この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

秦末期・楚漢戦争

鄭忠は1度の進言で名を残した人物

2021年10月14日

スポンサーリンク

鄭忠(ていちゅう)は、楚漢戦争において劉邦の配下として活躍した人物です。

鄭忠に関しては、殆ど記録がなく、どの様な人物だったのか分かっている事は殆どありません。

私が調べた所、史記の高祖本紀や漢書項籍陳勝伝、資治通鑑に1回だけ劉邦に進言した記録がありました。

しかし、史記の高祖功臣侯者年表を見ても、鄭忠らしき人物の記録はなく、多くが謎に包まれていると言えそうです。

ただし、史記や漢書に鄭忠の名前が存在している事から、実在したのはほぼ確実だと言えるでしょう。

今回は非常にマイナーな人物ではありますが、鄭忠の解説をします。

 

鄭忠が劉邦に進言するまでの状況

劉邦は56万もの大軍で、項羽の本拠地である彭城を落としました。

しかし、斉に遠征中だった項羽が戻ってくるや彭城の戦いで、歴史的な大敗北を喫したわけです。

この時に、劉邦は陳平らと滎陽に籠りますが、劉邦の軍は明らかに不利だったと言えます。

こうした中で、劉邦は滎陽の城を周苛や紀信に任せて、自らは陳平と共に韓信の陣に乗り込みます。

韓信の陣に乗り込んだ劉邦は韓信の軍隊の指揮権を奪い、韓信には斉の攻略を命じ、自らは韓信の兵を使い再び項羽に戦いを挑もうと考えました。

劉邦が兵を補給した頃には、項羽は滎陽の城を陥落させ、周苛や紀信を討ち取っています。

しかし、項羽の後方に彭越が現れて、楚の項声と薛公を破ったので、項羽が自ら彭越を討ちに行ったわけです。

項羽は彭越を破り、兵を補給した劉邦と項羽は再び戦う事になります。

劉邦は直線的に項羽と戦おうとしますが、この時に劉邦を諫めたのが鄭忠となります。

 

鄭忠の進言

史記によれば、劉邦は黄河方面に向かい、小修武の南に陣を布き項羽の軍と戦おうとします。

ここで鄭忠が劉邦に進言するわけですが、次の記述が史記にあります。

郎中の鄭忠は漢王(劉邦)を諫止し、塁を高く塹壕を深く掘り、戦わない様に説いた。

史記の言葉を見ると、鄭忠は劉邦に対し守りを固めて、項羽と決して正面から戦わない様に述べた事になるでしょう。

鄭忠は劉邦に大して、持久戦をしろと述べた事にもなるはずです。

この後に、劉邦は劉賈と盧綰に二万の兵を授け、彭越を援助しました。

彭越は劉邦の援助により復活し、楚軍を燕郭で破り梁の十城を手に入れた話があります。

鄭忠の進言は、守りを固めるだけではなく、楚軍の後方を脅かせと言った二本立てだったのでしょう。

鄭忠の考えで、彭越であれば項羽が楚軍を率いて戦えば負ける事もあるが、彭越の指揮能力であれば、項羽以外の楚の将軍では彭越を打ち破る事が出来ないと考えた様にも思いました。

この後に、項羽は糧道を断たれた事から、劉邦の相手は曹咎に任せて、項羽は自ら彭越の討伐に向かったわけです。

楚漢戦争は、この後に韓信が斉王田広と龍且の斉楚連合軍を破り、彭越が楚軍の糧道を何度も切断した事で、項羽の軍は飢えはじめ疲れが見え始めます。

それを考えると、鄭忠の進言は一つのターニングポイントだった様にも思えました。

劉邦軍の戦略を言えば、張良を思い浮かべる人も多いかも知れませんが、鄭忠も立派に戦略を進言したと言えるでしょう。

 

鄭忠の評価

鄭忠を高祖功臣侯者年表で調べても、名前の記載がなく、鄭忠は謎が多いです。

しかし、鄭忠が高祖功臣侯者年表に名前が載らなかった事を考えれば、鄭忠の活躍は少なかった可能性もあるでしょう。

鄭忠の最後も不明ですが、何らかの理由により、早い段階で亡くなってしまった可能性もあるはずです。

他にも、劉邦が統一後に起こされた反乱に加わり、処刑された可能性もある様にも感じています。

鄭忠に関しては、分からない事だらけだとも言えます。

鄭忠に関しては、先にも述べた様に史記や漢書に名前は登場しますが、1回しか活躍の記述はありません。

しかし、こういう人物に対しても、名前をしっかりと記載してくれる司馬遷にありがたみを感じている次第です。

 

スポンサーリンク