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構成・文/宮下悠史

古代オリエント

アッカド人は史上初の帝国を築き上げた民族

2021年2月17日

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アッカド人は、歴史上初めて帝国を作った民族だとも言われています。

高度な文明を持っていたシュメール人の王である、ウルク第三王朝のルガルザゲシをアッカド人のサルゴンが撃破しメソポタミアの盟主になっています。

シュメール人はメソポタミア地方の南部に都市を築き反映しましたが、アッカド人はメソポタミアのほぼ全域を支配したわけです。

アッカド人はシュメール人に比べると知名度が低く重要視されない事が多いと言えます。

しかし、アッカド帝国を建国したサルゴンは、歴史上初めて帝国を作った人物とも言われています。

弱体化した時代も含めると、200年ほどで滅亡したとされているアッカド帝国ですが、どの様な成り立ちで、どの様に滅亡したのかを解説します。

尚、上記の地図はアッカド帝国の第4代国王であるナラム・シン時代の最大領域です。

因みに、アッカド人が建てた国は、アッカド王国と呼ばれる事もあります。

アッカド人はメソポタミア中部にいた事は分かっていますが、本拠地であるアッカドがどこなのかは明らかになっていません。

ただし、古代メソポタミアの都市国家は、チグリス川もしくは、ユーフラテス川の湖畔の都市が出来るのが普通であり、チグリスユーフラテス川の湖畔のどこかにアッカド市が眠っている可能性が十分にあります。

 

アッカド人はセム語系民族である

アッカド人はセム語系民族です。

伝説によればセム語系のセムは、ノアの箱舟で有名なノアの息子の一人が始祖となっています。

セム語系民族は、元はアラビア半島の砂漠地帯にいた民族です。

余談ですが、ノアの子にはハムという人物もいて、ハムの子孫がエジプトにいたハム語系民族となっています。

アッカド人がセム語系民族だと言うのは、言葉の使い方などから分類される事が多いです。

 

アッカド人の大移動

先にお話した様に、アッカド人の祖先たちはアラビア半島の砂漠地帯にいました。

アラビア半島の北には、肥沃な三日月地帯と呼ばれる食料も取れる豊かな地域があったわけです。

肥沃な土地を求めてアラビア半島にいたセム語系の民族の大移動が始まります。

尚、アラビア半島にいたセム語系民族はアッカド人だけではなく、他にはカナン人、フェニキア人、アムル人、アッシリア人、ヘブライ人などがいます。

これらの民族がアラビア半島から北部にある現在のシリアやイラクなどに移住し定住する事になります。

元は同じセム語系の民族だとされているセム語系民族であっても、後にメソポタミアや古代オリエントの覇権を巡って争う事になるわけです。

話を戻しますが、アラビア半島を抜け出したアッカド人は、メソポタミア地方の中部に移動したと考えられています。

メソポタミア地方の南部には、シュメール人が高度な文明を築いて繁栄していました。

この時のシュメール人は、メソポタミアの南部でウル、ウルクラガシュなどの都市を建設し発展しています。

アッカド人を始めとしたアラビア半島にいたセム語系民族が移動した理由ですが、気候の変動や北の大地に豊かな土地がある事を知ったなど、様々な説があります。

他にも、乾燥が原因など諸説は様々です。

しかし、紀元前4000紀(紀元前4000年から3001年まで)の間に、アラビア半島にいたセム語系民族の大移動が起きた事は間違いないはずです。

ただし、アッカド人たちはメソポタミア中部にいた先住民を追いやり、定住した可能性も十分にあります。

 

シュメール人との交流

アッカド人はサルゴンの時代に領土を大きく拡大し、シュメール人達を追いやりメソポタミア統一を成し遂げられたとも考えられています。

しかし、最近の研究ではアッカド人達とシュメール人達の間では交流があった事も分かっています。

ウバイド文化の記事でも書きましたが、外の世界の者は特殊な情報を教えてくれるために、重宝された話もあるからです。

しかし、隣同士で別の民族がいると言うのは、争いの火種ともなったわけです。

尚、アッカド人は文字を持たなかった為に、シュメール人が用いた楔形文字を、そのまま使っていたなどの話もあります。

他にも、アッカドとシュメールの共存期には、徐々にシュメール語が浸透しアッカド語が使われなくなっていった話もあるほどです。

余談となりますが、シュメール人達は世界四大文明の一つであるインダス文明とも交流の形跡も残っています。

 

アッカド帝国の興隆と滅亡

アッカド帝国が、どの様に領土を拡張し衰退して滅亡したのかを解説します。

サルゴン1世が史上初の帝国を建国

アッカド人ですが、サルゴン1世の時代に興隆する事になります。

因みに、上記はサルゴンの頭部像と呼ばれるものです。

冒頭にも述べましたが、サルゴンは歴史上初めて帝国を築いた人物だと言われています。

シュメール人はウンマ王ルガルザゲシの勢力が拡大しラガシュを滅ぼすなど勢力を拡大します。

ルガルザゲシはシュメール地方のほぼ全域を支配下とし、本拠地をウンマからウルクに移しウルク第三王朝を建国しました。

それに対し、サルゴンもバビロニア北部を手に入れ、サルゴンとルガルザゲシの間で天下分け目の戦いが勃発します。

天下分け目の戦いに勝利したサルゴンがメソポタミアの盟主となり人類初の帝国を築く事になります。

サルゴンは外征なども積極的に行いメソポタミアを統一する事に成功するわけです。

メソポタミア地方の南部にいたシュメール人を完全に滅ぼしたわけではなく、ウル、ウルク、ラガシュなどの都市にはシュメール人が住んでいた話があります。

後に、アッカド帝国が滅亡するとシュメール人がウル第三王朝を建国するので、シュメール人はアッカド人に追いやられて僻地に住みメソポタミア地方の南部の奪還を目指していたのかも知れません。

メソポタミア地方の南部を制圧したサルゴンですが、メソポタミア地方の東部に位置するエラム地方にも勢力を拡張していきます。

それによりアッカド帝国の属国も出来た事から、「史上初の帝国の誕生」と考える専門家もいます。

尚、アッカド帝国の建国者であるサルゴンですが、紀元前2300年頃の人と言われています。

因みに、後にアッシリア王となるサルゴン1世なる人物もいますが、同名別人で民族も違うので注意してください。

尚、アッカド帝国のサルゴンは、単にサルゴンとだけ呼ばれる時とサルゴン1世と呼ばれるケースもあります。

 

アッカド帝国の拡大

アッカド帝国は、サルゴンが亡くなった後も領土の拡張政策を続けたようです。

サルゴンの後継者となったリムシュも父親であるサルゴンの領土拡張政策を継続したとされています。

ただし、リムシュの兄であるマニシュトゥシュが次の王になる為、アッカド帝国内で何かしらの混乱があったのではないか?とする見方もあります。

マニシュトゥシュも引き続きエラム地方に遠征を行ったり、ニネヴェの神殿を建設するなど、活発に活動した記録も残っています。

尚、リムシュもマニシュトゥシュも粘土板で殴られて暗殺された話もあり、帝国内での権力闘争や王に対して悪い感情を抱いていた人も少なからずいたのでしょう。

 

アッカド帝国の全盛期・ナラム・シンの時代

リムシュ、マニシュトゥシュのアッカド王は暗殺されたと言われていますが、後継者となったナラム・シンの時代にアッカド帝国は全盛期を迎える事になります。

ナラム・シンは、積極的に遠征を行い帝国の最大領域を築く事に成功したわけです。

ナラム・シンは地中海に面するエブラ地方も制圧した事で、かなり多くの領土を手に入れました。

サルゴンは世界の王を名乗ったりしていましたが、ナラム・シンの時代になると四方領域の王とまで名乗っています。

四方領域の王を名乗った事からも、ナラム・シンが如何に領土を拡張させたかが分かるはずです。

尚、上記の地図でフルリ人とありますが、フルリ人ミタンニ王国を建国したとも言われています。

 

アッカド帝国の衰退と滅亡

ナラム・シンは、アッカド帝国の最大領域を作りましたが、急速な領土拡張政策は反発を招き、アッカド帝国は支配地の反乱に悩まされる事になります。

ナラム・シンの息子であるシャル・カリ・シャッリの代になると、異民族の侵攻にも悩まされています。

特にザグロス山脈からグティ人の攻勢が強まるとアッカド帝国は一気に弱体化し、メソポタミア地方は無政府状態になったとも言われています。

この混乱期にシュメール人が再び力を盛り返し、ウル第三王朝を建国する事になるわけです。

アッカド帝国はナラム・シンの時代に大きく拡大しましたが、同時に滅亡の兆しも見えていて全盛期は長くは続きませんでした。

因みに、シャル・カリ・シャッリ以降のアッカド王は諸説があり「誰が王で誰が王でなかったのか」など様々な事が言われています。

他にも、アッカド三大都市の一つであるテル・レイランが突然放棄されるなど、大きな気候変動があった事は間違いなさそうです。

ザグロス山脈からグティ人が攻めてきた事でアッカド帝国は終焉を迎えた話しもあります。

古代メソポタミアでは気候変動による民族移動が国家の終わりを告げる事は少なくありません。

尚、アッカド帝国が崩壊するとウルやラガシュなどのシュメール人の国々が自立の動きを見せるなど、メソポタミアも新しい時代に突入する事になります。

紀元前2000年頃の気候変動により、カスピ海や黒海の北にいたアーリア人やインドヨーロッパ語族の大移動を引き起こし、古代オリエントの世界は大混乱となります。

アッカド帝国崩壊後に、建国したシュメール人のウル第三王朝は、フルリ人に押し出されて難民となったアムル人がウル第三王朝に大量に雪崩れ込む事で崩壊したとも考えられています。

メソポタミアはイシン第一王朝やラルサなどが覇を競いますが、最後は難民だったはずのアムル人がバビロンで古バビロニア(バビロン第一王朝)を建国する事になります。

 

アッカド帝国は生き残っていた

アッカド帝国ですが、ザグロス山脈から攻勢を仕掛けて来たグティ人により、領土の大部分は失ったが北方で生き残った話も存在します。

しかし、生き残ったアッカド王の一族も周辺民族であるアッシリアに征服されたなどの説もあります。

実際に、アッカド帝国の後には、アムル人が建国したバビロン第一王朝やアッシリア人が後にエジプトとメソポタミアを含めた古代オリエントの統一を成し遂げています。

その過程の混乱の中で、アッカド人は混血などにより滅亡したとも考えられています。

時代が古すぎてしまい、まともな記録も無い為、想像になってしまう部分も多いわけです。

アッシリア帝国のアッシュール=バニパル王がニネヴェに建設した世界最古の図書館に、その手が掛かりがあるとも言われています。

 

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