西周

西周王朝の成立から滅亡までの歴史

2021年4月21日

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宮下悠史

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周の成立から周の東遷までをまとめた記事になります。

ここでいう周は、西周王朝を指します。

文王が周王朝の基礎を築いて武王が殷の紂王を破ってから幽王がオオカミ少年事件を起こして滅亡するまでを指します。

周王の実力が諸侯を上回っていて、周王が自ら天下の運営を行った時代が西周王朝です。

ちなみに、周の平王が周の東遷を行い洛陽に移ってからは東周と呼びます。

東周が東西分裂したりして、ややこしくなりますが、ここでは周王朝が成立して周の幽王が犬戎や申公により周王朝の首都である鎬京が陥落するまでの歴史です。

殷末期

殷末期になると、周の力が非常に強力になっていきます。

史書などによると、周は殷配下の諸侯に過ぎない事になっています。

しかし、調べてみると文王以前の古公や公季などの文王の父親や祖父の頃から殷と戦いがあったようです。

殷の武乙や文武丁などは周と戦ったのではないか?と思えるような記述も存在しています。

ある意味、周は殷を盟主とする諸侯というよりも敵対勢力にも見えるわけです。

文王の治世

文王(姫昌)の代になると、周は飛躍的に国力を増していきます。

殷からは西伯に任命されて、西方の統治を任されていたようです。

しかし、文王は西伯に満足する事もなく勢力範囲を広げています。

崇侯虎を討ったり、犬戎を攻めたりもしているのです。

既にお気づきの方もいるかも知れませんが、周の東遷の原因を作った犬戎は周の文王の時代から確認する事が出来ます。

一説によると文王の時代に天下の3分の2を取ったともされています。

これが本当であれば、既に文王の時代にほぼ天下を手中に収めた事になるでしょう。

尚、文王の軍師は、釣り人として有名な太公望こと呂尚です。

しかし、文王は殷を倒す前に亡くなってしまいます。

武王が殷を滅ぼす

武王は姫発が本名です。

太公望呂尚や召公奭(しょうこうせき)、周公旦など文王時代からの有能な家臣を引き連れて殷の討伐に乗り出しています。

牧野の戦いで殷の紂王の大軍を破り、殷周革命を成し遂げています。

家臣や功績があった諸侯に領土を与えて封建しています。

しかし、殷を打倒してから、わずか2年で亡くなってしまいます。

尚、封神演義という小説がありますが、文王や武王の時代を題材にした小説です。

成王と三監の乱

武王が若くして亡くなってしまった為に、周公旦や武王の后である邑姜が摂生を行った時代です。

金文などによると、西方の統治は邑姜、洛陽などの東側の統治を周公旦が統治していたようです。

ただし、周公旦の行為を疑った管叔鮮、蔡叔度、霍叔処などが三監の乱を起こしたとされています。

他にも、紂王の子である武庚が反乱を起こすなど、周は内部崩壊の危機にもありました。

しかし、周公旦や召公奭が鎮めて周王朝を安定させています。

史記などによると、「成康の治」とも呼ばれていて、周王朝の全盛期のように言われていますが、金文などでは不安定に見える時代でもあります。

康王の時代は天下泰平ではなかった・・。

史記などでは、康王の時代は「天下安寧で刑罰を行われる事もなかった」とされています。

しかし、金文などを見ると外征を繰り返しているわけです。

金文を見る限りでは、周辺の異民族との関係など、まだまだ油断は許されない状態にあったようです。

史記などからは、康王の時代が一番安定しているようにも見えます。

尚、金文に関していえば康王の名前は無く、代わりに休王の名が存在し、周の康王は生前は休王を名乗っていたとも考えられています。

昭王は水中に沈んだ

史記などでは、昭王の時代に王道が少し衰えたとあります。

しかし、実際にはこの時に、周王の力が諸侯を遥かに上回り南征をしきりに行っていたようです。

昭王が自ら将軍となり、漢水で軍と戦った時に、水中に落ちた事になっています。

書いてある書物によって、昭王は漢水で死んだとする説と、部下に助けられた説で別れています。

周の昭王の時代は、しきりに南征をした時代でもありました。

穆王の時代が周の全盛期?

穆王の時代が周の全盛期だと指摘する専門家もいます。

父親である昭王の時代にある程度の、南征が片付いたのか、穆王は積極的に西征を行っているのです。

犬戎を討ったりもしています。

さらに、西王母にあったなどの伝説もあります。

穆天子伝などの小説もありエピソードも多いです。

尚、呂刑と呼ばれる3000にも及ぶ罪状が発行されたのはこの時代です。

共王の時代

共王は西周王朝の中でも比較的目立たない王様にも思えます。

しかし、金文などにも書いてあるので実在の人物だと言う事は間違いないでしょう。

ちなみに、共王の時代もしきりに遠征をしていますし、この時代になると貴族制が完全に出来上がって来たようです。

世襲貴族が普通になっていた事が金文などから分かっています。

尚、密国の康公が美女を共王に献上しなかったために、起きた密国滅亡事件はこの時代です。

この話は王朝が揺らいできている象徴として捉えている人もいます。

懿王と遷都

懿王の時代になると、史記では王道が衰えたとはっきりと書かれています。

懿王が犬丘に遷都したりしたようですし、配下の実力者が懿王を残して向に遷都してしまうなどの事件も起きています。

実力者の克氏が遷都してしまった事で、懿王は王都に一人残されたと言う話まであるわけです。

遷都してからが、どうなったかが分かりませんが、政局は荒れていたのではないかと思われます。

さらに、周辺の異民族などから、しきりに攻撃を受けるようになったのも、懿王の時代だと言われています。

孝王の時代の混乱

周の懿王が亡くなると、周の孝王が即位します。

周は、文王から懿王までの周王は全てにおいて親子間で相続してきました。

しかし、孝王は共王の弟とも懿王の弟とも言われています。

どちらが正しいのか書いてある書物によって違うので不明です。

しかし、親子間で正式に相続が為されなかったと言う事は、諸侯や大臣、有力者の都合により王位が左右された事を指すのかも知れません。

この頃の周は王室の力が弱まり、王室だけでは物事が決めれない状態になっていたようです。

ただし、周の孝王が周王として認められている金文が発見されている事から、周の孝王による傍系による簒奪は無かった可能性が高いと言えます。

夷王の時代は貴族性の崩壊が躊躇になる

孝王が亡くなると、夷王が即位しています。

夷王は、懿王の子ですから、王位が正当に戻った事を指すのかも知れません。

もしくは、有力者の権力闘争の末に夷王が即位した可能性もあるでしょう。

尚、夷王の時代は貴族社会が崩壊に向かい、新興豪族などの登場が著しく台頭したりしています。

権力者が一朝にして滅んだりしてしまうなども起きている事が金文から分かっています。

厲王時代の暴動への加速の段階とも言えそうです。

厲王は暴君ではなかった?

厲王は暴君の代名詞のような人物なのですが、実際には周王朝の力を回復させようと励んだ人だった可能性があります。

栄の夷公を執政に任じて中央集権化を作りたいと考えたようにも見えます。

しかし、国人の恨みを買ってしまい暴動が起きた事で、彘に出奔する事になってしまいます。

この時に、西周王朝の首都には王が不在という状況になってしまったわけです。

周の共和制

周の厲王は彘に出奔してしまいましたが、まだ生きているので、次の王を建てる事が出来ませんでした。

そこで周王の代わりに大臣が政治を行う共和の時代となります。

史記などでは、周公と召公が共に政治を行った事から「共和」となったとされています。

しかし、竹書紀年によると共伯和なる人物が執政を行ったとされていますし、金文では別の話しが載っています。

そのため、どれが本当なのか分からない時代とも言えます。

尚、司馬遷の12カ国年表は共和から始まり、この辺りから年代がはっきりと分かるようになってきます。

宣王は中興の祖ではなかった。

厲王が彘で亡くなると、宣王が正式に即位します。

これにより共和は終焉を迎えます。

史記などでは、宣王の治世の前半は異民族討伐などの成功を収めて周は蘇ったような活躍を見せます。

しかし、治世の後半では宣王が礼を怠ったり、戦争でも勝てなくなり最初の勢いが無くなったように感じます。

金文などを見ると、宣王を中興の祖にするには疑問があります。

幽王の代で西周は滅亡

幽王の時代になると、周はかなり弱体化しているようにも見えます。

金文などでも王から直接命令が下る事が少なくなっている様です。

幽王が褒姒を笑わせるために、偽りの狼煙を上げるオオカミ少年事件などもあり、犬戎や申公に攻められても諸侯が救援に来ないなどの事件も発生してます。

それにより、西周王朝は滅亡しました。

幽王は死亡したわけですが、申にいた元太子の宜臼が晋の文侯、秦の襄公、申公、鄭の武公、衛の武公などの諸侯に守られて洛陽にある成周に入っています。

周が西の鎬京から東の洛陽に移した事を周の東遷と呼び、東周時代になります。

しかし、周の王子である余臣が鎬京で即位して周王を名乗り、史上初の王朝並立時代にも突入しました。

尚、余臣が荒れ果ててしまったはずの鎬京でどの様にして即位したのかは不明です。

一説によると余臣は携という地で即位し携王を名乗った説もあります。

幽王が殺されるまでが西周王朝で、この時代までは諸侯の力よりも周王の力が上回っていた時代でもあります。

ここから先は春秋戦国時代となり乱世の時代です。

秦の始皇帝により天下統一されるまで500年以上乱世の時代が続いた事になります。

尚、洛陽に遷都した東周ですが、小国となってしまいます。

さらに、その小国が分裂などもあり戦国七雄が秦に滅ぼされるのに先駆けて、紀元前256年ににより滅亡しています。

秦の統一戦争は、秦の襄公が周王朝から諸侯として認められた時から始まったと言えるのかも知れません。

西周王朝は謎が多い

西周王朝は特に謎が多い時代です。

年代をまとめようとしても、全然かみ合わないとか、そういう状態になってしまいます。

さらに、史記などと金文などでも書かれている事が違っていたりして、非常に難しいと思いました。

日本で言う邪馬台国のように知っているようで、分からない部分が西周王朝の魅力なのでしょう。

西周の歴代君主一覧

文王ー武王ー成王ー康王昭王穆王ー共王ー懿王ー孝王ー夷王ー厲王ー(共和)ー宣王幽王ー携王

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