春秋戦国時代

キングダムに消された男・信陵君

2020年4月8日

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宮下悠史

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信陵君と言うのは、安釐王の弟で戦国時代後期の人です。
戦国四君と言う人たちがいます。時代がちょっとずれている人もいますが、孟嘗君平原君春申君、魏の信陵君を指します。
この4人の特徴としては、食客を数多く養っていて、その数は3000人に達したと言われています。もちろん、3000人もいれば玉石混交状態ですよね。

孟嘗君の話では、鶏の鳴き声の名人とか、どんな厳重なところからも盗まれる泥棒の達人までいたそうです。信陵君の食客にそういう方がいたかどうかは分かりませんが、信じられないほどの食客がいたという事は確かでしょう。

ちなみに、戦国四君と言っても、他の3人はどのような功績があったのか分からない部分も多いですし、失敗もしているような感じです。しかし、信陵君だけは明確な功績があります。
それは、2度に渡って秦軍を破ったという事です。最後に、破ったのは秦王政が即位する前年です。しかし、キングダムでは信陵君はほぼ登場をしません。秦軍が魏の東郡を攻めたという話があり、そこで敵の大将が廉頗だったという話はありましたが、そもそも廉頗の将軍として活躍した記述はどこにもありません。
が魏を攻めた理由はその年に、信陵君が亡くなったからです。つまり、信陵君が死ななければ、秦は魏に攻める事が出来ませんでした。
しかし、キングダムではその事については、触れられていません。キングダムで、何らかの形でもっと登場させてもいいかなと思っています。スピンオフ企画でもいいので、登場させてみては如何でしょうか?
ちなみに、史記では魏公子列伝と言うのがあり、信陵君の事が詳しく書かれています。

尚、上記は私が作成した信陵君のゆっくり解説動画となっております。

信陵君の失敗

信陵君ですが、失敗談も書かれています。兄である魏王と遊んでいた時に、国境から狼煙が上がりました。
魏王は、敵が攻めて来るのかと思って、冷や冷やしていましたが、信陵君は王が狩りをしているだけだと言って、落ち着いていました。
しかし、魏王は心配でたまりません。しかし、報告が入り趙王の狩りだという事が分かりました。魏王が信陵君になぜわかったというと、食客が情報を掴んでいて報告していると魏王に言ったそうです。この時、魏王は情報通である信陵君を恐れ要職から外してしまいます。
つまり、自分の座を奪われるのではないかと不安になり、遠ざけてしまったという事です。やはり、臣下として情報通ぶるのは危険だという事なのでしょう。
これが、信陵君の失敗談と言えます。しかし、史記の中では、失敗したような事には書かれていませんし、この後も信陵君は元気に活動しているようにも見えます。

信陵君が趙を救う

戦国四君の中には、平原君もいますが、信陵君の姉は平原君に嫁いでいました。この時に、は白起将軍に攻められて、長平の戦いで40万人を生き埋めにされています。
40万人を生き埋めにされてしまったら趙軍としては大打撃です。そして、秦軍は趙の都である邯鄲を囲みます。

ただし、秦の中でも揉め事の様な事もあり、邯鄲を攻めたのは白起将軍ではありません。
ちなみに、長平の戦いが白起将軍の最後の戦いになりました。ちなみに、白起将軍は、その後、秦の昭王(政のおじいちゃん)の恨みを買い自刃しています。話を戻しますが、この時に、信陵君は趙を救うために、魏王に援軍に行きたいと言いました。しかし、秦は余りにも強いので、軍は出発させましたが、国境で動かないように指示したとされています。

つまり、出陣はしたけど、国境である鄴から軍隊は出さなかったという話です。信陵君が説得してもダメで、結局、信陵君は自分の食客を率いて趙を救うために出陣します。魏軍ではなく、個人の力で救援に向かおうとしたという事です。
この時に、食客の一人(侯嬴)が信陵君に策を授け魏の安釐王が寵愛する如姫を使い、の軍権の印である虎符を魏の安釐王の寝室から取って来させます。

如姫は信陵君に恩が過去にあった事で承諾しました。

信陵君は虎符を手に入れると、朱亥を連れて国境に留まっている晋鄙の陣を訪れる事になります。

そして、王の命令だと偽り、指揮権を渡すように促します。
晋鄙は怪しみ、拒んでしまうわけですが、信陵君は王の命令を聞かないものとして、晋鄙を力持ちの朱亥に命令して、殺してしまいます。つまり、信陵君は魏の将軍をペテンにかけて殺して、軍を奪って趙の救援に行くという荒業をやってのけたと言う事です。ここで、普通であれば貴族がペテンにかけて軍を奪い救援に行ったけど、やられるのが当たり前かと思います。


しかし、信陵君の凄いところは、この軍勢で秦軍を破ってしまうところです。ちなみに、趙の首都邯鄲の攻防戦には楚からも春申君が救援に行ったとされています。
戦国四君のうち3人が集まったという珍しい戦いです。

信陵君が秦を破る

信陵君は勝ったわけですが、当たり前ですがに帰る事が出来ません。
魏の将軍をペテンにかけて救ってしまったのは問題になるわけで、帰ったら罰せられてしまうわけです。そこで、趙に留まりました。
信陵君が趙にいると、趙は秦に攻められなくなったという話もあります。しかし、魏の方では信陵君がいなくなったら、秦軍がどんどん攻めてくるわけです。魏王はたまり兼て、信陵君に「前の罪は問わないから帰国してくれ」と帰国を促します。
しかし、信陵君の方は帰ったら殺されると思って、拒否し続けました。
しかし、食客に説得されて結局は、帰国します。この時は、兄である魏王と泣き合って喜んだとされています。
魏王は早速、信陵君を上将軍に任命します。そして、上将軍に任命した事を他の国にも告げ5カ国連合軍()を率いて秦を攻めました。

この時に、信陵君と戦った秦の将軍がキングダムでも登場した蒙ごう将軍です。
しかし、史記の記述には黄河の外で蒙ごうを信陵君が破ったとあります。その後、函谷関まで攻め上がったようです。これにより、秦は魏に対して手が出せなくなってしまいます。
これにより信陵君の名は天下に届き魏公子兵法(現存はしない)が出来上がったとも言われています。信陵君が5カ国連合軍(合従軍)で秦を攻めたのが、政が即位する前年になるわけです。

信陵君の最後

秦は、信陵君がいる限りには手を出せなくなってしまいました。
そこで、計略を用いて信陵君を抹殺する事を思い浮かびます。魏王と言うのは、疑い深い性格なのか信陵君の才能を恐れていました。
そのため、魏王と信陵君の仲が悪くなるように、仕向けます。間者を放ち信陵君が王位を狙っていると噂させるようにします。さらに、信陵君が即位したという事で勝手に祝賀を送ったりもしています。魏王は、それを真に受けてしまい、またもや信陵君を要職から遠ざけてしまいます。
この時の信陵君はショックが大きかったのが、酒などに走ってしまいました。結果として5年後にアル中?で無くなったとされています。信陵君が死亡したのを確認した秦は、すぐに軍を魏に送り込みます。この戦いに勝ち東郡を設置しました。キングダムだとこの時に、蒙ごうを大将にして魏を攻めますが、相手をした将軍は廉頗となっていました。
しかし、実際には廉頗はこの戦いには参加していないようです。しかし、蒙ごうは信陵君のいなくなった魏に大勝して20城を取ったとされています。史実では信陵君がいなくなった魏では特にこれと言った名将も出現しませんでした。
そのため、秦に次々に土地を奪われて、最後は王賁に攻められて滅亡しています。

尚、信陵君が亡くなると韓王が弔問の使者を信陵君の子に出した話があります。

信陵君の子は子順の言葉に従って、礼に則り韓王の弔問を断わった話もあります。

因みに、漢の高祖劉邦の軍師として、張良に並ぶほどの逸材ともされた陳平を推薦したのは、信陵君の子孫とも言われている魏無知です。

楚漢戦争の時に、項羽の攻勢の前に劉邦は劣勢でありましたが、陳平が項羽から劉邦に寝返る事で戦局が有利になった部分もあります。

陳平の策により項羽の軍師とも言える范増は失脚し亡くなっているからです。

陳平は韓信、張良、蕭何の漢の三傑に比べると功は少ないと思われがちですが、陳平の能力を見抜いた魏無知の眼力は高いと言わざるを得ないでしょう。

魏無知は食客を多く養った信陵君の子孫であり、人を見る目に優れていたのかも知れません。

信陵君の評価

信陵君ですが、個人的にはキングダムでも登場させて欲しかった武将です。
あと、史記は2面的な評価をすることが多いです。
蒙恬(もうてん)や王翦に関しては、名将だと評価はしているけど、始皇帝(政)に対して、民衆を酷使しないように諫言する事は出来なかったと言っています。
この王翦や蒙恬が始皇帝に意見をしなかったせいで、の地盤を固める事が出来ずに、始皇帝が亡くなってわずか4年で秦は滅亡したというのです。このように良い事も書いてあれば、悪い事も書いてある事が史記の特徴です。
しかし、信陵君の記述に関しては、特に悪い事が何も書いてありません。魏王に疑われたわけですが、これに関しても、魏王の猜疑心が強すぎる性格を問題にしているような感じにもなっています。
さらに、漢の高祖である劉邦は信陵君を祭るための家を決めたなどの事まで書かれていました。そのため、信陵君と言うのは、当時から絶大な人気があったのではないでしょうか?戦国四君最強の男と言えるでしょう。

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