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構成・文/宮下悠史

春秋戦国時代

西門豹は鄴を大発展させた名臣

2021年2月19日

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西門豹と言う人物を紹介しようと思いました。西門豹は司馬遷が書いた史記に個人の列伝はありませんが、滑稽列伝に話が掲載されています。

西門豹が活躍したのは、戦国時代の初期の頃です。まだ、秦よりも魏の方が強大な力を持っていた頃です。この戦国時代の初期に西門豹が鄴(ぎょう)の県令になりました。

当時の鄴はなぜか発展しない土地であり、魏の文侯に命じられて西門豹が県令になりました。なぜ土地が発展しなかったかと言うと、黄河の神を鎮めると言う事で、大老や巫女、その弟子、役人などが住民から莫大な費用を取っていたからです。この当時は、黄河に川の神様がいたと住民は信じていました。

その話を聞いて、西門豹はその黄河の神を鎮める行事に参加したわけです。

ただし、西門豹は自分の部下に絶対に自分の命令は聞くように忠告しています。聞かない部下は首をはねると言って脅してもいたようです。

話を戻しますが、黄河の神様に美人の女性を届ける決まりがありました。届けると言っても、美人の女性を黄河に沈めるという儀式です。

この時に、西門豹は黄河の神に届ける女性がブサイクすぎると文句を着けます。巫女や地域の大老には「もっと、いい女を届けるから、もう少し待っていてくださいと。黄河の神に言って来てくれ」と難題を突き付けます。
巫女や大老がどうしていいか分からないで困っていると、自分の部下の兵隊を使って、無理やり黄河に流してしまいました。

そして、西門豹自身は巫女や大老が全然返って来ないと言う事で、関係者を次々に黄河に流してしまうわけです。

夕方になっても、誰も返って来ないので、仕方なく全員に帰宅させました。それ以来、黄河の神に祈る儀式は無くなったそうです。

その後、西門豹は黄河の水を使って治水を始めました。村人などはなぜこんなことをするのか分からずに文句を言ったと言います。

しかし、西門豹の方は、そんな事は別に分からなくてもいい100年後には凄い事になっているような事を言ったとされています。

その後、鄴は大発展したという記述があるのです。趙と言うよりも、鄴は魏に取って重要な地であったのかも知れません。

尚、漢の時代になってから西門豹の治水した場所を取り壊し、新しい灌漑作業をしようと漢の役人は考えたと言われています。

しかし、住民は西門豹様が作った灌漑だからと嫌がったという話もあるのです。西門豹が住民にも慕われていた事が分かる記述です。

因みに、紀元前239年に魏が趙に鄴を割譲した記述があります。この当時の魏は秦に攻められ苦しい立場にいました。

魏は趙と同盟を結びたくて、鄴を趙に割譲した可能性もあります。西門豹が治めて大発展した鄴を魏が手放すのは、魏の滅亡が近い事を感じたのを覚えています。

尚、紀元前236年に、秦の王翦桓騎楊端和らが趙の鄴を攻撃し、鄴は陥落する事になります。

鄴の戦いは秦の勝利で幕を追えます。

鄴が陥落してから15年後の紀元前221年に秦は斉を滅ぼして天下統一を成し遂げる事になるわけです。

 

西門豹の治世

淮南子にも西門豹の話があるので紹介します。

西門豹が鄴を治める様になると、府庫が空になっていると魏の文侯に連絡が入ります。

怒った魏の文侯は、鄴まで行き西門豹を叱責しようと考えました。

魏の文侯が鄴に着くと、魏の文侯は西門豹を咎めますが、西門豹は臆する事もなく「王者は民を富ませ、覇者は士を富ませ、国を滅ぼす者は府庫を富ます」と述べます。

西門豹は府庫が空になっているのは、民に預けてあるだけだと言い、城壁に昇り鼓を叩けばわかる事だと言います。

魏の文侯が鼓を一つ叩くと民は武器を持って現れ、二つ目の鼓を鳴らすと民は食料を持って現れ、魏の文侯は驚きます。

西門豹は、私と民の信頼は一日で出来たものではなく、民を徴収しておいて何もしなかったら信頼を失うと述べました。

西門豹は集まった民らと共に、燕を攻撃すると述べ、魏の文侯を納得させた話があります。

西門豹は鄴の住民を率いて燕を攻めると、燕から奪われた城を全て奪還した話があるのです。

この話は、物語としては面白いのですが、事実としては考えにくいとも感じました。

あと、魏から燕を攻めるには、趙国や斉を通り抜けなければなりませんし、悪手だとも感じています。

秦の范雎は遠交近攻を秦の昭王に述べて秦は統一の原動力としました。しかし、西門豹が燕を攻めてしまったら、范雎の遠交近攻策から外れる事になるでしょう。

ただし、魏は文侯の時代に、趙の邯鄲よりも北にあり燕とも国境を接する中山国を楽羊に命じて攻め中山を滅ぼしています。

魏は子撃(後の魏の武侯)に中山を守らせた話があり、魏が中山を占拠した後に、燕が中山の地を攻めて魏の領地の一部を奪ったのかも知れません。

燕に奪われた中山の地を西門豹が取り返した可能性もあります。

余談ですが、楽羊は中山の霊寿を与えられ、楽羊の子孫が燕の昭王の時代に活躍した楽毅です。

 

西門豹の最後

西門豹は、かなり清廉潔白の人だったようです。韓非子に次の話が述べられています。

西門豹は、主君である魏の文侯の取り巻きの人達が賄賂を要求しても、一切、渡さなかったと言います。しかし、この事が後に西門豹が魏を去る要因になるわけです。

西門豹は魏の文侯の取り巻きの連中に賄賂を渡さなかったために、かなり悪く言われてしまい、魏の文侯は解任を考えたと言う話があるのです。

つまり、一生懸命仕事をして実績のあるのに、賄賂を贈らないために失脚しそうになったのです。解任はされなかったのですが、西門豹は次はせっせと文侯の取り巻きの連中に賄賂を贈るようにしました。

そうすると、業務報告に行ったときに、魏の文侯は大絶賛したわけです。これに違和感を持ったのか、西門豹は魏を突然去ってしまいます。

この後の、西門豹がどうなったのかは史実には記載がないので分かりません。韓非子が自説を押し通す為の作り話の様にも感じます。

尚、西門豹が魏を去った話は、魏の人材の枯渇を予言する話にも感じました。

戦国時代の初期の頃は、戦国七雄の中でも魏は最強国であり、李克、呉起、西門豹、楽羊などの優れた人材が多くいた事実があります。

しかし、呉起は魏の武侯の時代に去っていますし、魏の恵王の時代には、商鞅が魏から秦に移っていますし、先に述べた范雎も最初は魏にいたわけです。

名君と呼ばれた魏の文侯でさえ名臣である西門豹をさらしている所を見ると、魏に優れた人材を受け入れる器がない事を示している様にも思いました。

戦国時代の中期から後期には戦国四君の一人であり、魏の王族である信陵君が現れますが、一族の信陵君でさえ魏の安釐王は重用する事が出来ませんでした。

西門豹が魏を去ったのは、魏の凋落を予言する話になっているのかも知れません。

 

西門豹と曹操

三国志で有名な曹操は西門豹にかなり敬意を持っていたようで、自分の墓を西門豹祠の西に作れと指示しています。

近年では、曹操の墓が見つかった事もあり、正史三国志の曹操の記述の正確さが話題にもなりました。

さらに、曹操の作った魏(戦国時代の魏とは別の国)は、初期の頃は鄴を拠点にしていました。戦略的に重要な地でもあったのでしょう。

中国の戦国時代では邯鄲の方が重要な地になっていますが、後の世では鄴の方が重要な土地になっています。

 

西門豹の動画

下記は西門豹のゆっくり解説動画です。視覚的に西門豹の事が分かる様になっています。

鄴に赴任した時の話や淮南子の鼓の話、西門豹が魏の文侯の元を去る話も入れてあります。

 

 

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