春秋戦国時代

子嬰に秦滅亡の責任はない

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子嬰は最後の秦王であり、子嬰の代で秦は滅亡した事実があります。

しかし、個人的には、子嬰に秦の滅亡の責任はないと考えています。

胡亥趙高が秦の内部をボロボロにし、危機的な状況を作り出し、状況を打破する為に、子嬰は趙高を暗殺したとも言えるでしょう。

子嬰は、趙高を暗殺し、秦王家に実権を戻しますが、劉邦が武関を抜き咸陽に迫っており、ボロボロになった秦では太刀打ちする事が出来なかったと考えるべきです。

今回は、子嬰がどの様な人物なのか解説します。

 

秦の王族

子嬰は、史記の「李斯列伝」では始皇帝の弟になっていますが、「始皇本紀」と「六国年表」では、胡亥の兄の子とされています。

始皇帝の子は、20人以上もいたわけですが、その中の誰の子なのかははっきりとしません。

尚、胡亥の兄と言えば扶蘇を思い浮かぶ人も多い事でしょう。

始皇帝の長子である扶蘇の子とも考えられますが、子嬰が扶蘇の子であるならば、秦の正統性を主張できる立場でもあり、胡亥や趙高が生かしておくはずはないと思います。

それを考えると、始皇帝の子の中で、名前が伝わっていない公子の子が子嬰になるのが打倒かなとも思いました。

ただし、李斯列伝のいう始皇帝の弟の可能性もあります。

始皇帝の弟と言えば、成蟜(せいきょう)が有名ですが、他にも弟がいた事になるでしょう。

尚、子嬰が秦の王族だという事は、どの説も一致しています。

 

胡亥を諫める

始皇帝死後に2世皇帝として即位した胡亥に子嬰が諫めた話があります。

蒙恬・蒙毅を救おうとする

始皇帝は巡遊中に沙丘で亡くなってしまいます。

史記によれば始皇帝は、扶蘇を後継者に指名しますが、趙高、胡亥、李斯が結託し胡亥を二世皇帝に即位させてしまいました。

胡亥と趙高は扶蘇を自刃させ、蒙恬蒙毅は牢に閉じ込めたわけです。

趙高は過去に蒙毅に恨みがあった事で、蒙氏の一族を根絶やしにしようとします。

胡亥は扶蘇が自刃した事で、蒙恬と蒙毅を許そうとしますが、趙高は蒙恬、蒙毅を讒言し処刑しようと考えました。

ここで、子嬰が胡亥を次の様に諫めた話があります。

子嬰「趙の幽穆王は良将である李牧を殺害し、顔聚を代わりの将軍とし、斉王建は先代の忠臣を殺害し、后勝を重用した事で国を滅ぼしています。

蒙氏の兄弟は功臣であり、優れた人物でもあります。

陛下(胡亥)は、蒙氏の兄弟は一朝にして捨て去ろうとしますが、これは良くない事です。

忠臣を誅殺し節操のない者を取り立てたら、群臣の信頼は失われますし、外でも兵士らの信用は損なわれる事になります。」

しかし、二世皇帝の胡亥は子嬰の言葉を聞かず、蒙恬、蒙毅を処刑してしまう事になります。

尚、ここで名将であり、匈奴征伐で名をはせ、名将と呼ばれた蒙恬が亡くなってしまった事は、秦に対して大打撃となったはずです。

 

天下動乱に突入

胡亥は二世皇帝に即位しますが、始皇帝以上に政治が過酷だった話もあり、天下の期待を裏切る事になります。

こうした中で陳勝と呉広が共謀して反乱を起こしたわけです。

これが陳勝呉広の乱であり、これをきっかけに全国に反乱軍が湧いて来る事になります。

首謀者である陳勝と呉広は半年ほどで、秦の章邯が鎮圧しています。

しかし、会稽で項梁と項羽が挙兵し、斉には田儋、田栄、田横がいて、趙には趙歇、張耳、陳余らがいたわけです。

函谷関の外では、反乱軍が多くいたわけですが、秦の内部では胡亥は後宮に引き籠るなど、一致団結して反乱軍に当たる事はありませんでした。

この時の子嬰の記録はありませんが、危機感を持っていたのかも知れません。

 

李斯をフォロー

趙高は胡亥からは信頼されていましたが、丞相の李斯は邪魔だったわけです。

趙高は李斯を罪に陥れて、牢に入れる事になります。

趙正書では、李斯が胡亥の阿房宮建設の中止や、兵役や労役を軽くするように進めますが、胡亥により李斯は捕らえられた事になっています。

李斯が牢に入れられると、子嬰は次の様に諫言しています。

子嬰「今までの法令を変え忠臣を処刑し、節操のない人物を重用しようとしております。

このまま不義を行えば、報いを受ける事になります。今の秦は内外で分裂しており、民は為政者を恨んでおります。

章邯将軍は外で戦い兵士は苦労しておりますが、物資を補給出来ていません。

大臣達も互いに争う姿勢が見られ、非常に危険な状態なのです。」

子嬰はまたもや趙高の事を節操のない者として批判し、李斯の助命を願いますが、二世皇帝は李斯を処刑してしまいます。

趙正書の内容を見ても、章邯は苦戦し物資も届かず、苦戦している事が分かります。

 

胡亥の死

秦の宮廷では、趙高が丞相となり政務を執る様になると、粛清の嵐が吹き荒れる事になります。

秦の内部は、趙高により賢臣は殺され、趙高の意のままに動く連中だけとなっていったわけです。

函谷関の外では、劉邦が咸陽を目指し、項羽は王離率いる秦の精鋭部隊30万を鉅鹿の戦いで破った事で、秦は大打撃を受けています。

章邯は趙高に家族も処刑されていた事から、咸陽に戻る事も出来なくなり、殷墟で項羽に降伏しています。

函谷関の外では、秦はもはや反乱軍に対抗する戦力はなかったわけです。

こうした中で、趙高は胡亥から責任を追及される事を恐れ、謀反を起こし胡亥を誅殺する事を考えます。

この時に趙高は配下の閻楽と趙成に次の様に言った話があります。

趙高「陛下(二世皇帝胡亥)は、諫言を聞く耳を持たず、全責任を私に押し付けようとしている。

胡亥を誅殺し、子嬰を秦王に擁立しようと思う。

子嬰は、仁愛倹約の君子であり、民衆も子嬰に従っている。」

趙高は胡亥を殺害し、子嬰を秦王に立てる事にします。

胡亥は趙高の使者に命乞いをしますが、許されず自刃しています。

 

趙高を誅殺する

子嬰は趙高に秦王になる様に要請されますが、子嬰は趙高を苦々しく思っていたわけです。

子嬰は、趙高を誅殺する計画を立てる事になります。

趙高の内通

子嬰は趙高の要請により、秦王となります。

子嬰が秦の三世皇帝を名乗らなかったのは、既に秦は函谷関の外は領有していませんでしたし、皇帝を名乗ると反乱軍に敵視される事が原因と考えられています。

趙高は子嬰を秦王として即位させようとしますが、趙高自身は、武関に迫る勢いだった劉邦に内通した話があります。

既に、趙高は秦に見切りを付けていて、あわよくば劉邦と関中を二分し、自分が関中の王になろうと考えていました。

趙高は、王離や章邯が敗れた時点で、反乱軍に加担し、関中の王になろうと画策を始めたのかも知れません。

 

趙高を誅殺

趙高は子嬰に斎戒をさせ、宗廟を参拝させ玉璽を受け取る様に指示しました。

玉璽は一説によると、和氏の璧を使い造られたとも言われています。

子嬰の斎戒が始り5日が経過すると、子嬰は自分の子に向かい次の様に述べています。

子嬰「趙高は夷望宮で二世皇帝を殺害したから、群臣から非難を浴び誅殺される事を恐れて、儂を秦王に立てた。

趙高は既に、反乱軍の楚と内通し、関中の地を分けて王とするつもりである。

張高は儂に宗廟の参拝を行う様に言っておるが、行かなければ趙高は自ら儂の所にやって来るであろう。

趙高がやってきた所で、誅殺する事にしよう。」

子嬰が宗廟の参拝に行こうとしなかった為に、趙高は何度も使者を出しますが、子嬰が動く事はありませんでした。

痺れを切らした趙高は、自ら説得の為に子嬰の元を訪れますが、ここで子嬰は我が子を使って、趙高を暗殺しています。

さらに、子嬰は趙高の一族を誅殺し、秦王家に実権を戻しています。

趙高の死により、趙高の暴政は終わったわけですが、劉邦が咸陽に迫っており、秦は危機的な状況だったわけです。

尚、子嬰は秦王になった事で、秦王嬰と呼ばれる事もあります。

 

秦の滅亡

子嬰は秦が危機的な状況にある事は分かっていましたが、まだ秦には劉邦の軍勢を抑えるだけの余力があると判断し、交戦する事にしました。

しかし、反乱軍の勢いは強く、秦は滅亡する事になります。

嶢関の戦い

資治通鑑によれば、子嬰は劉邦の軍を防ぐ為に、嶢関に兵を配置し戦いを挑む事になります。

劉邦軍は連戦連勝の勢いに乗り、秦軍に攻撃を仕掛けようとしますが、軍師の張良が止めています。

張良は秦兵はまだまだ強く油断が出来ないと述べ、山上に旗を多く出し、大軍がいる様に見せかける様に進言しました。

大軍を秦に見せた後に、酈食其、陸賈を派遣し、秦将に和睦を求めたわけです。

秦の将軍も反乱軍の勢いと大軍を目にし、劉邦と和睦を結びます。

しかし、張良は秦の将軍が和睦に応じただけであり、秦の兵士は納得していないと判断し、劉邦に秦軍を急襲する様に述べたわけです。

劉邦は張良の進言を聴き入れ、不意に秦軍を襲い大破しています。

 

藍田南の戦い

劉邦の軍は武関を急襲して破り、藍田の南でも秦軍と劉邦の軍が戦った記録があります。

ここでも劉邦は旗差しものを多く使い大軍がいる様に見せかけ、通過する地方では略奪を禁じた為に、秦の人は劉邦の軍を喜んで向かい入れた話があります。

これを見ると函谷関の中でも、反乱軍が支持される様になった事が分かります。

秦軍は戦意を失い、劉邦は秦軍を急襲し大勝しています。

さらに、劉邦の軍は北方でも秦軍を破ったとあり、子嬰には降伏する以外に道は亡くなってしまったわけです。

この時に、子嬰は趙高が殺害してしまった「蒙恬がいてくれたら」と思った可能性もあるでしょう。

秦の滅亡は、始皇帝時代の有能な将軍である王翦王賁李信などの将軍が既に亡くなっていた事も響いたと思われます。

子嬰が即位した頃には、章邯の既に項羽に降伏していましたし、秦には骨のある将がいなかったとも言えます。

 

子嬰が降伏

劉邦は覇上に陣を移す事になります。

子嬰は首に軛を掛けて、伝国の玉璽や符節を函に入れ、劉邦に降伏したわけです。

子嬰がは趙高を誅殺してから、46日で劉邦に降伏したと伝わっています。

劉邦の諸将の中には、「子嬰を処刑するべきだ」とする声もあったわけです。

樊噲も子嬰を処刑する様に進言した話があります。

しかし、劉邦は次の様に述べています。

劉邦「既に降伏している者を殺害するのは不吉である。」

これにより子嬰は生かされる事になります。

子嬰が劉邦に降伏した事で秦は滅亡したと考える人もいます。

秦が諸侯になってから600年ほど続いたとされていますが、遂に秦も滅亡し、戦国七雄の歴史は幕を閉じる事になります。

 

子嬰の最後

劉邦が咸陽を占拠すると、樊噲や張良の進言もあり、秦の宮殿には留まらずに、覇上の陣に戻り宿営する事になります。

さらに、劉邦は「法は三法のみ」とし、略奪も禁止した事から、秦の民衆から支持された話もあります。

この時に、項羽は函谷関から秦の咸陽に向かっており、劉邦の左司馬である曹無傷は、項羽に褒賞を求めて次の様に述べています。

「沛公(劉邦)は、関中の王になる野心があり、宝物は悉く占有しております。」

これを見ると、子嬰が劉邦の配下として政治を行っている様にも見えますが、実際には劉邦は張良の進言により宝物を納めてはいません。

上記の発言は、曹無傷が項羽を炊きつける為の虚言だったのではないかと思われます。

項羽の大軍が函谷関を破り咸陽に近づくと、劉邦と項羽は鴻門で会談をする事になります。

これが鴻門之会であり、子嬰の運命を決める事になります。

鴻門之会では項羽の参謀である范増が、劉邦を殺害しようと企て、張良や項伯が劉邦を庇うことになるわけです。

樊噲の活躍や項羽配下の陳平が劉邦を見逃した事で、劉邦は無事に自陣に戻る事になります。

ただし、劉邦が項羽に完全に屈服した事で、子嬰の運命は決まったとも言えるでしょう。

項羽は咸陽の都に入ると、子嬰を処刑し、秦の都を廃墟と化してしまいます。

ここにおいて、秦は完全に滅亡する事になったわけです。

史記などでは、秦は項羽に滅ぼされたと記載があります。

秦の地は「雍」「翟」「塞」に三分割され章邯、董翳、司馬欣が王となり時代は、楚漢戦争に向かって行きます。

 

秦が滅亡した責任は子嬰にはない

国が滅亡すると、最後の皇帝なり王に責任が追及される事が多いです。

夏の桀王、殷の紂王周の幽王辺りは、史書では悪く書かれており、国を滅ぼした原因とされています。

しかし、子嬰の場合はケースが違っており、胡亥と趙高が暴政を働き、秦はボロボロの状態でした。

既に劉邦は咸陽に迫っており、野球に例えれば9回ツーアウトで5-0で負けている状態で、バトンタッチされたのが子嬰だと言えるからです。

秦に関しては、前漢の賈誼による「過秦論」や史記でも色々と書かれていますが、秦滅亡の責任は子嬰にはないと考えるケースが大半と言えます。

 

子嬰の謎

子嬰が趙高から粛清されなかったのは、謎があります。

子嬰は趙高の事を「節操亡き者」とし、2回に渡り胡亥に述べているわけです。

子嬰は趙高を良く見てはいなかった事は確実ですが、何故か粛清される事がありませんでした。

胡亥や趙高は、秦の公子達も史書では、大半を殺してしまった事になっていますが、実際には誇張して書かれているのかも知れません。

それか、胡亥や趙高には、子嬰を殺せない理由があった可能性もあります。

子嬰は民衆に慕われていた話もあり、子嬰を殺害すると、世間が煩くなると考えた様にも思います。

他にも、子嬰の一族は強大な力を持っており、胡亥や趙高でも、罪を着せる事は出来なかったのかも知れません。

勿論、この辺りは記述がなく分かりませんが、趙高の事を容赦なく批判している子嬰が、趙高に粛清されなかったのは不思議に思いました。

趙高も自分を批判した事がある、子嬰を秦王に立てるのは危険だとは考えなかったのでしょうか。

この辺りは、かなり謎に感じています。

 

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