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構成・文/宮下悠史

前漢 秦末期・楚漢戦争

任敖(じんごう)は獄吏から御史大夫になった人物

2021年9月22日

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任敖(じんごう)は、劉邦蕭何、曹参、周勃、周昌、樊噲らと同じ沛の出身です。

任敖は劉邦に従い軍功を挙げて、御史大夫にまでなった人物となります。

ただし、任敖は司馬遷が書いた史記では、張丞相列伝に記録がありますが、具体的にどの様な活躍をしたのかは不明な点が多いです。

しかし、劉邦が任侠の徒だった頃から、親交があり仲は良かった話があります。

少ないながらも、史記や漢書・張周趙任申屠伝の任敖の記録を頼りに、どの様な人物なのか解説します。

 

沛の獄吏

史記の張丞相列伝によれば、任敖は沛の獄吏だったとする話があります。

沛の獄吏と言えば、曹参も獄吏だった話があり、任敖と曹参は同僚だったのかも知れません。

張丞相列伝の記述によれば、劉邦は罪を犯し捕吏を避けて逃亡したとあります。

ここでいう劉邦の逃亡は、秦の始皇帝の時代に、労務者を咸陽に届ける任務を任された時を指すのでしょう。

しかし、劉邦の一団からは脱走者が大量に出てしまい、劉邦は職務放棄し逃亡してしまったわけです。

これにより災難を受ける事になったのが、劉邦の妻である呂雉です。

 

呂雉を助ける

劉邦が職務放棄した事で、呂雉は捕らえられ獄に繋がれてしまいます。

この時に、獄吏の中で呂雉に対して、乱暴に扱う者が出たわけです。

任敖も獄吏をしていましたが、任敖と劉邦は仲が良かった事もあり、呂雉を乱雑に扱った獄吏を許せなかったのでしょう。

任敖は激怒し、呂雉を乱暴に扱った獄吏を殴り怪我を負わせた話があります。

任敖は男気がある人物であり、仲間である劉邦の妻への暴力を見過ごすわけにはいかなかったのでしょう。

呂雉も任敖の態度に感心し、信用した様に思います。

 

劉邦の元で出世

劉邦が沛の県令となり兵を挙げると、蕭何や曹参、周勃らだけではなく、任敖も賓客として従軍する事になります。

任敖は御史となり、豊を守ったと史記に記録があります。

漢書・張周趙任申屠伝の記述によれば、2年間に渡り任敖は豊を守り通した様です。

任敖は見事に任務を達成したと言えるでしょう。

劉邦は秦の都である咸陽を陥落させると、不本意ながらも項羽から漢王に任ぜられています。

劉邦は韓信を得て三秦を平定し、項羽を討ちますが、この時に任敖を上党の郡守に任命しました。

楚漢戦争で項羽を滅ぼした後も、劉邦は任敖を上党の郡守として配置していた様です。

後に韓信が陳豨をそそのかし、陳豨は代や趙で韓王信らと反旗を翻します。

この時に、任敖は堅守し陳豨の軍に降る事はありませんでした。

劉邦は任敖を高く評価し、広阿侯に封じ食邑千八百戸を与えています。

任敖は前線に出ての派手な武功はないのかも知れませんが、地域を慰撫したりするのが得意だったのかも知れません。

 

御史大夫となる

任敖は呂后の時代になると、御史大夫になった話があります。

先任の御史大夫であった趙堯は、周昌を劉如意の宰相に任命する様に劉邦に進言した事がありました。

呂后は劉如意を排除したいと考えており、趙堯の行動を不快に思ったのでしょう。

呂后は自分にとって都合のよい人物として、任敖を選んだ様にも感じます。

呂后は過去に任敖に助けられた事を憶えており、恩を感じていたのかも知れません。

しかし、任敖は3年で御史大夫を解任されています。

任敖が御史大夫を解任された理由はよく分かってはいません。

もしかしてですが、任敖は男気溢れる人物であり、政争や権力の場には向かなかったか、権力闘争を嫌った結果の様にも感じます。

 

任敖の最後

任敖は漢の文帝の元年である紀元前179年に亡くなったとされています。

任敖は劉邦と同時代の人と考えられる事が出来る事から、かなり長生きだったのかも知れません。

任敖は懿侯という諡を贈られています。

余談ですが、同じく沛で獄吏をしていた曹参の諡も懿侯です。

任敖が亡くなると、広阿侯は任敖の子が継ぎます。

任敖の曾孫である、任越人の代までは続きましたが、罪を犯した事で位は廃されてしまいました。

任敖のその後の子孫が、どの様になったのかは不明です。

史記では大活躍しながらも韓信の様に不遇な生活や悲劇的な最後を迎える例もあり、それを考えれば任敖は地味ながらも天寿を全うしたと言えるでしょう。

 

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