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構成・文/宮下悠史

春秋戦国時代

春申君は、本当に中華の頂点に立つ男なのか?

2020年4月23日

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キングダムで合従軍が函谷関に攻め込む時の、総大将として春申君が出てきます。
その時に、呉鳳明の言葉として「中華の頂点に位置する御仁」という言葉が出てきます。中華の頂点に立つ御仁と言うのは、春申君を指すのですが、本当に春申君が文官・武官の中で中華の頂点に立つような人物だったのでしょうか?
これについて、史実を交えて書いてみたいと思います。ちなみに、私の見解としては、王を除けば家臣の中で中華の頂点に立つ御仁は呂不韋です。春申君は食客3000人と言われていますが、呂不韋も食客を3000人集めていますし、さらに、その質にも拘ったようです。
呂氏春秋などを完成してしまうあたりを考えれば、春申君よりも呂不韋の方が格上だと思えてしまうわけです。さらに、春申君はその宰相ですが、呂不韋は秦の宰相です。
国力で言っても、秦の方がはるかに上なので、どうしても呂不韋の方が格上になってしまいます。

 

春申君が楚を救う

春申君が、初めて歴史に登場する時は、秦に使者として行ったときです。その時に、たまたま秦が白起を使い魏と韓を率いて、楚を攻めようとしていました。
秦・魏・韓の連合軍に攻められては、楚は滅亡する可能性もあります。そこで、秦の昭王(秦王政のおじいちゃん)に手紙を送り、楚を攻める事の損害と楚と同盟する事の利点を説きました。これを昭王が納得して、白起には出陣を命じず、秦と楚は同盟を結ぶ事になりました。
ただし、同盟の条件として、楚の太子が秦に人質に行く事でした。人質の条件も楚がのみ、太子は秦に人質に行ったのですが、太子の家臣として春申君を付けたと言われています。
このように、初登場の春申君は中々、見事な活躍をするわけです。手紙一つで楚を救った事になります。

 

春申君が太子を救う

春申君と楚の太子は、秦で人質として暮らすのですが、楚王が亡くなったという話を聞きます。普通であれば、太子が帰国して王位を継ぐはずです。
しかし、太子は秦に人質になっています。さらに、王位を狙っている人が他にもいるかも知れませんし、早く帰らないと太子は王になれない可能性もあるわけです。
春申君が秦に帰国を許してもらおうとすると、太子は秦にいて、春申君が楚に最初に行き様子を見て来るという事になりました。しかし、もしかして秦は太子を返してくれない可能性もありますし、帰国の条件として土地を要求して来るかも知れません。
さらに、秦は太子を返さずに、太子は王位につけずに終わる事も考えられます。そこで、春申君は太子を一般人に変装させて、勝手に楚に帰らせてしまいます。そして、太子が楚に着いた頃合いを見計らって、秦に出頭しました。もちろん、秦としては太子に逃げられたも同然と言う事もあり激怒して、春申君を殺そうとします。
しかし、当時の秦の宰相をしていた范雎が昭王を止めます。「ここで春申君を殺せば楚は秦に対して深い恨みを持つようになる。
しかし、春申君を返せば太子は春申君を必ず重用する。それを考えれば春申君を返した方が得策」という考えです。宰相の范雎の意見を飲んだ昭王は春申君を殺すのをやめて、もてなし、楚に帰国させました。
一歩間違えれば春申君は間違いなく死んでいましたが、この行動に太子は感動し、即位すると春申君を宰相に任命しました。
そして、春申君は食客3000人を集めて戦国の四君になりました。

 

趙への援軍(追記)

史記を読むと長平の戦いで趙は廉頗から趙括に将軍を変えた事で歴史的な大敗北を喫しています。

趙括は白起に用兵の上手さや経験の前に大敗北したわけです。

長平の戦いの後に、白起の功績を嫉んだ秦の宰相である范雎の進言により、秦の昭王は白起に軍の停止を命じています。

しかし、翌年に秦の王齕が趙の首都である邯鄲を包囲しました。この時に趙の孝成王は平原君に命じて、楚に援軍要請に行きます。

楚の孝烈王は平原君の言葉に首を縦に振る事はありませんでしたが、平原君の食客である毛遂の活躍もあり、楚と趙は合従の同盟を結び秦を相手に共闘する事になります。

この時に、楚の援軍の総大将として任命されたのが春申君です。

魏の信陵君も食客の侯嬴の策や肉屋の朱亥の力で魏将・晋鄙の軍を奪い趙の都である邯鄲に駆け付けました。

東周列国志によれば、信陵君は采配が冴えわたり秦軍の撃破に大きく貢献したのに対し、春申君の活躍は冴えなかった様な話があります。

ただし、東周列国志はあくまで小説であり事実とは異なるとも考えられます。

 

春申君の活躍

史記の中には、楚世家と言う楚の国の歴史を書いた伝があるのですが、それを読むと春申君が宰相になっても、特に勢いは取り戻せなかったような事が書かれています。
しかし、人物を扱った列伝のところに春申君列伝があるのですが、こちらだと春申君が宰相になってから勢いを取り戻したような事が書かれています。
確かに、春申君が宰相になってから魯を亡ぼすなどの活躍もしています。他にも、都を移すなど秦の侵攻に備えた手も打っています。あと、楚王の信頼が厚かったような事まで記載があるのです。他にも、秦に攻められた趙を救うために春申君が楚の対象として救援に行くなどの記述もありました。歴史に残っていない功績もあるのかも知れませんが、誰が見ても凄い!!と思うような功績はないのかも知れませんが、キングダムで言うように長く国政に当たっている事実はあります。
しかし、春申君が総大将を務める合従軍が函谷関で秦に敗れてしまいます。キングダムだと、李牧も参戦している事になっていますが、史記などを見てもこの合従軍に李牧が参加した形跡がありません。
しかし、春申君が総大将だったのは事実のようです。しかし、函谷関の戦いで合従軍は破れてしまいます。その関係で、楚王からの信任は薄らいだという記述もあります。
函谷関の戦いで秦に敗れた辺りから、楚王と春申君の間が冷え込んだのかも知れません。歴史書だとこの後も楚の宰相を続けたような事が書かれていますが、なぜか呉にうつり政務を見たような事まで書かれています。

 

函谷関の戦い(追記)

函谷関の戦いで春申君は秦を攻めますが、連動するかの様に、趙の龐煖も合従軍を率いて秦に攻めています。

龐煖の軍は、趙、楚、魏、燕などの精鋭とする記述があり、龐煖は蕞まで行き、寿陵に布陣した事になっています。

紀元前241年には函谷関の戦いだけではなく、蕞の戦いも勃発しているのです。

蕞の場所は、秦の首都である咸陽の付近であり、かなり奥深くまで龐煖が攻め込んだ事が分かります。

合従軍の作戦的には、春申君が函谷関で秦軍を引き付けておいて、その隙に間道を通って龐煖の軍が首都の咸陽を急襲する作戦だったのかも知れません。

春申君が函谷関の戦い後に、楚の孝烈王から疎まれた事を考えると、春申君が函谷関で敵を引き付ける事が出来ずに簡単に敗れてしまい、龐煖の足を引っ張った可能性もあります。

尚、龐煖の軍は蕞が落とせないと悟ると、斉を攻撃しています。

合従軍に加わらなかった斉王建(田健)への報復だったのかも知れません。

 

春申君の最後

春申君ですが、悩みの一つに楚王が子供を産まないというのがありました。
それと、この頃になると春申君も王様が変わった時に権力を維持できるかの悩みがあったようです。そこで、李園と言う男が春申君に近づいて妹を紹介します。
春申君は李園の妹が気に入ってしまい自分の側室にしました。その時に、李園の妹は春申君の子供を身ごもります。妊娠した状態で楚王に李園の妹を紹介したわけです。そして、李園の妹は楚王の夫人となり子供を産みました。ただし、この子は春申君の子供と言う事になります。
これを上手く使えば春申君は楚王が亡くなった後でも自分が権力の座に居座れると思った節があります。そして、楚王が病となり、亡くなると春申君は王の元に行くわけですが、そこで李園が雇った刺客が春申君を暗殺しました。李園にしてみれば春申君がいなければ、妹は楚王の母なわけで権力の座につけるわけです。
春申君は、李園に首を斬られて場外に首を投げられたとも言われています。春申君の歴史を見ていると、若いころは本当に賢くて勇気のある人物に見えないでしょうか?しかし、宰相についてからが普通くらいの感じで、函谷関で五カ国連合軍に負けたあたりで評価が決定的に下がり最後は暗殺されました。これについて、史記の司馬遷も若い頃の春申君は賢かったけど、晩年は老いぼれていたと評価しています。私もこの司馬遷の評価は当たっていると思いました。
ちなみに、キングダムでは李園が出てきますが、歴史書などでは李園がこの後、どのような事をしたのかが分かりません。しかし、結局は亡ぼされたという話もあります。尚、史記には楚王(孝烈王)に子供が出来なくて、困るという記述があるのですが、この後、李園の妹の子(幽王)が死んだときに、その弟の(哀王)が出てきます。なんと孝烈王の二人目の子供が出てくるのです。
さらに、庶子として他の子供まで出てきますし、本当に孝烈王が子供が出来ずに悩んでいたのか、さっぱり分かりません。
それと幽王が本当に春申君の子供だったのかは、誰にも分からないのではないでしょうか?これについては、秦王政は呂不韋の子供だという説と同じですね。しかし、春申君は老いぼれてしまい殺された事だけは事実だったようです。しかし、食客を3000人も抱えていて、一人くらいは春申君のために李園を暗殺するとかした人はいないのでしょうか??
尚、春申君が中華で一番の御仁かについては、秦国の人物を抜けば確かに、中華でも位の高い人物だったと言えるでしょう。李牧は戦は滅法強いですが、李牧が宰相になったと言う話は史実ではありません。
李牧が大将軍になった記述はあります。尚、春申君が総大将になった合従軍は、最後の合従軍です。
これ以降は、諸侯が連合して秦を攻める事はありませんでした。
これにより、秦は各個撃破していき最後は天下統一しています。
春申君の敗北と言うのは、ある意味、秦の統一を決定づけた事になるでしょう。

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