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構成・文/宮下悠史

三国志

向寵(しょうちょう)は名将なのに呆気なく戦死!?

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向寵(しょうちょう)は、劉備と劉禅の二代に渡り蜀に仕えた人物です。

諸葛亮の出師の表でも名前が挙げられ、軍事能力を高く評価しています。

劉備は夷陵の戦いで大敗しますが、向寵の軍は無傷で帰還した話もあり、高い采配能力を持っていたと言えます。

ただし、向寵は西暦240年に異民族討伐をした際に、殺害された記述があります。

それを考えると、名将なのか?どうかは分からない部分もありますが、当時の蜀で名が通っていた武将だった事は間違いないでしょう。

今回は陳寿が書いた正史三国志をベースとし、史実の向寵がどの様な人物だったのか解説します。

 

劉備の元で出世

正史三国志によると、先主(劉備)の時代に、牙門将になったと記述があります。

ただし、向寵がどの時点で劉備に仕えたのかは記録がありません。

しかし、向寵は向朗の兄である向聖の子だった話があり、劉表が亡くなり劉備が荊州を領有した辺りで、臣下になったのではないか?とも考えられます。

尚、向朗は諸葛亮と共に司馬徽の元で学んだ仲であり、向朗は性格に問題がありながらも官吏として有能だった様です。

向朗の影響もあり、向寵も出世したとも考えられています。

向寵は劉備が入蜀を果たした時には、一緒に蜀に入ったのでしょう。

 

夷陵の戦いで無傷

劉備は曹操から漢中を奪い、漢中王に即位します。

しかし、関羽が曹仁、徐晃らに破れ荊州を失ってしまいました。

劉備は荊州を奪還すべく軍を東征させますが、夷陵の戦いで陸遜に大敗しています。

夷陵の戦いで劉備は、完膚なきまでに敗れ去る歴史的大敗を記録したわけです。

こうした中で、向寵に関しては、次の記述が正史三国志に存在します。

「秭帰の敗北の際、向寵だけは無傷だった。」

これは蜀軍が馮習、王甫、張南、馬良ら多くの人材が死亡するなか、向寵だけが軍勢を上手くまとめ上げて撤退したのでしょう。

夷陵の戦いという歴史的な敗北の中で、無傷で撤退するのは、かなり凄い事だと感じました。

夷陵の戦いでは、主君である劉備自身も命の危険に晒される中で、向寵は見事な撤退戦を演じたはずです。

出師の表の中では、劉備が向寵を有能だと認めた話しもあります。

劉備は夷陵の戦いでの、向寵の撤退戦を見て素晴らしいと感じたのでしょう。

夷陵の戦いは陸遜には敗れましたが、向寵の無傷の撤退を見れば、向寵は名将の片鱗を見せた事になるはずです。

 

劉禅にも重用される

劉備が西暦223年に崩御すると、劉禅が後継者となります。

劉禅が蜀の皇帝に即位すると、向寵を都亭侯に封じました。

正史三国志によれば、向寵は中部督となり近衛兵を指揮したとあります。

近衛兵を指揮した記録を見る限りでは、向寵は劉禅や諸葛亮の信頼が厚かったのでしょう。

 

留守番を任せられる

諸葛亮は南蛮征伐で孟獲を降伏させると、魏を滅ぼすべく北伐に乗り出します。

諸葛亮は北伐に出発する前に、出師の表を出しており、出師の表の中で向寵を次の様に評価しています。

「将軍の向寵は、性格や行動が善良であり、公平に物事を扱う事が出来る人物です。

向寵は軍事にも精通しており、先帝(劉備)も向寵が有能だと言っておられました。

だからこそ、大勢の人の推挙があり、向寵を司令官に推挙したのです。

私(諸葛亮)の考えでは、軍事に関しては全て向寵に相談すればよいでしょう。

向寵は必ずや陣営内を安定させてくれるはずです。」

諸葛亮も向寵の事をかなり評価しており、自分が北伐に行っている間に、軍事の事で問題が起きたら向寵に相談すればよいと劉禅に述べているわけです。

これを見ても、劉備だけではなく諸葛亮も向寵を高く評価している事が分かります。

曹操は自ら出陣する事が多く、留守は夏侯惇がよく守っていました。

同じ様に諸葛亮も、曹操における夏侯惇の役目を向寵に任せたのかも知れません。

尚、向寵は中領軍に昇進したとあります。

 

向寵の最後

向寵の最後ですが、正史三国志に下記の記述があります。

「延照3年(西暦240年)に漢嘉郡の蛮族を征伐した際に、殺害された。」

上記の記述からは、向寵が諸葛亮の死後に異民族討伐をした際に亡くなった事が分かります。

向寵が亡くなったとされる西暦240年の漢嘉郡の反乱ですが、蜀書などを読んでも記述がなく内容が不明です。

この時代は大将軍の蔣琬が姜維らと共に、漢中に駐屯していた時代です。

そうした中で、比較的小規模な反乱が漢嘉郡で発生し、向寵が少人数を率いて反乱鎮圧に向かった様に思います。

向寵は漢嘉郡にいた反乱軍と戦いますが、不意を衝かれたか流れ矢に当たるなどし、戦死した様に感じます。

勿論、向寵は敵に捕らえられてしまったかも知れません。

向寵は夷陵の戦いで見事な撤退戦を演じたのにも関わらず、呆気なく死んでしまった様です。

 

向寵の評価

向寵は名将だった可能性もありますが、留守番が長かった事もあり、戦場で実力を発揮する事も無く終わってしまった様に思います。

ただし、諸葛亮から留守番を任される辺りは、かなり信頼されていた様にも感じました。

向寵が最後の漢嘉郡での異民族との戦いで、命を落とした所を見ると、名将と呼べるかは疑問を感じます。

それでも、向寵は撤退戦が得意だった可能性もあり、日本で言えば『退き佐久間』と呼ばれた、佐久間信盛の様な人物だったのかも知れません。

尚、正史三国志によれば、向寵の弟に向充がおり、射声校尉にまでなったと記述があります。

向寵の直系の子孫がどの様になったのかは、イマイチ分かりません。

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