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構成・文/宮下悠史

春秋戦国時代

昌文君は謎多き人物・楚王に擁立される動きもあった

2021年4月23日

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昌文君の史実の実績を解説します。

因みに、昌文君はかなり記録が少なく謎が多い人物と言えます。

昌文君は役職名であり、昌文君の本名すら記録に残っていない状態です。

今回の記事を書くにあたって、司馬遷が書いた史記だけではなく、睡虎地秦簡(すいこちしんかん)の記述も採用しております。

睡虎地秦簡によれば、昌文君が亡くなった年は、王翦蒙武が楚を討った年であり紀元前223年とも考えられます。

尚、史記と睡虎地秦簡の編年紀では年代のズレが生じています。

それらも考慮しつつ記事にしてあります。

尚、戦国七雄の戦いを描いた漫画キングダムでは昌文君は元武人であり、王騎らと共に戦った話がありますが史実ではありません。

史実の昌文君は分からない事だらけの人物です。

昌文君は楚の王族だった

大方の見方とし昌文君は楚の王族だったのではないか?と考えられています。

一般的には楚の頃襄王の子か、楚の孝烈王の子ではないかとされています。

ただし、昌文君が孝烈王の子だとする説を採用してしまうと、史記の春申君列伝にある楚の孝烈王が子供が中々出来なかった話と矛盾が生じてしまいます。

春申君は自分の側室である李園の妹を子が出来ない楚の孝烈王に献上した話がありますが、孝烈王の子として負芻、昌平君、昌文君がいた事になるからです。

秦で相国となり後に楚の項燕に擁立され、反旗を翻した昌平君との関係は、弟説もあれば従者説もある状態です。

昌平君と昌文君は秦で相国になった記述もあり、秦で高位に昇っている昌文君が昌平君の従者だったと言うのは無理がある様な気もします。

ただし、昌文君がやり手であり昌平君を秦で出世させ、秦王政が昌文君の手腕を認め高官にした可能性もある様に思います。

尚、秦王政は法家の李斯を重用した話があり、李斯も楚の出身であった事から、秦の宮廷内に楚の出身者で作った派閥があったのかも知れません。

 

嫪毐の乱を鎮圧

史記によれば、紀元前238年に嫪毐(ろうあい)が乱を起こした記述があります。

嬴政(秦王政)の母親である趙姫の愛人である嫪毐は、趙姫に気に入られた事で秦の宰相である呂不韋と並ぶほどの権力を手にする事になります。

しかし、嫪毐と趙姫の関係が露見してしまい嫪毐は、慌てて反乱を企てる事になります。

秦王政は昌平君と昌文君に命じて、嫪毐の乱を鎮圧する事に成功したわけです。

昌平君や昌文君は嫪毐の兵士数百人を斬った記録もあります。

昌文君が嫪毐の乱を鎮圧した事は、史記に記録がある昌文君の唯一の功績と言えるでしょう。

ただし、昌文君は文官であり、記録に残っていない功績は数多くあった可能性もあります。

紀元前241年に春申君が合従軍を率いて、攻めてきた函谷関の戦いや、龐煖蕞の戦いなどでも、昌文君が作戦の立案に関わっている可能性もあるはずです。

尚、嫪毐の乱に連座し呂不韋も失脚する事になります。

呂不韋が失脚した事で秦王政が自ら秦の政治を行う時代に突入します。

 

李斯の台頭

李斯は韓非子の書物を読んだ時に深く感動し「これを書いた者に会えるなら死んでも悔いはない」と言った話が伝わっています。

韓非子は法律により国を運営する事を最善としている法家であり、同じ法家の李斯を重用する事になります。

尚、李斯と韓非子は荀子の元で勉学に励んだ話も残っています。

秦王政は、秦の孝公の時代に商鞅の改革により始まった法治国家を、完成させようとしていた様にも見えるわけです。

嫪毐の乱が鎮圧された時に、秦王政は昌平君や昌文君に爵位を与え戦いに参加した者には、全て爵位1級を与えた話しもあります。

さらに、呂不韋が失脚した事で秦の政治のトップには昌平君や昌文君がいたはずです。

しかし、秦王政は法家の李斯を高位に就けたいと考えていた様にも感じます。

ただし、いきなり昌文君や昌平君を外す様な事はしなかったのでしょう。

 

昌平君の出奔

史記によれば紀元前226年に昌平君が郢に移された記述があります。

睡虎地秦簡では、昌平君は鄭にいた様な記録もあり注目されています。

紀元前226年は韓の元の首都である新鄭で大規模な反乱が起きた年でもあります。

既に韓は紀元前230年ににより新鄭が陥落し滅びています。

そのため、新鄭の反乱は韓の元貴族たちによる、大規模な反乱だとも考えられているわけです。

この時に、昌平君は新鄭に近い場所におり韓の元貴族たちの反乱を鎮圧したのは昌平君だった可能性もあるでしょう。

昌平君が新鄭で力を持つ事を恐れた秦王政は、昌平君を引き離す為に郢に移したとする説もあります。

ただし、昌平君の郢に移った事に関しては、紀元前278年に白起によって陥落させられ楚の首都になっていた郢の説と、陳は楚の首都になった時に「郢」に改名した記録があり、陳だったとする説もあります。

この辺りははっきりとしない状態です。

昌平君が郢に移った頃には、昌文君も咸陽から外に出ており本格的な李斯の台頭が始まった様にも感じます。

 

昌文君が楚王に擁立される!?

一つの説なのですが、昌文君が楚王に擁立されそうになった話があります。

睡虎地秦簡には、昌文君の死の記録があります。

興、攻荊、□□守陽□死。四月、昌文君死。

荊は楚であり、□の部分は何が書いてあったのか分からない部分です。

これだけだと荊攻だけだと楚を攻めただけに思うかも知れませんが、韓や趙、魏を滅ぼした年も睡虎地秦簡では「攻韓」「攻趙」「攻梁魏」と記載があります。

攻荊は楚を攻めて滅ぼした事を指すのでしょう。

その年に、何かしらの人物が亡くなり、さらに昌文君も亡くなった様に思います。

先に述べた様に、昌文君が亡くなった年は、王翦や蒙武が楚の項燕を破り楚の首都を陥落させ負芻(ふすう)を捕虜にした年でもあります。

負芻が捕らえられた時に、楚王は不在でしたが、項燕はまだ生きており昌平君を楚王に擁立した話があるわけです。

昌平君は楚王に擁立されるわけですが、昌文君も楚に関係が深い人物と考えられており楚王に擁立する動きがあったのではないか?とも考えられています。

何かしらの偶然が重なれば、昌文君が楚王になった可能性もあるのかも知れません。

 

昌文君の最後

昌文君の最後ですが、楚王に擁立されそうになったが秦の首脳部に察知され処刑された可能性もある様に思います。

他にも、楚王に擁立されそうになったが、擁立される前に病死か何かで亡くなった事も考えられるはずです。

もしくは、祖国である楚の滅亡を見て殉じた可能性もあるでしょう。

昌文君の死は、睡虎地秦簡に楚が亡くなった記録の年に書かれているだけであり、分からない部分も多いと言えます。

尚、昌文君が亡くなった翌年の睡虎地秦簡の記述は次の様になっています。

□□□王□□□

これでは、さっぱりと意味が分かりません。

しかし、楚が滅亡した後に、項燕が昌平君を擁立した記述が始皇本紀にあるので、昌平君が楚王になった記述の可能性もあります。

深堀して考えれば、昌平君は楚王になっても良いと考えたが昌文君が昌平君を止めた事で、昌平君は楚王になるのを渋っていたが、昌文君が亡くなった事で止める者がいなくなり、昌平君は項燕に擁立され楚王になったのかも知れません。

尚、睡虎地秦簡の「興、攻荊、□□守陽□死。四月、昌文君死。」の最初の文字である「興」は平興の事であり昌文君は、平興で亡くなったのではないか?とも考えられています。

平興の位置は河南の斉に近い場所であり、秦の首都から遠く離れた場所で昌文君は亡くなった可能性もあるでしょう。

尚、睡虎地秦簡の著者である「喜」という人物は安陵であり郢の地に近く、昌平君や昌文君と交流があったのではないか?とする説もあります。

睡虎地秦簡は「喜」の所有物であり、昌文君の死に関する記述は、かなり正しいとするべきだと思いました。

昌文君が亡くなったのは、楚が滅亡した年だと考えています。

ただし、昌文君の死は余りにも簡略すぎて謎が多いと言えるでしょう。

 

 

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