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構成・文/宮下悠史

春秋戦国時代

申生(しんせい)は孝子だが晋が乱れる結果を招いた

2021年11月5日

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人物名申生(しんせい)
生没年生年不明ー紀元前656年没
晋(春秋)
コメント孝の精神は持っていたが非業の死を遂げる
年表紀元前661年 晋の献公の下軍の将となり霍・魏・耿を滅ぼす
紀元前660年 東山征伐
紀元前656年 驪戎の乱により自刃

晋の献公の子の中で申生、重耳、夷吾の三人は優秀だとされていました。申生は晋の献公の嫡子であり、晋の太子になった人物です。

しかし、晋の献公が驪戎を討伐し、驪姫とその妹を手に入れます。

驪姫と妹は奚斉や卓子を生み、晋の献公も奚斉や卓子を可愛がり、申生、重耳、夷吾の三人を遠ざける様になりました。

晋の献公は太子の申生を廃嫡し、奚斉を後継者にしたいと考える様になります。

こうした晋の献公の態度を読み取った士蔿、里克、狐突、猛足などは危惧した話がありますが、申生は孝を優先させ物事に対処しませんでした。

それにより、驪姫や優施の謀略により、申生は自害する事になるわけです。

申生は孝子ではありましたが、孝の精神のお陰で晋は乱れてしまったとも言える人物になるでしょう。

今回は春秋時代に、晋の太子となった申生を解説します。

 

申生の遠征

紀元前661年に晋の献公は霍、魏、耿の三国を、討伐する為に動く事になります。

この時に晋の献公は上下二軍を編成し、自らを上軍の将とし、申生を下軍の将としました。

晋の献公は車右を畢万、御者に趙夙に任命し、申生と共に霍、魏、耿の三国を滅ぼしています。

畢万には魏が与えられ、趙夙には耿が与えられています。

太子申生には、曲沃に新城を建設し与えました。

晋の献公が申生を将軍としたのは、申生が戦いの場でミスを犯せば、献公は太子の位を剥奪する為だったとも考えられています。

 

出奔を勧められる

晋の大夫の士蔿は、曲沃に新城を与えられた申生に対し、次の様に述べています。

士蔿「太子は晋の君主として立つ事は出来ないでしょう。

此度の戦いが終わると、曲沃の新城を与えられました。

さらに、下軍の将たる地位を与えられたのは、禄位の極みです。

これでは君主になるのは難しいと言わざるを得ません。

ここはお逃げになるのが最良の策であり、罪に落ちる様な事はあってはなりません。

君主の位を季歴に譲った、呉の太伯の様になるのも悪くはないと思います。

太伯の様な行いがあれば、名誉を得る事が出来ます。」

士蔿は晋の献公が驪姫の子である奚斉を、後継者にしたいと考えている事を知っており、申生に亡命を勧めたのでしょう。

尚、呉の太伯は季歴の子である姫昌を後継者にする為に、周を去った人物です。

姫昌は聖人とされており、周を大きく発展させた人物となります。

姫昌は周の文王となり、息子の武王の代で殷の紂王を滅ぼし周王朝を開きました。

士蔿は呉の太伯の様に国を譲る様に進言しますが、申生は聞き入れる事は無かったわけです。

申生の側近である猛足も申生に「自らの安泰を願う」様に意見されますが、申生はここでも猛足も進言を却下しています。

 

東山討伐

晋の献公は申生を将軍として、東山を討たせる計画を立てます。

申生が東山征伐を行った裏では、驪姫の愛人である優施の奸計もあったわけです。

この時に、里克は申生を将軍として使うのは、太子のする事ではないと晋の献公を諫めています。

しかし、晋の献公は里克の意見を却下し、次の様に述べています。

晋の献公「儂には何人も子がおるし、太子を誰にするかまだ決定したわけではない。」

晋の献公が里克に述べた言葉からは、驪姫の子である奚斉を、後継者にしたくて溜まらない感じになっている事が、読み取れるはずです。

里克は晋の献公の言葉に答えないで退出すると、申生に面会しました。

申生は里克に対し「自分は太子の座を廃せられるのか。」と問うと、里克は次の様に答えています。

里克「太子は懸命に励むべきです。

此度はご主君より東山征伐を任されましたが、職務を全うできない事だけを恐れればよいのです。

見事に与えられた任務を達成したのであれば、何をもって廃せられるのでしょうか。

太子が恐れるべきは、子が親に対し孝でない事であり、太子の座を廃せられるなどと考えてはなりませぬ。

ご自分の修業を怠らず、徳を高めれば難を逃れる事が出来ましょう。」

里克なりに申生を励ましたのでしょう。

ただし、里克は病気と称して、申生の東山征伐には従軍しませんでした。

里克なりに思う所があったのでしょう。

因みに、李克は晋の献公の死後に、驪姫らを誅殺し滅ぼしています。

申生は狐突、先友などを連れて出陣し、見事に東山討伐を成し遂げています。

しかし、この時に狐突は申生の身に災いが迫っていると判断し、申生に亡命する様に進言しますが、申生は従いませんでした。

 

申生の最後

申生がミスもなく功績を挙げ続けた事に、驪姫も焦ったのか直線的に申生を陥れようと画策しました。

驪姫は申生に母親である斉姜を祀る様に述べ、申生が胙を晋の献公の為に届けたわけです。

この時に、驪姫は祭祀用の肉に毒を入れ、晋の献公に食べさせる前に毒見をさせ、犬や人が亡くなると、泣いて申生の事を晋の献公に讒言しました。

この話を耳にした申生は、曲沃の新城に出奔しています。

ある人が、申生に肉に毒薬を入れたのは、驪姫だと述べ献公に弁明する様に進言しました。

しかし、申生は次の様に述べています。

申生「我が君はご老齢であり、驪姫がいなければ寝ても安眠出来ず、ご飯を食べても美味しく感じないのです。

私が仮りに弁明したとすれば、我が君は驪姫に対し怒りを向ける事になるでしょう。

だから、弁明する事は出来ません。」

さらに、申生に対して亡命を勧める人もいましたが、申生は次の様に述べています。

申生「悪名を被りながら出国しても、誰が私を受け入れてくれるのでしょうか。

私は自害する以外に道はありません。」

申生は曲沃の新城で自刃して果てました。

尚、申生は自害する時に、側近の猛足を狐突の元に派遣し、晋の献公を補佐する様に願った話しもあります。

申生は自分の命よりも孝を優先させたとも言えるでしょう。

 

その後の晋

申生は自害すると、弟の重耳や夷吾は身の危険を感じ出奔しています。

晋の献公が亡くなると、荀息が宰相となり、驪姫の子である奚斉が後継者となります。

しかし、里克は晋の献公の死を待っていたかの如く立ち上がり、奚斉を殺害しました。

荀息は驪姫の子である卓子を晋公に即位させますが、里克は卓子をも殺害しています。

列女伝によれば、里克は驪姫を捕え市中で鞭打ちの刑により処刑しました。

里克は重耳を晋君に立てようとしますが、断られた事で夷吾を晋の恵公として即位させています。

しかし、晋の恵公は秦の穆公に対し、背信行為を行うなど政治は安定せず、恵公が亡くなると晋の懐公が即位しますが、秦や楚の後押しを受けた重耳が即位します。

重耳は亡命19年にして即位し、晋の文公として春秋五覇の一人となり諸侯同盟の長にまで成り上がりました。

申生が死ななければ、重耳が君主になる事もなかったはずです。

 

申生の評価

申生ですが、孝子と言える事は間違いないでしょう。

しかし、申生が死んでしまった事で、晋は後継者問題が起こり、何代にも渡って国が安定しない事態となっています。

申生の死は晋の献公にとってみれば有難かったのかも知れませんが、晋国の事を考えればマイナスは大きかったと言えるでしょう。

申生と似ているのが秦の始皇帝の後継者であった扶蘇であり、扶蘇が自刃してしまった事で胡亥が即位し、宦官趙高による暴政が始まる事になります。

秦は始皇帝死後に僅か4年で亡びており、扶蘇は自害するべきではなかったと考えています。

同様に晋国の事を考えると、申生は死ぬべきではなかった様に思います。

申生は孝子であり能力も高く情に深い人物だとも感じますし、申生が君主になれば驪姫を邪険に扱う事も無かったはずです。

それを考えると、申生が後継者になるのは、驪姫の命も救う事になったように感じています。

申生は高い孝の精神は持っていますが、国は乱れてしまったと言えるでしょう。

尚、申生は自害する時に、「自分を受け入れてくれる国はない。」と述べていますが、斉に行けば春秋五覇の一人に数えられる、斉の桓公と宰相の管仲がおり、申生を斉で受け入れてくれた様に思います。

参考文献:岩波文庫・春秋左伝 ちくま学芸文庫・史記 晋世家

 

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