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董卓を徹底解説!暴君ではなく実はいい人だった!?

2021年3月18日

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宮下悠史

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董卓と言えば、三国志の人中でも、最大の悪人として描かれている人物です。

悪逆非道の限りを尽くし、自分に意見する者があれば、立ちどころに処刑してしまうような人物と考えている人も多い事でしょう。

三国志の小説などでも、三国志史上最悪の暴君として描かれるのが、当たり前になっているとも言えます。

史実の董卓を見てみると、確かに歴代皇帝の墓を暴いて財宝を奪うなどもやっていますし、後漢王朝皇帝の少帝や母親である何皇后を殺害している事実があります。

しかし、史実の董卓を見てみると、暴政は仕方がなかったのかな?と思う部分もあるわけです。

今回は、董卓を好意的な目で見てのお話になっています。

ちょっと違った視点から、董卓を見てみると、ちょっと面白いかな?と思ったので、記事にして見ました。

因みに、董卓の一族としては弟に董旻、娘婿に牛輔、孫娘に董白などがいます。

三国志演義では李儒も董卓の娘婿だった話もありますが、史実ではありません。

尚、上の画像は三国無双シリーズで、董卓が孫娘である董白の前で「でへでへ」している所です・・・。

上記は董卓のゆっくり解説動画となっています。

董卓は人望がある人だった?

董卓と言えば、自分は贅沢の限りを尽くすが、臣下や民衆に対して人望がゼロだと思っている人も多いはずです。

欲望の意のままに行動したイメージが先行している様に思います。

しかし、陳寿の書いた正史三国志の董卓伝を見ると、次のような記述があるわけです。

董卓は若い頃、羌族の地方を放浪して、顔役たち全員と交わりを結んだ。郷里に帰ると農耕生活をしていたが、羌族の顔役たちが訪ねてくると、耕牛を殺して宴会を開き持て成した。これに羌族の顔役たちは感動した。

董卓は、自ら進んで羌族と交わりを結び、耕牛を殺したとありますから、農耕でまだまだ使える牛を、羌族を持て成す為に、殺してしまったと言う事です。

ここから見える董卓は、異民族であり漢民族からは敵視されたり、蔑視されている羌族に対しても優しかった事が分かります。

尚、羌族は気候の変化からなのか、住む場所が次第に漢民族が住む地域に移してきています。

部族の大移動が起きていた事もあり、跳ね返そうとした、後漢の財政を圧迫していた事実もあります。

この事に関しては、霊帝の記事でもお話ししました。

漢民族の名士などは、極度に羌族などを嫌っている場合もあり、それを考えれば董卓は、人種差別とは無縁の人物であったのかも知れません。

実際に、董卓は洛陽に入った時の部下の兵士の多くは、羌族だったとも言われていますし、羌族からは評判がよかった可能性があります。

ただし、羌族は辺境の地にいたわけであり、洛陽では乱暴に見えた所が少なからずあったのでしょう。

後漢の中央政府からは、虐げられてきた歴史もあり、ここぞとばかりに羌族の怒りが爆発したのかも知れません。

黄巾の乱

西暦184年に張角による黄巾の乱が勃発しますが、黄巾の乱にも董卓は参戦しています。

ただし、黄巾の乱では董卓によい部分は一切見当たりません。

黄巾賊の首領である張角の軍には、劉備の師匠でもある盧植が対応しますが、霊帝が監察として派遣した宦官である左豊に賄賂を贈らなかった事で悪意の報告をされてしまいます。

霊帝は盧植を更迭すると董卓を差し向けますが、董卓は黄巾賊と戦う気もなく処罰された話があります。

董卓がなぜ黄巾賊と戦わなかったのかは不明ですが、董卓なりに思う所があったのかも知れません。

尚、董卓の代わりに官軍のエースである皇甫嵩が向かうと、皇甫嵩は張角の弟である張梁を破り黄巾の乱は終焉に向かいます。

因みに、皇甫嵩は曲陽では張角の弟の張宝を破る活躍もありましたが、董卓と意見の違いからいがみあった話もあります。

董卓が後に実権を握ると、皇甫嵩が過去の事を董卓に謝罪した話も存在します。

人材を登用している

董卓ですが、自分が好む人物だけを高官に付けたようなイメージがあるかも知れません。

これに対しては、当たっている部分もあり、董卓の一族であれば、未成年でも赤ん坊であっても、領地を授けたり侯の位を与えた記述もあるからです。

中には、孫娘で15歳にも満たない董白にまで、領地と官位を賜るように配慮しています。

しかし、実際の董卓は、王允、荀爽、何顒らを登用しています。

これらの人材は、桓帝の時代に党錮の禁で弾圧対象であったり、逃亡していたような人材です。

一般的に清流派と呼ばれている人たちを、董卓は登用している形跡があります。

ただし、これらの人材は董卓を田舎ものと見て毛嫌いしていたのか、よく思っていなかったようです。

これらの事から、董卓は嫌われていたと思うかも知れません。

しかし、董卓は羌族たちとも仲良くやっていたわけです。

清流派の人達から見れば、董卓が羌族と繋がっているのが気に入らなかった可能性があります。

董卓としては、羌族だけでなく、名士とも上手くやりたかったが、名士たちが勝手に毛嫌いしていた可能性もあるでしょう。

他にも、董卓は涼州の出身です。

漢王朝が成立する前に、始皇帝で有名な秦王朝がありましたが、秦は西方出身で涼州の辺りを本拠地にしていました。

秦は春秋戦国時代の後期には戦国七雄の他の国を国力で圧倒し、中原の人々を多く斬首しているわけです。

秦の名将である白起などは、長平の戦いなども含めると100万人は斬首した記録があります。

これらの事から、三国志時代にも涼州人に対しては、冷ややかな目を持っていた可能性もあります。

そういう事もあり、董卓は有能な人材を用いたかったが、名士を中心として多くの人が毛嫌いしていた可能性もあるでしょう。

董卓は仲良くやっていきたかったが、羌族と付き合っている事や、涼州出身者だと言う事で嫌っていたのかも知れません。

董卓は袁紹と仲良くやっていきたかった?

袁紹と言えば、反董卓連合の総大将となっている事から、董卓と仲が悪かった様に思うかも知れません。

しかし、実際の董卓を見ると、少帝を廃して劉協(献帝)を立てる時に、名面中の名門である汝南袁氏の袁紹に相談している記述があります。

ここで、献帝春秋という記録だと、董卓と袁紹が言い争いになった記述があります。

董卓は袁紹を罵倒したとか、そういう事も書いてあるわけです。

正史三国志の注釈を書いた、裴松之は「献帝春秋の記述は明らかにおかしい」と言っています。

もちろん、私がその場を見て来たわけではないので、正確には分かりませんが、相談した董卓が袁紹に罵倒を浴びせるのはおかしいと思いました。

むしろ、権力者である董卓を怒らせるような事をすれば、袁紹も生きて帰れる保証はないはずです。

それを考えれば、袁紹が董卓を罵倒されるような事を言うのは、おかしいかな?と感じています。

董卓に関して、好意的にみれば、董卓が中心とする政府には、袁紹にも協力して欲しいと思っていたのではないでしょうか?

袁紹というのは、名門ですし、董卓も敬意を払っていたのでしょう。

わざわざ呼び出して意見を聞くわけですから、袁紹にへりくだり、尊重している態度にも見えるわけです。

少帝の廃位という重要案件を、袁紹に相談するという事は、董卓は袁紹を大そう信頼していたようにも感じます。

しかし、袁紹は西方の野蛮な人物と董卓を思い、逃亡して反董卓の兵を橋瑁曹操と挙げたの可能性もあるでしょう。

名門の袁紹からしてみれば、董卓のような人物が実権を握るのが許せなかったのかもしれません。

董卓の好意を袁紹が、はねつけたとも、考えられるわけです。

伍瓊、周毖は処刑されて当たり前

董卓の悪行の中に、人臣を殺害したと言うのがあります。

殺された人の中に、伍瓊周毖という二人がいました。

この二人は、名の通った人物でもあった様です。

周毖は、許靖と共に人事を担当しています。

周毖が、董卓に推挙した人物は、韓馥劉岱孔伷張咨張邈などがいました。

これらの人物を郡の太守や刺史、牧などに任命したわけです。

しかし、これらの人物は任地に行くと、反乱を起こして反董卓連合に加わってしまいました。

もちろん、董卓は推挙した周毖を殺害しています。

春秋戦国時代の秦の法律で、推挙された者が失敗すれば、推挙した者は処刑される法律がありました。

秦の場合であれば、宰相の范雎の特例はありましたが、推挙した人物が一人でも失敗すれば処分されてしまうわけです。

後漢の時代にこういう法律がどの程度適用されたのかは分かりませんが、董卓の場合は、これだけ多くの人に裏切られています。

それを考慮すれば、周毖は殺されても当たり前かなと感じました。

尚、伍瓊の場合は命を狙ったと言う話もあり、殺されて当たり前なのかも知れません。

伍瓊と伍孚は同一人物だとする説があり、伍孚は謝承の後漢書で董卓を刺殺しようとした話があると言うことです。

民衆を弾圧

董卓は民衆を弾圧したかの様な事も言われています。

史書によれば、村祭りの最中に殺害したとも言われているわけです。

この時代ですが、民間で勝手に祭祀を行うのは禁じられていました。

さらに、張角が太平道を率いた黄巾の乱がありましたし、宗教系の祭りに関しては厳しくしないといけない雰囲気があったのかも知れません。

現に、徐州の笮融(さくゆう)は仏教は広めましたが、後には信者を引き連れて略奪を行っていたりするわけです。

祭りの最中の村人を殺したと言えば、楽しんでいる村人を殺害したイメージがあるのかも知れません。

しかし、実際には法律で禁じられた祭祀を行ってたいのを発見した董卓が、法に基づき処刑した可能性もあります。

曹操も劉章(前漢の王族)の祭祀を廃止した記録があります。

民の害になっているからという理由で廃止したわけです。

それと同じように董卓も、民に害になっている祭祀を廃止した時に、反抗した人物を処刑した可能性もあるでしょう。

この辺りは史書に書いてないので、詳しくは分かりませんが、理由もなく弾圧したわけでもなさそうです。

少帝の廃位と殺害

董卓は、少帝を廃位して、後に殺害をしています。

母親である何皇后も同時に殺害しました。

三国志演義では、李儒が董卓の命を受けて、毒薬を飲ませようとしますが、断ると幽閉先の建物から、少帝と何皇后を突き落として殺害しています。

しかし、正史三国志の当時の状況を見ると、董卓は仕方がなく殺害した部分も見えてきます。

まず、少帝ですが、正史三国志によれば、董卓と会った時に、「帝の言葉を理解出来なかった」とあります。

これに関しては、様々な説があり、小心者すぎて董卓を見つけた時に、言葉が出せなかった説や、知能が発達しなかった為に、董卓の言葉を理解出来なかった説などがあります。

他にも、聴覚に異常があっとか、言葉が発する事が出来なかったなども考えられます。

それに対して、陳留王(後の献帝)は、ちゃんと話が出来たとされています。

少帝がこのまま帝を続けた場合ですが、母親である何皇后が権力を独占する可能性もあったのではないでしょうか?

少帝が上手くコミュニケーションが取れないのであれば、母親が権力を握る事は十分にあり得るはずです。

何皇后という人物は、霊帝が寵愛していた王美人(献帝の母親)を毒殺してしまい、一時は皇后を廃されそうになった事もあります。

何皇后は、毒殺も出来るような人物ですから、董卓であっても邪魔だと思えば、殺害されてしまう事も考えられます。

さらに、何皇后は気が強い性格だったとも言われていて、やりたい放題になった可能性もあるでしょう。

特に、董卓は大将軍の何進と張譲、段珪、畢嵐ら宦官が争った時に、帝を保護した功績があるわけですから、何皇后には危険視されてしまう可能性もあったわけです。

それを考えれば、董卓が帝を廃して何皇后を殺害したのは、禍根を残さないためとか、「やられる前にやった」とも取れるでしょう。

少帝を廃して陳留王を立てる行為は、先見の明があったとも言えます。

丁原を殺害

董卓は、丁原を殺害しています。

これに関しては、正史三国志にも書いてある事で間違いありません。

三国志演義では、丁原は正義感の強い人物で、少帝の廃位に反対して董卓に戦いを挑んでいます。

しかし、正史三国志には、丁原が董卓に戦いを挑んだ記述はありません。

ただ、呂布を誘って丁原を裏切らせたと記述があるわけです。

董卓は呂布を気に入り騎都尉に任命したとあります。

さらに、父子の契りを結んだと正史三国志に書かれています。

呂布のような主君を裏切る人物を重用してしまう辺りは、董卓はお人好しなのかな?とも感じました。

それか親分肌の董卓は、呂布を見て「面白い奴だ」と感じたのかも知れません。

しかし、後に董卓は呂布により命を落としてしまうわけですが・・・。

尚、丁原を殺害した理由ですが、董卓は洛陽に入った時に兵士が3千しかいなかったともされています。

これでは帝を保護したとはいえ、攻撃されればひとたまりもないと考えて、策を練り兵を多くいる様に見せかけた話が英雄記にあります。

兵力増強のために、董卓は呂布を寝返らせて丁原を殺害し軍勢を吸収したとも考えられるでしょう。

さらに、大将軍であった何進の配下である呉匡が、董卓に何進を殺害したのは、何苗だと言った話が九州春秋にあります。

そのため、董卓は何苗を殺害して軍勢を奪ったとも記載がありました。

これを考えると、董卓は兵士が少なくて攻撃されれば、一撃でやられるような危機に陥っていた為、策を練り兵力を増強したとも取れそうです。

暴虐と言うよりは、生きるための手段とも取れるでしょう。

長安遷都は防衛を重視した結果

董卓は朱儁らに反対されながらも、長安に遷都しています。

洛陽を焦土化してしまい、住民を強制的に長安に移してしまったとされています。

しかし、これに関しては、董卓の方にも言い分があるでしょう。

この当時は、反董卓連合が結成されていました。

袁紹、曹操、袁術孫堅、鮑信などが参戦しています。

実際に、戦いも起きていて、陽人の戦いでは董卓配下の徐栄が曹操と孫堅を破るなどもありました。

しかし、陽人の戦いでは、呂布が味方である胡軫の足を引っ張り、とばっちりを受けた華雄が戦死する事件も起きているわけです。

連合軍も足並みが揃っていなかったとされていますが、董卓軍も足並みが揃っていないように見えます。

この様な状況の中で、董卓は守りに適さない都である洛陽から、守りに適している関中に都を移したわけです。

長安に都を移したわけですが、前漢の劉邦張良の進言により守りやすいという理由で、長安を首都に定めています。

尚、項羽は秦王朝を倒した時に、関中から離れて彭城を首都とした為に、天下を失ったとも言われています。

関中は春秋戦国時代には、函谷関の戦いなどで秦は何度も合従軍を撃破していますし、項羽が関中を首都にしていたら劉邦に韓信がいたとしても容易に攻略は出来なかった事でしょう。

後漢を建てた光武帝劉秀は、河北を制圧し洛陽方面から関中の長安を陥落させた経緯から、洛陽を首都にしています。

董卓は敵が洛陽の東から攻めて来る状況では、洛陽よりも天然の要害である関中の方が守りやすいと判断したのでしょう。

さらに、董卓は涼州の人間ですから、本拠地に近かった事や羌族の支援を得られやすいなどもメリットが大きかったはずです。

それを考えれば、董卓の長安遷都は非常に理にかなった行動だとも言えます。

尚、住民を強制的に移した行動ですが、諸葛亮であっても北伐の時に魏の人民を捕まえて、蜀の地に移しているわけです。

諸葛亮は蜀の人口が少ない事を危惧して、人さらいをした記録が残っています。

さらに、呉の孫権も住民を増やす政策として、人さらいのような事をしているわけです。

諸葛亮や孫権であっても、人さらいの様な事をやっているわけであり、董卓だけが悪く言われる事はないでしょう。

日本の戦国時代でも義の武将とされる上杉謙信ですら、人身売買を行った話が伝わっています。

歴代皇帝の墓を暴く

董卓のやった悪行として、歴代皇帝の墓を盗掘して、金銀財宝をかすめ取ったものがあります。

歴代皇帝の墓を暴いたのは、真実のようです。

董卓が歴代皇帝の墓を盗掘した理由ですが、財政に余裕がなくて、困っている所に、反董卓連合が結成されて攻撃を仕掛けてきたので、仕方なく歴代皇帝の墓から財宝を奪った説があります。

つまり、反董卓連合が攻めて来なければ、董卓は歴代皇帝の墓を暴く必要もなかったわけです。

歴代皇帝の墓から財宝を盗み出すのは悪い事だと知っていましたが、仕方なくやったとする説です。

ちなみに、お墓を盗掘して財政を潤す方法は、曹操も似たような事はやっています。

これを考えれば、民衆を強制的に移住させたのと、同様に董卓だけが悪く言ういわれはないでしょう。

生き抜くためや部下に恩賞を与えるために、仕方がなく行った行為なのかも知れません。

逆に、これをやらずに敗北してしまったら、「宋襄の仁」と呼ばれてしまい、歴史家から笑われてしまった可能性もあるでしょう。

ただし、王墓の破壊などは歴史的な遺物の紛失にも繋がりますし、後の世の事を考えれば褒められた行為ではない様にも感じます。

董卓は名政治家だったのか?

董卓は長安に遷都したわけですが、長安は非常に好景気だったと言われています。

さらに、軍需物質も十分に整っていたともされているわけです。

もしかしてですが、董卓は墓などを盗掘して残った資金などを、民衆の為に使った可能性はないでしょうか?

諸葛亮辺りは、潤った資金があったとしても、北伐などに使ってしまったわけです。

それに対して、董卓は人民に施しを与えたり、インフラを積極的に整備した事で、長安が非常に好景気になったのかも知れません。

それであれば、董卓は経済政策にも成功した事になるでしょう。

長安を潤す事に成功したとなれば、名政治家とも言えるのかも知れません。

因みに、董卓は郿城を本拠地とし30年分の食料を蓄えたとする話もあります。

さらに、後漢王朝の高官は董卓の一族で独占し、15才にもならない孫娘の董白までもが侯になった話もある程です。

こうした董卓の動きに白い目で見る人もいるわけですが、董卓の権力が如何に強大だったのか分かる事例となります。

董卓の最後

董卓は西暦192年に呂布により命を落とす事になります。

司徒の王允、尚書僕射の士孫瑞、呂布の3人が共謀し董卓を亡き者にしようと考えたわけです。

192年の4月に後漢の献帝の病気が快癒し、お祝いに未央殿に多くの臣下が列席する事になります。

董卓も未央殿に行きますが、呂布と同郷の李粛が董卓が入るのを制止しました。

董卓は驚き呂布を呼びますが、現れた呂布は詔を持ち董卓を殺害し、董卓の三族も皆殺しにしてしまいます。

これにより董卓は呆気なく最後を迎える事になります。

正史三国志によれば、董卓の死を聞いた長安の士人や民衆は慶賀し、董卓に迎合した者は全て獄に降り処刑されたとあります。

正史三国志の記述を読めば董卓は民衆からも評判が悪かった事が分かります。

しかし、董卓が亡くなった時に、主簿の田景が董卓に走り寄った話もあり、董卓に全くの人望が無かったわけでもないでしょう。

ただし、田景も呂布に殺されています。

尚、蔡邕が董卓の死を聞くと嘆き悲しんで声を発し王允に責められた話もあります

董卓を殺害した、王允や呂布も董卓の配下であり賈詡(かく)の進言を受けた李傕郭汜により敗れています。

呂布は破れ流浪の生活を送りますが、陳宮らに迎えられ曹操と戦う事になります。

王允らも李傕や郭汜に対し徐栄楊定胡軫を向かわせるなどの人選ミスはあったように思いますが、王允や呂布が董卓を殺害する行為にどれだけの支持があったのかは不明です。

実際に、王允が差し向けた徐栄は奮戦しますが、胡軫や楊定は王允を裏切っている事実があります。

董卓は聖人君子でない事は間違いありませんが、悪の権化というわけでもないのでしょう。

余談ですが、正史三国志では三国志演義の様な絶世の美女である貂蝉も登場しません。

個人的には董卓の死は、成り上がりである董卓に対する嫉みや董卓が自分は上手くやっていきたいのに、名士らの態度が嫌になった結果にも感じています。

董卓は先入観で判断してはいけないのかも知れない

今回は、「董卓は暴政を行ったわけではなかった」という事を紹介したかったわけです。

ちょっと、無理やり董卓をいい人にしてしまった部分があるかも知れませんが、お話し出来てよかったと考えています。

尚、董卓は歴代皇帝の陵墓を盗掘していますが、同じ盗掘をするにしても人物によって、見方が変わって来るような気がします。

例ですが、4人の人物が盗掘を行った時の感じを考えてみました。

劉備が墓を盗掘する・・・・・お金に困ってしまい生き抜くために心苦しくもやった

曹操が墓を盗掘する・・・・・軍資金が無くなってしまい仕方なくやった

諸葛亮が墓を盗掘する・・・・何らかの理由があり、策略のために盗掘した。

董卓が墓を盗掘する・・・・・お金も潤っていて贅沢な暮らしをしているのに、さらに財宝を得るためにやった

同じ盗掘という行為をしたのにも関わらず、人の受け取り方は全然違うという事に気が付きます。

人間の先入観というのは、怖いものだなと思いました。

尚、董卓が容赦なく暴虐な人物して描かれてしまうのは、政権を握っていた期間が短かった事と、名士の連中から嫌われていたからでしょう。

文献などは名士と大きく関係しているため、董卓をフォローする人物は無く、そのため酷評されてしまった可能性もあります。

実際の董卓は、豪快な親分肌で、身分を気にせず接する事が出来る様な人物だったのかも知れません。

実際に董卓に会ってみたいとは思いませんが、意外といい人なのかも知れません。

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