古代オリエント

バビロニアの歴史

2021年2月24日

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宮下悠史

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バビロニアは、メソポタミア南部を指す言葉です。

しかし、時代によっては、メソポタミア南部のシュメール地方と、中部のアッカド地方を合わせたメソポタミア中南部をバビロニアと呼んだりもします。

バビロニア地方はバビロン第一王朝を始めとした、古代メソポタミア王朝の王都バビロンがあり大発展した地域でもあります。

尚、バビロニアはアッカド地方とシュメール地方を合わせた地域ですが、シュメール地方とアッカド地方の境目は、ニップル(都市名)です。

ニップルの北がアッカド、南がシュメールとなります。

バビロニア地方は、古代文化の先進地帯であり、バビロンの空中庭園などは世界の七不思議として後世に名を残しています。

シュメール地方の堆積平野

メソポタミア南部を見ると、チグリス川とユーフラテス川が繋がっている事が分かります。

チグリス・ユーフラテス川はクルナ(地名)の少し北で合流し、チグリス・ユーフラテス川から流れて来た泥土が堆積する事で、沖積平野が出来たと考えられています。

チグリス川やユーフラテス川が度々氾濫を起こした事で、水路は蛇行し、何度もルートを変えています。

メソポタミア南部の堆積平野から世界最古の文明とも呼ばれるシュメール文明が誕生する事になるのです。

バビロニアのシュメール地方にとっては、堆積平野はシュメール人達にとって文明が発達しやすい場所でもあったのでしょう。

この地に、ウル、ウルクラガシュなどのシュメール人の都市文明が出来上がる事になります。

シュメール人達は、楔形文字を開発するなど、高い文化を持った民族として歴史に名を残す事になります。

シュメール地方では、アッカド帝国が衰えた後に、ウル・ナンムによるウル第三王朝が建国されますが、東方のエラム人に滅ぼされています。

アッカド地方とメソポタミア統一

世界最初の文明を築いたのは、バビロニア南部のシュメール人達ですが、初のメソポタミア統一を成し遂げたのは、バビロニア北部にいたアッカド人達です。

シュメール人は、ウル、ウルク、ラガシュ、ウンマなどの都市を発展させましたが、シュメール人達の全てをまとめる様な王様は、アッカド帝国崩壊後のウル第三王朝まで待たねばなりません。

それに対して、バビロニア北部のセム語系民族とされるアッカド人は、サルゴンなる英雄的な君主が現れ、シュメール人のルガルザゲシが建国したウルク第三王朝を滅ぼしメソポタミアを統一します。

サルゴンはバビロニアだけではなく、メソポタミア北部のアッシリア地方まで領有し、地中海まで勢力を拡げた話しもあります。

尚、バビロニアのアッカド人とシュメール人は争いはあっても、同一レベルの民族だと認識していた様で差別意識などはなかったとも考えられています。

ただし、守りにくい地形での急激な発展は、危うい部分もあり、短期間でアッカド帝国のメソポタミア支配は終わりを告げています。

バビロニアの王朝

バビロニアの王朝と言えば、ハンムラビ王のバビロン第一王朝が有名です。

バビロン第一王朝はハンムラビ法典を制定した国でもあり、世界史の授業でも必ず出て来る様な国となります。

バビロニアに出来た王朝は、海の国第一王朝、カッシート王国、イシン第二王朝と続いて行きますが、伝統的にバビロンを都としています。

バビロン第一王朝が出来て以来、バビロニアの中心地はバビロンだと覚えておくべきでしょう。

尚、バビロニアの王朝は、次々と民族が入れ替わっているのも特徴です。

バビロン第一王朝は、フルリ人に追い出されて難民となったアムル人が建国した王朝ですが、バビロン第三王朝はカッシート人の王朝です。

古代エジプトは王朝が変わっても、民族はほぼ変わりませんでした。

古代エジプトにおいて、民族が変わったのは、ヒクソスによるエジプト侵入の時くらいであり、基本的にエジプト人の王朝が続きます。

それに対して、バビロニアの王朝は民族が目まぐるしく変わります。

攻めやすく守りにくい地形でもある、バビロニアの欠点が露呈した結果が、民族攻防が激しい地域となったのでしょう。

尚、メソポタミア地方は農業生産力が極めて高い「肥沃なる三日月地帯」の一角を占める事もあり、豊かな地を狙った他民族の攻撃を受けやすいなどのあったようです。

バビロニアとアッシリアの対立

メソポタミア北部には、セム語系とされるアッシリア人が居住し、アッシリア地方と呼ばれています。

アッシリアはシリアを領有したミタンニ王国に圧迫されたりしますが、ミタンニ王国がヒッタイトに敗れ衰えると独立を果たす事に成功しました。

アッシリアとバビロニアは、同じ神を祀ったり、同一文化を担う勢力でもありましたが対立も起こしています。

バビロン第一王朝崩壊後に出来たカッシート王国は350年に渡ってバビロンの地に王朝を樹立しますが、アッシリアと何度も刃を交えています。

カッシート王国は強国となったアッシリアに壊滅状態にされた事もあったわけです。

ただし、軍事力はアッシリアが上回っても、文化はバビロニア地方の方が高く、アッシリアの民がバビロニアに影響を受けすぎて、アッシリア王が危惧した話もあります。

紀元前1200年のカタストロフでは、海の民の侵入によりフェニキア人が首都を移動させたり、ヒッタイトが滅亡するなど国々の攻防が激しかったわけですが、カッシート王国もエラム人に滅ぼされています。

後に、アッシリアはバビロニアを征服し、さらにはエジプトまでをも占拠し、初のオリエント統一を成し遂げました。ただし、アッシリアは短期間で滅亡しています。

尚、歴史が進むと新バビロニアが紀元前539年にアケメネス朝ペルシアのキュロス2世に滅ぼされ、これを持って古代メソポタミア並びバビロニアの時代が終わったとも言えます。

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