その他 三国志

陶謙は【感情のままに動き道義に背く人物】だったのか??

2021年3月23日

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宮下悠史

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陶謙と言えば劉備に徐州を譲った優しそうなおじいさんのイメージがないでしょうか?

しかし、史実の陶謙を見る限りでは、優しそうなお爺さんと言う言葉は当てはまりません。

むしろやりたい放題の無法者と言った方がいいかも知れません。

もし、陶謙に優しそうなお爺さんとか、優柔不断のおじいちゃん的なイメージがあるのであれば、粉砕してもらいたいとも感じています。

ちなみに、正史三国志の著者である陳寿は陶謙の事を「感情のままに動き道義に背いた人物」と評価を与えています。

陳寿の評価からも陶謙が如何に無法者だったのかが分かるはずです。

余談ですが、陶謙は正史三国志だと公孫瓚公孫度張魯張楊、張燕、張繍らと同じ伝に記述されています。

自分の上司を侮辱する

184年に涼州において辺章・韓遂が反乱を起こします。

後漢側で鎮圧に任命されたのが張温という人物になります。

張温の部下には董卓孫堅、陶謙などの三国志ではお馴染みの人物がいました。

この時に張温は陶謙の事を厚遇していたとされています。

しかし、陶謙の方は張温の指揮などが気に入らなかったようで、ついに酒宴の最中に侮辱してしまいます。

張温は責任者でもありましたし、陶謙を左遷する事にしました。

その後、周りのとりなしにより陶謙は職場復帰するわけですが、暴言はやめなかったそうです・・。

ついには、張温の方が「お前の暴言癖は治らない」と呆れられたという話が残っています。

陶謙は口がかなり悪かったのでしょう。

反董卓連合軍に参加せずに董卓に賄賂を送る

霊帝が崩御すると政治は混乱状況に陥ります。

混乱の中で大将軍の何進宦官に殺害され、怒った袁紹が宦官を皆殺しにしてしまい宮中も凄惨な状態になってしまいます。

その中で董卓が丁原配下の呂布を寝返らせたり、丁原の軍を吸収するなどし実権を握って行く事になります。

董卓は少帝を廃し、献帝を即位させるなど権力を手にいれる事に成功したわけです。

しかし、董卓は涼州の田舎出身であったりした事もあり、名士などからは嫌われていました。

董卓を打倒するために、曹操や袁紹が董卓打倒のための連合軍を作り上げます。

袁紹や曹操の呼びかけに袁術、孫堅、公孫瓚、張邈韓馥孔伷劉岱ら多くの刺史や太守らが参加をしています。

しかし、陶謙は反董卓連合に参加する事がありませんでした。

それどころか、董卓に賄賂を送っています・・・。

そして、董卓に働きかけて自分の徐州の権力強化に邁進しているわけです。

尚、反董卓連合軍が結成されるなか、陶謙は影響力を強めて徐州だけではなく豫州にまで影響力を及ぼす様になりました。

連合軍に参加せずに、董卓に賄賂を贈る辺りも無法者とも言えるでしょう。

それか、韓遂討伐の時に董卓と陶謙は同じ軍にいたわけで、強硬政策を進言する董卓に魅力を感じていたのかも知れません。

朱儁を援助

陶謙は黄巾の乱三英傑の一人である朱儁を、援助した話があります。

陶謙は董卓が長安遷都を強行すると、洛陽にいた朱儁に三千の兵を送り、朱儁は董卓配下の李傕や郭汜と戦っています。

朱儁は兵が少なかった事もあり敗れますが、陶謙は朱儁への援助をやめませんでした。

しかし、董卓は王允呂布により横死し、最終的に李傕、郭汜らが朝廷を牛耳る事となります。

陶謙は朱儁に書状を送り、太師として反李傕の盟主に立てようともしています。

この時に朱儁の方では賈詡の進言を入れた李傕が献帝の詔を出し、朱儁を朝廷に招きました。

朱儁は陶謙と朝廷の両方からアプローチされた事になるでしょう。

ここで朱儁は陶謙ではなく、朝廷の申し出に応じました。

これにより陶謙は朱儁を盟主にする計画を諦める事となります。

朱儁が陶謙よりも朝廷を選んだのは、陶謙の人柄を考慮した可能性もある様に感じています。

張昭が士官に応じないと投獄

後に孫策に迎えられて重臣となる張昭がいます。

張昭は張紘と共に「江東の二張」とも呼ばれています。

赤壁の戦いでは降伏派でしたが、呉の文官の筆頭になるような人物です。

陶謙は張昭を自分に士官させようと思い茂才(優秀な人物)として推挙します。

しかし、張昭は陶謙が無法者だと知っていたのか、士官を断ったわけです。

劉備や孫策であれば三顧の礼をするわけですが、陶謙の場合は張昭に腹を立てて捕らえてしまいました。

さらに、獄に入れたそうですから、よっぽど怒っていたのでしょう。

士官を断られたと言って獄につないでしまうのは、心が狭いかなとも感じます。

この辺りは、陶謙に無法者の気質があると言えるでしょう

自称皇帝を名乗る男と手を結ぶ

陶謙が徐州で活躍していた頃、闕宣(けっせん)は下邳で天子を名乗っています。

つまり、闕宣は皇帝を自称していたわけです。

後漢末期には袁術以外にも勝手に皇帝を名乗る人物がいたのです。

もちろん、献帝は許可していませんので、常識的に考えれば闕宣は逆賊となります。

しかし、陶謙は思いもかけぬ行動に出ます。

何と闕宣と同盟を結んでしまうわけです。

闕宣と同盟を結び曹操に対抗しようとしています。

さらに、陶謙の凄い所が闕宣を裏切って殺してしまい兵力を吸収してしまった所でしょう。

ここからも陶謙の無法者ぶりを伺い知る事が出来ます。

ここまで行くと、三国志演義の著者である羅漢中はよく陶謙を「優しいお爺さん」に設定したな~と思ってしまった程です。

部下の笮融は職場放棄

これはおまけ的な記事なのですが、陶謙の部下に笮融という男がいました。

三国志演義では劉繇の部下として登場する笮融です。

実際の笮融は、最初は陶謙の部下として仕事をしていました。

輸送を任されたわけですが、笮融は途中で仕事を全て投げ出してしまい職場放棄しています。

普通で考えれば笮融が悪い事になりますが、陶謙だと「この上司にしてこの部下あり」と思えるから不思議です。

ちなみに、笮融はその後、仏教に目を付けて仏教保護をしています。

笮融は南方に信者を引き連れていくわけですが、略奪も行っている事が分かっています。

笮融については、別記事で詳しく書いてありますので、読んでみてください。

徐州大虐殺

曹操は曹嵩や曹徳を迎え入れようと考え泰山太守の応劭に任務を与えました。

この時に、陶謙は部下の張闓を曹嵩の元に向かわせています。

ここで張闓が欲に目が眩んだのか、陶謙の命令なのかは不明ですが、曹嵩と曹徳を殺害してしまったわけです。

張闓はそのまま淮南に逃亡しました。

これに激怒したのが曹操であり、陶謙がいる徐州に攻め込んで来ました。

この時の曹操は苛烈であ、り徐州大虐殺を行うなど惨劇が繰り広げられる事になります。

しかし、天は陶謙を味方したのか、陳宮張邈が曹操に反旗を翻し呂布を迎え入れたわけです。

荀彧程昱夏侯惇などは曹操に味方しましたが、兗州の大半が曹操の敵となってしまいます。

これにより曹操は陶謙征伐を諦めるしかなくなり、徐州から手を引きました。

しかし、陶謙は命拾いしますが、陶謙の寿命は尽きかけていたわけです。

陶謙が徐州を劉備に譲る

三国志演義だと陶謙は劉備の器量を認め徐州を譲ろうとした事になっています。

史実と考えられている正史三国志の陶謙伝を見ると、亡くなった事だけが書かれていて、小沛にいる劉備を後継者に指名した記述がありません。

ただし、蜀書の麋竺伝には麋竺は陶謙の遺命に従い劉備を小沛から迎え入れた記述があります。

これを考えると陶謙が麋竺に劉備を後継者にする様に伝え、麋竺が実行した事になります。

劉備が徐州の牧になる為に、最も貢献したのが麋竺だった事は間違いなさそうです。

陶謙伝には、陶謙の子である陶商と陶応は仕官しなかったとあり、陶謙との親子関係で何かあったのかも知れません。

陶謙は性格的に難しい人でもあり、親子関係のこじれから劉備を後継者に指名した可能性もあるでしょう。

陶謙が本当に麋竺に劉備を後継者にする様に伝えたのかは不明です。

ただし、麋竺は弟の糜芳の裏切りにより憤死してしまった話もあり、誠実な人物な事もあり陶謙が劉備を後継者に指名し、麋竺が実行した様に思いました。

それか麋竺が熱狂的な劉備ファンであり、無理やり劉備を後継者にしてしまったのかも知れませんが・・。

因みに、劉備の文官と言えば麋竺、孫乾、顧雍らがいますが、孫乾は陶謙の死後に劉備の要請により仕えた人物です。

孫乾は三国志演義の様に最初から陶謙に仕えていたわけではありません。

余談ですが、劉備が夷陵の戦いで敗れ白帝城で亡くなる時に、諸葛亮に「劉禅が補佐する値がなければ、其方が皇帝になればいい。」と発言した話があります。

ある意味、劉備は諸葛亮に国を譲ろうとしている様に見えるわけです。

一つの説として、劉備は亡くなる時に、陶謙が自分に国を譲ってくれた事を思い出し、同じ事を諸葛亮にしたとする説もあります。

それを考えると、陶謙が劉備に与えた影響は大きかったのかも知れません。

陶謙は乱暴者だったからこそ認められた?

陶謙は父親が早くに亡くなり孤児だったようです。

しかし、陶謙は元々親分肌だったのか、子供たちの間ではガキ大将?として通っていた話が残っています。

陶謙を見た甘公という人物が、たいそう気に入り自分の娘を嫁にやると言い出します。

もちろん、当時の陶謙は財力も大してありませんから、甘公の夫人は大反対しますが、甘公は陶謙は絶対に出世すると言い娘と結婚させました。

この辺りの話しは劉邦と呂后の話しに似ています。

甘公の娘と結婚できた事で陶謙は財力のバックアップに成功しました。

陶謙は学問に励んだとありますが、若くして甘公の娘と結婚してから学問に目覚めたのではないかと感じます。

もし陶謙が、大人しい男であったならば甘公は娘を嫁にやらなかったでしょう。

陶謙は暴れん坊ではあるが、魅力的も備えていたと思われます。

逆に言えば乱暴者で気が強い一面があったからこそ、甘公は陶謙を認めた可能性も高いです。

尚、陶謙ですが、陳寿には「感情のままに動くとか道義に背く」と書かれている事実は確かにあります。

しかし、呉書では「剛直で世の規範を守って行動する人物」とも書かれているわけです。

そのため陶謙は二面性のある人物とも取れるでしょう。

行動を見る限りでは、世の規範を本当に守っているのか?疑問もわいてきますが、案外、実在の人物は好漢だったのかも知れませんね。

ちなみに、陶謙は自分の息子ではなく劉備を推挙して世を去っていますが、劉備に自分に通じるものを見た可能性があります。

劉備も正史三国志では、かなり暴れていますからね。

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