鎌倉幕府

摂家将軍とは摂関家(藤原・九条家)から迎えられた将軍

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摂家将軍(せっけしょうぐん)とは、鎌倉時代に藤原(九条)家から迎えられた将軍を指します。

源氏将軍は、源氏の棟梁である源頼朝、源頼家、源実朝を指します。

源氏将軍は三代で終焉を迎え、摂関家である藤原氏から、鎌倉に将軍として迎えたのが藤原頼経、頼嗣であり摂家将軍と呼ばれています。

摂家将軍の始まりが、執権政治の始りだと考える人もいます。

過去には北条氏が絶大な力を持っており、摂家将軍は傀儡に過ぎなかった話もありますが、現在では異論を唱える人もいます。

 

摂家将軍が誕生した経緯

源氏将軍は征夷大将軍である、源実朝が暗殺された事で終焉を迎える事になります。

源実朝が死去すると、生母である北条政子は、後鳥羽上皇の皇子を鎌倉に迎え、征夷大将軍とする計画を立てます。

御家人は将軍と主従関係を結んだ武士を指す事もあり、鎌倉幕府には将軍は必要だったわけです。

しかし、後鳥羽上皇は後に北条義時追討の院宣を出した様な人物であり、鎌倉幕府の転覆を考えていたのか、拒否しています。

鎌倉幕府側としても、征夷大将軍を立てる必要があり、ここで白羽の矢が立ったのは、天皇に次ぐ権力があるとされた摂関家となります。

鎌倉幕府の首脳部は、摂関家で藤原道家の三男で、僅か2才の三寅を将軍に擁立しようと画策しました。

子供の三寅を征夷大将軍にするのは、おかしいと思うかも知れませんが、三寅は父方も母方も祖母は源頼朝の姪であり、血筋が全く関係なかったわけでもありません。

さらに言えば、曽祖父の藤原兼実を始め、一族に親幕府派が多かった事で、鎌倉幕府としてもやりやすいと考えた可能性もあります。

 

初代摂家将軍・藤原頼経

鎌倉時代の摂家将軍は、名前だけの存在に思うかも知れませんが、実際には大きな影響力を及ぼした事が分かっています。

摂家将軍・藤原頼経の誕生

1225年に北条政子が死去しています。

この時に執権である北条泰時は、名実共に三寅を将軍とする必要に迫られる事になりました。

この時に、三寅は8歳でしたが、元服させ名前を藤原頼経としています。

さらに、翌月には朝廷に征夷大将軍に任ずる様に要請し、ここにおいて初の摂家将軍である、藤原頼経が誕生する事になります。

この時に将軍御所を造営したり、御所警衛制度(鎌倉大番)の整備も進められ、藤原頼経の将軍としてに権威を演出した話があります。

 

13才(男)と28才(女)が結婚

1230年に藤原頼経は、竹御所と結婚する事になります。

この時の藤原頼経は13歳でしたが、竹御所は二代将軍源義家の娘であり、既に年齢は28歳になっていました。

かなり年齢差がある様に思いますが、藤原頼経と竹御所を結婚させる事で、源氏将軍と摂家将軍の結合を図ったと考えられています。

尚、竹御所は藤原頼経の子を身籠りますが、難産により竹御所は亡くなっています。

 

藤原頼経の政治

藤原頼経は、成人すると評定に異議を申し立てるなど、政治にも口を挟む様になります。

北条氏が執権となると、摂家将軍は傀儡になったと思うかも知れませんが、実際には征夷大将軍であり、大きな影響力があったわけです。

さらに、西の京都では藤原頼経の父親である、藤原道家が摂関の地位にいた事で絶頂期を迎えています。

藤原道家は子が鎌倉幕府の征夷大将軍になった事で、朝廷で最も権威がある臣下になります。

1238年に摂家将軍の藤原頼経は、北条泰時らを連れて上洛し、検非違使別当に任ぜられ、洛中篝屋を設置するなど、藤原家主導で公武協調体制を見せる事になります。

尚、執権の北条泰時が1242年に亡くなると、北条経時が執権となりますが、この時になると藤原道家は25歳になっていました。

北条経時が19歳だった事から、将軍が執権よりも年上になったわけです。

 

藤原頼嗣が将軍となる

藤原頼経と後妻である大宮殿の間に、鎌倉幕府の五代将軍となる藤原頼嗣が誕生する事になります。

藤原頼経は、藤原頼嗣が6歳になると、征夷大将軍の座を譲る事になります。

さらに、藤原頼嗣が7歳になると、執権である北条経時の妹である檜皮姫(ひわだひめ)と結婚する事になったわけです。

これにより摂家将軍家と、執権北条氏の融合を図ったとも考えられています。

ただし、藤原頼経と北条経時は段々と仲が険悪になったともされています。

尚、頼経は将軍職を息子に明け渡してからも「大殿」として、影響力を保持しています。

こうなると権力闘争が起こり、執権北条氏に対する将軍派が形成される事になります。

 

摂家将軍の終焉

執権の北条経時は、23歳の若さで没しています。

北条経時の後継者は弟であり、20歳の北条時頼が執権となり跡を継ぎました。

この代替わりのタイミングで、反北条氏の派閥が北条時頼の排除を企てる事になります。

これが「宮騒動」と呼ばれるわけですが、背後には摂家将軍であった、藤原頼経がいたわけです。

これにより、藤原頼経は鎌倉追放となり、京都に戻る事になります。

藤原頼経追放後も、息子であり征夷大将軍である、藤原頼嗣は鎌倉に残っています。

しかし、藤原頼嗣は北条氏の傀儡であり、影響力は少ない状態でした。

1247年に三浦泰村などが、藤原頼経を鎌倉に復帰させる為に、北条家打倒の兵を挙げますが、幕府軍に敗れ鎮圧されています。

この戦いを宝治合戦と呼びます。

宝治合戦が終わると、反北条氏の残党が捕縛され、北条家打倒の計画が露見します。

藤原頼嗣も危険人物とみなしたのか、幕府は鎌倉から追放する事にしました。

北条時頼は後嵯峨上皇に皇子を将軍に迎えたいと要請します。

この時には、承久の乱も終わっており、朝廷よりも幕府の方が圧倒的に力があった為に、後嵯峨上皇は第一王子の宗尊親王を鎌倉に下向させる事になります。

宗尊親王が鎌倉に迎え入れられ征夷大将軍となり、藤原頼嗣は追放されています。

これにより摂家将軍の時代は、僅か2代で終わりを告げ、親皇将軍の時代に突入します。

新王将軍は、宗尊親王、惟康親王、久明親王、守邦親王の4名が就任し、守邦親王の時代に鎌倉幕府は滅亡する事になります。

鎌倉幕府の滅亡を見届けたのは、親王将軍の守邦親王と得宗の北条高時となるでしょう。

 

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