秦末期・楚漢戦争

蕭何は兵站の達人にして名宰相

2021年9月20日

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宮下悠史

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蕭何は古代中国において、最高の宰相とも呼ばれる人物です。

主君である劉邦は何度も項羽に敗れますが、蕭何は兵站を繋げ劉邦を支えました。

蕭何は槍働きは殆どなく、派手な策略を考えるわけでもない事から、地味な存在ではあります。

しかし、蕭何がいなければ劉邦は天下が取れなかったと言える程の逸材であり、優れた人物です。

「素人は戦略を語り、プロは兵站を語る。」という言葉がありますが、それを考慮すれば蕭何は劉邦配下で最大の功臣と言えるでしょう。

今回は楚漢戦争の劉封勝利の最大の立役者とも言える蕭何を解説します。

蕭何と劉邦

蕭何は劉邦と同じ沛の出身です。

蕭何と劉邦がどの様な関係だったのか解説します。

主吏となる

史記の蕭相国世家によれば、蕭何は沛の豊の人だとあります。

蕭何は法を公平に使う扱う事が出来、の沛県の主吏になったわけです。

これを見ると、蕭何が法律に詳しい事が分かり、法律の勉強などは真面目に行っていたのでしょう。

劉邦が農業を嫌がり、真面目に仕事をしようとしなかったのに対し、蕭何は役人となり真面目に仕事をしていた事が伺えます。

劉邦を庇う

劉邦は素行が良くなかった人であり、酒と女ばかりの生活をしていたわけです。

劉邦は刹那的な生活を送っており、遊侠の徒でもあり、多くの人々と交わった話があります。

劉邦には不思議な魅力が備わっており、人を惹きつける魅力を兼ね備えていました。

劉邦はトラブルを幾度となく起こしますが、蕭何が法律上の問題ではフォローしていた話もあります。

劉邦は30歳を過ぎた頃に、亭長となり役人となりますが、ここでも蕭何は劉邦を庇っていました。

蕭何は自分とは全く違うタイプである、劉邦に対して魅力を感じていた部分があるのかも知れません。

ただし、この頃の蕭何は劉邦が天下を治める人物として思ってもいなかった様に感じています。

法律上で助けてはいますが、劉邦に対する絶対的な評価は無かった様に思います。

尚、劉邦の役所での勤務態度は悪く、蕭何とは雲泥の差だったはずです。

劉邦が呂雉を娶る

沛県に有力者の呂公が来る事になります。

この時に、蕭何は役人として呂公を迎える為の、受付をしていました。

沛件の多くの有力者や役人が、呂公に挨拶に来たわけです。

余りにも多くの人が呂公に挨拶に来た事で、蕭何は次の様にしました。

蕭何「貢物が千銭に満たぬ者は、末席に座って頂く。」

この時に、お金を全く持っていない劉邦が呂公を見に訪れます。

蕭何にとってみれば、劉邦は厄介な相手だったはずです。

劉邦はお金を持っていにも関わらず「祝儀一万銭」と書きます。

この時に、呂公は劉邦を自ら玄関まで迎えに行きますが、蕭何は次の様に述べています。

蕭何「劉邦は大ぼら吹きです。本当の事を言った事がありません。」

蕭何としてみれば、劉邦の事を認めながらも、こういう場には向かないし、現れて欲しくないと考えていた事でしょう。

しかし、呂公は劉邦が気に入り、自分の娘である呂雉を劉邦に嫁がせたわけです。

これには蕭何も驚いた事でしょう。

この頃から、蕭何が劉邦に対する見方が大きく変わった様にも思います。

尚、呂雉が後の呂后であり、蕭何と呂后も古くからの付き合いとなるのでしょう。

劉邦に五百銭を贈る

劉邦は亭長をしていましたが、秦の首都咸陽に数百人の労役者を送る任務を任されます。

役人たちは、劉邦に対して餞別として三百銭を差し出します。

当時は咸陽に労働者を連れて行く場合は、餞別のお金を支払うのがしきたりとなっていたのでしょう。

他の役人たちが劉邦に三百銭渡したのに対し、蕭何は一人だけ五百銭を劉邦に与えました。

一人だけ五百銭送ったのは、劉邦が大出世を果たして皇帝になると考えたわけではなく、劉邦への好意から五百銭を贈ったのでしょう。

後述しますが、劉邦は蕭何が一人だけ五百銭くれた事を後年まで憶えており、何倍にもして返す事になります。

劉邦は咸陽に向かいますが、脱走者が次々に出てしまい、劉邦は任務に失敗した事を悟り、劉邦も逃亡しました。

劉邦は遊侠の徒らの顔役的な存在でもあり、張耳に受け入れて貰ったりして、生活していたのでしょう。

出世を拒否

秦の郡を監督する御史が、蕭何と一緒に仕事をする事があったわけです。

この時に、蕭何はてきぱきと仕事をこなし、高い事務処理能力を発揮します。

さらに、泗水郡の事務を行った時も、一番優秀であり評価されました。

秦の御史は蕭何の能力を高く評価し、蕭何を秦の朝廷に推薦しようとします。

しかし、蕭何は推薦を固辞し続け、遂に都に行く事はありませんでした。

蕭何が中央に行かなかった理由に関しては、天下が乱れると判断したよりも、秦の朝廷に入る事は危険だと感じたからなのかも知れません。

朝廷に入ってしまうと、権力闘争に巻き込まれ非業の死を遂げた者も多くいた事を知っていたのでしょう。

劉邦を県令に立てる

蕭何と曹参は、劉邦を県令に立てる事になります。

これにより劉邦は沛での責任者となったわけです。

劉邦を迎え入れる

秦では始皇帝が崩御すると、天下が荒れる事になります。

史記によれば宦官趙高が暗躍し、胡亥を二世皇帝に即位させます。

天下は乱れ陳勝呉広の乱が勃発しました。

陳勝と呉広が引き起こした反乱は、瞬く間に拡がり中華全土が戦乱に巻き込まれて行きます。

こうした中で、沛県の県令は自分も反乱軍に加わろうと考えますが、蕭何と曹参は次の様に述べています。

「あなたは秦から派遣された役人です。秦に反旗を翻すと宣言しても、沛の若者たちは従いません。

沛の出身者に劉邦がいますが、劉邦を慕っている者であれば数百名はいるはずです。

県外に隠れている劉邦を呼び出して重用し、沛の若者たちを統率させればよいでしょう。」

蕭何と曹参は、県外に隠れ住んでいた劉邦を呼び戻す様に、県令に進言したわけです。

沛の県令は蕭何と曹参の言葉を最もだと考え、樊噲に劉邦を迎えに行かせます。

しかし、県令は「劉邦を迎えた後に、反乱を起こされるのではないか?」と不安になり、劉邦の受け入れを拒否し、蕭何と曹参を殺害しようとします。

蕭何と曹参は県令の気が変わった事を察知し、城門の外にいる劉邦に合流しました。

劉邦、蕭何、曹参らは手紙を沛の城門の中に投げ入れ、住民を説得し、住民は県令を殺害し、劉邦らを迎え入れたわけです。

劉邦を説得

沛の人々の中で、劉邦に県令になって貰いたいとする声が上がります。

劉邦は蕭何や曹参よりも下の下級役人であった事から、「自分よりも相応しい人物がいるはず。」と述べ断ります。

しかし、蕭何や曹参が揃って「劉邦が県令になるのが相応しい。」と述べた事で劉邦が県令となったわけです。

この時から、蕭何にとって劉邦は生涯の主君となります。

尚、蕭何や曹参が劉邦を沛の県令にした理由は、挙兵して失敗しても首謀者でなければ、助かるからと考えたとする話があります。

蕭何や曹参にとってみれば、反秦で挙兵し失敗した時の事を考えると、リスクが大きすぎると判断したのでしょう。

因みに、反乱軍の長にならない事は、陳嬰も母に諭されて、首謀者になる事をしなかった話があります。

トップにいる事は全責任を取らされる事もあり、危険な存在でもあったのでしょう。

蕭何・唯一の軍功

劉邦は挙兵すると樊噲、曹参、夏侯嬰、周勃らと共に軍を動かす事になります。

劉邦軍の中には、蕭何もいたわけです。

蕭何と言えば「内政の人」という雰囲気が強く、従軍していなかった様に思うかも知れませんが、実際には劉邦軍の中にいました。

史記の樊酈滕灌列伝には、次の記述があります。

「夏侯嬰は蕭何と共に、泗水の郡監である平(人名)を降した。」

これを見ると、蕭何が夏侯嬰と共に軍功を挙げた事になるでしょう。

しかし、蕭何の得意分野はあくまで文書作成などの事務処理であり、大した軍功も無かったはずです。

秦の滅亡

劉邦は秦の首都咸陽を降しますが、蕭何の軍功は少なかったわけです。

しかし、蕭何は咸陽で、秦の行政文書を手に入れる事になります。

咸陽に一番乗り

劉邦は項梁に従い項羽と共に奮闘しますが、項梁は章邯に打たれ戦死しました。

項梁が立てた楚の懐王は、軍を二つに分けて秦の首都・咸陽を目指すべく命令を出します。

この時に懐王は「最初に関中に入った者を関中の王にする。」と述べ諸将ら発奮させます。

項羽が趙の鉅鹿を救援に行ったりしている間に、劉邦は関中の地を落とし、秦王子嬰を降伏させています。

劉邦が咸陽に一番乗りし、関中の地を抑えたわけです。

蕭何は特に軍功もないまま咸陽に辿り着く事になったと思われます。

しかし、蕭何は軍にいても裏方の仕事をしていたはずであり、劉邦は蕭何の能力を高く評価しています。

秦の行政文書を手に入れる

劉邦が咸陽に入ると、咸陽の後宮には美女が溢れており、金銀財宝も多くあったわけです。

劉邦の諸将は金銀財宝を分けようと、皆で争って倉庫に向かいます。

そうした中で、蕭何はただ一人宮中に向かい、秦の丞相・御史の律令や図書を手に入れ保存しました。

後に項羽が咸陽に入ると、の宮殿や市街を焼き払ってしまいますが、蕭何が重要文書を保存したお陰で、焼かれずに済む事になります。

蕭何は秦の行政文書を手に入れた事で、天下の要塞、人口、地域の強弱、人民の暮らしなどを知る事が出来たわけです。

蕭何のファインプレーにより、劉邦は天下を取れたと考える識者もいます。

尚、蕭何が秦の法律の書類などを確保した理由は、劉邦が関中王になった時に、備えて保管したとする説もあります。

蕭何としては劉邦が関中王になった時に、行政をスムーズに行わせる狙いもあったのでしょう。

後述しますが、蕭何は後に九章律なる法典を定めた話があります。

九章律は蕭何が保存した秦の法律を元に作成されたとする説があります。

法は三章のみ

劉邦は咸陽に入った時に、「法は三章のみ」と宣言しています。

つまり、「殺人は死刑」「人を傷つけた者や盗みを働いた者は処罰する。」と宣言しました。

秦の民衆は秦の孝公の時代に商鞅が制定して以来の過酷な法治主義に悩まされており、劉邦の人気取り政策の一つだったはずです。

しかし、3つの法律だけで世の中が収まるはずもなく、国家を運営していく事も出来なかったと考えられます。

実際には蕭何あたりが、秦の法律を元に行政や裁判を行わせていたのではないか?とも考えられています。

劉邦を諫める

項羽が函谷関を破り関中に入って来ると、劉邦は適わないと見て、項羽と会見を開きます。

これが鴻門之会であり、項羽の参謀の范増が劉邦の命を狙うなどもありました。

しかし、張良や樊噲の活躍により難を逃れています。

項羽が咸陽を占拠すると、劉邦は関中王ではなく、漢中王に封じられる事になりました。

楚の懐王の「関中に最初に入った者を関中の王とする。」とした約束があった為に、劉邦は僻地の漢中に封じられた事に憤慨します。

漢中は罪人の流刑地でもあり、関中とは比べ物にならない地域だったからです。

資治通鑑によると、樊噲、周勃、灌嬰らは、劉邦に項羽を討つ様に進言しています。

劉邦も項羽の処置に激怒していた事で、項羽を討とうとしますが、蕭何は次の様に述べています。

蕭何「漢中に左遷された事は良い事ではありませんが、死ぬよりはマシです。」

劉邦が「なぜ死ぬのか?」と問うと蕭何は次の様に答えています。

蕭何「今の漢王の実力では100回戦っても項羽には勝てません。

殷の湯王や周の武王は一人に屈し、万乗の民の上に伸びて行く事が出来ました。

私は大王(劉邦)が漢中王となり賢人を招き、巴蜀の財を集め三秦を平定する事を願います。」

蕭何は今の劉邦では項羽に勝つ事は出来ず、漢中をしっかりと治める事を進言した事になります。

蕭何は漢中で賢者を養い地盤を固めた上で、三秦の王となった章邯、司馬欣、董翳を討てと献策したのでしょう。

劉邦は蕭何の考えに従い、漢中に向かいました。

劉邦は蕭何を宰相(丞相)に任じています。

ここからが、蕭何の本領が発揮される事になります。

韓信が大将軍となる

蕭何の功績を見ると、韓信を推挙した事が挙げられます。

蕭何が韓信を推挙しなかったら、劉邦は天下を取る事が出来なかった可能性すらもあるはずです。

韓信を認める

蕭何は劉邦と共に漢中に向かいますが、多くの者が逃亡してしまいます。

劉邦の配下の者は関東の者が多く、故郷に帰りたい思いもあったのでしょう。

劉邦は漢中に到着しますが、それでも逃亡兵は減らなかった様です。

こうした状況の中で、罪を犯した者が数名出ており、その中に韓信がいました。

夏侯嬰は韓信を見ると、優れた人材だと感じ、処刑を取りやめています。

夏侯嬰は劉邦に韓信を推挙すると、劉邦は韓信を治栗都尉にして、兵糧の管理を任せる事にしました。

この時に、韓信は蕭何の部下となったわけです。

蕭何は韓信と話してみて驚き、多いに実力を評価する事になります。

韓信を連れ戻す

蕭何は韓信に絶大なる評価をし、劉邦に重用する様に推挙しました。

しかし、劉邦は韓信の実力を低く見ており、重用する事が無かったわけです。

韓信は蕭何が何度も推挙しながらも、劉邦が用いない事を感じ取り、逃亡してしまいます。

韓信が逃亡したと知ると、蕭何は誰にも告げず、急いで韓信を追いました。

劉邦は蕭何がいなくなった事を知ると、激怒しますが、「左右の手が無くなった様だ。」と落胆しています。

しかし、蕭何は逃げたわけではなく、戻ってきたわけです。

韓信を推挙

蕭何が戻ってくると、劉邦は内心は喜びますが、態度は怒った話があります。

劉邦が蕭何に逃げた理由を問うと、蕭何は逃げたわけではなく、逃げた者を追いかけたと述べます。

劉邦が誰を追いかけたのか聞くと、蕭何は韓信だと言います。

劉邦は怒り次の様に述べています。

劉邦「多くの諸将が逃亡したのに、お前は誰も追わなかった。

韓信を追ったと言うのは、偽りであろう。」

これに対して、蕭何は次の様に答えています。

蕭何「諸将を得るのは容易ですが、韓信は比類なき国士無双の人材です。

漢王(劉邦)が今の地位で満足であれば、韓信は必要ありませんが、天下を争うなら必ず必要な人物です。」

劉邦は蕭何の熱意を感じ取り、韓信を将軍の一人に取り立てようとします。

しかし、蕭何は将軍では韓信は去ってしまうと述べ、劉邦は韓信を大将軍にすると宣言しました。

韓信を大将軍に任命

劉邦は韓信を大将軍にする事を決定しますが、蕭何は次の様に述べています。

蕭何「漢王(劉邦)は、傲慢であり礼をわきまえておられません。

韓信を大将軍に任命するのに、子供を呼ぶような態度であれば、韓信は去ってしまうでしょう。

韓信を大将軍に任命するのであれば、吉日を選んで斎戒し壇上を設け、十分な礼を行い実行するべきです。」

劉邦は蕭何の言葉を応諾し、十分な礼を以って韓信を大将軍に任命しました。

この時に、韓信は劉邦に策を述べ、劉邦を喜ばせています。

韓信は蕭何がいなかったら、歴史に埋もれていた可能性が高い様に思います。

尚、蕭何は劉邦に「傲慢で礼をわきまえていない。」とずけずけと言ったわけです。

蕭何も劉邦なら言っても大丈夫だと感じて発言をしたように思いますし、劉邦と蕭何の距離の近さが分かる逸話でもあると感じています。

関中を鎮撫する

劉邦は三秦の地を取ると、蕭何を関中に配置し兵站を切らさない為の後方支援を任せています。

さらに、蕭何に法整備を任せ関中の地を治めされる事にしました。

後方支援

項羽が斉の田栄を討伐に向かうと、劉邦は項羽に反旗を翻し三秦を平定します。

これにより劉邦は関中の地を手中に収めますが、劉邦は関中に蕭何を配置しました。

蕭何の役目は外で戦っている劉邦ら漢軍に軍糧を送り続け、兵站を途切れさせない事です。

蕭何の役目は兵站を切らせない為の後方支援だったわけですが、これが最も蕭何の得意な分野だった事でしょう。

因みに、劉邦は何度も項羽に敗れて窮地に陥りますが、蕭何は兵卒を徴収し劉邦を支援するなど、見事な後方支援を行った話があります。

必ず報告

劉邦は関中の地に太子である劉盈を配置し、蕭何に補佐させています。

蕭何は法律を定め宗廟、社稷、宮殿を建てた話があります。

他にも戸口を調査したり、関中の郡邑を調査したわけです。

この時に、蕭何は小さな事を実行する時にも、劉邦の指示を仰いだ話があります。

ただし、緊急を要する時のみ、劉邦の許可なく蕭何の独断で事に当たっていました。

劉邦が漢中に戻った時は、全ての報告をしたとあります。

蕭何は劉邦に気を遣い独断で動く事がない様にしたのでしょう。

劉邦としてみれば、蕭何は必ず報告してくれる事で、安心できる部分もあったはずです。

一族を悉く兵役に出す

蕭何は関中の地をよく治めますが、鮑生なる人物が、蕭何に次の様に進言します。

鮑生「漢王(劉邦)が戦場にあって、衣服や車蓋を風雨に晒しながらも、何度も使いを送ってきます。

漢王は丞相(蕭何)を慰労する名目としていますが、実質は丞相を疑っておられるのです。

丞相の為を思って献策するのであれば、一族で兵役に堪えられる者がいれば全て、劉邦様の軍門に送り出すに越した事はありません。

これを実行すれば主上(劉邦)は、丞相に絶大なる信任をえるはずです。」

蕭何は鮑生の言う通りにすると、劉邦は大いに喜んだとされています。

劉邦は皇帝になった後に、猜疑心の塊になったように思うかも知れませんが、楚漢戦争の最中に既に、その兆しがあったようです。

最大の功臣となる

劉邦は項羽を破り皇帝に即位し、漢王朝を開きます。

この時に、劉邦は蕭何を功績の第一としました。

楚漢戦争の蕭何の功績

楚漢戦争ですが、垓下の戦いで劉邦が項羽を破り勝負は決しました。

楚漢戦争において、蕭何は一度も戦場に出ていません。

しかし、先に述べた様に蕭何は劉邦への兵站を切らすことなく、劉邦が項羽に敗れても補給し続けたわけです。

項羽が劉邦を追い詰めながらも、何度も彭越に兵站を切られ補給が続けられなかった実情もあります。

それらを考えると、兵站を切らさなかった蕭何の功績は抜群と言えるでしょう。

最初に述べた様に、「素人は戦略を語り、プロは兵站を語る」という言葉がありますが、それを考えれば蕭何の功績が絶大だという事が分かるはずです。

ただし、彭越が項羽の兵站を何度も切っている様に、彭越が項羽に味方していたら、蕭何もかなり苦戦していたのかも知れません。

尚、蕭何が推薦した韓信も楚漢戦争で大活躍し、魏の魏豹を虜にし、趙では陳余を奇策・背水の陣で井陘の戦いを勝利し、趙歇を捕えています。

さらに、韓信は蒯通の進言を入れ斉を急襲し、援軍に来た楚の龍且率いる20万の軍を大破しました。

蕭何が推挙した韓信抜きで、劉邦は項羽に勝つ事は出来なかった事でしょう。

春秋時代に斉の桓公の配下に名宰相の管仲がいましたが、世間の人は管仲の賢明さよりも、鮑叔が管仲を推挙した人を見る目を賞賛したとあります。

管仲と鮑叔の例で考えれば、韓信よりの蕭何の方が賞賛に値すると言えるのかも知れません。

尚、韓信は斉王となり楚王に移封されるなど「王」となっており、蕭何よりも出世したわけです。

しかし、蕭何は韓信を妬む様な事はしませんでした。

この辺りも蕭何の人柄が出ている様に思います。

因みに、劉邦は楚漢戦争において、張良の戦略、韓信の軍略、蕭何の内政があったから、項羽に勝てたと述べています。

蕭何も張良、韓信と並び漢の三傑として高い評価を得ています。

楚漢戦争最大の功臣

楚漢戦争の終結後に、劉邦は論功行賞を行います。

しかし、群臣らは功績を争い1年以上経っても、決着が付きませんでした。

こうした中で、劉邦は蕭何を功績ます。

これに対して、臣下の多くが不満であり、次の様に述べています。

「私達は甲冑を身にまとい武器を手に取り、多い者は百の戦場を経験し、少ない者でも10の戦いには参加しています。

我等には武功があり、城を攻撃し、その地を占領しました。

しかし、蕭何は馬に汗して戦った事もなく、文墨を手にして議論を行い戦いに参加したわけではありません。

その蕭何の功労がなぜ、私達よりも上にあるのか教えて貰いたい。」

劉邦は群臣の話を聞くと「猟犬を知っているか?」と群臣に聞くと、群臣らは「知っている」と述べます。

劉邦は次の様に述べます。

劉邦「狩猟で獣や兎を狩りたてて殺すのは猟犬の役目である。

それに対し、人の役目は網を放して、獣の居場所を支持する事である。

君たちの功労は走り回り、獲物を捕らえるだけの猟犬の功績に過ぎない。

蕭何は網を放ち、目標を指し示すものであり、これは人間の功労である。

さらに、君たちは身一つで儂に従い、多くても一族の2,3人を戦場に派遣したに過ぎない。

しかし、蕭何は一族数十人を戦場に出し、儂に付き従ってくれた。

蕭何の功績を忘れてはならないと思う。」

劉邦の発言に群臣は誰も異論を述べる事が出来ず、蕭何が最大の功臣となったわけです。

劉邦としても多少の疑う心はありながらも、蕭何を最も信頼しており、蕭何を功臣の第一にしたかったのでしょう。

第一位の位階

蕭何を筆頭の功臣とし、論功行賞は進み功臣は列侯となったわけです。

位階を決める段階になると、群臣らは次の様に発言します。

「平陽侯の曹参は身に70カ所も傷を受けながらも、城を攻め地を取り功績は最大と言ってもよいはずです。

曹参を第一位とすべきです。」

劉邦は封地においては、蕭何を最大のものとしましたが、位階においては、臣下たちに反駁出来ませんでした。

しかし、劉邦は蕭何を位階の第一位にしたいと心の中で思っていたわけです。

関内侯の鄂君が、劉邦の心を察してか、次の様に述べています。

鄂君「群臣達の議論は間違っております。曹参には野戦・攻城戦と功績はありますが、一時の功績でしかありません。

劉邦様は五年に渡り楚と戦い、常に軍や兵士を失い、僅かな人数で遁走した事が何度もあったはずです。

そのたびに、蕭何は関中より兵士や物資を送り補充しています。

劉邦様が詔令を出したわけでもないのに、数万の兵が駆けつけ、軍を救った事がしばしばありました。

激戦地の滎陽でも、手持ちの軍糧は切れましたが、蕭何が関中から兵站を繋げ、食料不足を補ったわけです。

劉邦様は何度も関東を喪失しましたが、蕭何は関中を守り切り、劉邦様の帰還を待っておられています。

これは万世の功績であり、曹参を百人失ったとて、漢は困る事もないでしょう。

曹参を百人得たとしても、必ずしも漢は安泰とは限らないのです。

万世の功績を残した蕭何を第一位の位とし、曹参は次にすべきであります。」

劉邦は鄂君の意見に従い、蕭何を位階の第一位とし、剣を佩びて靴を履いたまま殿上に昇る事を許可しました。

さらに、劉邦は朝廷では蕭何が「足早に歩く事は及ばぬ」との沙汰を出しています。

劉邦は鄂君も「賢者を推挙した」との功績で、安平侯としています。

咸陽の夫役の恩返し

劉邦は蕭何の一族数十人にも食邑を与え、さらに蕭何には食邑三千戸を追加しています。

劉邦が蕭何に食邑を追加した理由は、劉邦が過去に沛県の夫役で、秦に労働者を届ける任務がありました。

この時に、多くの者は三百銭を出しましたが、蕭何だけは劉邦に五百銭を贈っています。

劉邦は蕭何だけが多く餞別を送った事を憶えており、食邑を三千戸加増したわけです。

細かい事に思うかも知れませんが、劉邦は蕭何だけが多く餞別を贈った事を憶えていました。

韓信が処刑される

蕭何は過去に韓信を推挙していますが、謀反を企んだ罪で処刑されます。

韓信の暗躍

韓信は劉邦が項羽を破ると、斉王から楚王に移されていました。

しかし、楚の猛将である鍾離眜を匿うなど、劉邦に疑いを抱かせる様な行動をしていたわけです。

劉邦は陳平の策を使い雲夢に遊行し、この時に韓信は鍾離眜の首を持参しましたが、劉邦は韓信を捕えています。

劉邦は韓信に功績が多かった事から、命を奪う事はせずに、淮陰侯に降格させたわけです。

韓信は悶々とした日々を過ごしますが、鉅鹿の太守に任命された陳豨(ちんき)をそそのかし、反乱を起こす計画を練りました。

しかし、韓信の家来が呂后に密告すると、呂后は驚き蕭何に相談したわけです。

蕭何は呂后と共謀し、韓信を討つ計画を立てます。

韓信の死

蕭何は呂后に献策し「陳豨は既に死んだ。」と偽りの情報を流します。

この情報に諸侯や郡臣たちは慶賀し、蕭何は韓信の所に出向き、次の様に述べています。

蕭何「韓信殿は病気だとは聞いておりますが、参内し慶賀してみてはどうであろうか。」

韓信にしてみれば、蕭何は自分を劉邦に推挙してくれた人物であり、信頼していたのでしょう。

韓信は「陳豨が死んだ。」という話しを聞いていた事もあり、蕭何の言葉に従い参内しました。

韓信が参内すると、呂后は韓信を捕縛し、処刑してしまいます。

韓信と蕭何

韓信は処刑される時に、次の様に述べています。

韓信「私は蒯通の策を用いなかった事で、婦女子(呂后)に欺かれてしまった。

これも天命なのであろう。」

ここで注目したいのは、韓信は呂后に欺かれたと述べていますが、蕭何に関しては述べていません。

韓信は蕭何の「参内するべき。」という言葉に従い、参内し捕らえられて処刑されたにも関わらず、蕭何の事には言及していないわけです。

韓信が蕭何に対して「騙された。」や恨みの言葉を述べなかったのは、韓信も蕭何の人間性を知っていたからだと感じます。

蕭何の性格を韓信は知っていましたし、高い評価もしていた事から、韓信は「蕭何は呂后に依頼され仕方なくやった。」と感じた様に思いました。

韓信は全ての元凶は呂后だと考えて、蕭何の事は恨まなかった様に思います。

尚、韓信の最後の言葉で出て来る蒯通は、韓信に天下三分の計を献策し、独立を勧めた策士です。

蕭何と呂后

呂后は韓信が謀反する情報をキャッチすると、蕭何に相談しています。

呂后も韓信の謀反を蕭何に相談する辺りは、呂后も蕭何を信頼していたのでしょう。

さらに言えば、劉邦は皇太子を呂后の子である劉盈から、戚夫人が生んだ劉如意に変えようと考えていました。

しかし、呂后が蕭何に相談する辺りは、蕭何も劉邦の後継者は太子の劉盈であるべきだと考えていたはずです。

尚、呂后は劉邦死後に戚夫人を惨殺し、人豚事件を起こしていますが、蕭何は何を思ったのかは記録がなく分かっていません。

蕭何が相国となる

劉邦は陳豨討伐を行い出陣していましたが、呂后が蕭何の計略を用いて、韓信を討ったと知ります。

劉邦は韓信の死を聞くと、使いを出して蕭何を相国に任命しました。

さらに、蕭何には食邑として五千戸を加封し、兵士五百人と一人の都尉を蕭何の護衛としています。

相国は丞相と職務は同じですが、位は丞相よりも上となり、秦の呂不韋などが就任した役職です。

蕭何も相国になった事で、位人身を極めたと言えるでしょう。

尚、漢王朝は前漢・後漢に渡り400年の歴史がありますが、相国になったのは蕭何、曹参、董卓の三人だけとなります。

召平の諫言

蕭何が相国になると、諸侯や郡臣らは蕭何を慶賀しました。

しかし、召平だけは、次の様に述べ蕭何に注意を促しています。

召平「これから禍が起こります。

主上(劉邦)があなた(蕭何)に護衛を付けたのは、あなたを護る為ではなく、警戒し監視する為です。

あなたは加封を辞退し、私財を悉く投げ出して軍に入れる事が出来れば、劉邦様は満足する事でしょう。」

蕭何は召平の言葉を採用し、加封を辞退し、私財を悉く軍に献上すると、劉邦は喜んだと史記にあります。

蕭何は劉邦には、かなり気を遣っていますし、この様な状態では、蓄財も出来なかった様にも感じます。

しかし、これで劉邦の蕭何への警戒が完全に解けたわけではなかったわけです。

獄に繋がれる

蕭何は劉邦の猜疑心をかわす為に、様々な行いをして劉邦を喜ばせますが、獄に繋がれてしまいます。

黥布討伐

紀元前196年の段階になると、韓信、彭越は劉邦に粛清され、この世にいませんでした。

韓信や彭越ら武断派が処罰されている事を知り、淮南王の黥布(英布)は恐怖心を抱きます。

この時に、黥布配下の賁赫は黥布に罪を着せられ、漢に逃亡し、劉邦に黥布が謀反を企んでいると述べます。

蕭何は黥布をフォローしますが、黥布は劉邦が自分を殺害するつもりだと考え、反旗を翻しました。

劉邦は自ら黥布討伐に乗り出しますが、この時に「相国(蕭何)は何をしているか?」と何度も使者を出して問うた話があります。

関中にいた蕭何は、陣中にいる劉邦に後方支援を行い、劉邦の軍を助けていましたが、それでも劉邦は蕭何を疑ったわけです。

晩年の劉邦は多くの功臣を疑い処刑するなど、暗さを目にする様になっていました。

悪宰相となる

蕭何は懸命に仕事をしていた様ですが、賓客の中で次の様に述べた者がいました。

「蕭何様が一族もろとも滅ぼされるのも、遠い先の事ではございますまい。

蕭何様の位は相国であり、功労は第一位です。

蕭何様は関中に入って以来、10余年も経ちますが、人民を収攬され、民衆は蕭何様に懐いています。

劉邦様が蕭何様の様子を何度も問うのは、民心が蕭何様に傾く事を恐れているからです。

蕭何様は多くの田地を掛けで買い、値切り倒し、支払いを引き延ばし、ご自分の評判を落とした方がよいでしょう。

蕭何様が評判を落としてこそ、劉邦様は安心する事が出来るのです。」

変な話に聞こえるかも知れませんが、蕭何は賓客の進言に従い、悪宰相として自らの評判を落とします。

劉邦は蕭何の評判が落ちた事を聞くと、多いの喜んだとする話があります。

劉邦の猜疑心は強く、蕭何も苦労している事が分かります。

しかし、蕭何も遂に獄に入れられる事になります。

獄に入る

劉邦は自らが負傷しながらも、黥布討伐を成し遂げています。

劉邦は長安に凱旋しようとしますが、途中で人民が劉邦の行列を遮り、次の様に上書しました。

「相国(蕭何)は人民に強いて、田地や邸宅や安く買い、1万金に達する程の利益を得ています。」

劉邦が長安に戻る頃には、蕭何の評判は地に堕ち、人民は上書する程になっていたわけです。

しかし、劉邦にとってみれば、蕭何が評判を落とした事は願ってもない事であり、笑いながら蕭何に対し、次の様に述べています。

劉邦「相国(蕭何)は民から貪って利益を得たであろう。

この上書を読み、民には自ら謝罪せよ。」

蕭何は民の為と申し、劉邦に次の様の述べます。

蕭何「長安の土地は狭うございます。

上林苑(長安の南にある天子の苑)には、不要の空地が多くなり、上林苑の中に民を入れ耕作するのをお許しください。

ただし、その藁は官に収めさせ、禽獣の食料とすべきです。」

劉邦は蕭何の答えに立腹し、次の様に述べます。

劉邦「相国(蕭何)は商人達から多額の賄賂を受け、民の為に儂の苑の土地を請うている。」

劉邦は廷尉に命じ、蕭何に手かせ、足枷を付けて獄に繋いだわけです。

しかし、蕭何に対し、救いの手を出した人物がいました。

蕭何の出獄

蕭何が獄に繋がれてから、数日が過ぎると劉邦の前に出て、次の様に述べています。

王衛尉「相国(蕭何)に如何なる罪があり、獄に繋がれたのか。」

劉邦は、次の様に答えています。

劉邦「儂はこの様に聞いておる。

『李斯が始皇帝の宰相であった時に、善事があれば主上(始皇帝)の徳とし、悪事があれば自らのせいにした。』

蕭何は商人たちの賄賂を受けて、儂の苑の土地を請い、民に媚びている、それ故に縛って罪を問うたのだ。」

この時に、王衛尉は蕭何は宰相であり、民の為になる事を行うのは当然だと述べます。

さらに、王衛尉は蕭何の輝かしき功績を挙げて、「今になって、蕭何が僅かな金額に目が眩むはずがない。」と言います。

王衛尉は李斯の話など、模範にするべきではないとし劉邦を諫めました。

劉邦は反省し、蕭何を許したわけです。

蕭何が詫びる

蕭何は赦免されると、宮中に行き裸足になって、劉邦に詫びます。

劉邦は蕭何の言葉を受けて、次の言葉を返しています。

劉邦「相国(蕭何)よ。しっかりと休んで欲しい。

相国は民の為に、儂の苑の土地を請うたのに、儂は許さなかった。

儂は桀紂の様な君主にも関わらず、相国は国の賢宰相である。

さればこそ、儂は相国を獄に繋ぎ、人民に儂の過ちを聞かせようとしたのである。」

劉邦は言い訳をしながらも、蕭何に詫びたわけです。

この時に既に蕭何は老齢になっていた話が史記にあり、数日間ではありましたが、老年の蕭何には辛い経験だったのかも知れません。

尚、桀紂というのは、暴君と呼ばれ国を滅ぼした夏の桀王と殷の紂王の事であり、劉邦も身を低くして蕭何に謝ったのでしょう。

劉邦の死

劉邦は紀元前195年に崩御しました。

臨終の時に、呂后が蕭何の後に宰相にすべき人物を問うと、曹参を挙げています。

さらに、後任には王陵や陳平、周勃などの名前を出しています。

劉邦が亡くなると、呂后の子である劉盈が漢の恵帝として即位しました。

しかし、実権は母親である呂后が握るわけですが、蕭何は呂后に信頼されていたはずであり、蕭何は引き続き宰相を続けたのでしょう。

蕭何の最後

蕭何は紀元前193年に、最後を迎えた話があります。

蕭何が病に倒れると、孝恵帝(劉盈)は、蕭何に次の様に問うています。

劉盈「あなたにもしもの事があったら、誰に政務を任せればよいであろうか。」

蕭何は次の様に答えています。

蕭何「私は臣下を知る事は、主君に勝る者はいないと聞いております。」

蕭何は臣下の事は臣下に聞くよりも、主君の方がよく分かっているはずだと述べたわけです。

蕭何の言葉は、劉邦が崩御する時に、蕭何の次に宰相になる人物として、曹参を指名しており、暗に曹参を指名した事になるでしょう。

漢の恵帝も分かっていた様で、曹参の名前を挙げると、蕭何は次の様に答えました。

蕭何「皇帝陛下は適切な宰相を選ぶ事が出来ました。

私は死んでも心残りはありません。」

蕭何の病は回復する事も無く、紀元前193年に亡くなった様です。

史上最高の名宰相として評価される事もある、蕭何の死は穏やかなものだったのでしょう。

尚、蕭何が亡くなると文終侯と諡されています。

諡の中で最高位である「文」が入るのは、流石だと言うべきでしょう。

九章律を制定

蕭何の功績の中で、九章律を制定したとするものがあります。

先にも述べた様に、劉邦がを降伏させ蕭何が秦の宮中に入ると、秦の文書を保管しました。

蕭何は九章律を制定するのに、秦の法律を参考にしたとする話があります。

九章律には盗律、賊律、囚律、捕律、雑律、具律、戸律、興律、厩律らの編から出来ていたとも考えられています。

九章律は正律とも呼ばれますが、現在は多くが散逸してしまった状態です。

尚、史記には蕭何が九章律を制定した記述がない事などを理由に、九章律を制定したのは蕭何ではないとする説もあります。

蕭何の性格

蕭何の性格が分かる事柄に関して、述べてみたいと思います。

恭謹な性格

史記の蕭相国世家によれば、蕭何は恭謹な性格だったと述べられています。

恭謹な性格であったからこそ鮑生、王衛尉らの言葉を聞く事が出来たのでしょう。

蕭何はかなり真面目な性格でもあり、職務もしっかりとこなし、劉邦の信任を得たはずです。

歴史を見ると謙虚な者が必ずしも評価されるわけではありません。

三国志の呂布は真面目で仕事も出来る武将である、高順を冷遇したりもしています。

それに比べると、劉邦は疑いながらも蕭何を信頼しており、蕭何にとっても劉邦は良きの主君だった様に感じます。

蕭何と曹参

蕭何が亡くなった時に、曹参が次の宰相になる事が決まったわけです。

曹参は斉におり、蕭何が亡くなった話を耳にすると、次の様に述べています。

曹参「急いで旅支度を整えて欲しい。儂は都に行き宰相となるのだ。」

暫くすると、都から曹参を召すとする話があります。

これにより、曹参は蕭何の後継者となり、漢の相国となりました。

蕭何と曹参は沛の小役人だった頃は、仲が良かったのですが、それぞれが天下の宰相となるや険悪な仲になった話があります。

出世するに従い、派閥が形成されたのか蕭何と曹参は不和となったわけです。

蕭何の次に曹参が宰相になるのは既定路線でした。

しかし、蕭何が臨終の時に「曹参を後継者にしてはなりませぬ。」と言えば、曹参は相国になれなかった可能性もあるでしょう。

曹参は不和になりながらも、蕭何の性格を理解しており、「自分が相国になるのを妨害する事はないだろう。」と思っていたはずです。

曹参の行動を見るに、不和になりながらも蕭何に対する信頼感が垣間見れる様に感じます。

それを考えれば、蕭何は人から信頼される性格だった事は間違いなさそうです。

尚、曹参は相国にはなりましたが、政務をまともに行おうとせず、次の様に述べています。

「高帝(劉邦)と蕭何によって天下は定められている。

我らは高帝と蕭何の法律を守り失政がない様にすればよい。」

曹参の時代は、呂后による粛清の時代でもあり、曹参は何もしなかったとも考えられますが、上記の言葉は蕭何に対する信頼の高さでもある様に感じます。

蕭何が疑われた理由

蕭何と劉邦を見ていると、劉邦は蕭何をかなり疑っている様に見えます。

漢の功臣と言えば、張良、陳平なども挙げる事が出来ますが、張良や陳平が劉邦から疑われた話は殆ど聞きません。

張良の性格を考えれば、戦国時代に滅ぼされた韓の為に、始皇帝を暗殺するなど、蕭何に比べれば遥かに苛烈です。

しかし、張良は劉邦から三万戸の土地に封じると言われても、劉邦と出会った「留」で十分だと述べています。

蕭何は漢の配下の中では、最大勢力であり、小勢力で対して財力を持たなかった張良は疑いの対象にならなかったのでしょう。

張良自身も仙人になる為の、修業を始めた話しもあり、俗世とはかけ離れた生活を送っており、俗世の生活を送っていた蕭何とは対照的です。

それらを考慮すれば、蕭何に比べて張良には猜疑心を向ける必要が無かった様に思います。

陳平は劉邦に数多くの戦いで従軍した記録があり、いつも傍にいた事から、疑われなかったのでしょう。

逆に蕭何は恭謹な性格ではありましたが、いつも劉邦の本拠地での留守番役であり、疑いの対象になってしまった様に思います。

劉邦は項羽を破って天下統一後も匈奴冒頓単于と戦ったり、陳豨、黥布討伐など休む間もなく戦い続けています。

黥布討伐で負傷し、体調が悪くなっても盧綰討伐に樊噲や周勃を向かわせるなど、戦いの連続です。

劉邦は前漢の首都である長安にいる事も少なく、常に長安にいる蕭何に対し不安に思う部分も多かったのでしょう。

劉邦は蕭何の人間性を疑ったと言うよりも、蕭何が傍にいない事が多かった為に疑ったと見るべきだと思います。

痩せた土地

蕭何は田地や宅地を買う時は、必ず痩せた土地を選んだ話があります。

蕭何は家を建てても、土塀や屋根を飾らなかったとあります。

蕭何は倹約家でもあったようですが、次の様に述べています。

「儂の子孫が賢明であれば、儂の倹約を見習うであろう。

賢明でなかったとしても、痩せた土地であれば、権力を握った者に奪われる事もない。」

蕭何は長い目でみれば、痩せた土地を領有した方が、子孫に為になると考えたのでしょう。

尚、似た様な逸話が春秋時代に楚の荘王の元で宰相となった孫叔敖にもあります。

孫叔敖も楚の荘王を春秋五覇の一人に押し上げた名宰相であり、蕭何と似た様な考えを持っていた事が分かります。

他にも、蜀の丞相となった諸葛亮も痩せた土地しか持っていなかった話もあり、天下の名宰相と呼ばれる人物は、派手な生活を好まないのは一つのパターンでしょう。

ただし、斉の桓公の元で宰相となった管仲は、政治で結果は残しましたが、派手な生活を好んだとされています。

名宰相と呼ばれる人物の生活ぶりを監察してみると、面白いのかも知れません。

蕭何の子孫

史記によれば、蕭何が亡くなると、後継者の中で罪を以って侯爵の地位を失った者が出たとあります。

蕭何の直径は四世で絶えたとも伝わっています。

しかし、天子(皇帝)は蕭何の子孫が絶えるたびに、蕭何の子孫を探し出し、酇侯に封じたとあります。

漢王朝では蕭何の功績を高く評価しており、蕭何の子孫を雑に扱うわけにも行かなかったのでしょう。

さらに言えば、蕭何が痩せた地に邸宅などを建てていたのも良かったのかも知れません。

王莽の新の時代になると、王莽は蕭何の子孫の蕭禹を酇郷侯に封じた話があります。

しかし、王莽が赤眉の乱や社会混乱により滅亡すると、蕭何の子孫も断絶しました。

光武帝が天下統一し、光武帝死後の明帝、章帝の時代に蕭何は功臣として祀られた話があります。

和帝の時代になると、蕭何の子孫を探し出し領地を与えています。

劉邦の元で同じく功臣であり丞相にまでなった陳平の子孫が、比較的早い段階で断絶し、復興されなかったのとは対照的です。

因みに、三国志の時代や西晋を得て南北朝時代となりますが、南朝・斉の蕭道成や梁の蕭衍は蕭何の子孫だとされています。

蕭衍は宇宙大将軍を名乗る事になる、侯景に殺害された人物でもあります。。

蕭何の子孫は天下統一は出来ませんでしたが、皇帝にまで昇ったとも言えそうです。

蕭何の評価

蕭何ですが、人間的にも安心できますし、最高の宰相と言ってもよいでしょう。

史記を書いた司馬遷も韓信や黥布が滅んだのと比較し、蕭何の功績は光輝いていると評価しています。

さらに、司馬遷は周の文王の臣下であり、周の武王の元でも活躍した散宜生や閎夭と功業を争う人物と述べています。

正史三国志で陳寿が諸葛亮が蕭何や管仲に匹敵する名宰相だとも記述があります。

それを考えれば、蕭何は管仲や諸葛亮に匹敵する名宰相だと言えるでしょう。

尚、諸葛亮と言えば張良に近い人物と思うかも知れませんが、実際には蕭何に違い人物だと考えられています。

尚、斉の桓公は管仲の言う事であれば何でも聞きましたし、蜀の劉禅も諸葛亮の意見は全て聞いた話があります。

それを考えると、蕭何の主君である劉邦は斉の桓公や劉禅に比べると、猜疑心が強く扱いにくい君主だと言えそうです。

余談ですが、蕭何は内政を行う地味な存在であり、小説などの主人公にはなりにくい傾向にある様です。

短編小説ですが、宮城谷昌光さんの楚漢名臣列伝に、蕭何を主人公にした物語が掲載されています。

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宮下悠史

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