春秋戦国時代

司馬穰苴(しばじょうしょ)『斉を救い司馬法を残した兵法家』

2020年8月9日

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宮下悠史

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司馬穰苴(しばじょうしょ)は、斉の景公の時代に晏嬰に推挙されて活躍した将軍です。

司馬法の著者とする説もありますが、司馬穰苴は謎に包まれている部分もあり本当に司馬法を作ったのかは不明とされています。

尚、司馬穰苴は、司馬遷が書いた史記の列伝部に「司馬穰苴列伝」が収録されています。

司馬穰苴は列伝の4番目に収録されている事もあり、司馬遷の評価は高かったのかも知れません。

因みに、春秋時代の名将としては、最強と呼ばれた軍を二度に渡って破った信陵君の魏公子列伝が17番目、廉頗藺相如列伝が21番目であり、廉頗、藺相如、趙奢李牧が収録されていて、楽毅は楽毅列伝として20番目、白起王翦列伝で白起と王翦が13番目に収録されています。

春秋戦国時代で長平の戦いなど、最も実績を挙げた将軍である白起や、昌平君項燕を撃破し、を滅ぼした王翦よりも前に収録されているのは、司馬穰苴は司馬遷に取って思い入れが深い人物だったのかも知れません。

尚、楚漢戦争で活躍した韓信は、淮陰侯列伝として32番目の収録です。

ただし、司馬遷は司馬穰苴が書いたとされる司馬法を読んでみて、「ここまでは出来なかったであろう」と述べている部分があり、司馬遷が司馬法自体に懐疑的に見ていた部分もある様です。

それでも、司馬法を残した戦国七雄の田斉の名将と呼べるでしょう。

上記は司馬穰苴のゆっくり解説動画です。

晏嬰に推挙される

司馬穰苴の出身ですが、斉の有力貴族であった田氏の一族でした。

田氏の一族ではありますが、司馬穰苴は妾腹の子であり重きをなしていなかったわけです。

司馬穰苴は貧乏貴族の一人だったと考える事が出来ます。

位は低かった司馬穰苴ですが、活躍の場が訪れる事になります。

何年の出来事かは不明なのですが、晋とが斉を攻撃する事となります。

当時の晋は六卿を呼ばれる大臣が主家を上回る力を持っていたとも言われていますが、晋は総合力で考えれば中華随一の国と言えます。

晋と燕の攻撃の前に斉軍は破れ、斉の景公は憂慮します。

斉の景公は、宰相の晏嬰に相談すると、晏嬰は司馬穰苴を推挙しました。

晏嬰は司馬穰苴の事を「文においては人を引き付ける力があり、武においては威勢がある人物」だと斉の景公に述べています。

晋、燕との戦い

司馬穰苴の唯一の戦いである晋、との戦いの様子を紹介します。

斉の景公との面会する

晏嬰から司馬穰苴を推挙されると、斉の景公は司馬穰苴と面会する事となります。

司馬穰苴と面会した斉の景公は、司馬穰苴を大いに気に入り将軍に任命しました。

司馬穰苴は将軍になるのは構わないが、自分は権威に貧しく兵士や将軍を統率する事が出来ないと言います。

将軍になるのであれば、斉の景公の寵臣か国人から尊敬されている人物をお目付け役として同行して欲しいと願ったわけです。

そこで、斉の景公は自分の寵臣である荘賈を司馬穰苴に同行させる事にしました。

荘賈が斬られる

司馬穰苴は、荘賈に翌日の正午までに軍門に来るようにと約束をします。

しかし、荘賈は司馬穰苴を甘く見て前日にたっぷりと酒を飲み夕方に司馬穰苴の陣に到着する事となります。

司馬穰苴は、荘賈を日時計と水時計を用意し待ち構えていたわけです。

司馬穰苴は、遅れて来た荘賈に対して軍の法務官に「時間に遅れた者はどうなるのか?」と問うと軍の法務官は「斬首」だと答えます。

これに震え上がった荘賈は、従者を斉の景公に向かわせ自分を助命させる様にと使者を出します。

しかし、司馬穰苴は荘賈を斬り、さらし首とした事で全軍は震えあがったわけです。

後に斉の景公の使者が馬を馳せて、荘賈の命を助ける様に司馬穰苴の元にやってきます。

司馬穰苴は軍法官に「陣中で馬を馳せた者はどうなるのか?」と尋ねると「斬首」という言葉が返ってきます。

しかし、司馬穰苴は主君である斉の景公の使者を斬るわけにはいかないと、御者と副馬の首を斬る事にしました。

ここにおいて再び斉の兵士は震え上がり司馬穰苴の命令が絶対だと理解します。

尚、司馬穰苴は例え荘賈が遅れて来なくても、何かしらの理由を付けて斬ったと思われます。

兵に恩情を掛ける

司馬穰苴は、晋とを打ち破る為に出撃したわけですが、行軍が始まると一転して兵士に対して恩情を見せます。

司馬穰苴は兵士の宿営する場所、かまど、飲食に心を配り病気の者には自ら率先して見舞いに行った話があります。

さらに、自らの食事の量は虚弱な兵士と同じ量とした事で斉軍は奮い立ちます。

この時の斉軍の士気は高く病気の者までが従軍を願ったと史記にあります。

司馬穰苴は飴と鞭を心掛けて兵士の心を掴んだと言えるでしょう。

奪われた領土を奪還

司馬穰苴の話を聞いた晋とは恐れをなして撤退を始めます。

ここにおいて、司馬穰苴は追撃戦を行い晋と燕から奪われた領地を全て奪還します。

司馬穰苴は、ほぼ戦う事もなく燕と斉に奪われた土地を奪還したという事です。

良く言えば、「戦わずして勝った」という事になるのでしょう。

司馬穰苴の戦いは無かった?

司馬穰苴の戦いは無かったとする説もあります。

話が余りにも出来過ぎているし、そもそもこの戦いが紀元前何年に起きたのかもはっきりとしません。

晋軍と燕軍の将軍が誰だったのか?の記録も史記にはないわけです。

司馬穰苴が荘賈を斬ったのと同様の話が「孫武」「韓信」「彭越」などにもあり、信憑性が薄いという人もいます。

しかし、本当かどうかは今となっては確かめようがないと言うのが実際の所なのでしょう。

司馬穰苴の逸話

晏子春秋に司馬穰苴が登場する逸話があるので紹介しておきます。

斉の景公は晏嬰と夜に酒を飲みたいと思う晏嬰の屋敷に行きますが、「決まりにより一緒に酒を飲む事が出来ない」と断られます。

斉の景公は、次に司馬穰苴の屋敷に行くと司馬穰苴は鎧を着たまま現れて「決まりにより一緒に酒を飲む事は出来ない」と言います。

次に斉の景公は、梁丘拠の屋敷に行くと、梁丘拠は楽器を持って現れて斉の景公を楽しませたと言います。

ここで斉の景公は晏嬰がいなければ国を治める事が出来ないし、司馬穰苴がいなければ国を守る事が出来ないと言い、

さらには、梁丘拠がいなければ自分は楽しくないと語った話が残っています。

司馬穰苴の最後

司馬穰苴ですが、活躍を斉の重臣である国氏と高氏に嫉まれてしまい斉の景公に讒言されてしまいます。

斉の景公は、司馬穰苴を疑い解任してしまい、その後に司馬穰苴は発病して亡くなった事になっています。

この事から田氏の一族である田乞や田豹らが国氏と高氏を憎んだ話もあるわけです。

尚、後に田氏は国氏や高氏を打倒し、田常の代で主君を超える力を持ち田和は独立し、田因の代では斉王となります。

田因が斉の威王です。

これを考えると、司馬穰苴は心晴れぬままに亡くなってしまったと言えるかも知れませんが、田氏の飛躍には一役買ったと言えそうです。

司馬法は現実的ではない!?

司馬穰苴は司馬法を読んだ事があるらしく史記の最後に感想を載せています。

それによると、司馬穰苴の兵法は範囲広大、思想深遠で夏、殷、周の聖王であっても、ここまでは出来なかったであろうと言っています。

他にも、事実を超えて褒め過ぎているなどの表記もあり司馬法自体に関しては司馬遷の評価は高くはなかったようです。

司馬法は理想論であり現実的ではなかったのかも知れません。

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