この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

秦末期・楚漢戦争

曹無傷は告げ口を行った裏切り者なのか!?

2021年9月26日

スポンサーリンク

曹無傷は劉邦配下で、左司馬をやっていた武将です。

曹無傷は鴻門之会の前に、項羽に告げ口を行った事で有名な人物とも言えるでしょう。

項羽に対し、劉邦への嘘の情報を流した事で、不忠者とみられる事もある人物となります。

しかし、実際の曹無傷を見ると、一概には不忠者と呼べない部分もある様に思いました。

今回は史記などの記述を元に、曹無傷がどの様な人物だったのか解説します。

尚、項羽は内通者である曹無傷を生かしきれなかったとも言えるでしょう。

 

沛の出身だったのか!?

曹無傷の出身地は、はっきりとしません。

しかし、劉邦軍の左司馬をやっていた話しもあり、沛の有力者だったのではないか?とする説もあります。

沛には曹無傷と同姓で獄吏をやっていた曹参もいますが、二人の関係性は記録がなく分からない状態です。

一部の人の中では、曹無傷と曹参は親戚ではなかったのか?とする話もあります。

曹無傷が蕭何や曹参、周勃、樊噲らと同様に、最初から劉邦軍にいたのかは分かりません。

しかし、どこかのタイミングで曹無傷は劉邦陣営に加入し、左司馬となり重用された事は間違いないでしょう。

 

曹無傷に軍功があった!?

劉邦は挙兵すると、豊邑を陥落させ、豊を雍歯に守らせています。

劉邦は薛に進軍し、泗水の守である壮と戦い勝利しました。

史記の高祖本紀には下記の記述が存在します。

「壮は逃げて戚に行ったが、沛公の左司馬に捕らえられて殺害された。」

沛公は劉邦の事であり、劉邦の左司馬が壮を殺したと記述があるわけです。

左司馬とあるだけで、名前が書かれていませんが、後に曹無傷が劉邦の左司馬をやっていた事は明らかでしょう。

それを考えると、曹無傷が壮を捕えて殺害したのではないか?とする話があります。

ここでいう左司馬が曹無傷であれば、軍功をきちんと挙げていた事になります。

 

曹無傷の嘘

楚の懐王は軍を二つに分けて、進軍させますが、劉邦が素早く咸陽を制圧し、秦の子嬰を降伏させています。

この時に劉邦は張良や樊噲の進言を取り入れて、覇上の陣に戻り宿営しました。

劉邦は美女や宝物を封印し、手を付けなかったわけです。

しかし、劉邦に進言した者がおり、劉邦は函谷関を守備し、項羽の軍勢を関中に入れる事を拒んでいます。

怒った項羽は英布に命じ、函谷関に攻撃を加え陥落させました。

劉邦と項羽の対立の構図が出来上がり、この時に劉邦配下の曹無傷は、次の様な連絡を項羽に入れています。

「沛公(劉邦)は関中王になる下心があり、子嬰を宰相にして秦の財宝を全て手に入れております。」

曹無傷の言葉を見ると、劉邦は子嬰を宰相に任じて財宝を手に入れた事になりますが、高祖本紀などの記述では、張良らの進言により封印した事になっています。

高祖本紀の記述を信じるのであれば、曹無傷は項羽をけしかける為に、嘘の情報を流した事になるでしょう。

しかし、実際には曹無傷の言葉が正しかった可能性もあり、今となっては、どちらが正しいのかは分かりません。

ただし、後に劉邦が関中の長安に都を定めた事を考えれば、劉邦は関中で人気があり、曹無傷が嘘を付いた様に思います。

 

曹無傷の最後

曹無傷の内通を受けた項羽は、劉邦を攻撃する事にしました。

しかし、項羽の一族である項伯が劉邦に内通し、庇った事で劉邦が項羽に詫びを入れる形で鴻門之会が行われています。

劉邦は項羽に詫びて、「小人が仲違いさせただけだ。」と述べると、項羽は次の様に述べています。

項羽「其方(劉邦)の左司馬である曹無傷が告げ口したのであり、それが無ければ儂は其方を疑う事は無かった。」

項羽は曹無傷が内通者だと、劉邦に暴露してしまったはずです。

これには曹無傷も驚いた事でしょう。

これにより、劉邦は曹無傷に対し恨みを抱いた事も間違いないと言えます。

鴻門之会が終わると、劉邦は曹無傷を殺害してしました。

これにより曹無傷は命を落とし、後に劉邦が天下を取った事から、曹無傷は悪名を着せられた事になった様にも思います。

項羽の一言により、曹無傷の運命は決まったとも言えるでしょう。

 

項羽の稚拙な部分

曹無傷は項羽が劉邦に、裏切ったとバラしてしまった為に処刑されています。

曹無傷は劉邦の内部事情を教えてくれた内通者であり、後の事を考えれば劉邦陣営で泳がせておいた方が良かったはずです。

孫子の兵法書の中で、孫武も内通者を上手に使う様に述べています。

しかし、項羽は曹無傷の名前を出してしまうなど、明らかに悪手だと言えます。

鴻門之会には、項羽の軍師とも言える范増も出席していました。

范増は項羽が曹無傷の名前を出した時に「余計な事を言うな。」と思ったのではないでしょうか。

逆に劉邦は内通してくれた項伯と誼を結び、義兄弟の仲にもなっています。

劉邦は項羽との戦いで勝利した原因を韓信、張良、蕭何を使いこなせた事が理由だと述べています。

しかし、実際には劉邦は内通者を上手く使ったり、范増、周殷、鍾離眜、龍且などを離反させるなどのやり方も上手かった様に思います。

項羽が鴻門之会で曹無傷の名前を出した事は、稚拙だと言えるでしょう。

内通者である曹無傷を生かしきれなかった項羽と、内通した項伯を生かせる事が出来た劉邦との差を感じます。

戦い以外のこうした技術の差が、楚漢戦争の勝敗を分けた様にも感じました。

曹無傷はなぜ劉邦を裏切ったのか!?

曹無傷が劉邦を裏切った理由を考えてみたいと思います。

戦力差から寝返った

一般的には、この時の項羽軍は40万であり、劉邦軍は10万ほどしかいなかった話があります。

戦力的に言えば、劉邦は圧倒的に不利な立場であり、戦いになっても項羽に負ける事は確実だったのでしょう。

こうした中で、曹無傷は勝ち馬に乗れとばかりに、項羽に内通したとも考えられます。

早い段階で項羽に寝返る事が出来れば、褒美を多く貰えると考えたのかも知れません。

これだと曹無傷は自分の利益の為に、劉邦を裏切っており不忠の臣となってしまうはずです。

それでも、曹無傷が自分の利益の為に、劉邦を売った可能性はゼロではないでしょう。

 

劉邦のパワハラに耐えられなかった

劉邦は人を見下したり、馬鹿にする悪い癖があったわけです。

項羽に比べると恩賞が良いなど、気前が良い部分もあったようですが、劉邦は口が悪い人物だった話があります。

曹無傷はプライドが高く、劉邦の口の悪さに耐えきれなかった可能性はないでしょうか?

さらに後の陳平の言葉の中に「礼を好む士の多くが項王に従っている。」と述べています。

これを考えると、曹無傷は礼を好む士であり、人を侮辱する劉邦に態度に耐えきれなかった可能性もある様に思います。

ただし、この説の欠点として、曹無傷が項羽へ内通した時に、先に述べた様に「子嬰を宰相にした」「財宝を独り占めした」などの嘘を付いていた可能性があります。

曹無傷が嘘を付いたとなれば「廉潔の士」とは言い難い部分もあり、この説の欠点にも感じます。

 

 

スポンサーリンク