春秋戦国時代

趙奢(ちょうしゃ)の史実を完全網羅!

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趙奢(ちょうしゃ)の史実の実績を解説します。

趙奢は趙の恵文王の時代に活躍した将軍であり廉頗藺相如と共に上卿の位になっています。

廉頗が救出は難しいと言った閼与の戦いで秦の胡傷を破った事は有名です。

司馬遷が書いた史記の廉頗藺相如列伝には、趙奢と李牧の話も一緒に収録されています。

趙奢は合戦で勝利しただけではなく部下に対してもかなり気を遣っていた話があり、息子である趙括の失敗を予言した事でも有名です。

尚、春秋戦国時代を扱った人気漫画であるキングダムでは回想などで、趙三大天だった話が登場します。

趙の旧三大天と言えば、廉頗、藺相如、趙奢を指しますが、廉頗・藺相如に比べると趙奢は影が薄くも感じますが、名将と呼べる人物です。

趙括は斉の名将である田単と議論した話が戦国策にあり、そちらも合わせて解説します。

 

平原君に認められる

今回は、趙奢が出世するきっかけになった平原君との経緯を紹介します。

尚、平原君は趙の武霊王の子であり、恵文王の弟です。平原君は王族であり藺相如や趙奢と違って、最初から貴族でした。

戦国四君にも数えられて、食客を3000人集めた事でも有名です。

ただし、平原君は戦国四君の中では、最も雑魚扱いされる事が多いです。

平原君の部下9人を趙奢が斬る

史記によると平原君は、恵文王と孝成王の時代に、宰相を去った事が3度あり返り咲いた事も3度あったと記載があります。

これから考えると、平原君は普段は趙の都である邯鄲にいて、領地は部下に代理で治めさせていたのではないかと思われます。

ある日、平原君の元に信じられないような報告が届きます。

自分の部下9人が【田部の吏】である趙奢に斬られたという報告です。

田部の吏というのは、土地の税収官の事で、税金を平原君から取ろうとしたわけです。

しかし、平原君は趙の宰相で権力があったために、部下の方も調子に乗っていたのでしょう。

平原君の権力を傘に部下は私腹を肥やそうと思ったのか、平原君の財産を増やすためか税金を取られるのを拒んだわけです。

これを趙奢は、趙の法律に反しているといい、平原君の部下9人を殺してしまいました。

 

平原君・激怒し趙奢と面会する

平原君は自分の部下が9人も切られてしまい激怒した話があります。

もちろん、平原君は趙奢を自分の元に連行するように命令を出します。

趙奢は、平原君の前に引き出されます。

平原君「家臣を9人も斬るとは如何なることか(激怒)

趙奢「その9人は税を拒みましたので、法律に従って斬ったまでです。法律が適用されないと国は弱くなりますし、国が弱くなれば平原君様も領地を保つことが出来ません」

趙奢「平原君のような尊貴な方が法律をちゃんと守っていれば国は強く堅固となります。趙が他国に軽んじられる事もありません」

このように平原君の前で、堂々と持論を言い放ったわけです。

平原君の方は激怒しているようでも、演技だったのかちゃんと耳は澄ませていたようで、趙奢が賢者だと悟りました。

そして、処罰はせずに帰しています。

 

平原君が恵文王に推挙する

平原君は手荒なことをせずに、趙奢を返しただけではなく、兄である恵文王に推挙しました。

そして、恵文王も趙奢を気に入り国税を司る役職を与える事にしました。

趙奢のやり方は公平性があり国家の財政は豊かになり国庫が充実したと記録が残っています。

平原君がいなければ趙奢は活躍の場が限られていたと思われます。

藺相如が繆賢に推挙されて高位に就くきっかけになったように、趙奢の場合は平原君がきっかけを作ってくれました。

後に趙奢は税務官としてだけではなく、無敵と呼ばれて秦軍を破る活躍をします。

キングダムでいう所の六大将軍である胡傷を破る事になります。

 

平原君はなぜ趙奢を自分の食客にしなかったのか?

平原君といえば戦国四君の一人でもありますし、食客を3000人も集めた事で有名です。

しかし、趙奢の時は自分の食客にしようと思いませんでした。

これは何故だろう?と疑問に思ったわけです。

いくつか説を考えてみました。

 

お小遣いが減る

趙奢は平原君であっても堂々と意見を言ってきます。

間違っていると思えば、容赦なく諫言してくるでしょう。

これが何を指すかと言えば、【お小遣いが減る】という事です。

無駄使いをしようとすれば、容赦なく趙奢に諫言されてしまいます。

実際に、平原君は妾なども多かったようなので、彼女たちをリストラされてしまう可能性もあります。

優秀だと認めるけど、自分の家来や食客にいたら厄介な奴だと思って、兄の恵文王に押し付けた?説です。

実際に、漢の時代の袁盎などは容赦なく意見をするので、文帝は斉王に押し付けています。

間違ったことを言っているわけではなく正論を堂々と発言するので、側近になってしまうと息苦しいと思い恵文王に押し付けた説です。

恵文王の忍耐強さも弟だけに分かっていたのかも知れません。

 

自分よりも賢すぎる

これは考えにくいと思いますが、自分よりも賢すぎてしまうと扱いにくい所もあるはずです。

さらに、趙奢は公平な人でもあるので人望もあります。

そのため食客が自分を見捨てて趙奢の元に集まってしまう事を恐れた可能性があります。

後年になりますが、信陵君が邯鄲を救い趙に留まった時は、平原君の食客の半分が信陵君に移った事もあります。

自分よりも優秀だと感じたので、食客に置かなかった可能性もあります。

ただし、恵文王に推挙してしまうと、今度は宰相の位を奪われてしまう可能性もあるため、この説は考えにくいと感じました。

 

趙奢のためを思った

平原君の思いやりで恵文王に推挙した話です。

自分の食客としてよりも、恵文王の直属の家来になった方が本人も活躍出来ると考えたのかも知れません。

趙奢のためを思って、恵文王に推薦したわけです。

尚、平原君は失敗も多い気がしますが、身分に捉われず色々な人の意見を傾ける耳を持っています。

邯鄲が包囲した時も李同や毛遂の考えを採用しています。

凡庸に思っている人も多いようですが、聞く耳は持っている人だなとは感じています。

趙奢が国のために役立つと思った事は間違いありません。

 

趙奢が推挙された話のまとめ

趙奢は平原君によって推挙されました。

権力者であっても自分の意見をはっきりと言った事が推挙に繋がったのでしょう。

しかし、誰にでも自分の意見をはっきり言ったのでは、左遷されたりした可能性もあります。

平原君が聞く耳を持っている事が分かっていたのかも知れません。

趙の他の貴族の家来を9人も斬ってしまったら斬首されていた可能性もあります。

文章にすると簡単に聞こえるかも知れませんが、一か八かの行動でもあったような気がするんです

趙奢の命がけの行為は、武将としての才能を感じずにはいられません。

度胸がある事は間違いないでしょう。

尚、武霊王の時代と比べると勢力範囲は広がっていないように思いますが、趙の恵文王の時代には優れた人物が数多くいます。

 

閼与の戦いで勝利する

趙奢の最大の武功と言えば閼与の戦いを思い浮かべる人も多い事でしょう。

閼与の戦いは別記事でしっかりと記載しましたので、ここではダイジェスト版で簡略にお話します。

紀元前269年に秦の将軍である胡傷が閼与を包囲する事になります。

胡傷は魏冄や白起と共に華陽の戦いでは、魏の芒卯や趙の賈偃を破り大戦果を挙げている将軍です。

決して愚将ではないでしょう。

趙の宮廷では、閼与に救援を出すのかで議論がなされますが、将軍の筆頭とも呼べる廉頗や楽乗などが難色を示します。

しかし、趙の恵文王は趙奢に意見を求めると、趙奢は閼与への救援は可能だと宣言し将軍となります。

趙奢は将軍となり邯鄲を出発しますが、30里の地点で行軍をやめ防御を固めだします。

胡傷はこの話を聞くと、趙奢の軍は趙の首都邯鄲を守るための軍だと判断し、趙奢への警戒を解きます。

胡傷は趙奢に備えていた軍も全て閼与への攻撃軍へと回します。

この時を待っていたかの様に、趙奢は動き出し一気に閼与へ移動します。

困難な山中での戦いを避けて趙奢は閼与の間近まで迫る事に成功しました。

胡傷は趙奢の軍が少数だと考え攻撃を命令します。

この時に趙奢の軍吏の一人である許歴の進言により、厚い陣を趙奢が布き攻撃を防いでいます。

胡傷も趙奢の本隊が閼与付近に到着している事に気が付き、決戦となりますが、趙奢配下の許歴の進言により北山を占領する事で趙軍の勝利に終わりました。

有利な地形である北山を占拠した事で閼与の戦いで勝利を収めています。

閼与の戦いが終わると趙奢は凱旋し、上卿となり廉頗、藺相如と同格の位を与えられたわけです。

趙の恵文王は趙奢を馬服君に封じる事になります。

 

趙奢が田単を論破した話【納得したかは不明】

戦国策の記述になるのですが、趙奢と田単が戦争について論争した話があります。

趙奢がどのような考えを持っていたのかが、非常によく分かる話でもあります。

合理主義の趙奢と、奇策の田単の違いが分かるお話です。

趙奢に田単が論破されていますが、田単が納得していない可能性もあります。

尚、田単は楽毅率いる燕軍の大攻勢を奇策を持ってしのぎ、燕から斉の領土を取り戻した名将です。

しかし、斉から趙に移り宰相にまっています。

田単が趙奢のやり方に意見をする

田単は恵文王の30年に趙の宰相になりました。

この年までに斉から趙に移ったのでしょう。

田単は宰相になったのですが、趙奢に対して意見をします。

田単「将軍(趙奢)の用兵に関しては、感服しております。しかし、大軍を動員しすぎている様に思えてなりません。」

田単「大軍を動員してしまえば、百姓が減りますし、軍資金も掛かってしまいますし、食料補給も難しいのです」

田単「これでは戦争のための経費が掛かりすぎてしまい国が疲弊してしまいます」

田単「古の帝王は3万の軍勢で天下を取りました。しかし、将軍(趙奢)は毎回、10万、20万の兵士を動員します。この理由を教えて頂きたい。」

田単としては、宰相なので国家財政も気にしなければいけない理由があったのかも知れません。

それに対して趙奢は次のように反論しています。

趙奢「あなた(田単)は、兵法にも暗いし時勢にも疎い。古の時代は、国が数多くあり小国が乱立していた。」

趙奢「古の時代は国も街も小さかったから3万の軍勢でも十分に事は足りた。」

趙奢「ところが万を数えた国々は、征服しあい最後に残った戦国七雄に限られる事になった」

趙奢「今では10万、20万の軍勢で敵が攻めて来る事も珍しくない、20万の軍勢を相手に3万の兵士では十分に戦えない」

趙奢「他国が援軍を求める際にも、3万人では話にならないと思われるだけである」

趙奢「今の時代、3万の軍勢で一体何が出来るのか」

このように反論したとされています。

これに対して、田単は趙奢に納得したようで、「私が不明でした」と答えたとされています。

趙奢は、息子の趙括に論破された話があるので、口は余り上手くないのかな?と思える所がありますが、ここでは名将田単を相手に堂々と意見を述べています。

 

 

田単は実は納得していない?

戦国策の趙奢と田単の話しだけを見ると、趙奢が田単を論破した事になっています。

しかし、田単は過去に奇策を持って少数の兵士を率いて大軍を撃破した記録が残っています。

燕の楽毅が五カ国連合軍を結成して斉を攻めた時の話しです。

その時は、楽毅によって二つの城を残して全て燕の支配下になりました。

しかし、田単は楽毅が燕の恵王に解任されると、奇策を持って怒涛の反撃をし、燕に奪われた斉の城を取り返した過去があります。

そのため、田単が趙奢の意見に対して、完全に納得したかは不明な部分もあります。

それに、少数の兵士で勝てるのであれば、国家財政を圧迫させない程度で軍を動かした方がよいでしょう。

実際に、呉王闔閭の時代に呉は楚に攻め込む前に、少数の兵士で楚を攻める素振りをして、相手が大軍を動員して来ると退却するを繰り返しています。

これにより、楚の国家財政を悪化させています。

この辺りも臨機応変に考えたいところです。

 

田単と趙奢も名将だけど

田単も趙奢も名将だとは思いますが、記録に残っていない戦いが多いと思われます。

田単は燕の大軍を破った戦いと狄を破った戦い位しか分かっている戦いがありません。

趙奢にしても、閼与の戦い以外は不明な部分が多いです。

しかし、趙奢と田単の話しだと、大軍を率いて他国を攻めた事が分かります。

廉頗のように、連年のように戦闘に参加した形跡が残されていないからです。

楽毅もそうなのですが、趙に移ると廉頗がいるせいか影が薄くなってしまうのかも知れません。

恵文王が内政重視だからなのかも知れませんが・・・。

この頃の趙は名将が多いけど、活躍の場が少ない気もしました。

贅沢な悩みでもあるんですけどね。

しかし、趙奢、田単、廉頗、楽毅、藺相如の5人が趙にいた時期があるので、5人で戦争について討論したら面白いかも知れません。

キングダムの趙国・三大天+2という感じでやって貰いたいとも感じています。

 

 

趙奢が息子・趙括に論破された話!二人の違いも検証しました

趙奢は名将との評価をされていますが、息子である趙括には論破されています。

趙奢と趙括の論破事件をお話したいと思います。

兵法書の暗記では趙奢が負ける

趙奢と趙括は親子ですが、兵法についての議論になると、父親の趙奢よりも、趙括の方が上だったようで論破されています。

趙奢の方は先に紹介した記事で、斉を救った田単を戦争論で論破しているので、全くの口下手ではなかったのでしょう。

しかし、趙括は暗記力と口の上手さであれば、趙奢を圧倒していたようです。

 

趙奢は趙括を危ぶむ

趙括の方は、名将と呼ばれた父親である趙奢を言い負かした事で得意げになっていたのでしょう。

それに対して、趙奢は良しとしませんでした。

趙奢の言葉では、「戦場は生き死にの場所であるのに、趙括は無造作に論じている。趙括が趙軍を率いる事になれば、必ず敗れ去るだろう」この様に言っています。

趙奢にして見れば、この言葉は負け惜しみでもないでしょう。

実際に、この予言は熟成して、長平の戦いで趙括は戦死し趙の兵士40万人が生き埋めになっています。

ちなみに、趙奢の予言に対して、趙括は「今に見ていろ!」と負けん気を出して、長平の戦いで白起に大敗北喫した可能性もあります。

 

趙奢は、どこで兵法を覚えたのか?

趙奢は、どこで兵法を覚えたのか気になるところです。

趙奢は、税務長官だったのが、いきなり将軍に任命されたわけです。

そのため、下働きをして将軍になったわけではなく、大抜擢で将軍になった人です。

しかし、全くの素人が戦場に行っても迷惑をかけるだけだと思われます。

そのため、どこかで兵法の勉強をしなくてはいけません。

これは私の予想ですが、趙奢は個人で勉強をしていたのではないでしょうか?

それか若い頃に、学問の都である斉にでも行って兵法家の門を叩いた可能性もあるでしょう。

閼与の戦いでは、秦軍を破ってはいますが、許歴に布陣のまずさを指摘されたりもしています。

そのため、戦いに勝利していますが、素人っぽさも出ています。

趙奢がどこで兵法を覚えたのかは不明です。

 

趙奢と趙括の違い

趙奢と趙括の違いですが、臨機応変だと思っている人も多い事でしょう。

実際に、藺相如は廉頗と違って趙括は臨機応変に出来ないと危ぶんでいます。

もう一つ重要なのが、趙括の母親が語った部下に対する態度なのでしょう。

趙奢は、部下に対しては威厳を見せるために、厳しい事もしましたが、威厳が発揮されれば腰は低かったのかも知れません

友として交わった人数が大変多かったと聞いているからです。

それに対して、趙括は口が立つので威厳があったのかも知れませんが、部下に対しては威張ってばかりいたとされています。

威厳がある人に、親切にされると人間は嬉しいものです。

しかし、威厳がある人が威張っていると、かなり嫌な感じになりますし、やる気も無くなるでしょう。

怒られたいという人はたまにいますが、威張られたいという人はいないからです。

人の心情を察するのが、趙奢は巧みだったのでしょう。

それと、趙括みたいに変な賢さが無かったところもあると思います。

趙奢は、許歴の言葉で閼与の戦いを勝利しました。

しかし、許歴が趙括の部下だったら意見しなかった可能性も高いです。

さらに、意見したとしても、許歴を論破していた事でしょう。

 

趙括は外交官だったら上手く行った??

趙括は口が上手い事は間違いないと思います。

私の個人的な意見ですが、軍人ではなく外交官であれば上手く行っていたのではないでしょうか?

もしかして、蘇秦並みの交渉力を発揮して、6国を連合して秦を攻めるなども出来た可能性もあります。

そして、傲慢な性格が暴露して、函谷関の前で大敗するのかも知れませんが・・。

こういうのは「もしも」になってしまうので、考えにくいかも知れませんが、性格的に軍人は向かないのかなとも感じました。

ただし、高度な戦略を考える事は出来る様で、趙括は馬謖と似ているなと思う部分もあります。

諸葛亮は馬謖を見抜く事は出来ませんでしたが、劉備は馬謖を口ばかりで役に立たないと見抜き、趙奢も趙括を趙軍を死地に追い込むと見越している辺りは、諸葛亮よりも劉備や趙奢の方が人を見る目があると言えるのかも知れません。

 

趙奢の最後

趙奢がいつ死んだかについては、分かっていません。

しかし、恵文王の30年には田単と議論した逸話が残っていますし、長平の戦いまでには死亡していた事も分かっています。

そのため、孝成王が即位する前後(長平の戦いの4年前)位で亡くなったのではないかと思われます。

趙の恵文王が亡くなり孝成王が即位する辺りで、楽毅、田単、趙奢が亡くなり、藺相如も長平の戦いの最中に亡くなった様に思います。

趙奢が最後を迎えた時は、趙の名臣たちの多くが亡くなった時期でもあったのでしょう。

 

趙奢の子孫は名門となり馬援、馬超、馬騰が登場する

趙奢の子孫が三国志で有名な馬騰や馬超の家系となりました。

あれ?苗字が違っているんじゃない?と思った人も多いかも知れません。

趙奢が閼与の戦いで、秦の胡傷を破って大勝した事で【馬服君】に封ぜられました。

趙奢の子孫は、馬服君の「馬」を苗字にしたようです。

趙奢の妻が一族を救った

趙奢の息子は、趙括なのですが、長平の戦いで白起に敗れて戦死しています。

しかし、子孫が残ったのには理由があります。

趙奢の妻は、趙奢が予言した通り趙括が敗北する事を見抜いて、趙の孝成王にある約束をさせています。

「趙括が戦いに敗れても一族には罪が及ばない」という約束です。

この約束をしていた為に、趙括が長平の戦いで40万人の兵士を失うという歴史的な大敗をしても、一族は罪に問われませんでした。

そのため、趙奢の子孫は残ったわけです。

ただし、生き残った子孫が趙奢とどのような関係なのかは分かりません。

趙括の他に、趙牧という子がいたとされていますが、どのような実績があるのかも確認は取れませんでした。

もしかして、趙括や趙牧の子が秦や漢の時代を生き抜いて存続させたのかも知れません。

どこかのタイミングで趙から馬に氏を変えた可能性があります。

 

光武帝の元で活躍した名将馬援

戦国七雄の勝者は秦となり、秦が天下統一します。

しかし、統一後わずか15年で秦は滅亡し、楚漢戦争があり漢の劉邦が天下統一しました。

その後、王莽が漢を簒奪して新を作りますが、社会は無茶苦茶になります。

群雄割拠の状態になるわけですが、劉秀(光武帝)の元で活躍した武将に馬援がいます。

劉秀の時代は、三国志と違って全くと言ってよいほど、取り上げられません。

宮城谷昌光さんが、呉漢という小説を出しましたが、呉漢(人名)と並ぶ名将が馬援です。

統一後も活躍しますが、戦場で亡くなりました。60歳を過ぎても戦場を駆け巡った凄い人物だったわけです

 

娘が後漢の明帝の后となる

馬援の娘が、後漢の2代皇帝である明帝の后となります。

馬皇后と呼ばれています。

馬皇后は、政治に関して一切口を出さなかったと言われています。

その関係で、宦官と外戚の権力闘争が無く政情は安定したそうです。

明徳馬皇后とも呼ばれていて、屈指の賢夫人と評価されています。

馬皇后が帝に嫁いだ事で、この時の馬家は名門中の名門となります。

趙奢の子孫が、皇帝の后になったわけです。

 

三国志の馬騰や馬超にも繋がっている

三国志に詳しい人であれば、馬騰や馬超を知らない人はいないでしょう。

馬騰の時代には、残念ながら馬家は没落していたようです。

しかし、馬騰が盛り返して朝廷の直属の家来にもなっています。

ただし、馬超が挙兵したために、馬騰や馬休、馬鉄などの一族の多くは曹操に斬られてしまいました。

その後、馬超は張魯の元に身を寄せたりしますが、最終的には劉備の家来となります。

劉璋が馬超が劉備に加わったと聞くと降伏した逸話があります。

しかし、蜀に降ってからは、目だった活躍はありませんでしたが、左将軍(関羽、張飛、黄忠と同格)になったり、驃騎将軍に任命されるなど重用されていました。

221年に死亡したようですが、残った一族は馬岱だけであったとも言われています。

実際には、息子の馬承もいて、跡を継いでいます。

馬騰が死んだのは、馬超のせい?

三国志演義ですと、曹操が馬騰を殺したから馬超が挙兵した事になっています。

しかし、実際には馬超が挙兵をしたから、馬騰や一族が処刑されたようです。

正史だと馬超の挙兵が先になっています。

馬騰、馬休、馬鉄などの一族が殺されたのは、馬超の責任とも取れるわけです。

尚、馬超の死後に、子の馬承が継ぎました。

さらに、馬超の娘が劉備の娘である劉理に嫁ぎました。

ここまでが分かっているのですが、そこから先がどうなっているのかは分かりません。

蜀が魏に滅ぼされた時に、劉禅と一緒に洛陽に行ったのかも知れませんし、殺されてしまったのかも知れません。

その後は、不明です

 

馬超は寂しい奴である

趙奢の子孫の最後を飾るともいえる馬超ですが、派手な感じもあり三国志の中でも人気のキャラです。

しかし、よく考えてみると、馬超は非常に寂しい人です。

確かに、一族の事をよく考えずに挙兵してしまったり、張魯の所にいる時は、妻子を残して劉備に降りました。

そのため、自業自得とはいえ、一族の大半が死んでしまい寂しい晩年だった気がします。

馬超は劉備に対して、「一族で残った馬岱の事をくれぐれもよろしく頼みます」という書簡を送ったとされています。

一族の大半が死んでしまったら責任感も感じると思いますし、心に隙間風が吹いていてもおかしくありません。

馬超には羌族などの遊牧民の地が流れていますが、血がそうさせるのでしょうか?

しかし、馬超も春秋戦国時代の重耳に負けじと放浪した人でもあります。

因みに、最後の主君になった劉備も中国一周の放浪をしています。

しかし、馬超のしくじりは、一族を顧みずに行動した事によるところも大きいでしょう。

馬超は趙奢の血が繋がっているのかも知れませんが、人間性に関しては趙奢の方が優れていたと言えそうです。

 

 

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