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構成・文/宮下悠史

三国志 魏(三国志)

閻温(えんおん)は三国志版の鳥居強右衛門

2021年7月8日

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閻温(えんおん)の字は伯倹であり、三国志版の鳥居強右衛門とも呼べる人物です。

正史三国志によれば、天水郡の西城県の人で、涼州の別駕として、上邽の令を代行したとあります。

閻温は長篠の戦いで活躍した三国志版の鳥居強右衛門と言った人物でもあり、正史三国志では「二李臧文呂許典二龐閻伝」の最後に収録されています。

二李臧文呂許典二龐閻に収録されているメンバーは李典、李通、臧霸、文聘、呂虔、許褚、典韋、龐徳、龐淯、閻温です。

二李臧文呂許典二龐閻は18番目に記録されている列伝であり、17番目に記録されている張遼、于禁、楽進、張郃、徐晃に次ぐ優秀な武官とする見方も出来ます。

しかし、閻温は実際に兵士を率いて戦っていない事を考えると、義人、烈士、忠義の人などを集めた列伝になっているとも考えられます。

因みに上記は、コーエーのゲームである三国志の閻温ですが、堂々と叫んでいる姿は、正に閻温と言えるでしょう。

今回は正史三国志の閻温を解説します。

 

馬超が冀城を包囲

馬超は韓遂と共に曹操に対して反旗を翻す事になります。

これにより曹操と馬超の間で、西暦211年に潼関の戦いが勃発しますが、曹操軍の賈詡の離間の計などもあり、曹操軍が大勝しています。

曹操は長安の守備に夏侯淵を残し帰還しますが、馬超に再起を図る猶予を与えてしまいました。

馬超は閻温がいる上邽に逃げ込むと、任養らは馬超を迎え入れる事になります。

閻温は任養を止めますが、説得出来ない事を悟ると、涼州の州都である冀城に戻る事になります。

冀城には荀彧に推薦され、孔融からも絶賛された涼州刺史の韋康がおり、配下には楊阜、趙昂がいて、女傑として有名な王異もいたわけです。

涼州の大半は馬超に靡き、馬超に従わなかったのは冀城のみだったとも言われています。

さらに、漢中の張魯も馬超に援軍を派遣し、張魯軍の楊昂の軍も到着します。

馬超は圧倒的大軍で、冀城を包囲しました。

 

閻温が援軍の使者となる

韋康は自分の力だけで冀城を守れないと判断し、長安にいる夏侯淵に援軍要請する事にしました。

この時に、援軍要請の使者となったのが閻温です。

閻温は夜中に城を出ると、水中を潜り抜けて夏侯淵がいる長安を目指しました。

城を脱出しての援軍要請と言えば、後に孫策配下となる太史慈が有名ですが、黄巾賊の残党の様に包囲網が怠惰ではなく、閻温は水中から脱出したのでしょう。

 

馬超に捕らえられる

城を脱出し、水中を抜けて包囲網の脱出を閻温は試みます。

しかし、翌日になると馬超軍は閻温の足跡を見つけ、追跡する事にしました。

馬超軍も夏侯淵の援軍が来ては厄介なので、厳重な包囲網を布いていたのでしょう。

馬超は人をやって閻温を追いかけさせ、通路を遮断します。

馬超の追手は、顕親で閻温を捕える事になります。

閻温は捕まり、馬超の元に送られました。

 

馬超の説得

閻温は馬超の前に連れていかれ、馬超は次の様に述べています。

馬超「冀城での戦いの勝敗は決まったも同然である。其方は冀城の為に援軍要請の使者となったが捕らえられた。

其方には道義を行う余地はない。儂の言葉に従い、冀城に向かって『援軍は来ない』と叫ぶのじゃ。

出来ねば、儂は其方を処刑するであろう。」

馬超の言葉に、閻温は心を偽り了承しました。

この時の閻温は、既に死を覚悟していた事でしょう。

 

閻温の叫び

閻温は冀城の前に立たされると、大声で次の様に叫びます。

閻温「夏侯淵様の援軍は3日のうちに到着する。城をしっかりと守り頑張ってくれ」

閻温は馬超に言われた事を実行せず、夏侯淵の援軍が3日で来ると城内へ叫んだ事になります。

閻温の言葉を聞いた城内では、涙を流し万歳を唱えた話があります。

長篠の戦いで活躍した奥平貞昌家臣である鳥居強右衛門の様な事を閻温は行ったわけです。

ただし、鳥居強右衛門は織田信長への援軍要請の使者の役目を果たし、城に戻る最中に捕まりましたが、閻温は夏侯淵の元に辿り着く前に捕らえられています。

閻温は城内の人々を鼓舞させる為に、嘘の情報を城に伝えたとも言えます。

 

焦る馬超

ここで焦ったのが馬超です。

馬超は閻温を使って城を降伏させようとしましたが、逆に閻温が城内の士気を上げてしまったわけです。

この時に馬超は閻温に腹を立て「其方は自分の命をどう思っているのだ。」と問いますが、閻温は答えなかった話があります。

しかし、この時に馬超は長い時間を掛けて冀城を攻撃しているのに降す事が出来ないでいた為に、閻温の気が変わる事に期待し処刑しませんでした。

馬超も圧倒的な大軍で包囲していましたが、苦しい立場だったのでしょう。

 

閻温の最後

馬超は冀城が落とせない事で、再び閻温に話しかけます。

馬超「城内の者で、儂に内通してくれる者はいないか。」

馬超の言葉に対して、またもや閻温は無言で言葉を返しませんでした。

馬超は城が落とせない苛立ちもあったのか、閻温を厳しく攻め立てる事になります。

ここで、閻温の方も馬超に声を荒げ言い返しています。

閻温「主君に仕える場合は死んでも裏切らないのが常識だ。

それなのにお前は、儂に不義の言葉を吐かせようとする。

儂は命がおしくて不義を犯す者ではない。」

馬超は都に父親である馬騰がいるのに、反旗を翻した為に、父親の馬騰が処刑された事件や、不義を繰り返している事を閻温は非難したのでしょう。

閻温の言葉を聞いた馬超は、閻温をどうやっても説得する事が出来ないと判断したのか、処刑しました。

閻温は忠義を貫き通した人物になるはずです。

 

閻温がこれ程までに頑張った理由

閻温が、命の危機に脅かされながら頑張った理由ですが、元々本人が言う様に「主君に仕える場合は死んでも裏切らない」という考えもあったのでしょう。

しかし、涼州刺史の韋康は慈悲深い性格だった話もあり、閻温も韋康を主君と認め忠誠心が高かった可能性もあります。

もしかしてですが、閻温は史記の刺客列伝にある豫譲の様な「士は己を知る者の為に死す」と言った人物だった様にも感じます。

ただし、いくら待っても夏侯淵の援軍が来ない事から、韋康は城内の者が苦しむのが我慢できなくなり、馬超に降伏しました。

この時に馬超は約束を反故にし、韋康を張魯軍の楊昂に引き渡し、楊昂は韋康を処刑しています。

冀城は馬超に降る事になりますが、楊阜、趙昂、王異らが馬超を追い出し、馬超は張魯の元でも居場所を無くし、劉璋の成都攻撃中の劉備の臣下となります。

後に劉備は馬超を涼州刺史に任命しますが、馬超が涼州の地を再び取り返す事は出来ませんでした。

 

閻温の評価

正史三国志を著した陳寿は評の部分で、閻温の事を次の様に述べています。

「閻温は城に向かって大声で叫んだのは、春秋時代の解揚、前漢の路中大夫の激烈さと同じである。」

陳寿も閻温の行動に心を打たれた事で、実績は少なくても正史三国志の伝に入れ主人公の一人にしたのでしょう。

因みに、解揚は晋の使者であり、楚が宋を囲んだ時に捕らえられ、楚の荘王に「晋の援軍は来ない」と叫ぶ様に言われましたが、城の前に出ると「晋の援軍は、もうすぐ到着するぞ。」と述べています。

ただし、閻温と解揚の違いは、閻温は処刑されましたが、解揚は楚の荘王に忠義の士だと認められ、許された事でしょう。

楚の荘王は春秋五覇に選ばれる場合もあり、器の広さが分かるエピソードでもあります。

尚、路中大夫は漢の景帝の頃の人物であり、呉楚七国の乱が起きた時に、城門の前で叫び見方を鼓舞しています。

閻温は解揚や路中大夫の行動を見習ったとも考えられます。

閻温は殺されてしまいましたが、忠義の士だと言えます。

鳥居強右衛門も閻温、解揚、路中大夫らを知っていたのかも知れません。

 

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