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構成・文/宮下悠史

前漢 秦末期・楚漢戦争

趙堯は察するのが巧い人物

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趙堯(ちょうぎょう)は、年若くして、御史大夫の周昌の下で符璽御史をしていた人物です。

劉邦が悩んでいた時に、言葉を発さなくても察する事が出来た人物でもあります。

上司の周昌はそれほど高い評価はしていなかった様ですが、周昌が趙の相国となるや御史大夫に出世しています。

趙堯は呂后の時代まで生きた事は分かっていますが、最後がどうなってのかは不明です。

今回は前漢初期の人物である趙堯を解説します。

方与公の予言

最初に述べた様に、趙堯は御史大夫の周昌配下であり、年少にも関わらず符璽御史をしていました。

この時に趙の方与公が周昌に次の様に述べています。

方与公「周昌殿の下で符璽御史をしている、趙堯は年は若いのに奇才でもあります。

周昌殿は趙堯を必ず重用した方がよいでしょう。

趙堯が周昌殿の後継者となり、位を継ぐ事になるはずです。」

周昌は方与公の言葉を信じずに、次の様に述べています。

周昌「趙堯は年少の書生に過ぎない。

どうして御史大夫の地位になれると言えるのであろうか。」

周昌は趙堯の年齢が若かった事もあり、侮っていた部分もあったのでしょう。

しかし、後年に趙堯は本当に御史大夫になってしまいます。

 

劉邦の心を見抜く

趙堯は劉邦に気に入られたのか、劉邦の傍で侍る様になります。

ある時、劉邦は悲歌を口ずさみ、心配そうな顔をしていたわけです。

群臣達は、劉邦が悲しみに耽る理由が分かりませんでした。

この時に、趙堯は劉邦に次の様に述べています。

趙堯「陛下(劉邦)が楽しまれないのは、趙王(劉如意)が年若く、呂后と戚夫人の仲が悪く心配だからでしょう。

陛下が趙王をどれだけ思っても、趙王は自分の身を全うできるとは限らないからではありませぬか。」

趙堯の言葉に対し、劉邦は次の様に答えています。

劉邦「その通りだ。儂は何とかしたいと思っているが、策がないのだ。」

すると、趙堯は次の様に進言しています。

趙堯「陛下が趙王をそこまで思うのであれば、尊貴な人物で勢力があり、呂后や太子(劉盈)や郡臣が畏怖している人物を、趙王の宰相にすればよいのです。

それで十分に趙王を守る事は出来ると思います。」

劉邦は誰が適任かと、趙堯に聞くと、趙堯は周昌を推薦しました。

周昌は直言を好む人物であり、劉邦が劉如意を太子に変えようとした時も、争いの元になると劉盈を強く推した人物です。

劉盈が劉邦の後継者になれたのは、周昌のお陰でもあり、呂后も周昌に感謝していました。

しかし、周昌は曲がった事が大嫌いであり、後継者問題が片付いたのに、呂后らが劉如意に危害を加えるのは大反対だったわけです。

劉邦は周昌に事情を説明し、周昌は御史大夫から左遷という形で、趙王の宰相になります。

 

趙堯が御史大夫になる

周昌は趙の宰相となり、趙に向かいました。

暫くすると、劉邦は御史大夫の印綬を手に持ち、ぶらぶらと動かします。

劉邦は御史大夫の印綬を見ながら、次の様に述べています。

劉邦「さて、御史大夫を任命しようと思うのであるが、誰が適任であろうか。」

劉邦は趙堯を眺めると、次の様に言います。

劉邦「趙堯よりも御史大夫に適した人物が見当たらない。」

劉邦の一言により、趙堯は御史大夫になったわけです。

方与公が過去に、周昌に言った言葉は現実のものになったと言えるでしょう。

これらの経緯を見ると、劉邦は劉如意の為に、周昌を趙の宰相にする様に進言した事で、趙堯を気に入った様に思うかも知れません。

勿論、劉如意の件もありますが、実際には韓信と結託した陳豨が反旗を翻した戦いでも、趙堯は従軍し功績があった話があります。

趙堯は陳豨討伐の功績と周昌を推薦した功績を合わせたのか、趙堯を江邑侯としました。

この頃が、趙堯の全盛期だったと言えるでしょう。

 

御史大夫を解任させられる

趙堯は劉邦が生きている間は、御史大夫でいた様です。

しかし、劉邦が崩御し太子の劉盈(恵帝)が即位すると、状況は一変します。

趙堯の元上司であった周昌は、劉如意を守り切れず、劉如意は毒殺されています。

周昌も劉如意が殺害された事で、朝見しなくなり3年後に亡くなりました。

呂后は劉邦が存命中に、趙堯が趙王の劉如意の位を安定させる為に、周昌を趙の宰相に任命する様に述べた話を耳にします。

呂后は趙堯に罪があるとし、趙堯を御史大夫から解任し、広阿侯の任敖(じんごう)を御史大夫に任命しました。

因みに、趙堯の後任となった、任敖は3年で御史大夫を解任され、曹参の子である曹窋が御史大夫になっています。。

曹窋が御史大夫をしている時代に呂后は亡くなり、陳平や周勃が動いた事で、呂禄や呂産が斬られ呂氏の時代は終わりを告げる事になります。

 

趙堯の最後

趙堯の最後は史記にも記録がなく分かっていません。

ただし、呂后が趙堯を罪を当てつけ、御史大夫を解任している事から、この時に罪を理由に処刑された可能性もあるでしょう。

もしくは、趙堯は劉邦の気持ちを察した様に、呂后の心を読み上手く釈明し、窮地を脱した可能性もある様に思います。

それでも、趙堯の最後の記録はなく、あくまでも想像するしかない状態です。

 

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