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単刀赴会(たんとうふかい)『魯粛と関羽の会見』

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単刀赴会(たんとうふかい)は、西暦215年に行われた魯粛と関羽の会見です。

単刀赴会は四字熟語にもなっています。

魯粛と関羽はお互いに兵士を百歩離し、太刀一つだけを持ち会見に臨んだ事から来ています。

三国志演義だと関羽の剛胆さが際立つ内容となっていますが、史実で考えると魯粛の圧勝とも言えるでしょう。

今回は正史三国志をメインにしながらも、三国志演義の単刀赴会も紹介します。

尚、魯粛は三国志演義のイメージが強く周瑜に怒られたり、諸葛亮との関係を見ると情けない人物に思われがちですが、史実の魯粛は優れた外交感覚があり、剛胆な人物でもあります。

 

単刀赴会の経緯

正史三国志の単刀赴会に及ぶ経緯を解説します。

単刀赴会を知る上では、単刀赴会の会見の場だけではなく、経緯が大事だと考えています。

劉備が荊州を領有

赤壁の戦いで呉の孫権が周瑜や魯粛の活躍もあり、曹操軍を退けています。

この時に、孫権は劉備に借用という形で荊州の中南部を与えたわけです。

周瑜の死後は劉備は荊州の江陵も支配下にしています。

劉備はその後に、益州の劉璋を降伏させ入蜀に成功し、蜀を領有する事になります。

孫権は益州を劉備が領有した事で、貸していた荊州の返還を求める事になります。

 

孫権の荊州返還運動

孫権は諸葛瑾を使者として、荊州の返還を求めています。

これに対して、劉備は「荊州は涼州を取ったら返還する」と述べたわけです。

孫権は気分を害しますが、とりあえず荊州の南部にある長沙郡、桂陽郡、零陵郡の3郡の返還を求めます。

孫権は長沙郡、桂陽郡、零陵郡に自分の息が掛かった官僚を送り込みますが、荊州の責任者である関羽により追い返されています。

条件を下げても返す気がないと見た孫権は怒り、呂蒙を派遣し、長沙、桂陽、零陵の三郡を平定しました。

孫権は劉備に話をしても無駄だと判断し、実力行使に出たわけです。

単刀赴会は孫権の荊州返還運動から始まる事になります。

 

劉備陣営が動く

孫権が武力を使った事で、劉備も動く事になります。

劉備は関羽に呂蒙に取られた、長沙、桂陽、零陵の三郡を取り戻す様に命令しました。

関羽三郡の北にある江陵にいましたが、軍を南下させる事になります。

劉備自身も荊州を失う事を恐れたのか、益州から軍を出し公安に行く事になります。

 

孫権も動く

孫権は関羽が南下し、劉備が公安に陣を布いた事を聞くと、自ら陸国に出向く事になります。

さらに、孫権は魯粛に命じて益陽に入らせています。

魯粛は益陽で関羽の南下を防ぐ形となったわけです。

魯粛の軍には荊州の三郡を平定した呂蒙も加わる事になります。

関羽は南下しますが、益陽の北にある資水で魯粛の軍と対峙する事になったわけです。

 

戦いが膠着状態となる

益陽の北に川を渡せる浅瀬がある事を関羽は見つけ、浅瀬から精鋭を率いて渡河しようとした話があります。

ここで呉軍の甘寧が、関羽の浅瀬を渡河する監視をしたいと名乗り出ます。

甘寧は呉の猛将であり、関羽も渡河する事が出来なかったわけです。

関羽が渡河する事が出来なかった事で、関羽軍の作戦が停滞し、戦いは膠着状態となります。

 

魯粛の提案

戦いが膠着状態になった事で、魯粛は関羽との会見を行いたいと考える様になります。

ここで、呉の諸将は反対しますが、魯粛は関羽に会見を呼び掛ける事になります。

劉備陣営も北にいる曹操は脅威でしたし、実際に単刀赴会が行われた西暦215年に曹操は益州の北になる漢中の張魯を降しています。

劉備陣営にも泣き所はあり、孫権にとってみても曹操は脅威であり、劉備と長く戦うわけにも行きませんでした。

こうした中で、魯粛の呼びかけに応じて単刀赴会が行われる事になります。

 

単刀赴会の内容

単刀赴会の内容を正史三国志と三国志演義で比較してみたいと思います。

三国志演義の単刀赴会

三国志演義の単刀赴会は、魯粛の提案に関羽は快くOKを出します。

関羽配下の馬良や関平は関羽を止めますが、剛胆な関羽は魯粛と太刀一振りだけを持ち、会見に挑む事になります。

魯粛の方でも、呂蒙や甘寧を使って関羽を討ち取る作戦があったわけです。

魯粛は関羽との会見で、荊州の返還を求めます。

しかし、関羽は難色を示し、関羽配下の周倉が「天下の土地は徳のある者が保ち、東呉のものではない。」と述べ、関羽が周倉を叱りつけています。

ここで周倉が察し、関平に合図を送り呉軍を威嚇しています。

ここで会見は終了し、関羽は魯粛を掴み引きずり川岸まで行ったわけです。

関羽が魯粛を掴んでいる事から、呂蒙や甘寧は関羽を攻撃する事も出来ずに、単刀赴会は終了する事になります。

尚、三国志演義では単刀赴会の後に、諸葛亮の策略があり伊籍に命じて、長沙、桂陽、零陵の三郡を返還しています。

三国志演義の単刀赴会では、魯粛や呉の活躍は全くなく、関羽の剛胆さばかりがアピールする結果となっています。

ただし、正史三国志の単刀赴会で、主導権を握ったのは関羽ではなく魯粛です。

 

正史三国志の単刀赴会

正史三国志によれば、単刀赴会では、魯粛の軍と関羽の軍の首脳部が太刀を一つだけ持ち会見に挑む事になります。

会見を行うにあたって、それぞれの軍隊を百歩離す事が条件となっていました。

ここで魯粛は次の様に述べています。

「孫権様が劉備様に土地を貸したのは、劉備様が土地も無く困っていたからです。

現在の劉備様は益州も手に入れているのに、荊州を返還する気もありません。

我が方では、最初に荊州の三郡だけを返還する様に求めたのに、聞き入れないのは何事であるか。」

これに対して、関羽の側近の一人が「土地は徳がある者に落ち着くものだ。」と述べると、魯粛は声を荒げて関羽の側近を怒鳴りつけています。

関羽は太刀を手に持ち立ち上がると、次の様に述べています。

関羽「これはもとより国家に関する話であり、この者が関知する話ではない。」

関羽の言葉で、関羽の側近は退く事になったわけです。

さらに、魯粛は関羽に畳みかけるますが、関羽は上手な返答が出来ません。

劉備陣営にしても北方の曹操が気になったのか、魯粛の交渉は成功し、劉備は湘水の東を呉に返還しました。

史実の単刀赴会だと、魯粛の理攻めの前に関羽は上手く回答する事が出来ず、魯粛の独壇場だったわけです。

史実だと魯粛の剛胆さが垣間見えるのが、単刀赴会だったと言えるでしょう。

魯粛を見ると、三国志演義被害者の会の会員になっているのが分かる気がします。

 

魯粛の優れた外交センス

劉備は湘水の東側を呉に返還したわけですが、長沙と桂陽を返還し、零陵は劉備が領有する事になります。

これを考えると、魯粛は呂蒙が奪い取った零陵を劉備に再び与えた事になったのでしょう。

しかし、当時の蜀(劉備)と呉(孫権)の北には、強大な魏(曹操)の勢力がいて、お互いに争っている場合でもなかったわけです。

そうした事から、魯粛は劉備に花を持たせる意味でも、零陵を劉備に返し、恨みを買わない様に仕向けた様に思います。

魯粛は剛胆な人物でもありますが、緻密な外交を行える人物でもある証なのでしょう。

史実の単刀赴会を見る限りでは、魯粛の圧勝だったと言えます。

余談ですが、中国には「劉備借荊州」という言葉があり、借りた物を返さない諺にもなっています。

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