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構成・文/宮下悠史

春秋戦国時代

趙の武霊王の時代が趙の全盛期だった

2021年3月4日

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武霊王は、趙の国にあって最も戦上手であった王様だったと言えるはずです。

趙は、廉頗趙奢李牧などの名将も排出していますが、勝るとも劣らないのが趙の武霊王でしょう。

中国の風習を改めて、胡服騎射を実現させるなど革新的な王様でもありました。

ちなみに、武霊王は後継者問題が原因で餓死してしまうわけですが、武霊王が死ななければ、趙が秦に変わり天下統一した可能性もあるでしょう。

趙の全盛期を作りあげた武霊王がどのような人物だったのかを紹介します。

尚、武霊王と言うのは、死後に恵文王から送られた名前で、武霊王は「王」を名乗ってはいません。

しかし、便宜上ここでは武霊王と記しておきます。

武霊王の名前ですが「趙雍」となります。

武霊王は、戦国四君の一人に数えられる平原君の父親でもあります。

因みに、上記の画像は中国帝王図で描かれていた武霊王です。

魁偉な容貌が分かるはずです。

 

 

武霊王が即位する前の趙

趙の武霊王の祖先は、趙衰であり晋の文公重耳春秋五覇の一人)を補佐する事で、晋の重臣となっています。

その後に、晋の宰相となる趙盾も輩出しましたが、没落した事もありました。

しかし、韓厥(戦国七雄・韓の祖)が趙武を助けた事で再興しています。

趙武以降の趙の主君は、六卿と呼ばれる晋の大臣達と共に晋の公室を衰えさせて、自家の利益を図るようになります。

晋の公室は衰弱し六卿の権力闘争が目立つようになり、最終的に智氏、趙氏、韓氏、魏氏が生き残りました。

智氏(智伯)が最も強大で、韓・魏と共に趙に攻めて来たわけです。

趙の当主であった趙襄子は、晋陽において韓・魏を寝返らせて智伯を完全に滅ぼしました。

これにより晋は趙・魏・韓に分かれて独立します。

ここが戦国時代の始まりとする人が大半だと言えます。

戦国時代の初期は、魏が強大で文侯・武侯などの時代は、戦国七雄の中でも最強国でした。

しかし、恵王の時代に秦の商鞅に敗れたり、斉の孫臏(そんぴん)などに大敗した事で国力を落としています。

戦国時代は、斉と秦の二強時代に突入していくわけですが、そういう時代に趙王になったのが趙の武霊王です。

 

 

趙には実績が無い

趙の武霊王の父親は、粛侯で亡くなると即位しています。

趙の武霊王は、幼少で即位するわけですが、肥義が治世の初期は実権を握っていたようです。

この時代は、韓・魏・斉・秦・燕などの国々が相次いで王を名乗った時代です。

さらに、宋や中山などの国々も王を名乗っています。

会盟をした時や諸侯同盟を結んだ時にお互いを「王」と呼び合ったり、承認したりする事で中華に王が乱立していった時代でもあります。

趙も王を名乗る話もあったわけですが、趙の武霊王は「趙には実績が無い」といい王は名乗りませんでした。

魏は斉や秦に敗れたとはいえ、土地が肥えた中原を抑えています。

韓は趙の武霊王が即位する10年ほど前の昭公の時代には、名宰相である申不害がいて国力を増強させていたわけです。

しかし、趙は国土は広かったわけですが、北に位置し不毛な地も多く、三晋(韓・魏・趙)の中では国力が一番劣っていたのでしょう。

そういう事情もあり武霊王は、「王」を名乗る事はしなかったようです。

ただし、武霊王と言うのは英雄的な王様でもあり、趙の勢力を拡大させます。

 

 

燕の昭王を立てる?

趙の北東には、燕という国があります。

燕王噲の頃に、宰相である子之に権力を持たせ過ぎた事で、燕の太子平は国が乗っ取られる事を危惧して挙兵しています。

これにより燕は内乱状態になってしまったわけですが、これに斉が介入し国はボロボロの状態となります。

斉が去った後に、燕の昭王が位に立ちますが、この昭王が謎の人物なわけです。

史記の燕世家には、燕の太子平が昭王だと言うような事が書かれています。

しかし、隣国である趙世家には武霊王が公子職を燕に送り込んだような事が書かれているのです。

公子職が昭王であれば、昭王を立てたのは武霊王と言う事になるでしょう。

武霊王が外交を有利に進める為に、燕に公子職を送り込んだ可能性も大いにあるはずです。

それか、公子職に兵士を着けて燕に送り込んだが、太子平に敗れてしまったか、国人に支持されなかった可能性もあります。

尚、燕の昭王は、名君であり一時は、楽毅の活躍もあり斉を崩壊状態に陥らせています。

戦国策などや他の書物で相違があるため、燕の昭王は謎がありますが、趙の武霊王も一枚噛んだ事は間違いないでしょう。

 

楚の懐王が逃げて来るも入国拒否

楚の懐王は、武関で秦の昭王と会見をしたわけです。

しかし、秦の昭王は懐王を捕らえてしまい国に返そうとしませんでした。

昭王は返す条件として、土地の割譲を要求しましたが、懐王は受け付けません。

懐王は、魏や趙に逃げるわけですが入国拒否されているわけです。

趙の武霊王が懐王を保護しなかったのは、秦から敵対視される事を危惧したのでしょう。

武霊王は、中山国を攻め滅ぼそうと考えていて、秦とは友好を結びたいと考えていたと思われます。

その関係もあり、楚の懐王の入国を拒否したのでしょう。

楚の懐王にとってみれば、気の毒な話ですが、武霊王の人柄も分かるような気がします。

 

孟姚を寵愛し後継者問題の発端となる

趙の武霊王は、美女の夢を見ます。

これを周りの人たちに話したわけです。

すると呉広(秦末期の呉広とは別人)という人物が、自分の娘(孟姚)に似ていると思い趙の武霊王に献上します。

趙の武霊王は、孟姚を寵愛し生まれた子が、後の趙何(後の恵文王)です。

趙の武霊王には、既に公子章がいて太子だったわけですが、孟姚を寵愛した事で趙何を太子とします。

もちろん、太子の位を廃嫡されてしまった公子章は納得がいきません。

これが後に後継者問題を引き起こす事になります。

自ら後継者問題を引き起こしてしまった瞬間でもあります。

 

中山征伐に動き出す

武霊王の最大の功績として中山国を滅ぼした事が挙げられます。

中山ですが、謎が多い国でもあります。

一説によると春秋時代は鮮虞と呼ばれていて、晋の属国だったようです。

晋が分裂した頃に独立したのか、戦国時代の初期に魏の文侯が楽羊(楽毅の先祖)に命じて攻撃させています。

この時に、中山は一旦滅んだのか歴史から姿を消します。

魏の文侯は太子である子撃(後の魏の武公)に中山を守らせたとあります。

その後、中山がどの様になったのかは記録が無くて分からないのですが、国は再興されたようです。

趙・斉・燕が抗争を繰り返す中で国力を高めたのか、中山王を名乗っています。

中山王と言うのは、自分で勝手に名乗ったわけではなく、一部の国には承認されています。

しかし、中山という国は、中華の民とは異なる異民族の国でもあり蛮夷として見られていました。

この中山国を武霊王は征伐しようと考えますが、土地に山が多く中華の戦車が使えないなどのデメリットを感じていたわけです。

 

 

胡服騎射を考え出す

武霊王の功績として、中華に騎馬隊をもたらせたと言うのがあります。

中華の国々は、それまでの戦争は戦車戦がメインだったようです。

馬車に馬を曳かせて、御者や君主、弓兵、戟兵などが乗り込み戦っていました。

それを馬に直接乗り戦うように、提案したわけです。

趙の北にある匈奴や胡と呼ばれる遊牧民の人々は、ズボンを履き馬に直接乗り弓を放ったりしていました。

中国にはズボンを履く習慣がなく、異民族の服装を採用しようとしています。

それらの人々と同じ服装をして、中山との戦いを優位に進めようと考えたわけです。

つまり、胡服騎射と呼ばれる胡の服を着て馬に乗り弓を放つ事で中山を支配下にしようとしました。

しかし、中華の人々は自分たちが先進国だとする考えが根強く、胡服騎射に難色を示すわけです。

武霊王は、肥義に相談すると賛同は得られますが、公子成に相談すると拒否されてしまいます。

さらに、宮廷に出仕しなくなる大臣も現れたりして、胡服騎射に対する反発はかなり大きかったようです。

しかし、武霊王は辛抱強く説得して、ついに大臣を納得させて趙に胡服騎射を導入しています。

これが中国に、最初に騎馬隊が取り入れられた事例だともされています。

史記の趙世家に、説得のための話しがあるのですが、文量が多く説得の難しさを物語っているのでしょう。

自分たちよりも低俗だと思っている民族の風習を真似する事は、当時の中華の人々には許しがたかったのが想像できます。

尚、史記には武霊王が「胡の地・中山を絶対に手に入れてやる」という様な言葉があり、並々ならぬ決意も感じます。

そして、自ら胡服を率先して着たとあります。

部下にやらせるだけではなく、自ら率先して胡服を着て手本にしたわけです。

 

中山を滅ぼす

胡服騎射が趙に根付くと、武霊王は連年のように中山を攻める事になります。

中山王は、領土の大半を取られてしまった時に、斉に逃亡してしまいます。

残った中山の太子である「尚」は、楽毅などの臣下と共に抵抗しますが、結局は中山は滅びる事になります。

中山王尚が楽毅の事をどれ位、信用していたのかは分かりませんが、名将がいても国は滅びたと言う事です。

元々、趙と中山では国力の違いや国としての勢いの違いも多くあった事でしょう。

この時に、楽毅の采配は見事だったようで、武霊王に楽毅を臣下として加えるように進言した者もいたようです。

 

秦の偵察に自ら行く

武霊王の逸話として、秦の偵察に自ら出向いたという話があります。

中山を滅ぼした後の、武霊王は、次のターゲットを秦に定めたのかも知れません。

秦は、日増しに国力を増している状態でしたが、武霊王は自ら秦の昭王を見ておきたかったのでしょう。

武霊王は、使者になりすまして、秦の昭王と対面しました。

ここで、どのような会見が行われたのかは分かりませんが、終わった後に、秦の昭王は怪しむわけです。

使者(武霊王)の姿が余りにも雄大魁偉だった為に「本当に使者だったのか?」と思い調べさせることにしました。

すると武霊王だった事が分かり驚いたとする話があります。

秦の昭王にしてみれば、「いっぱいくわされた」という状態だったのでしょう。

尚、この記述を見ると趙の武霊王は、外見もかなりよく筋肉質だったのではないかと思われます。

今でいう、かなりのイケメンだったのかも知れません。

 

主父となる

趙の武霊王ですが、生きているうちに趙の恵文王に名目上は君主の座を譲っています。

そして、自らは「主父」と名乗っているわけです。

廃嫡した太子である「章」に関しては、代の安陽君としました。

恵文王が君主になっていれば、安陽君は弟に頭を下げなければなりません。

これを武霊王は、憐れむようになります。

武霊王も代を、安陽君に与えて代王としようとしていたようです。

安陽君に取ってみれば、この行動は武霊王の気が変わり、自分が国君になれるかも知れないと考えるわけです。

こういう状態ですから、恵文王と安陽君の状態も冷め切っていった事が考えられます。

ここにおいて、趙の後継者問題が勃発します。

 

 

沙丘の乱で餓死する

武霊王は、恵文王と安陽君の仲を取りまとめようと考えました。

そこで、恵文王と安陽君を沙丘という場所に呼び、宴席を設けています。

安陽君は、恵文王を暗殺するチャンスと考えて、行動を起こします。

しかし、恵文王の家臣である公子成や李兌が駆けつけたわけです。

安陽君は、状況が不利になると、武霊王のいる館に逃げ込みます。

そのまま公子成や李兌は、武霊王の館を囲んでしまったわけです。

安陽君は、先の戦闘で傷を負っていたのか、すぐに亡くなってしまいます。

公子成と李兌は、恵文王を守るためとはいえ、事実上の国君である武霊王を包囲してしまう事になりました。

包囲を解いてしまえば、武霊王に公子成や李兌は罰せられる事が十分に考えられたわけです。

ここで恵文王が強く言えれば、何とかなったのかも知れませんが、自分たちの側近である公子成や李兌には、意見する事が出来なかったのでしょう。

公子成と李兌は、武霊王が館から出る事を許しませんでした。

そのため、武霊王は館から出る事が出来なくなり、最後は餓死しています。

史記の記録によれば、雀の子を探して食べようとしたような記述もあります。

武霊王が餓死する時には、雄大魁偉な容貌とは別人になり果てていた事でしょう。

この安陽君章と武霊王が死んだ事件を「沙丘の乱」と呼びます。

尚、武霊王が死ぬと、恵文王が国君となりますが、恵文王の初期の頃は李兌が権力を握っていたようです。

沙丘の乱の前に、唐挙という人相見が、李兌を見て100日のうちに趙の権力を握ると予言しています。

それが現実になったわけです。

尚、唐挙は、後に范雎の後釜として、秦の宰相となる蔡沢を診た事でも有名です。

 

武霊王が死ななければ趙が天下統一した?

武霊王は、英雄的な王様だったわけですが、後継者問題を拗らせた事で餓死してしまいました。

武霊王が死ななければ、趙が天下統一していた可能性もあるのかも知れません。

武霊王が中山を滅ぼした後に、どこの国をターゲットにしたのかですが、候補とすれば燕が上がるのかな?とも感じました。

燕の昭王は、郭隗の進言により人材を集めていましたが、国が復興途中で弱小国だったはずです。

そうなると、武霊王が隣国である燕をターゲットにしてもおかしくはないでしょう。

それを考えれば、燕がまず武霊王により滅ぼされた可能性があるのかも知れません

他にも、武霊王は秦に自ら偵察に行くわけですから、秦の土地を奪う気も合ったのだと思われます。

そうなると、武霊王が生き続けたとすれば、戦国時代の中期は、秦・斉・趙の3強時代が訪れた可能性もあるでしょう。

さらに、武霊王が上手く趙の恵文王にバトンタッチする事が出来れば、廉頗や趙奢、藺相如などの活躍もあり領土を拡大させたのかも知れません。

ただし、恵文王は名君だとは思いますが、内政重視で戦争は好まない傾向にあるように思います。

その関係で、領土は拡大しませんが国庫が充実すれば、次の趙の孝成王の代で領土拡大した可能性もあるでしょう。

そうなると、歴史は大きく変わって来るのかも知れません。

趙は孝成王の時代の初期に長平の戦いで、秦の白起に大敗し40万の兵士が生き埋めになる事件がありました。

趙の武霊王が長生きをすれば、長平の戦いも回避できたのかも知れません。

それを考えると、キングダムなどの漫画では、嬴政(後の始皇帝)が悼襄王に国土を奪われたり圧迫されたの、ストーリーになっていた可能性もあるのかも知れません。

ただし、歴史と言うのは、ちょっとした事で変わってしまうと思いますので、何とも言えない所もあります。

しかし、趙の武霊王は最後は残念でしたが、趙の全盛期を築き上げた王様と言えそうです。

 

終わりが悪ければ全て悪い?

日本語で、「終わりよければすべてよし」という言葉があります。

しかし、武霊王の場合は、最後が悪すぎるかなとも思いました。

武霊王が沙丘の乱で餓死した事が天下に知れ渡ると「天下の物笑い」となったとする話があるからです。

いくら画期的な事をやり、趙の全盛期を作るなどの実績があっても、終りが悪ければ「笑いもの」になると言う事なのでしょう。

それを考えると、「最後まで人生は油断してはいけない」と言う事なのかも知れません。

趙の武霊王は英雄的な君主ではあったけど、脇が甘かった様に感じます。

 

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