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構成・文/宮下悠史

斉(戦国) 春秋戦国時代

淖歯(とうし)は欲を出して破滅していた

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名前淖歯(とうし、又はにょうし)
生没年生年不明ー紀元前283年
楚→斉
年表紀元前283年 斉の湣王を殺害するも、自らも殺害される。
コメント欲を出して破滅した様にしか見えない

淖歯(とうし、にょうし)は、楚の頃襄王の配下の将軍です。

淖歯は楚の頃襄王の命令により、楽毅により壊滅状態にされてしまった斉の援軍に派遣されました。

しかし、史記などの記述によれば、淖歯は斉の宰相になるも、斉の湣王を殺害してしまう暴挙に出ています。

最終的に淖歯は、斉の王孫賈により呆気なく討ち取られてしまいます。

淖歯は欲を出して身を滅ぼした、典型例だとも言えるでしょう。

今回は暴君と呼ばれた、斉の湣王を殺害した淖歯を解説します。

 

斉に援軍に向かう

済西の戦いで、燕の楽毅率いる合従軍に斉は破れ、斉の湣王は衛や魯などに亡命を余儀なくされ、最終的に莒に入りました。

史記によれば、楚の頃襄王は、斉の湣王を救援する為に、将軍の淖歯を派遣する事を決めます。

この時に東周列国志によれば、楚の頃襄王は淖歯に対し、次の様に述べた話があります。

楚の頃襄王「斉の湣王は窮地に陥り、儂に助けを求めて来た。

其方は斉に到着したら、臨機応変に行動し、楚の利益に繋がる様にせよ」

楚の頃襄王は過去に、斉の湣王に淮北の地を取られた事があり、淮北の奪還は当然の事として、さらなる利益を求めたのでしょう。

淖歯は斉の湣王がいる、莒に向かって出発したわけです。

 

斉の湣王を殺害

淖歯が莒に到着すると、斉の湣王の喜びは大きかったのか、淖歯を宰相に任命しました。

斉の湣王は窮地に陥っており、淖歯に対し最大限の配慮をしたとも言えます。

しかし、史記の田敬仲完世家によれば、次の記述が存在します。

「淖歯は湣王を殺害し、斉から奪った土地と宝器を燕と分け合った」

これを見るに、淖歯は斉の湣王の期待に応える事も無く、燕と内通し湣王を殺害してしまったのでしょう。

淖歯は楽毅率いる燕軍の勢いの強さを目の当たりにし、とても敵わないと判断し、燕の楽毅と取引をした様に思います。

尚、史記の楚世家に楚が淮北を取った記述があり、この時に楚は斉から淮北を取り返した様にも感じています。

淖歯が斉の湣王を殺害した経緯は、戦国策に詳しく淖歯と斉の湣王の間で、次のやり取りがあった事になっています。

淖歯「千乗、博昌の間、数百里四方に、血が降って衣服を濡らしたと聞いております。

斉王様は、この事は存じておりますでしょうか」

斉の湣王「知らぬ」

淖歯「嬴、博の間で黄泉の地まで、地面が裂けた話がありますが、斉王様はご存知でしょうか。」

斉の湣王「知らぬ」

淖歯「宮闕で人の鳴き声があり、探しても姿は見えなかったと聞きますが、斉王様はご存知でしょうか。」

斉の湣王「儂は知らない」

淖歯「天が雨を降らせて、衣服を濡らしたのは天の告知です。

地が黄泉の国まで達したというのは、地の告知となります。

天・地・人と告知があったのに、斉王様は戒めに気が付いておりませぬ。

これでは、誅を免れる事は出来ません」

言い終わると淖歯は、斉の湣王を殺害してしまったわけです。

一時は宋を滅ぼすなど、強大な勢力を誇った斉の湣王も淖歯により無残な最期を迎えました。

この時に、淖歯は斉の湣王の子らも誅殺しようと考えますが、法章が太史敫の家に逃げて召使として暮らす事となります。

 

淖歯の最後

淖歯は燕と取引を行い斉の地を二分しようと考えた話しもあります。

しかし、淖歯は呆気なく命を落とす事となります。

淖歯は斉の湣王の宰相になったにも関わらず、斉の湣王を殺害してしまったわけです。

これは宰相が国君を殺害したのであり、淖歯は斉の士からは不忠者のレッテルを貼られてしまいます。

過去に斉の湣王により、官位を与えられ恩があった王孫賈は、母親の言葉に奮起し、淖歯を打倒する為に密かに動いていました。

王孫賈は市で四百人の士を集める事に成功し、彼らを率いて淖歯を急襲したわけです。

不意を衝かれたせいか、淖歯は王孫賈により呆気なく殺されています。

その後に、王孫賈や斉の大夫らが法章を斉の襄王として即位させました。

燕の昭王が紀元前279年に没し、燕の恵王が即位すると、楽毅は解任され騎劫が将軍となり、即墨の田単が反撃に転じ、燕に奪われた土地を全て取り返しました。

 

楚の孤立

淖歯が燕と取引をして、斉の湣王を殺害してしまった事で、楚が外交上で孤立したとする説があります。

楽毅は燕の上将軍に任じられ、趙の恵文王にも信任を得た事で燕、趙、、魏、韓の合従軍を率いて、斉を破っています。

これを見るに、燕、趙、秦、魏、韓は同盟を結んでいる事になるでしょう。

それに対し、斉と楚が同盟を結んでおり、淖歯を派遣したはずです。

しかし、淖歯が悪心を起こし、斉の湣王を殺害してしまったら、斉と楚の関係も冷え込む事にもなるでしょう。

そうなると、楚は斉とも険悪となり、外交上で味方がいなくなってしまう様に思います。

一説によると、楚の頃襄王は外交上の孤立を防ぐ為に、趙に近づき恵文王には、国宝である和氏の璧を贈り誼を結んだのではないか?とも考えられています。

後に、趙の藺相如が和氏の璧を持ち、秦に向かいますが、藺相如が和氏の璧を持つには、楚の国宝であったはずの和氏の璧が趙に無ければなりません。

それを考えると、淖歯が斉との関係を悪化させ、苦心した楚の頃襄王が和氏の璧を趙に贈ったとも考えられるからです。

淖歯が斉の湣王を殺害する行為は、楚の外交上の孤立を招いた可能性もあると考えられます。

ただし、戦国策には斉の宰相である田単と近しい貂勃が、楚の頃襄王が淖歯を派遣してくれた返礼の使者となった話があります。

貂勃が楚の頃襄王にお礼を述べるとなると、斉と楚の関係は険悪には見えません。

しかし、淖歯が斉の湣王を殺害したのであれば、そもそも楚の頃襄王にお礼の使者を送るのか?という疑問も存在します。

資料の整合性を取るのが難しいのが、春秋戦国時代の難しさでもある様に感じました。

淖歯の評価

淖歯ですが、謀反を起こすタイミングが早すぎた様にも感じております。

淖歯が呆気なく殺害されてしまったのは、斉の人々の支持も得られていないのに、斉の湣王を殺害してしまったのが原因だと言えるでしょう。

謀反を起こすにしても、人々の支持を得る事が大事だとする例にも感じました。

ただし、淖歯が斉に行った事で、楚では淮北の地を取り戻す事が出来たとも考えられるはずです。

それを考慮すると、淖歯は最上とは言えませんが、最低限の任務を達したとは感じています。

参考文献:平凡社・戦国策 ちくま学芸文庫・史記世家 東周列国志

 

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