この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

斉(戦国) 春秋戦国時代

田嬰(でんえい)は靖郭君と呼ばれた薛の領主

2021年10月30日

スポンサーリンク

名前田嬰(でんえい)
生没年不明
斉(戦国)
年表紀元前342年 馬陵の戦い
コメント有能な人ではあると思うが頑固者。孟嘗君の父親でもある。

田嬰(でんえい)は戦国時代の斉王の一族であり、靖郭君とも呼ばれ斉や魏の宰相になった人物です。

田嬰は孟嘗君の父親としても有名であり、史記の孟嘗君列伝や戦国策にも名前が登場します。

田嬰は斉で絶大なる権力を握りますが、性格はかなり頑固な人物で、工夫した言葉で諫められた話が残っています。

田嬰は靖郭君とも呼ばれていますが、資治通鑑だと靖郭君は田嬰が薛に封じられた時に号したと記録があります。

しかし、史記では靖郭君は田嬰が亡くなった時の諡号だと伝わっており、どちらが正しいのか分からない状態です。

今回は戦国四君の一人に数えられる孟嘗君の父親である、靖郭君田嬰を解説します。

 

斉の王族

田嬰は史記の孟嘗君列伝に次の記述が存在します。

靖郭君田嬰は斉の威王の末子で、斉の宣王の庶弟であった。

これを見ると、田嬰は斉の宣王の弟だった事が、はっきりと記載されています。

(著・宮城谷昌光 孟嘗君と戦国時代より)

史記の記述によれば、上記の様な家系図になるはずです。

しかし、戦国策には斉貌弁の話があり、田嬰が斉の威王に太子であった斉の宣王の即位を、阻止する事も可能だったような話が存在しています。

さらに言えば、田嬰は斉の宣王の宰相となりますが、病気を理由に辞退しています。

それらを考慮し、作家の宮城谷昌光氏は、戦国策の記述も考慮すれば、田嬰は斉の宣王の弟ではなく、斉の威王の弟だったのではないか?とも述べています。

実際のところ田嬰が斉の宣王の弟なのか威王の弟なのかは不明ですが、斉の王族の一人で薛に封じられ靖郭君と呼ばれた事だけは間違いないのでしょう。

 

政治に関わる

司馬遷が書いた史記によれば、田嬰は威王の時代から政治に関わった話があります。

田嬰は将軍としても活躍した様で、鄒忌や田忌らと共に韓を救援し魏を討った記録も残っています。

尚、斉の威王の時代の中盤までは、政治の中心は鄒忌や田忌であったのでしょう。

鄒忌は田忌を陥れて、田忌は出奔を余儀なくされますが、田忌は斉の宣王の時代にカムバックする事になります。

田嬰は史記の記述を見るに、斉の宣王の時代も無事に政治の中枢にいたと読み取る事も出来ます。

 

馬陵の戦い

斉の宣王の時代の初期の頃は、魏が最も強大でした。

魏の君主は天子気取りだった話もありますが、凋落の日が訪れる事になります。

宣王の時代に田忌は、天才兵法家である孫臏を参謀として迎えました。

孫臏を擁した田忌は馬陵の戦いで、魏の龐涓を大破しますが、馬陵の戦いには田嬰も参戦していた事が、史記の孟嘗君列伝に書かれています。

馬陵の戦いでは、斉軍は龐涓を殺害しただけではなく、魏の太子申を捕虜にするなどの大戦果を挙げ、魏が覇権国から転落する一因を作っています。

馬陵の戦いの主役は孫臏、龐涓であり、史記ではドラマチックな展開となっていますが、この戦いに田嬰も参加していたと言う事なのでしょう。

 

韓・魏を服従させる

史記によれば斉の宣王の7年に、田嬰が韓と魏に行き、韓・魏を服従させたとあります。

魏は戦国七雄の中でも最強国でしたが、馬陵の戦いの後に、秦の商鞅率いる秦軍に大敗しました。

秦は商鞅の改革が成功し、国力が大幅に増加した事で、魏は斉の力を借りなければ、秦に対抗できない様な状態になってしまったのでしょう。

田嬰は斉の宣王、韓の昭侯、魏の恵王らと平阿で会見させる手筈も整えています。

田嬰の外交により斉、魏、韓の同盟が締結され、斉王が盟主になったわけです。

さらに、魏の恵王と斉の威王は会見を行いお互いを「王」と呼んだ事から、楚の威王は激怒し斉を攻撃する事になります。

斉の威王を「王」と呼ぶのは、魏の恵施の策も入っていました。

ある意味、田嬰は恵施の策略にハマり、斉の威王の恨みを買ってしまったとも言えます。

ただし、田嬰がセッティングした会見により、斉の威王と魏の恵王は共に王を名乗った事を考えれば、田嬰は歴史的な会見を催した事になるでしょう。

 

楚の威王に恨まれる

楚の威王は斉を攻撃し、斉軍を徐州で大破しました。

楚の威王は魏を斉に入朝させた田嬰を恨んでおり、田嬰の追放を斉の威王に要求しています。

斉の威王の態度に田嬰は窮地に陥りますが、張丑が田嬰の為に使者となり、楚の威王を説得しています。

張丑の活躍により、楚の威王は田嬰の追放を取り下げています。

楚の威王は軍を撤退させ、田嬰も危機を脱しました。

楚が撤退した事で、田嬰は主を他国から「王」として認めさせるなど、功績が残った事になります。

 

薛に封じられる

戦国策によれば、斉の威王の35年に田嬰は薛に領土を与えられ薛公と呼ばれる事になります。

ただし、田嬰が薛に封じられる事を楚の威王は納得がいかず、斉の威王に取りやめる様に求めた話があります。

田嬰は公孫閈を楚の威王の元に派遣し、公孫閈が楚の威王を説得した事で、田嬰は無事に薛に封じられています。

因みに、史記だと田嬰が薛に封じられたのは、斉の湣王3年の出来事とされており、戦国策と史記で違いがあり、どちらが本当なのか分からない状態です。

それでも、田嬰が薛に封じられた事だけは、間違いないのでしょう。

海大魚

田嬰は斉で絶大な権力を握る事になります。

さらに、魏の宰相も兼ねる事となり、権力は絶頂に達する事になったわけです。

戦国策や孟子などの書物によれば、田嬰が自分の領地である薛に、巨大な城郭を築こうとした話があります。

田嬰は巨大な城郭を建造し、薛を完全に独立勢力にしようと企てたと考える人もいます。

薛の近くには、滕という小国があり、滕の文侯は田嬰が巨大な城を建造しようとしている噂を耳にして、孟子に意見を求めた話しもあります。

斉の強大さや田嬰の権勢は、周辺国にとっても脅威だったのでしょう。

田嬰は薛に巨大な城郭を建造しようとしますが、多くの人々に諫止されてしまいます。

しかし、田嬰は何としても城郭を作ろうと考え謁者に「儂に取り次いではならぬ。」と言った話があります。

田嬰としては諫言にうんざりし、強引に客に会わない様にしたのでしょう。

こうした中で、ある人が田嬰の元に訪問し、次の様に述べています。

「三言だけ言わせて貰いたい。一文字でも増えたら、煮殺しも構わない。」

この言葉に田嬰は興味を持ち、謁見を許す事にしました。

田嬰がどの様な客かと思って待ち構えていると、客は走って田嬰の元でやって来て、次の様に述べます。

「海大魚」

客は本当に「三言」しか言わず、去っていき田嬰は何が何だか分からずに、客を引き留めました。

田嬰は客に対し、殺害せぬ事を約束し意味を問うと、客は次の様に答えました。

「網でも釣り針でも捕らえる事が出来ない大魚であっても、水がない所にうちあげられてしまうと何も出来なくなります。

斉は靖郭君(田嬰)にとっては水と同じであり、薛に巨大な城壁を建造し独立した所で、水を失った魚になるだけです。

薛の城壁の高さを天に届くまで高くした所で、何の意味も持たないでしょう。」

田嬰は客の言葉に納得し、城郭の工事を中止した話があります。

 

孟嘗君を後継者とする

史記の孟嘗君列伝によれば、田嬰には40人余りの子がいたと記載されています。

孟嘗君は、その中の一人であり、さらに母親の身分が低かった事で普通であれば、田嬰の後継者になれる様な人物ではなかったわけです。

実際に田嬰は孟嘗君を薛の中にある「嘗」に封じており、自分の後継者にするつもりはなかったとする話があります。

しかし、孟嘗君は田嬰に蓄財に励んでばかりいる事を指摘したり、田嬰が孟嘗君に客を取り締まらせた事で、多くの客が孟嘗君を田嬰の後継者にする様に要請しました。

田嬰に対し客の後押しもあり、最終的には孟嘗君(田文)を後継者に決定したわけです。

 

田嬰の評価

田嬰ですが、作家の宮城谷昌光さんも指摘する様に、かなり頑固な人物だった様に思います。

それ故に、田嬰を諫めるのにも工夫が必要だった事が分かります。

『海大魚』の話は何らかの手法で興味を持たせなければ、田嬰は話を聞く事は無かったはずですし、孟嘗君の玄孫の孫の話も同様だと感じます。

孟嘗君が田嬰を諫めた言葉の中に「田嬰は蓄財に励んでおり、財を築いたのに斉の領土は広くなっていない。」とする言葉もあり、田嬰が清貧の人でない事は明らかでしょう。

田嬰は無能だとは思いませんが、誰からも評価される様な斉の宰相ではなかった様に感じています。

参考文献:平凡社・戦国策 ちくま学芸文庫・史記列伝1巻 中公文庫・孟嘗君と戦国時代 著者宮城谷昌光

 

スポンサーリンク