三国志 魏(三国志)

司馬懿は三国志の勝者だが徳は低い!?

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司馬懿の字は仲達であり、三国志の真の勝者とも言われています。

司馬懿が三国志の勝者とされる理由は、孫の司馬炎が呉を滅ぼし天下統一を成し遂げたからです。

司馬炎の天下統一は、司馬懿が礎を築かなければできなかった事もあり、三国志の勝者だとされています。

ただし、司馬懿のやり方は「徳」がないなどと批判される場合もあります。

実際に司馬懿の子孫である、東晋の明帝こと司馬紹が王導から司馬懿や司馬昭のやり方を聞くと「これで王朝が長続きするはずがない。」と述べた話があります。

司馬紹の話を聞くと、司馬懿は野心家だと思うかも知れません。

しかし、司馬懿にとってみれば魏王朝の皇帝を傀儡とせねば、自分がやられていた言うのもあるのでしょう。

尚、司馬懿は諸葛亮のライバルとしても有名であり、横山光輝さんの漫画三国志での「待てあわてるなこれは孔明の罠だ」の言葉は有名です。

ただし、史実だと諸葛亮と司馬懿は激突した戦いは二つしかありません。

陳寿が書いた正史三国志には司馬懿の伝がなく、司馬懿の伝があるのは唐の時代に成立した「晋書」宣帝紀となります。

正史三国志でも司馬懿の事は宣帝や司馬宣王と呼ばれるのが普通です。

今回は史実の司馬懿が、どの様な人物だったのか詳しく解説します。

 

司馬懿の誕生

司馬懿は西暦179年に、司馬防の次男として誕生しました。

179年は呉や蜀に仕えた龐統と同い年(異説あり)だとも考えられています。

司馬懿のライバルとなる諸葛亮は西暦181年に生まれており、司馬懿の方が諸葛亮よりも二歳年上です。

司馬懿の兄弟は8人おり全員が優れた人物であり、字に「達」の文字が入っていた事から「司馬八達」と呼ばれた話があります。

司馬八達の「達」は「達人」の意味があるともされています。

司馬八達の中でも、極めて優秀なのが次男の司馬仲達だったわけです。

尚、司馬懿の出身地は司隷河内郡温県孝敬里であり、荀彧や荀攸を輩出した潁川グループと呼ばれる名士層でした。

家柄で言えば、司馬懿は曹操孫堅などよりも上であり、名門だと言えます。

 

司馬懿の少年・青年時代

司馬懿の子供時代は、混乱した洛陽を離れ黎陽で暮らした話があります。

後に、故郷に帰りますが青年時代から、司馬懿は高い評価をされていた事が分かっています。

混乱する洛陽

司馬懿の父親である司馬防は、後漢王朝の首都である洛陽の知事をしていました。

司馬懿も司馬防に従い洛陽で暮らしていたとも考えられています。

西暦189年に霊帝が崩御し、少帝が後継者となりますが、大将軍の何進が宦官に暗殺されるなど、洛陽は混乱の一途を辿ります。

袁紹や袁術が宦官を誅殺しますが、帝を保護した董卓が190年には実権を握ったわけです。

司馬防は洛陽の混乱を目にし、司馬朗に命じて一族を黎陽に移す事にしました。

この時に司馬懿も司馬朗に従い、黎陽に避難したと考えられています。

董卓が192年に王允や呂布により亡くなり、李傕(りかく)や郭汜(かくし)が王允、呂布を攻撃し長安を奪取しました。

この頃に袁術や袁紹を中心とする群雄割拠状態となりますが、194年頃に司馬懿は故郷に戻ったとされています。

 

司馬懿の青年時代の評価

司馬懿は同郷の楊俊から「非情の器」と評価された事があります。

後の司馬懿の情を交えずに行動する所を見ると、「非情の器」というのは当たっていると言えるでしょう。

司馬懿の兄である司馬朗は崔琰(さいえん)と仲が良く、司馬懿の事を次の様に評していた話があります。

「君の弟である司馬懿は剛胆な人物で、君(司馬朗)は司馬懿に及ばないであろう。」

司馬朗にとってみれば失礼な話に聞こえるかも知れませんが、司馬朗も納得したのか反論はしなかった様です。

尚、崔琰に推薦された孫礼、崔林、盧毓らは出世した話があり、司馬懿の出世の秘密には崔琰の言葉があった可能性もあります。

司馬懿は若い頃から、能力を認められ将来を期待されていた事でしょう。

因みに、司馬懿の正面を向いたままで首を180度向ける事が出来た話は、狼顧の相とも呼ばれ警戒される一因になったとされています。

 

曹操に仕官する

曹操は司馬懿を官職に就けようとしますが、司馬懿は7年が断り続けた話があります。

しかし、最後は断れなくなり、曹操に仕官する事になります。

7年間断る

司馬懿は官渡の戦いが終わった西暦201年頃に、河内郡上計掾になっています。

この頃に荀彧が司馬懿を曹操に推薦し、曹操は司馬懿を司空府に任命しようとしました。

曹操は司馬懿が優秀だと知ると、自分に仕官させようとしたわけです。

しかし、司馬懿は曹操の仕官要請を7年間も断り続けた話があります。

司馬懿が曹操からの要請を断った理由は、「滅亡する後漢王朝に仕官しても仕方がない」と考えた説などが存在します。

その反面で、当時の名士は仕官要請があっても、すぐに仕官せずに断りを入れ、最後に「そこまで言うなら、仕方がなく仕官しました。」的な雰囲気を出すのが当たり前でした。

そうした当時の名士らの行動に従って、司馬懿は曹操の要請を辞退し続けた話しもあります。

劉備が諸葛亮に三顧の礼を行った時も、諸葛亮は名士の扱い方を劉備に教えるために、3度目であったとする説もある程です。

ただし、司馬懿の7年間も要請があったのに仕官しないのは、明らかに異常な行動であり、司馬懿は曹操の噂を潁川の名士達から話を聞いており、仕官しなかったとも考えられます。

司馬懿が曹操から7年間も仕官依頼があったのに、仕官しなかった本当の理由はよく分かっていません。

 

針で刺されても起きない

司馬懿は曹操には病気で起き上がれないとして、仕官を断わっていた話があります。

司馬懿は中風で仕官を断わったとも、関節麻痺で仕官を断わったとも言われています。

足が悪くて動けない事を理由に、司馬懿は曹操への仕官を断わったのでしょう。

しかし、曹操は余りにも断られる為、本当に司馬懿が病気なのか調べる事にしました。

曹操は司馬懿に人を遣り、寝ている司馬懿に針で刺した話があります。

針で刺されれば普通の人は飛び起きるはずですが、司馬懿は何もなかったかの様に過ごした話があります。

司馬懿は仮病を押し通したと言えるでしょう。

この話が本当かは分かりませんが、本当であれば司馬懿はかなりの演技力の持ち主だと言えます。

ただし、曹操は司馬懿を針で刺す様に命令したわけではなく、あくまでも司馬懿の様子を見に行かせただけだった話もあります。

普通に考えれば、曹操が司馬懿の様子見に行かせただけの方が現実味があるでしょう。

 

張春華の機転

司馬懿は仮病だったのですが、司馬懿が愛用していた書物にカビが生えてしまい、外で干していました。

すると、急に天気が悪くなり、雨が降って来ると、司馬懿は急いで書物を外に取りに行きますが、動ける姿を女官に見られてしまったわけです。

動ける事がバレると曹操に嘘を付いた事になり、自分が処刑されるだけではなく、一族皆殺しも考えられました。

焦る司馬懿ですが、司馬懿の妻である張春華が機転を利かし、女官を殺害した事で難を逃れています。

尚、この時の張春華は、まだ12歳だった話もあり、女傑としての片鱗を見せたとも言えるでしょう。

余談ですが、司馬懿は張春華に対して、余り愛情は無かった様で、後にトラブルを起こす事になります。

司馬懿は張春華よりも側室の柏夫人を寵愛した話も残っています。

 

司馬懿の杖

魏略の逸文によれば、曹洪が司馬懿に友好を求めた話があります。

曹洪は自分が無学なのを恥じて、優れた人物と評判である司馬懿と面会を望んだわけです。

しかし、司馬懿は曹洪を嫌がったのか、仮病を使い杖を使って歩いた話があります。

曹洪は司馬懿の態度に悪意を感じ、曹操に司馬懿の事を悪く伝えたわけです。

曹操が司馬懿に出仕を求めると、司馬懿は急いで杖を捨て、曹操の配下となった話があります。

ただし、この話は晋書や正史三国志に記載がなく、信憑性は貧しいとも考えられています。

魏略の逸文ともされており、真実は不明です。

 

司馬懿の出世

西暦208年は曹操と呉の孫権の勢力との間に、赤壁の戦いが勃発した年でもあります。

赤壁の戦いで曹操は破れますが、この頃に司馬懿は丞相府の文学掾になった話があります。

こうした中で、曹操の子である曹丕と親しくなったり、黄門侍郎、議郎、主簿などを歴任し着実に出世していったわけです。

ただし、曹操は司馬懿の能力が有能だと認めながらも、警戒されていたとも考えられています。

曹操が司馬懿を警戒した理由は、先述した狼顧の相が原因とも言われています。

司馬懿が荀彧を絶賛

司馬懿は潁川の名士たちと活発に交流した話がありますが、同じ潁川グループの荀彧を絶賛した話があります。

潁川の名士と言えば荀彧、荀攸、郭嘉などが有名ですが、当時の潁川の名士達は、大半が曹操ではなく袁紹に仕えていました。

むしろ、荀彧の様な潁川の名士で曹操に仕える方が異例だったわけです。

こうした中で、司馬懿は荀彧の有能さを知り、次の様な発言をしています。

司馬懿「百数十年間に渡って、荀彧殿よりも優れた者は存在しなかった。」

司馬懿の言葉から、魏の数多くいる人材の中で荀彧だけを別格で扱っていた事が分かります。

尚、荀彧は西暦212年に亡くなりますが、荀彧の悲劇的な最後が司馬懿に与えた影響は大きい様に感じました。

 

太子四友

司馬懿は曹操の子である曹丕からは、絶大な信頼を得ていました。

曹丕が特に信頼した太子四友の中に、司馬懿は入っています。

太子四友の司馬懿以外のメンバーは、九品官人法を制定した陳羣や、文才に優れた呉質がおり、朱鑠も曹丕の太子四友に選ばれています。

曹丕の太子四友に司馬懿が入っている事を考えると、曹丕と司馬懿はかなり馬が合ったのでしょう。

後に曹操は賈詡(かく)の進言により曹丕を後継者に決めた話がありますが、司馬懿も曹丕派として動いていたと考えられています。

司馬懿は曹丕が太子に指名されると、太子中庶子に任じられ曹丕の直属の配下となっています。

司馬懿は軍司馬にも抜擢され、軍事にも大きく関わる事になったわけです。

尚、司馬懿と言えば野心家なイメージがあるかも知れませんが、曹丕や曹叡の代では野心は一切見せず、誠実に仕えています。

 

蜀を取る様に進言

西暦212年の潼関の戦いで、曹操の勢力は馬超や韓遂らを破り涼州にも絶大な影響力を及ぼす事になります。

曹操は215年に五斗米道の教祖である張魯が治める漢中を攻撃しました。

張魯との戦いは陽平関の戦いで勝利し、張魯を降伏させる事に成功しています。

この時に、司馬懿が曹操に次の様に述べています。

司馬懿「現在の劉備は蜀の地を手に入れてはおりますが、騙し討ちで手にしており、益州の民心も定まってはおりませぬ。

さらに、荊州を守る関羽と孫権は領地の事で揉めております。

今の蜀を攻撃するのであれば、内部から崩壊し蜀を手にする事が出来るでしょう。」

司馬懿は冷静に状況を分析し、曹操に進言したはずです。

しかし、曹操は詩人の気質があり、後漢創業者である光武帝の「隴を得て蜀を望む」の言葉に従い蜀に侵攻しませんでした。

専門家の中には、この時に曹操が司馬懿の進言を受け入れていれば、蜀を滅ぼす事が出来たのではないか?と考える人もいます。

尚、曹操は漢中を手に入れますが、西暦219年の定軍山の戦いで劉備軍の法正や黄忠の活躍により、魏の夏侯淵が斬られ惨敗を喫しました。

司馬懿の進言を曹操が聞き入れていれば、夏侯淵の戦死も無かったのかも知れません。

曹操が蜀に侵攻しなかったのは、曹操が司馬懿ほどは合理的な人間ではなかったと指摘される場合もあります。

 

樊城の戦い

劉備が漢中を取った事で、荊州の関羽も北上を始め樊城を包囲しました。

樊城を守るのは名将曹仁であり、手ごわい相手です。

関羽は洪水により魏の援軍である龐徳(ほうとく)が戦死し、于禁が降伏するなど幸運にも恵まれます。

関羽の計略により許昌方面で賊が動き出し、曹操の本拠地である鄴でも、魏諷のクーデーター未遂が起こるなど、魏は揺れ始めていました。

曹操は魏の内部が崩壊に向かっている事を危惧し、遷都を視野に入れる事になります。

ここで、司馬懿と蔣済は、次の言葉で遷都に反対しています。

「于禁と龐徳の軍は壊滅しましたが、洪水により敗れただけなので国家が転覆する程ではありません。

今の状態で遷都を行えば、関羽に弱みを見せる事になり、国民も不安に思うはずです。

関羽と孫権は仲違いしており上手く行ってはおりません。

ここは孫権を使うのが良策となります。

荊州の南部を呉の領土として認め、関羽の背後を襲わせるべきです。」

曹操は司馬懿の進言を採用し、樊城に徐晃を援軍として向かわせ、呉と協力して関羽を討つ事にしました。

呉の呂蒙や陸遜も同じ事を考えており、関羽は挟撃され最後は呉軍により討たれています。

 

曹操の死

樊城の戦いの翌年である、西暦220年に曹操が亡くなりました。

晋書宣帝紀によれば、「曹操が亡くなり天下は恐れたが、司馬懿が喪事を管理し内外が粛然とした。」とあります。

この言葉を見ると、司馬懿が曹操の葬儀を主催したのかも知れません。

ただし、賈逵が曹操の葬儀を上手く取り計らった様な記述もあり、誰が曹操の葬儀を主催したのかは、はっきりとしない部分もあります。

曹操の葬儀の時には、曹彰が璽綬のありかを聞き、曹植の元に訪れるなどの動きもありました。

さらに、青州兵が太鼓を鳴り響かせるなどもありましたが、無事に曹操の葬儀は終わったわけです。

司馬懿は賈逵らと協力し、葬儀を上手く取り計らったのでしょう。

 

曹丕時代の司馬懿

司馬懿は曹丕の時代に絶大なる信頼を得て大出世する事になります。

ただし、曹丕は即位してから僅か6年ほどで崩御してしまいます。

曹丕が皇帝となる

資治通鑑によれば曹操が亡くなると、劉曄や司馬懿らが曹丕に、皇帝に即位する様に勧めた話があります。

後漢の献帝は既に傀儡ではありましたが、曹丕に禅譲という形で国を譲る事になります。

これにより、劉邦が建国した漢は滅亡し、曹丕は皇帝に即位する事になったわけです。

因みに、漢は王莽による断絶はありましたが、確認出来る上では中国史上最長の統一国家となります。

曹丕が皇帝に即位したと同時に、司馬懿は行政の中枢である尚書省の要職に就任しました。

司馬懿は曹丕と仲が良かった事もあり、曹丕の時代に大出世を遂げる事になります。

 

曹丕の三方面作戦

劉備は関羽の敵討ちと称して、呉に侵攻しますが、夷陵の戦いで陸遜に敗れています。

呉軍が蜀軍に追撃を行っている間に、文帝(曹丕)は、曹真・曹仁・曹休に命じて、三方面から呉を攻撃しようとしました。

これが224年から226年に掛けて行われた三方面作戦です。

この時に、曹丕は自ら親征し留守居役を司馬懿に任じています。

司馬懿は自分では荷が重いとし固辞すると、曹丕は次の様に述べています。

曹丕「私は昼も夜も仕事だけを行い、まともに休む暇もない。

其方(司馬懿)を留守役に任じるのは名誉の為だけではない。

私と憂いを分かち合って欲しいのだ。」

曹丕の言葉から、司馬懿への信頼の深さが分かるはずです。

さらに、曹丕は225年に亡くなった夏侯尚の後釜として、司馬懿を仮節・撫軍将軍・録尚書事に任命しました。

司馬懿は曹丕が親征している間に、留守居役を完璧にこなした様で、帰ってきた曹丕は次の様に述べています。

曹丕「私が東に行く時は、其方(司馬懿)が西を見て欲しい、私が西に行く時は、其方が東を見て欲しい。」

ここまで行くと、司馬懿は曹丕から絶大なる信頼を得たと言えるでしょう。

ただし、曹丕はこの後に崩御してしまい、二度と司馬懿に後方を任せる事はありませんでした。

尚、曹丕の三方面同時進行作戦は呉の呂範、諸葛瑾、朱桓らの活躍により失敗に終わっています。

魏の三方面作戦に関しては、曹丕が親征するのではなく、司馬懿が遠征し、都の洛陽は曹丕が守っていた方が良かったのではないか?とする話もあります。

司馬懿に比べて、曹丕の戦いが評価されていない事が原因なのでしょう。

 

曹丕に後事を託される

曹丕は226年になると、40歳の若さで崩御してしまいました。

曹丕の在位期間は僅か6年です。

曹丕は自分の死を悟った時に、曹真、曹休、陳羣、司馬懿に後事を託しています。

曹真と曹休は曹氏の一族であり、司馬懿と陳羣は曹丕の寵臣です。

一族と寵臣を半分半分とした曹丕のバランスの良さを評価される場合があります。

ただし、曹丕の後継者である曹叡の母親である甄姫は、曹丕に殺されており、曹叡も長く宮廷から遠ざけられていました。

曹叡は年齢が20歳ほどであり、政治も軍事の経験もなかった事から、魏では不安が走ったわけです。

しかし、皇帝となった曹叡(明帝)は予想以上に優秀であり、数多くの難題を解決する事になります。

 

曹叡時代の司馬懿

曹叡時代の司馬懿は、蜀の諸葛亮とのライバル対決が最大の見せ場だと言えるでしょう。

ただし、諸葛亮と司馬懿が戦ったのは、僅か2回であり大規模な戦いは起きませんでした。

曹叡に重用される

曹叡は曹丕が崩御すると、突如として皇帝になった様な人物です。

曹叡は魏の臣下たちを何も把握していなかった様で、曹丕が後事を託した司馬懿、陳羣、曹真、曹休を重用しました。

曹丕が崩御した事を知ると、呉の孫権が五万の軍勢を引き連れて、自ら江夏を攻撃しています。

さらに、呉の諸葛瑾が襄陽を攻めるなど、二方面から魏を攻撃しました。

この時に司馬懿は襄陽方面の守備に向かった話がありますが、江夏の文聘が堅守により孫権を退けています。

これにより襄陽方面の諸葛瑾も撤退となったわけです。

司馬懿は功績により、驃騎大将軍に任命されています。

司馬懿は曹真、曹休に続く、魏の軍事部門のトップ3にまで昇り、宛に駐屯し荊州方面の軍事を担当する事になりました。

曹丕時代の司馬懿は後方支援をやっていましたが、ここから先は前線で軍隊を指揮する事になります。

 

孟達を斬る

孟達は過去に、蜀に仕えていた武将です。

関羽が窮地に陥った時に、劉封と共に関羽を助けなかった事で、劉備の怒りを買っています

劉備の怒りを恐れた孟達は、魏に寝返っています。

曹丕は孟達を気に入り重用しましたが、曹丕が崩御し、孟達と親しかった夏侯尚や桓階も亡くなっており、孟達は不安に襲われます。

上庸にいた孟達は、蜀の諸葛亮に内通し、魏に対して反旗を翻しました。

この時に司馬懿は、電光石火の動きを見せます。

司馬懿は曹叡の許可を得てから戦ったのでは、孟達が守りを固めてしまうと考え、独断で動く事になります。

この時の司馬懿は520キロの距離を僅か8日で走破し、上庸まで到達しています。

孟達は予想外の司馬懿の行軍に城を守る準備が出来ておらず、司馬懿は力攻めを敢行し、僅か16日で上庸を陥落させています。

司馬懿は孟達を捕えて斬首しました。

尚、司馬懿が電光石火で動き孟達を斬る事に成功したのは、兼ねてから司馬懿は孟達の事を警戒していた為とも考えられています。

蜀では孟達が斬られた事で、荊州方面からの侵攻が難しくなり、戦略の幅が狭まったわけです。

この直後に蜀の諸葛亮の第一次北伐があり、涼州の三郡が寝返るなど、魏は窮地に陥ります。

事態を重く見た曹叡は長安の守将を、夏侯楙から曹真に変更し守備を固めました。

第一次北伐では、曹真が趙雲鄧芝の陽動部隊を撃破し、張郃が街亭の戦い馬謖を破った事で、諸葛亮は撤退に追い込まれています。

街亭の戦い後に馬謖は責任を取らされ「泣いて馬謖を斬る」で処刑されています。

三国志演義の曹真は司馬懿や諸葛亮との、埋めがたい才能の差を知り亡くなるわけですが、史実の曹真は名将であり諸葛亮の軍から防衛に成功しています。

曹真は三国志演義被害者の会に入る人物とも言えるでしょう。

 

子午の役

諸葛亮の第二次北伐は魏軍の郝昭が陳倉の戦いで城を守り切り、第三次北伐では蜀軍は小さな戦果を挙げる事しか出来なかったわけです。

そうした中で、西暦230年に曹真が蜀への遠征を志願します。

これに猛反対したのが陳羣であり、紆余曲折の末に、曹真が子午道から南に行き、司馬懿が漢水を遡り南鄭で合流する作戦で纏まります。

魏軍は斜谷道や武威から蜀に侵攻しようと考えました。

諸葛亮は魏延、李厳らと防備体制に入ります。

この戦いは子午の役と呼ばれますが、長雨が30日も降った事から、魏の先陣である夏侯覇が蜀軍と小規模な戦いが起きただけだった様です。

魏の宮廷では陳羣、華歆、楊阜、王粛らが曹真の撤退を進言した事で、魏軍は兵を引く事になります。

余談ですが、諸葛亮の空上の計があったのは、子午の役での戦いだとする説があります。

子午の役の翌年である西暦231年に、曹真が亡くなった事で、魏軍第一の武将は司馬懿となります。

 

魏軍の最高司令官

曹丕が崩御した時に、曹真、曹休、陳羣、司馬懿の4人の後事を託しています。

曹仁は先に述べた様に、西暦231年に亡くなり、曹休も呉の陸遜に敗れた石亭の戦いの、翌年である228年に亡くなっていたわけです。

お気づきかと思いますが、曹丕に託された4人のうち、曹氏の二人が亡くなってしまった事になります。

陳羣は文官なので、司馬懿が軍事部門の最高権力者になったとも言えるでしょう。

曹真の後任となった司馬懿は、曹叡から次の様に言われた話もあります。

「曹真の代わりは、其方(司馬懿)にしか務まらない。」

曹叡の司馬懿への評価の高さが分かる言葉でもあります。

尚、曹休が亡くなった事での、対呉方面の司令官には満寵が選ばれています。

満寵は有能な人物ではありましたが、酷吏として出世した人物ともされています。

諸葛亮の第四次北伐

史実を見ると、司馬懿と諸葛亮が最初に戦ったのは第四次北伐からです。

第四次北伐がどの様な戦いだったのか司馬懿側の視点から解説します。

軍を一つにする

西暦231年の第四次北伐で、諸葛亮は魏の郭淮が守る祁山を攻撃しました。

この時に諸葛亮は魏の兵力を分散させる為に、異民族の軻比能を動かしています。

張郃は軻比能に対応しようとしたのか、雍や郿に兵を分散して配置する様に司馬懿に進言しました。

それに対して司馬懿は、項羽や黥布の例を出し、次の様に述べています。

「先行した軍だけで敵に対処できるのであれば、張郃殿の考えは正しい。

もしも対抗出来ねば、楚の三軍が黥布によって打ち破られたのと同じ結果を招くに違いない」

司馬懿は軍を分散させずに、諸葛亮の軍と対峙する事になります。

尚、司馬懿は軻比能に対しては、鮮卑族を抑えてきた魏の牽招が上手くやると判断し、軍を分散させなかったとも考えれています。

 

食糧問題

諸葛亮は後詰決戦を挑み司馬懿と対峙する事になります。

この時に魏と蜀の両方が食料に不安を叶えた状態でした。

長雨などがあったせいで、どちらも兵糧が心許ない状態だったわけです。

諸葛亮はこの時に、木牛を開発し効率的に食料を運搬しようとした話があります。

さらに、蜀軍は上邽の麦を全て刈り取ってしまいます。

諸葛亮の手際の良さに、司馬懿や魏の将兵は焦りを憶えたのか、蜀軍に攻撃を仕掛けますが1万人の損害を出す惨敗を喫しました。

ただし、司馬懿は蜀軍に敗れはしましたが、戦線は維持しています。

司馬懿は食糧問題を解決する必要があり、関中から兵糧を集める様に手配したり、郭淮に命じ羌族や胡族から兵糧の援助を願い出ています。

魏軍は食糧問題の大方は解決しましたが、蜀軍は食糧問題が解決されていませんでした。

蜀の李厳が兵站を繋げる事が出来なかったのも、蜀にとっては痛手だったはずです。

 

張郃の死

諸葛亮は兵糧が切れた事で撤退を開始します。

ここで司馬懿は、張郃に追撃を命じますが、張郃は次の様に述べて反対しています。

張郃「兵法を考える上で、敵の逃げ道を開けて置く事は重要です。

兵法では帰りの道は追ってはならないとも聞いております。

追撃は控えるべきかと存じます。」

歴戦も猛者である張郃は、追撃戦を控える様に進言しましたが、司馬懿は聞き入れずに張郃に追撃命令を出しています。

諸葛亮は伏兵を置き、魏軍を待ち構えていた事で、追撃した張郃は射殺されてしまいました。

諸葛亮の第四次北伐は司馬懿の防衛成功となるのですが、張郃を失う結果となってしまったわけです。

尚、劉備は呂布や曹操など多くの名将たちと覇を競ってきましたが、最も恐れたのが張郃だったとする話があります。

人によっては、司馬懿の人生最大の失敗は、張郃を戦死させてしまった事だと考える人もいます。

張郃の死は曹叡や陳羣などが、深く悲しんだと伝わっています。

司馬懿は第四次北伐で、蜀軍と戦う無益さに気が付いたのか、第五次北伐の時は防衛に徹しました。

 

五丈原の戦い

西暦234年に行われた諸葛亮の第五次北伐は、五丈原の戦いとも呼ばれています。

第五次北伐では、諸葛亮は食糧問題を解決する為に、屯田の準備をし木牛流馬を使い食料を輸送した話があります。

五丈原の戦いが司馬懿と諸葛亮の最後の戦いとなります。

五丈原で対峙

諸葛亮が五丈原に陣した事で、司馬懿は郭淮や胡遵らと共に蜀軍と対峙しました。

司馬懿は蜀軍の兵糧切れを狙い、持久戦に挑む事になります。

蜀の魏延が北側に動くと郭淮が軍を移動し守りを固め、司馬懿も魏延の動きを牽制する為に北に移動します。

しかし、諸葛亮による陽動であり、南にいた姜維が魏軍を攻撃しました。

郭淮は軍を南に向かわせる様に進言し、司馬懿は許可した事で、姜維の攻撃も防いでいます。

司馬懿は徹底して持久戦を望み、諸葛亮と決戦をしようとはしなかったわけです。

 

女物の着物

司馬懿が戦おうとしなかった事で、諸葛亮も焦り始めます。

蜀軍は木牛流馬などがあっても、兵站に問題があったのでしょう。

諸葛亮は決戦を望み、司馬懿に対して女性物の髪飾りや着物を贈り付ける事になります。

諸葛亮としては決戦する気が無い司馬懿に対し「お前は男ではない。」と言いたかったのでしょう。

司馬懿は非常に現実的な人物であり、女性物の着物を贈られてきても多少はイラついたかも知れませんが、決戦をしようとは思わなかったはずです。

司馬懿は部下の前で激怒して見せた話しもありますが、あくまでも部下を鼓舞する為の演技であり、戦う気は無かったとするのが一般的です。

しかし、司馬懿の部下達は諸葛亮の態度にプライドを傷つけられ、決戦を望むようになります。

 

曹叡に出陣要請

司馬懿は自らが怒る事で、部下達を抑えていた様ですが、遂に抑えるのが難しくなってきます。

司馬懿は曹叡に「諸葛亮と一戦したい」と願い出た話しもあります。

ここで曹叡が司馬懿の気持を察し、軍令に厳しい辛毗を派遣し「絶対に戦ってはならない。」と伝えています。

司馬懿は無断で出陣しようとしますが、軍門で辛毗に止められ制止された話があります。

辛毗が魏軍にやってきた事を知った姜維は「辛毗が来たからには、司馬懿が出陣する事はないでしょう。」と述べると、諸葛亮は次の様に話しています。

諸葛亮「それは違う。司馬懿は最初から戦う気など無いのだ。

出陣する気があるのなら、そもそも皇帝に上奏したりはしないはずである。

司馬懿は諸将に自分の勇気を示す為だけに行っている芝居に過ぎない。」

孫子の兵法書で有名な孫武の言葉で「将、外にあっては、君命も奉ぜざるあり。」と言われており、軍の責任者である司馬懿は独断で軍を動かせる権限を持っていたはずです。

それにも関わらず、皇帝に出陣の許可を取るのは「戦う気が無いからだ。」と諸葛亮は考えたのでしょう。

司馬懿としてみれば「俺は戦いたいんだけど、皇帝が許してくれない。」という図式を作りたかったはずです。

 

諸葛亮の死を確信

五丈原の戦いは、完全に膠着状態となりますが、蜀の使者から司馬懿は諸葛亮の様子を聞く事になります。

司馬懿は蜀の使者から、諸葛亮が朝早くに起き、部下に仕事を任せず、夜遅くまで働いている事をします。

この話を聞いた司馬懿は「諸葛亮の命が長くない」と悟ったわけです。

司馬懿は諸葛亮は自分よりも年下ではあるが、寿命は諸葛亮の方が短いと判断したのでしょう。

司馬懿の予感は的中する事になります。

 

死せる孔明生ける仲達を走らす

魏軍と蜀軍は五丈原で100日ほど対峙しますが、蜀軍が突如撤退を始めました。

司馬懿は諸葛亮が死んだと感じた様ではありますが、諸葛亮の生死を確認する事が出来なかったわけです。

しかし、司馬懿は諸葛亮が亡くなったと判断し、全軍に追撃を命じました。

魏軍の追撃が始まると、突如として姜維の軍が反転し、魏軍に対して臨戦態勢を取る事になります。

ここで司馬懿は諸葛亮の策と考え撤退を指示しています。

蜀軍は魏延と楊儀の対立からひと悶着ありましたが、無事に漢中まで撤退しています。

司馬懿が追撃をやめた時に、諸葛亮は死んでいた事から「死せる孔明生ける仲達を走らす」の言葉が出来たわけです。

尚、司馬懿が追撃を打ち切ったのは、第四次北伐での張郃の死が脳裏をよぎったのかも知れません。

「死せる孔明生ける仲達を走らす」の話は晋の歴史家である習鑿歯(しゅうさくし)が漢晋春秋に載せた言葉でもあります。

司馬懿は諸葛亮の事を「天下の奇才」と評価しました。

司馬懿は諸葛亮の兵法を、司馬昭や司馬炎に伝えてた話があり、司馬昭は諸葛亮の兵法を部下達に学ばせた話まであります。

 

司馬懿と諸葛亮の勝者はどちらなのか?

司馬懿と諸葛亮の戦いですが、両方とも軍を引いたわけだから引き分けとする意見もあります。

しかし、諸葛亮の北伐は長安を奪取する事を目標としており、最後まで諸葛亮は達成する事が出来ませんでした。

それに対して、司馬懿は五丈原の戦いでも、蜀軍を撤退させる事に成功しており、防衛戦争に勝利したと見る事が出来ます。

司馬懿に関しても、張郃を失っているから被害は大きいと考える人もいますが、結果で考えれば防衛に成功した司馬懿に軍配が上がる事になるでしょう。

尚、諸葛亮も司馬懿もお互いの実力を認めており、大規模な戦争はありませんでしたが、好敵手と呼べた存在だったはずです。

 

大尉となる

五丈原の戦い後に司馬懿は大尉に命じられ、魏の軍事部門の全体を任される事になります。

蜀方面には郭淮を配置し、郭淮が姜維、廖化、馬岱らの攻撃を退けた話があります。

尚、西暦237年に陳羣が亡くなっています。

これにより曹丕から後を託された曹真、曹休、陳羣がこの世を去り、司馬懿だけが残った状態です。

専門家の中には、この時点で司馬懿は簒奪しようと思えば出来たと考える人もいます。

ただし、司馬懿は曹操の事は好かなかったかも知れませんが、曹丕や曹叡には親愛の情を抱いていたのか、謀反を起こす予兆も見られません。

 

公孫淵討伐

司馬懿は遼東で燕王を名乗った公孫淵を討伐した話があります。

300日で公孫淵を平定すると宣言

遼東の公孫淵が呉と共謀し反旗を翻しました。

曹叡は司馬懿に公孫淵の討伐を命じています。

曹叡は司馬懿に、公孫淵討伐にはどれ位の期間が掛かるのか?と問うと次の様に答えています。

司馬懿「公孫淵討伐は行きに100日、戦いに100日、帰りに100日、兵士の休息に60日で1年もあれば十分です。

公孫淵は城を棄てて逃げるのが上策、遼水で我が軍に戦いを挑むのが次策、襄平に籠城したなら捕虜になるだけです。

知者であれば城を棄てる事も出来ますが、公孫淵はその様な策を思いつく様な人物ではありません。」

公孫淵は呉と通じながらも使者を殺害したり、行動に一貫性がなく、老獪な司馬懿から見れば与しやすい相手だと考えたのでしょう。

さらに、司馬懿の言葉からは、公孫淵の内情が分かっていた事が伺えます。

 

公孫淵の降伏

司馬懿は長雨に降られながらも遼東に到達し、野戦で公孫淵と戦います。

公孫淵は野戦で敗れると、司馬懿の思った通りに籠城したわけです。

この時の公孫淵は大軍ではありましたが、兵糧が少なかった事を司馬懿は聞いていました。

兵糧が少ないにも関わらず、公孫淵が籠城した事で司馬懿は勝利を確信した事でしょう。

公孫淵は兵糧が不足すると、人質を差し出して、和議と助命嘆願を行っています。

しかし、司馬懿は公孫淵の使者を斬り捨て、和議を結ぶ事はありませんでした。

司馬懿から見れば、公孫淵は敗北の道しかなく、和議に応じる理由も無かったのでしょう。

司馬懿は最終的に、公孫淵を捕え処刑しています。

しかし、司馬懿の遼東討伐は、公孫淵を討つだけでは終わらなかったわけです。

 

遼東で虐殺

司馬懿は公孫淵を破ると、城内の15歳以上の男子を皆殺しにし、景観と呼ばれる死体の山を作っています。

さらに、公孫淵に味方した官吏や将校など2000人以上も処刑しました。

司馬懿が処刑した人数は7000人に昇るとも言われています。

遼東は魏から逃亡した人々が集まる土地だった事もあり、ここを穏便に済ませてしまうと再び反乱が起こると考えたのでしょう。

遼東の公孫氏は董卓の時代に、徐栄公孫度を遼東太守に推挙した事に始り、50年以上も支配していたわけです。

司馬懿の考えとしては、遼東の公孫氏の勢力を完全に排除したかった為の、行動とも考えられています。

尚、諸葛亮が南蛮征伐で孟獲を7度捕え7度逃がした話があり、司馬懿と諸葛亮の性格の差が垣間見れる事件でもあります。

唐の時代に書かれた晋書では「始祖(司馬懿)たる人物が大量の殺戮を行った事で、子孫に報いとなって降りかかった。」とも述べられています。

司馬懿の行為は合理的ではあるかも知れませんが、批判の声も多くあったのでしょう。

特に儒者などからは非難されたのかも知れません。

 

魏の絶対的な権力者となる

曹叡の死後に司馬懿は、曹爽との政争に勝利し、魏では絶対的な権力者となります。

司馬懿がどの様にして、権力を手中に収めたのか解説します。

二通の手紙

司馬懿が遠征中に曹叡は危篤状態となってしまいます。

曹叡が危篤状態となるや、宮中では権力者の司馬懿排斥の、工作が進められていたと考えられています。

司馬懿は公孫淵討伐が終わると、帰路に就きますが、次の二通の手紙を貰う事になります。

長安に向かう様にせよ。

洛陽に来る様にせよ。

この時に洛陽に参内する様に書かれていた文章が、曹叡の自筆であった為に、司馬懿は洛陽に向かう事にしました。

司馬懿はただ事ではないと思い、急いで洛陽に戻ります。

司馬懿の駐屯地であった長安に向かわせ様とするのは、司馬懿を排除したい政敵の企みだったのでしょう。

 

曹叡の死

司馬懿が洛陽に到着すると、衰えた曹叡が嘉福殿の寝室に横たわっていたわけです。

曹叡は曹真の子で一族の曹爽と司馬懿に、曹芳を託し崩御しました。

別説としては、曹叡は曹氏や夏侯氏ら5人に後事を託そうとしましたが、司馬懿と秘書官が結託し、秘書官が暗躍した事で、曹爽と司馬懿の二人が曹芳の後見となった説もあります。

曹芳は曹叡の実子ではなく、父親もよく分かっていませんが、曹爽が暗躍した事で曹芳が皇帝になったとする話しもあります。

曹爽は大将軍となり、司馬懿は太傅に任命されました。

太傅は名前だけの名誉職であり、曹爽が実権を握りたかったのでしょう。

ただし、曹芳政権の初期の頃は内政は曹爽、軍事は司馬懿で分かれていたとする話もあります。

尚、曹叡が亡くなった翌年である西暦240年に、近衛軍に曹爽の弟である曹羲が中領軍となり、司馬懿の子である司馬師が中護軍になっています。

近衛軍の曹羲と司馬師の配置は、曹爽と司馬懿の対立の表れだと考える人もいます。

別の味方としては、対蜀方面が曹爽、対呉方面が司馬懿の役割だったともされています。

 

曹爽の蜀遠征の失敗

曹爽は取り巻き達の要請に従い、西暦244年に蜀討伐を行います。

亡き曹真の蜀征伐の遺志を継ぐと表明して、蜀を攻撃したわけです。

この時に、曹操は対蜀戦線の司令官に諸葛玄を任命した話があります。

曹爽はこれまでに実績がなく、焦って司馬懿が止めるのも聞かずに蜀に出兵したとする説もある様です。

尚、曹爽の蜀遠征には司馬懿の次男である司馬昭も参加した記録があります。

曹爽は10万の兵を率いて漢中を攻めますが、蜀軍の王平が立ちふさがります。

さらに、成都からは大将軍である費禕(ひい)の援軍も到着し、戦いは膠着状態となります。

曹爽は費禕や王平の軍に苦戦し、兵糧も尽きた事で撤退しました。

曹爽は蜀軍に追撃された事で大きな被害を出し、名声を大きく落とす事になります。

尚、246年に曹爽は呉への遠征も行いますが、朱然により大敗しました。

司馬懿にとってみれば、曹爽が勝手に自滅していったわけです。

 

ボケ老人の演義

曹爽の側近である何晏や李勝などは、司馬懿の排除を徹底的に画策した話があります。

曹爽派の露骨な政治工作に、司馬懿は身の危険を感じたのか、247年に病気を理由に引退を申し出て出仕しなくなりました。

しかし、曹爽派は司馬懿は仮病を使っているのではないか?と疑い、李勝が司馬懿の様子を見に行く事になります。

李勝は荊州に赴任する挨拶と称して、司馬懿の邸宅を訪れたわけです。

李勝と会った時の司馬懿は、口に入れた食事や薬をこぼしたり、李勝の赴任地を何度も聞くなど、ボケ老人の振りをしています。

耄碌した司馬懿の姿を見た李勝は、ありのままを曹爽に伝えました。

曹爽は司馬懿への警戒を解く事になります。

尚、司馬懿が引退した247年は司馬懿の正妻である、張春華が亡くなった年でもあります。

 

司馬懿のクーデター

西暦249年1月6日に、司馬懿は行動に出る事になります。

曹爽は曹叡の陵を参拝するとし、洛陽を留守にしました。

司馬懿は曹爽が都から離れた隙に、一挙にクーデターを起こします。

司馬懿は郭太后に上奏し、曹爽兄弟の官職を解任する令を得る事に成功します。

司馬懿は明帝(曹叡)の皇后である、郭太后を味方にした事で、大義名分も得たわけです。

さらに、司馬師と司馬孚に命じて、洛陽の宮殿を制圧しました。

司馬懿は高柔や王観に命じ、洛陽の曹爽陣営も制圧しています。

これにより司馬懿は洛陽の武力制圧に成功したわけです。

さらに、司馬懿は自ら兵を率いて、洛水の浮き橋に布陣し、魏の皇帝である曹芳を待ち構えていました。

司馬懿は曹芳に曹爽の罷免を求める上奏文を出しています。

 

魏の実権を掌握

曹芳や首都の洛陽を抑えた司馬懿は、曹爽には免職だけで済ます使者を送り武装解除させようとします。

曹爽は財産が保証された事で、武装を解き司馬懿に投降したわけです。

曹爽の配下の中には、徹底抗戦を主張した者もいましたが、呆気なく曹爽は降伏しています。

しかし、司馬懿はクーデターまで起こしたのであり、曹爽を許す事はしませんでした。

曹爽は司馬懿に降伏してから4日後には逮捕され、国家に対する反逆罪で曹爽の三族を処刑しています。

曹爽の腹心であった何晏や桓範も処刑される結果となります。

曹爽の見通しの甘さが招いた、最後とも言えるでしょう。

ただし、司馬懿は曹爽に対して、固い忠誠心を持った者だけは許したとする話があります。

曹爽配下で許された者は、忠誠心を持ち国家運営に重要だと考えたとする説もあります。

曹爽を始末した事で、司馬懿は権力者に復帰し、司馬懿の一族が魏の実権を掌握する事になったわけです。

この時の司馬懿は71歳で、曹操に仕えてから43年が経過していました。

司馬懿の老獪さが曹爽を滅ぼし、魏で実権を握る要因となったのでしょう。

尚、司馬懿のクーデターは高平陵の変と呼ばれています。

 

司馬懿の最後

司馬懿は実権を握りましたが、曹氏に実権を戻そうという動きがありました。

車騎将軍や大尉を歴任した王陵などは、司馬懿に対してクーデターを画策しますが、未然に防がれています。

こうした中で司馬懿は西暦251年に最後を迎え73歳だったと伝わっています。

司馬懿の最後は病死でした。

尚、司馬懿の死後に司馬氏から、曹氏に権力を戻そうと各地で反乱が起きます。

夏侯玄、李豊、毌丘倹、文欽、諸葛誕なども反乱を起こしますが、司馬師や司馬昭により鎮圧されています。

これにより司馬氏は魏の中で、権力を定着させる事に成功しました。

 

司馬懿の評価

司馬懿を見てみると、かなりの老獪さがあると思いました。

曹爽との権力争いは、曹爽を打倒するまでに10年ほどの歳月をかけています。

それでいて、決断力に優れ行動を起こしたら、電光石火で敵を破るのが司馬懿の得意技なのでしょう。

司馬懿は魏で実権を奪った事から、忠誠心はなかったと考える人もいるはずです。

しかし、司馬懿は曹丕や曹叡の代では、明らかに忠臣だったと言えるように思います。

晩年に魏の実権を握ったのは、行動を起こさねばやられていた可能性も高いからだとも言えます。

歴史上を見ると楚漢戦争の韓信や彭越など反旗を翻さなかったばかりに、自分の身を滅ぼした人もいるわけです。

それを考えると、司馬懿の行動は正当防衛とも感じました。

ただし、徳で考えれば諸葛亮とは雲泥の差があるのかも知れません。

 

司馬懿の一族

司馬懿の先祖や子孫など、司馬氏に関して解説します。

司馬懿の先祖

司馬懿の先祖は、戦国時代に趙の滅亡時に李牧と共に戦った司馬尚だと言われています。

始皇帝死後の楚漢戦争で、項羽から殷王に封じられた司馬卬も司馬懿の先祖だとされています。

司馬一族の有名な人物としては、史記を書いた司馬遷もいます。

司馬遷はの先祖は、戦国時代に張儀と激論した司馬錯であり、白起の副官を務めた司馬靳だとも考えられています。

司馬靳は白起と共に長平の戦いでも参陣した話があります。

司馬卬と司馬靳の繋がりはよく分からず、司馬靳の方は司馬懿と関係がない可能性もあります。

斉で活躍した司馬穰苴との関係もよく分かっていません。

ただし、これらの人物は全て武家であり、司馬の名字が指す様に軍事職に就いていたと考えられています。

最初に述べた様に、司馬一族は名門として育っていったのでしょう。

 

司馬懿の子孫

司馬懿亡き後は、魏は司馬懿の子である司馬師や司馬昭が実権を握る事になります。

263年に魏は司馬昭が実権を握っており、鄧艾と鍾会の蜀征伐で劉禅を降伏させ蜀が滅びました。

蜀が滅んだ事で三国時代は終わったと考える人もいます。

265年には魏の曹奐から司馬炎が禅譲により、皇帝となり晋を建国しました。

晋の建国により魏は滅亡したわけです。

司馬炎は280年には呉の孫晧を降伏させ、遂に天下統一を成し遂げる事になります。

しかし、統一後の司馬炎は暗君となり、司馬炎の後継者である晋の恵帝の時代に八王の乱が勃発しました。

八王の乱では異民族の侵入もあり、北方は大混乱となり恵帝も殺害され、五胡十六国の時代に突入します。

中華の地は大混乱となりますが、皇族の司馬睿(しばえい)が江南に逃れ東晋を起こしています。

これより先は北方は五胡十六国の時代であり、南北朝時代に繋がっていく事になります。

尚、東晋も実力者の劉裕に国を奪われる事で、西暦420年に滅びました。

劉裕は宋を建国しています。

北宋の時代に司馬光がいますが、司馬光は司馬懿の弟である司馬孚の子孫だとされています。

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-三国志, 魏(三国志)