まで出向き田嬰の姿を見た時に、父親の威王の生き写しと考え涙を流した話があります。

斉の宣王は田嬰に斉の宰相になる様に要請しますが、田嬰は固辞しました。

しかし、斉の宣王が引き下がらなかったので、田嬰は仕方がなく宰相の印綬を受けています。

田嬰は斉の宰相となりますが、元々は斉の宣王と不仲だった事もあり、いずれは対立すると考えたのか、宰相となって3日後に病気を理由に宰相の辞任願いを出しています。

斉の宣王は田嬰に宰相を辞めない様にと説きますが、田嬰の決意は固く宰相を辞任しました。

斉貌弁の活躍により、田嬰は危うい立場から、斉で重用される事になったと言えるでしょう。

は戦国策の、この逸話以外に記録がなく、この後にどうなったのかも不明です。

斉貌弁が多くの人々から嫌われながらも、最後に役立った事を見るに、田嬰には人を見る目があったと言えるのかも知れません。

 

孟嘗君に与えた影響

斉貌弁は田嬰の後継者となる孟嘗君に、強い影響を与えた様に思います。

孟嘗君は斉貌弁を遠ざける様に田嬰に進言している事から、最初は斉貌弁の事を良く思ってはいなかったはずです。

しかし、斉貌弁の活躍を見て、孟嘗君も思う所があった様に感じています。

孟嘗君は食客を3000人集めた話がありますが、鶏鳴狗盗の泥棒や犯罪者なども多くいた事が分かっています。

司馬遷が薛に訪れた時に、乱暴者が多かった話もあり、孟嘗君が多くの犯罪者まで薛に住まわせてしまった事が原因とも語っています。

しかし、孟嘗君は斉貌弁の一件を見て、「人はいつ役に立つか分からない。」と考え、様々な人を集めた様に思います。

尚、孟嘗君も斉の湣王により宰相を解任されますが、食客の馮驩の活躍により、再び宰相に返り咲いています。

それを考えると田嬰における斉貌弁が、孟嘗君における馮驩になるとも感じました。

参考文献:平凡社 戦国策1 著・劉向 訳・常石茂

 

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