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構成・文/宮下悠史

春秋戦国時代

商鞅の史実・法家の改革者の悲劇

2021年5月4日

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商鞅は法家の第一人者とも呼べる人物です。

商鞅は秦の孝公に仕えると、秦を法治国家に変貌させ戦国七雄の、最強国に押し上げる事になります。

ただし、改革者の商鞅は国を強くする為に、秦の太子(後の秦の恵王)や、貴族らの反発を押しのけて断行した為に、多くの恨みを買っていました。

最終的に商鞅は悲劇的な最後を迎えますが、どの様な人物だったのか解説します。

法家と言えば、商鞅の他にも韓非子李斯を思い浮かべる人も多いと思いますが、商鞅だけではなく韓非子や李斯も悲劇的な亡くなり方をしています。

尚、商鞅の改革により秦は強国となり、秦の統一戦争では強大な国力を背景に他国を圧倒して行く事になったわけです。

商鞅の法家の思想は、始皇帝にまで繋がると言えるでしょう。

商鞅は「衛鞅」「姫鞅」「公孫鞅」などの呼び方もありますが、ここでは皆が呼び慣れた商鞅の名前で統一する事にします。

商鞅の名前の由来は、秦で功績を立てた時に「商・於」に封じられた事で、商鞅と呼ばれた事になっています。

今回は史実の商鞅が、どの様な人物なのかを解説します。

 

衛の国の公子

司馬遷が書いた史記の商君列伝を見ると、商鞅は衛の国の公子だった事が書かれています。

衛は周の武王の弟である衛康叔が開祖となっている国であり、名門中の名門です。

周の武王が殷の紂王を牧野の戦いで破った後に、出来た国なのですが、西周王朝の時代であれば、それなりに強国だった話があります。

周の東遷の時は、名君である衛の武公が現れ活躍した記録があるわけです。

しかし、衛の武公の時代以降は、弱体化が進み春秋五覇も衛からは一人も出ていません。

戦国時代になると、自ら公爵から侯爵に降格するなど弱体化に歯止めが利かない状態でした。

こうした中で、衛に商鞅が誕生する事になります。

商鞅は衛では立身出世が出来ないと思ったのか、魏に仕える事になります。

 

公叔座に認められる

商鞅が魏にいた時代は、魏の恵王の治世の前半であり魏の全盛期とも言える時代です。

戦国時代の後期では考えられませんが、魏の恵王は天子気取りだった話もあります。

商鞅は魏の宰相である公叔座の配下となるわけです。

公叔座は商鞅の能力を認め高く評価する事になります。

しかし、公叔座の寿命は終わりが近く、公叔座を魏の恵王に推薦したのは、亡くなる直前でした。

公叔座は魏の恵王に、自分が亡くなったら商鞅を宰相とする様に伝える事にします。

さらに、商鞅を宰相として用いる気がないのであれば、処刑してしまう様に伝えたわけです。

魏の恵王は商鞅の能力は低いと感じており、公叔座がボケてしまったと考えてしまった話が残っています。

公叔座は商鞅を魏の恵王に処刑する様に進言しますが、商鞅の才能を惜しみ逃げる様に伝えます。

商鞅は魏の恵王は、自分を用いる事もしないし、処刑する事もないと見抜いていました。

その後に、公叔座は亡くなりますが、商鞅は魏の恵王から用いられる事も処刑される事もありませんでした。

尚、商鞅は公叔座が亡くなると、秦に移る事になりますが、後に魏の恵王は大いに後悔する事になります。

この時の魏は最強国でしたから、ここで商鞅を宰相に任命していたら、魏の天下統一もあったのかも知れません。

魏の恵王は歴史的な大魚を逃したと言えるでしょう。

因みに、魏は後年に遠交近攻策を説いた、范雎を秦に去らせた事もあり、歴史は繰り返す事になります。

 

秦の孝公に用いられる

商鞅は先に述べた様に、公叔座が亡くなると魏から秦に移る事になります。

秦の孝公が即位

秦は春秋時代に、秦の穆公が現れ名宰相百里渓を登用するなど非常に強力であり、秦の穆公は春秋五覇の一人に数えられる事になります。

しかし、秦では穆公が亡くなった時に、国政の中心にいる177名が殉死するなど、代が変わる事に弱体化し、強国になれなかったわけです。

さらに、戦国時代の初期は、魏の文侯の許には李克、西門豹、呉起、楽羊などの優秀な家臣団がおり非常に強勢でした。

中でも、呉起は西河の地を秦から奪うなどの活躍もあり、秦は魏に圧迫されています。

魏の武侯の時代に、呉起は楚に移りますが、恵王の時代になっても魏はまだまだ強勢だったわけです。

こうした中で、秦の孝公は即位すると「妙計を出し秦を強くした者には、官位を高くし土地を与えよう」と布令を出す事になります。

魏の恵王は天子気取りだったのに対し、秦の孝公は貪欲に秦を強国にしたいと考えていた事になります。

秦の孝公の話を聞いた商鞅は、秦に入り孝公のお気に入りの宦官である、景監にコンタクトを取り面会を求める事になります。

 

商鞅が帝道、王道、覇道を説く

景監の斡旋により商鞅は秦の孝行に面会すると、帝道を説く事になります。

しかし、商鞅の言葉は秦の孝公には刺さらずに、孝公は居眠りを始めてしまう始末でした。

会見が終わると秦の孝公は景監に向かい「お前が推薦した男はたわけ者だ」と文句を言ったわけです。

景監は、秦の孝公の言葉を商鞅に伝えますが、もう一度面会をさせて欲しいと望む事になります。

5日後に再び商鞅は秦の孝公に引見し、今度は王道を説く事になります。

しかし、秦の孝公の心に王道は響かず、秦の孝公は景監を責め、景監も商鞅を責める事になります。

商鞅は景監にもう一度、秦の孝公と面会させて欲しいと言い、景監も渋々受ける事になります。

商鞅は三度目の会見では、秦の孝公に覇道を説く事になります。

商鞅の話を聞いた秦の孝公は、商鞅を認め景監には「お前の客人(商鞅)は優れた人物だ」と述べたわけです。

ここで商鞅は、「秦の孝公の志がある所が分かった。」と述べ、再び会見する事になります。

4度目の会見では、秦の孝公は商鞅の話に身を乗り出して聞き、数日に渡って語り合う事になります。

秦の孝公は商鞅の言葉に満足し絶賛したわけです。

秦の孝公に気に入られた事で、商鞅は秦の国政に入る事になります。

 

商鞅は何を思ったのか

商鞅は秦の孝公に帝道、王道、覇道を説いたわけですが、3つ話をしたのは理由があるとされています。

司馬遷の解釈としては、秦の孝公の興味を引くために、あえて帝道、王道、覇道の順番で話したとされています。

司馬遷の太子公曰くの部分では「商鞅は心にもない事を言った」と述べているわけです。

司馬遷は商鞅の事を冷酷な人間の様に見ている部分もある様に感じました。

ただし、商君列伝の話の中で、秦の孝公が商鞅を用いる事になった後で、商鞅は次の様に述べています。

商鞅「私は秦の孝公に聖王の道を説き、三代の聖王と肩を並べる理想の政治を説いた。

しかし、秦の孝公は「それは遠い未来の夢で私は待てない。賢君は一代で名を成す者であり、数百年先の帝王の道の成就を待つ事は出来ない。」と述べた。

だから、私は強国の道を説き、秦の孝公に多いの喜ばれただけだ。しかしながら、王者の徳に関しては、殷周の聖王の足元にも及ばない。」

商鞅のこの言葉を考えるに、本当は帝道や王道を採用して欲しかったが、用いられる事がない事を知り、覇道を説く事にした様にも感じました。

尚、商鞅が刻薄な人物と言うのは、秦に行った時点では、温かみのある人物であったが、国の実権を任せられているうちに、人柄も変わって言った様に思います。

忠臣であった楚の春申君が、李園により暗殺された時には、老害の様になっていたのと似た様なものなのかも知れません。

補足しますが、商鞅の言葉に出て来る聖王と言うのは、夏の桀王を破って殷王朝を開いた殷の湯王、殷の紂王を破り周王朝を開いた周の武王や父親の文王を指す事になるでしょう。

しかし、秦の孝公が商鞅を用いた事で、戦国時代の君主と臣下での名コンビが結成されたとも言えるでしょう。

尚、春秋戦国時代の君主と臣下での名コンビで言えば、斉の桓公と管仲、呉王闔閭と伍子胥、越王勾践と范蠡、燕の昭王と楽毅、韓の昭侯と申不害などがいますが、彼らにも引けを取らないコンビだと言えるはずです。

 

商鞅の変法

商鞅は秦の孝公の後ろ盾もあり改革を実行する事になります。

尚、商鞅の改革の事を商鞅の変法と呼んだりもします。

隣組制を採用

商鞅は隣組制を作る事にします。

民家を五家、十家に分けて互いに監視させ、罪を犯した場合は連座制としたわけです。

日本の江戸時代における五人組に近い制度を行ったとも言えるでしょう。

隣組は監視する事を義務とし、法律を犯したのに申告しない物には腰斬の刑に処す事にします。

罪を犯したのに隠蔽する者には、敵に降伏したのと同じ罪にもしています。

しかし、厳しいだけではなく、罪をちゃんと申告した者には、敵を討ち取ったのと同じだけの褒賞を与える事にしました。

さらに、1つの家で男子が二人以上いるのに、分家しない者には税を倍にしたとあります。

今までは「なあなあ」になっていた部分に対し、商鞅は明確な基準を定めた事になります。

春秋時代に鄭の子産が法律を明記する成文法を行ったとされていますが、大国でやったのは秦が最初だったのかも知れません。

 

秦の風習を変える

秦は魏や韓の治める中原と呼ばれる先進地帯に比べると、西の外れにある夷狄の国だと考えられていました。

秦は中原の国と比べると、妻を共有するなど戎の風習が残っていたわけです。

商鞅は、民に戎の風習を禁じ、中原諸国と同じような風習に変えていく事を目指します。

秦の風習が夷狄のままでは、秦は成長しないと思ったのかも知れません。

秦が先進地帯になる為の民の意識改革の一つと言えそうです。

尚、商鞅の変法では商業でお金を稼ぐ者にも罰を与えた様で、重農政策を敷いたのでしょう。

 

軍事改革

商鞅は軍事改革も行おうとしています。

商鞅は軍事で功績があった者には爵位を与え、私闘を行う者は許さない事にしました。

さらに、栗や絹を多く納める者には夫役を免除し、怠け者で貧乏になった者には、酷使して扱う事にします。

公室や貴族であっても、軍功がなければ特権を剥奪するなども定めています。

ただし、軍功があり国家に対して功労がある者には、優雅な生活が出来るように信賞必罰を徹底しようとしたわけです。

商鞅の考えとしては、無駄を省き国民が努力し、国を強くしましょう!という改革でした。

しかし、商鞅の変法に対して、貴族たちは勿論反対ですし、秦の孝公自体も迷いが生じる事になります。

 

新法の対する反発

商鞅は新法を発令しようとしますが、反対勢力が出る事になります。

秦の孝公の迷い

商鞅の変法は完成しますが、秦の孝公は実行しようとはしませんでした。

商鞅が秦の孝行に「なぜ実行しないのか?」を訪ねると、次の様な答えが返ってきます。

秦の孝公「儂は新法を実行しようと思うが、天下の人々に誹られはせぬかと恐れておるのじゃ。」

これに対して商鞅は「常人よりも優れた行いをする者は世間には誹られ、民には誹られるものなのです」と答えています。

商鞅はさらに、「民衆には最初に物事を訪ねるべきではなく、改革が成功した後に楽しみを分かち合えばよい。」と述べ「秦を強く出来るのであれば先例に従う必要はない」と答えたわけです。

秦の孝公は商鞅の言葉に納得し、商鞅の変法を実行しようと考えます。

 

反対勢力が出る

秦の孝公は改革を行おうとしますが、秦の大臣である甘竜が次の様に述べています。

甘竜「聖人は民俗を改めないで民を統治すると聞いております。民俗のままに統治を行えば苦労せずとも成功する事が出来ます。

今の法律のままであれば役人も使い慣れていて運営も容易く出来ます。さすれば、民衆も安住を得られる事になるでしょう。」

これに対して商鞅は次の様に述べます

商鞅「甘竜の言う事は俗論でしかなく、それでは、国法、礼節を超えた大問題を議論する事が出来ません。

知者が法を作り愚者がそれに従い、賢者が礼節を出し不肖な者がそれに従います。」

これに対し、秦の大臣である杜摯は次の様に述べ、商鞅の変法に反対します。

杜摯「利益が100倍無ければ法律は変えず、効果が10倍なければ器(礼)は変えずと申します。

古の教えに従えば過ちはなく、礼に従えば邪悪はありません。」

杜摯の言葉に対して、商鞅は次の様に述べる事になります。

商鞅「国を治める方法は一つではなく、秦にとって利益があれば、古の教えに必ずしも従う必要はありません。

殷の湯王や周の武王は、古に従わずに王となり、夏や殷の王朝は、礼制を変えないのに滅亡しています。

古の教えに背くからと言って悪ではなく、礼に従えばよいと言うものではありません。」

秦の孝公は商鞅の言葉に納得し、新法を実施する事にします。

商鞅の改革は、秦の孝公の後ろ盾があり、実行出来たとも言えるでしょう。

 

新法を実行させる為の策

商鞅が考えた新法は実行に移す事になりますが、民が従うのか不安があったわけです。

そこで、商鞅は市場の南門に木を置き、「この木を北門に移した者には10金を与える。」と布令を出します。

怪しがり10金の金額では誰も従わず、50金に金額を釣り上げると、実行した者が現れる事になります。

商鞅は木を運んだ人物に本当に、50金を与え約束を守る事を民に示したわけです。

そうした上で、商鞅の新法が発令される事になります。

 

太子が法律を犯す

商鞅の新法は無事に発令する事になりますが、1年で数千件を超えるクレームが来た話があります。

民は商鞅の新法は不便だと訴えてきたわけです。

こうした中で、秦の太子である嬴駟(後の秦の恵文王)が新法を犯す事をしてしまいます。

商鞅も秦の太子を罰する事が出来ずに、代わりに太子の傅役の公子虔を処刑し、教育係の公孫賈の額に入れ墨を入れる事にしました。

太子の側近に対して、厳罰を与えた事で、商鞅の法律に恐れをなし民衆は文句を言う者もいなくなり、貴族たちも従う事になったわけです。

商鞅の新法を施行して10年が経過すると国はよく治まり、路上の落とし物を拾う者もいなくなったとされています。

ただし、秦の太子嬴駟は自分の側近を罰した商鞅を恨み、公孫賈は外出する事も無くなった話があります。

 

商鞅の人間性

商鞅が新法を発令した時は、「不便だ」と文句を言ったのに、後に絶賛した人がいたわけです。

しかし、商鞅は次の様に述べています。

商鞅「お前の様な奴が民の善導感化を乱すのである。こやつを辺境の地に移せ。」

商鞅の新法が適用され、自分の法律に対して文句が言えない所まで行くと、商鞅は独裁者的な性格を帯びてきた様に感じます。

 

咸陽に遷都

秦の孝公の時代に、雍から咸陽に遷都した話があります。

秦は強国への階段を昇り、秦が強くなったと感じた商鞅は、秦が戎の国だと思われない様な立派な宮殿が必要と考えたわけです。

秦の孝公も商鞅の意見に賛同し、首都を咸陽に移し、咸陽に桜門、宮殿、造園を作る事になります。

秦では中原の諸侯を追い抜くための、努力が行われていたわけです。

尚、秦の孝公の時代には、秦の都がある関中を守るために、函谷関も建設された話があります。

函谷関は合従軍を何度も撃退した事もあり、孝公の亡霊が守っているとも言われた程です。

因みに、秦の咸陽の都などが立派だった為か、周王朝では秦の孝公に胙(ひもろぎ)を送った話があります。

この時点では最強国は魏でしたが、周王朝では秦が強国になった事を認め胙を送ったのでしょう。

春秋時代であれば、周王朝から胙が送られれば覇者として認められた事になります。

 

第二次商鞅の変法

商鞅は第一次商鞅の変法と呼ばれる改革が成功した所を見ると、第二次商鞅の変法に踏み出す事になります。

第二次商鞅の変法では、父子兄弟が世帯を共同する事を禁じ、小邑と集落を集めて県としたわけです。

さらに、県の官吏として令や丞の役職を設置し、賦役や租税を平均し度量衡を統一する事になります。

秦の孝公は商鞅の改革を受け入れて、第二次商鞅の変法も実行に移し、秦はさらに国が整備される事になります。

尚、第二次商鞅の変法では、一次の時に比べると民も慣れてきたせいか、対応が早かった話があります。

 

太子の恨みを買う

こうした中で、太子の側近が法を破った話が入ってきます。

商鞅は太子の側近を鼻斬りの刑に処してしまいました。

太子の側近と言えども、法を犯す者を商鞅は許さなかったわけです。

秦の孝公を後ろ盾とする商鞅に逆らえる者はいませんでしたが、秦の太子は苦々しくみていました。

既に分かっているだけでも、太子の側近は3名も罰せられているわけであり、内心は穏やかではなかったはずです。

 

秦が最強国となる

秦は商鞅の改革が成功し強国になるのですが、当時の最強国は魏だったわけです。

しかし、魏は紀元前342年の馬陵の戦いで、斉に大敗してしまいました。

馬陵の戦いでは、軍師である孫臏の策が当たり、斉の田忌の軍が、魏の龐涓及び太子申の軍を大破しています。

これをチャンスと見た秦も動く事になります。

商鞅は秦の孝公に次の様に述べています。

商鞅「秦の国に取って魏は内臓の病の如きものです。山東の利益を独占し有利とみれば、我が秦に侵略をしてきます。

しかし、魏は先年に斉に大敗し太子が捕虜となり、孫臏の策略により魏将の龐涓は戦死しております。

これは魏を討つ絶好のチャンスです。私に兵を預けて魏を討たせてください。」

秦の孝公は商鞅を将軍に任じ、出陣する事になったわけです。

魏の恵王は、公子卬を総大将とし、秦軍に対峙させる事にしました。

商鞅は過去に魏にいた事があり、公子卬とは顔見知りであり友好を装い手紙を送る事になります。

公子卬は商鞅の言葉を信じ、酒を酌み交わし友好を結び、兵を引く事を条件に会見に応じたわけです。

しかし、商鞅は会見の場に兵を伏せておき、公子卬を捕えた上で、魏軍に総攻撃をします。

魏軍は総大将が捕らえられた上に、無防備な状態で襲われた事もあり、大敗する事になります。

魏は西の安邑を本拠地としていましたが、魏軍が大敗した事を知ると、西河の地を秦に割譲し、東にある大梁に遷都しました。

最強国の魏が東西で秦と斉に敗れた事で、戦国時代中期の秦斉二強時代に突入する事になったわけです。

魏の恵王は、公叔座の無視し、商鞅を用いなかった事を悔いた話があります。

魏を破った事で秦は最強国となりますが、既に秦の孝公が即位してから22年も経過していました。

秦の孝公は即位してから24年である紀元前338年に死去した話があり、亡くなる2年間に漸く秦が中華の最強国になったわけです。

商鞅の最後

秦で圧倒的な実力者となった商鞅ですが、最後の時が訪れる事になります。

趙良の言葉

商鞅は趙良に面会すると、自分は前から会いたいと思っていたと述べます。しかし、趙良は商鞅と交誼を結ぼうとは思わないと言い放ちます。

商鞅は自分の統治が気に入らぬのか。と感じますが、趙良は次の様に答えています。

虞瞬の言葉で「自ら謙遜されれば尊敬される」と聞いております。あなたは私に問う必要はなく、虞瞬の道を論じればよいだけです。

それに対して商鞅は自分は秦の戎の教えを改善し、男女の区切りを分け、秦にも魯や衛の様な楼門を造営したと、自分の功績を述べる事になります。

商鞅は自分は秦を強国にしたと言い、秦の穆公時代の名宰相と呼ばれた、百里奚とどちらが優れているのかと、趙良に言います。

趙良は次の様に述べています。

趙良「秦穆公が百里奚を取り立てて人民の上に立たせても文句を言う者はいませんでした。百里奚は国を感化し八戎も帰順し、西戎の賢人である由余も秦の家臣となりました。

宰相となり、しきりに楼門を造営する事は功績ではありませぬ。さらにあなたは、秦の孝公に取り入る為に、宦官の景監を主とし使っておりまする。

秦の孝公のお気に入りの宦官である景監に取り入るなど、褒められた事ではありませぬ。

さらに、商鞅様は太子の側近が法を破ったと罰していますし、敵が多いのか武装兵の護衛が無ければ外出もしません。」

この様に趙良は商鞅に言い放ち、このまま人々の恨みを買い続ければ、秦の孝公が亡くなった時に、どうなるかは分かり切っているはずだと伝えます。

商鞅がこれまでやって来れたのは、秦の孝公の寵愛があったからであり、秦の孝公が亡くなった途端に、処刑される事になると伝えます。

趙良は商鞅に天寿を全うしたければ、領地も官位も全て返上し、田舎で田園に水を灌ぐ生活をする様に言います。

しかし、商鞅は宰相の位を手放す事はなく、宰相を続けてしまったわけです。

秦の昭王の時代に蔡沢の言葉で范雎は引退しましたが、商鞅は趙良の言葉を聞いても引退をしませんでした。

尚、司馬遷の史記には商鞅の実績を扱った商君列伝がありますが、趙良の言葉だけで全体の四分の一ほどを占めています。

司馬遷が商君列伝で一番言いたかったのは、商鞅の変法の内容でもなく、出処進退だったのではないかとも考えられます。

商鞅の最後

秦で絶大なる権力を持った商鞅が、どの様にして最後を迎える事になったのか解説します。

秦の孝公の最後

史記によれば趙良が進言してから、八カ月後に秦の孝公は亡くなる事になります。

尚、戦国策によれば秦の孝公は亡くなる時に、商鞅に位を譲ると言った話も掲載されています。

しかし、商鞅は受けずに、自分の後ろ盾である秦の孝公を失ってしまったわけです。

戦国策の記述では秦の孝公が亡くなっても、商鞅は秦の宰相を続けた事になっていました。

しかし、商鞅は不穏な空気を感じ取り、自分の領地である「商」に戻る事にした話があります。

 

商鞅が讒言される

商鞅は領地に戻りますが、秦の孝公の後継者となった秦の恵文王が政治を主導する事になります。

しかし、秦の恵文王に、商鞅を讒言する者が複数現れたわけです。

秦の恵文王自体も太子の時代に、側近が罰せられ刑罰を受けていた事もあり、商鞅を憎んでいました。

さらに、側近は秦の恵文王に向かって、商鞅は権力を持ちすぎており、危険な存在だと述べたわけです。

秦では商鞅の法律に従い、秦の恵文王の命令に従う者がいないとも伝える事になります。

商鞅は秦の恵文王の側近を処罰した憎き仇であり、許すべきではないと説いた者も現れました。

ここにおいて秦の恵文王は、商鞅を捕えて処刑する様に、命令を下す事になったわけです。

 

逃げる商鞅

商鞅は秦の恵文王が自分を捕え、処刑しようとしている事に気が付くと、逃げ出す事になります。

逃げ出した商鞅は関所の付近で休む事にしました。

商鞅は宿屋を発見し泊めて貰おうとしますが、「商鞅様の法律で旅行証がない者を泊めると、罰せられてしまう。」と伝えられる事になります。

商鞅は自分が商鞅だと名乗りますが、商鞅だという証拠を見せて欲しいと、宿屋の主に言われますが証明する事は出来ませんでした。

商鞅は自分の作った法律のお陰で、宿屋に宿泊する事も出来なかったわけです。

この時に商鞅は「新法の弊害が我が身に及ぶとは思いもしなんだ」と述べた話があります。

商鞅は抜け道を通り、魏に亡命しようとしますが、魏では公子卬を騙し討ちにした事を恨んでおり、商鞅は入国を拒否されています。

魏で入国を拒否されたのは、因果応報とも言えるでしょう。

商鞅は自分の領地である「商」に戻り、兵を集める事にします。

商鞅が何を思ったのかは分かりませんが、「商」で集めいた兵士を使って「鄭」を攻めた記録があります。

 

商鞅の死

商鞅が鄭を攻めている話を聞いた秦の恵文王は、秦の正規軍を派遣し商鞅を討っています。

多勢に無勢であり、商鞅は討ち取られる事になります。

商鞅の屍は見せしめの為に、車裂きの刑にされています。

商鞅の息の根を止めた秦の恵文王は、次の様に述べています。

秦の恵文王「商鞅の様な謀反人になるな」

この様にして、秦を強国にした宰相である、商鞅は最後を迎える事になったわけです。

因みに、戦国策によれば「秦人は商鞅の死を憐れまなかった」とあり、この記述が正しいのであれば、商鞅は秦で多くの人から嫌われていた事になるでしょう。

商鞅の評判はかなり悪かったはずです。

秦の昭王の時代に白起が自刃した時は「多くの人が憐れんだ」とあるのに、違いが大きいと思いました。

それを考えると、商鞅は秦の孝公の後ろ盾だけを頼りに、政治を行ったとも言えるでしょう。

余談ですが、商鞅よりも少し前の時代に呉起が、楚の悼王の後ろ盾だけを頼りにし、政治を行っています。

しかし、悼王の死後に呉起も貴族たちにより、命を落としています。

やはり、王様の後ろ盾だけを頼りにするやり方は、危ういと言えるのかも知れません。

 

その後の秦

秦の恵文王は、商鞅は嫌っていましたが、商鞅の法律は継承しています。

秦の恵文王は、商鞅は嫌いながらも、商鞅が作った法律は運用が優れていると認めたわけです。

呉起が楚で法治国家に改革しようとして、一代で終わってしまったのに対し、秦では何代も続く事になります。

さらに、秦では商鞅が亡くなった後も、張儀、樗里疾、甘茂、魏冄、范雎、呂不韋、李斯と途切れる事もなく名宰相が続く事になります。

他にも商鞅の残した法律も継承され、嬴政(秦王政)の代で六国を滅ぼし天下統一が成される事になります。

商鞅は亡くなってしまいましたが、法律は生き続けたとも言えるでしょう。

ただし、嬴政が統一後に始皇帝となり、さらなる法治国家を推し進めた結果として、秦は短命国家になったと指摘される場合もあります。

秦は始皇帝の死後に胡亥が即位し、趙高が丞相となり暴政を行った事で滅んだとされています。

尚、趙高も法律に詳しかった話があり、法家の一人と言えるのかも知れません。

 

法家に関して思った事

商鞅、韓非子、李斯、呉起などの法家は、悲劇的な死が多いとも言えます。

因みに、春秋時代に鄭の子産が成文法を明記した時に、晋の賢臣である叔向が「法律が多い国は滅ぶ」と言った話があり、それが秦には当てはまるのかも知れません。

周の穆王の時代に呂刑と呼ばれる三千もの法律が作られ、人々の批判を買った話があります。

世界史では、メソポタミア文明があり、バビロン第一王朝ではハンムラビ王がハンムラビ法典を制定しています。

ハンムラビ王は法律で国を治めようとしたわけです。

しかし、バビロン第一王朝もハンムラビ王の死後に急速に衰える事になります。

それを考えれば、どこかしらに法律の弊害はあるのかも知れません。

それでも、商鞅が行った事は画期的な事であり、秦を強国にした名宰相なのは間違いないと感じています。

商鞅の変法は「人々を混乱させた」とする記述もありますが、天下統一に大きく役立った事は間違いないでしょう。

秦に商鞅が現れなければ、始皇帝の天下統一も無かったのかも知れません。

 

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