春秋戦国時代

小篆(しょうてん)は秦の始皇帝が定めた公式の書体(文字の統一)

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小篆(しょうてん)は、秦の始皇帝が定めた公式の書体の事を指します。

秦の始皇帝は戦国七雄の国々を征服し、天下統一を成し遂げる事になります。

始皇帝は天下統一後は、蒙恬に北方の匈奴を討たせたり、万里の長城、阿房宮の建設なども行っていますが、それまでバラバラであった各国の基準も統一する事になります。

焚書坑儒における思想の統一、度量衡における単位の統一、半両銭を使った通貨の統一もしているわけです。

その中で、始皇帝は文字の統一も考え、小篆を採用する事になります。

李斯が書いたともされる、泰山刻石や瑯琊台刻石などは、小篆で書かれています。

ただし、現在の泰山刻石、瑯琊台刻石は残念ながら残片が残るのみです。

因みに、戦国七雄の秦、趙、魏、韓、燕、楚、斉の国々は、文字に違いはあれど、それなりに読む事が出来たとする説があります。

韓の公子である韓非子の書物を嬴政(後の始皇帝)が読んだ時に「この著者に会えるのなら死んでも悔いはない」と語った話があり、韓で使っていた文字を読めた事になるからです。

尚、小篆に関しては、秦の時代に成立した事から秦篆と呼ばれる事もあります。

 

 

篆書とは

小篆を知る上で、篆書に関して述べて置きたいと思います。

篆書のカテゴリの中に小篆があります。

篆書は漢字の五書体である、楷書、行書、草書、隷書の中の一つです。

篆書は、楷書、行書、草書、隷書の五書体の中で最も古い書体とされています。

狭義で篆書と言えば、秦の時代の小篆と、それ以前の大篆に分類する事が出来ます。

中国では宋の時代になると、青銅器の発掘が盛んに行われる様になり、青銅器の中に文字が掘られている事に気が付きます。

青銅器の中に掘られた文字の事を、金文と呼ぶ事になったわけです。

近代では殷の時代の甲骨文字も発見され、金文や甲骨文を含む秦代以前の古文字を篆書と呼びます。

 

小篆とは

先にも述べた様に、小篆は篆書の中の一つであり、秦の始皇帝が定めた公式の書体です。

戦国七雄は覇を競っていた時代では、文字も国によって違いがあり、統一されていなかったわけです。

下記はよく題材として出される「馬」の文字の他国の違いとなります。

(中国中学校の歴史教科書より)

同じ文字であっても、方言の様に国によって違う形をしている事が普通にありました。

しかし、秦は統一国家であり、文字の統一は意思疎通をする上で、必須と考えたのでしょう。

その結果として、始皇帝は小篆に文字を統一したわけです。

小篆には「小」の文字が入っていますが、これは小さいと言う意味ではありません。

秦以前の使っていた文字の事を「大篆」と呼びますが、「小篆」「大篆」は新しい古いの意味で使われています。

三国志の時代に、孫策が小覇王と呼ばれていますが、覇王と呼ばれた項羽を小さくした人物ではなく、「項羽の生まれ変わり」という意味で小覇王と名付けられています。

話しを戻しますが、秦の時代が終わり漢の時代になると、隷書が公式の書体となります。

 

小篆の特徴

(上記は篆書の「皇」の文字)

小篆の特徴ですが、字形は左右が対象で縦長に書かれる事が多いです。

小篆には、隷書に見られる様な、波磔はありません。

(上記が隷書の「書」の文字)

小篆は横画は水平であり縦画も垂直に引かれているいます。

横画と縦画の書き方は、小篆と漢代に採用された隷書の似ている部分でもあります。

(上記が小篆の「帝」の文字)

小篆の画と画の間は、等間隔であり、転折は丸く滑らかに書かれています。

小篆は転折の部分では、針金を丸くした様に描かれているのも特徴です。

小篆は文字の太さは、ほぼ統一されており、極めて無表情な文字にも感じます。

隷書が扁平な形をしているのに対し、小篆はかなり整った文字にも見える事でしょう。

(上記は隷書・西嶽華山廟碑の「承」の文字)

秦の孝公の時代の、商鞅に始まる法治国家を文字にも伝わった様に見えるがの小篆です。

 

玉箸篆と長脚篆

小篆における均一な線の事を玉箸篆(ぎょくちょてん)と呼んだりします。

玉箸篆の文字を見ると「箸」という文字が入っています。

日本の箸は、先端が細くなっていますが、中国の箸は全ての部分で箸の太さが均一になっているとも言われています。

小篆の様な全ての線の太さが同じ事を玉箸篆と呼ぶと言う事です。

玉箸篆の意味としては、「玉で作った橋の様だから」という説があります。

尚、小篆における脚長な文字の事を長脚篆(ちょうきゃくてん)と呼びます。

 

泰山刻石

小篆を語る上で泰山刻石は、欠かす事が出来ないはずです。

泰山刻石は、始皇七刻石(しこうしちこくせき)の一つとなります。

始皇帝が巡遊した時に、各地に残した刻石です。

始皇七刻石の泰山刻石、瑯琊台刻石は残片が残っていますが、嶧山刻石、之罘刻石、東観刻石、碣石刻石、会稽刻石は既に失われています。

ただし、泰山刻石に代表される様に、拓本により文字が見れる場合もあります。

嶧山刻石も拓本を見る事が出来ますが、当時の物ではなく、後世で再刻したものだと言われています。

泰山刻石は、自然石に掘られた文字であり、出来た当初は223字が小篆で書かれていましたが、落雷や火災で砕けてしまい、現在では残片の10文字しか見る事が出来ません。

現在、我々が泰山刻石を見る事が出来るのは、宋の時代に劉跂が拓したとされる「百六十五字本」と呼ばれるものです。

「百六十五字本」は、明の安国という人物が所持し、日本の中村不折に伝わり、現在は日本の台東区書道博物館に現蔵されています。

余談ですが、泰山刻石の10文字の残片が発見されたのは、明代に泰山山頂の藪の中から出て来たと言われています。

その時には、秦の始皇帝の時代に小篆で書かれた文字が29文字残っていました。

小篆で書かれた泰山刻石は祠に安置されていましたが、火災により祠が焼けてしまい現在の10文字になってしまったと言われています。

尚、劉跂が書いたと言われる台東区にある拓本の最後には、複数の拓本を取ったと書かれており、今もどこかに眠っている可能性もあります。

 

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