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構成・文/宮下悠史

三国志

諸葛喬(しょかつきょう)は期待されながらも早逝していた

2021年10月25日

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名前諸葛喬(しょかつきょう) 字は仲慎、後に伯松
生没年204ー228
呉→蜀
年表224年頃 諸葛亮の養子となる
228年 諸葛亮の北伐の最中に死去
コメント真の諸葛亮の後継者となる人物だったのかも知れない。

諸葛喬は呉の重鎮であり諸葛瑾の次男です。

諸葛喬は呉では評判の人であり才能では兄の諸葛恪に及ばないが、人間性は諸葛恪よりも優れていると評価された人物でもあります。

諸葛瑾の弟である諸葛亮は蜀で丞相を務めていましたが子が出来ず、兄の子である諸葛喬を養子として迎えました。

諸葛喬は諸葛亮の養子となるや、軍の輸送を行った話しもあります。

諸葛亮の行動を見ていると、諸葛喬を大切に育てようとした様にも見受けられる部分もあります。

ただし、諸葛亮に実子である諸葛瞻が生まれると、諸葛喬の立場が浮いてしまったのではないか?とも考えられます。

諸葛喬は諸葛瞻が生まれた翌年に亡くなってしまいました。

今回は蜀の諸葛亮の養子となり、諸葛亮の真の後継者と目される事もある、諸葛喬を解説します。

因みに、諸葛喬は三国志演義には登場しません。

 

諸葛亮の養子となる

諸葛亮は荊州時代に黄承彦の娘である黄月英を嫁に貰っていました。

しかし、黄月英との間には、子が中々出来なかったのか、兄の諸葛瑾から養子を貰う事を考えます。

諸葛瑾は主君の孫権に、自分の次男である諸葛喬を諸葛亮の養子にしても良いか?と許しを請います。

諸葛亮は蜀の丞相ですし、実質的な最高権力者であり、諸葛瑾も呉では大将軍になる人物でもあり、蜀との友好を重視する孫権に断る理由はなかったのでしょう。

孫権は諸葛喬を諸葛亮の養子とする事を許可しました。

呉にいた時は、諸葛喬の字は仲慎でしたが、諸葛亮の養子になった時に、諸葛喬は字を伯松に改めています。

基本的に字に「伯」が付けば長男を指し、「仲」が付けば次男を指します。

諸葛喬が『伯松』を名乗った事を考えると、諸葛喬は実質的な諸葛亮の後継者となったとも言えるでしょう。

 

霍弋と旅をする

正史三国志の霍峻伝によると、霍峻の子である霍弋と諸葛喬が各地を旅した話があります。

諸葛亮は諸葛喬に見聞を広める為に、霍弋と旅をさせたのでしょう。

具体的な旅の内容は伝わっていませんが、諸葛喬は霍弋と共に旅をし成長していった様に思います。

諸葛亮自身は徐州から荊州に移り、司馬徽の門下生だった頃に、徐庶龐統、孟建、向朗らと知り合っており、同じような事を諸葛喬にも期待したのかも知れません。

因みに、霍弋の父親である霍峻は荊州時代に劉備の配下となり、劉備の入蜀では張魯の甘言を断わり、少数の兵で劉備の背後を固めた名将です。

さらに、霍弋も蜀の滅亡時に涙を流した話もあり、諸葛亮は人間的にも霍弋は信頼できると考え、諸葛喬を預けた様に思います。

尚、霍弋は劉禅が鄧艾に降伏すると、羅憲と共に晋に仕え呉の侵攻を防ぐ任務を与えられています。

 

北伐にも従軍

諸葛亮は養子となった諸葛喬を駙馬都尉に任命しました。

諸葛亮は南征を成功させると、北伐の軍を起こし漢中に駐屯しますが、諸葛喬に連れて行った話があります。

この時に、諸葛亮は兄の諸葛瑾に手紙を送っており、次の様に書いてあった話が「諸葛亮集」にあります。

「諸葛喬は本来であれば成都に帰還させるべきですが、現在を見るに諸将の子らは輸送の任務を行っています。

私は諸将の子らと栄辱を共にすべきと考えており、諸葛喬には五百ほどの兵を授け、諸将の子弟らと共に輸送の任務に当たっています。」

これを見ると、諸葛亮は諸葛喬の事を考え、任務に当たらせている事が分かります。

諸葛亮は厳格な人でもあり、自分の養子である諸葛喬であっても特別扱いせず、一人前の人材に育てたかったのでしょう。

 

諸葛喬と諸葛亮の情報網

正史三国志の呉書孫翊伝に、諸葛亮が諸葛瑾に充てた手紙の内容が残っています。

諸葛亮は手紙の中で、孫翊の子である孫松が若くして亡くなった事に対し、諸葛亮が痛惜の想いが掲載されています。

諸葛亮と孫松は蜀と呉で国が違いますが、諸葛亮は諸葛喬から孫松の優秀さを聞いており、孫松の死を悼んだとされています。

諸葛亮と諸葛瑾は国は違えど、手紙で密に連絡を取っており、諸葛喬も諸葛亮と諸葛瑾のパイプの役目を果たしたのではないかと考える専門家もいます。

諸葛亮の手紙から孫松の名前が出るのは、諸葛亮と諸葛瑾がしっかりとコミュニケーションが取れていた事の証でもある様に感じています。

 

諸葛喬の最後

正史三国志によれば、諸葛喬は25歳で建興6年(228年)に没したとあります。

諸葛喬は若くして亡くなってしまったと言えるでしょう。

諸葛喬の死因に対しては、病死だとも事故死だとも記述がありません。

ただし、諸葛喬が亡くなる前年に、諸葛亮の実子となる諸葛瞻が生まれた事実があります。

それを考えると、諸葛亮の家を継ぐと考えられていた諸葛喬の立場が微妙になったとも言えるはずです。

今までは「諸葛亮の後継者」と目されていた、諸葛喬が一転して、家督を告げない可能性も出て来たわけであり、何らかのストレスが発したとも考えられます。

似た様なケースで劉備は劉封を養子にしていましたが、甘夫人が劉禅を生んだ事で、劉邦の立場は微妙となっています。

劉封が関羽を助けなかった事や、孟達が魏に寝返った事の責任を取らされて処刑された事実があります。

この時に、諸葛亮は劉備に後継者問題を未然に防ぐ為に、劉封を処刑する様にと劉備に進言しました。

それを考えると、諸葛瞻の誕生は、諸葛喬の立場をかなり微妙にさせたとも言わざるを得ないでしょう。

さらに、諸葛喬が亡くなった228年は第一次北伐が行われた年でもあり、戦争によるストレスなども重なり発病してしまった様にも感じています。

 

諸葛喬の評価

諸葛喬は先にも述べた様に、西暦228年に25歳で没しています。

諸葛亮は西暦234年に五丈原の戦いで、司馬懿と対峙している最中に亡くなっているわけです。

諸葛亮の実子である諸葛瞻は227年に生まれており、諸葛亮が亡くなった時は、10歳にも満たぬ子供だった事が分かります。

それを考えると、諸葛亮の考え方などを身近で学んだのは諸葛喬だとも考えられ、諸葛亮の真の後継者は諸葛喬だとも言える様に思います。

諸葛喬は若くして亡くなり、どれほどの才能があったのかは不明ですが、惜しい人物を失くしたとも言えるでしょう。

尚、諸葛喬には諸葛攀なる子がいましたが、諸葛亮の後継者となり家督を継いだのは実子の諸葛瞻であり、諸葛攀は呉の諸葛恪が滅びた後に、呉に帰り諸葛瑾の後継者になった話があります。

参考文献:ちくま学芸文庫 正史三国志蜀書5巻、正史三国志呉書6巻

 

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諸葛喬統率58武力23知力75政治68魅力77

史実だと諸葛喬は孫松を高く評価していた様であるが、三国志のゲームでは孫松よりも諸葛喬の方が高く評価されている様に思う。

三国志には諸葛家ブランドがあり、そうした影響も諸葛喬の能力を引き上げている様に感じる。

しかし、諸葛喬は若くして亡くなっているので、能力値の設定も想像になってしまう部分が多いのでしょう。

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