秦末期・楚漢戦争

韓信『国士無双と呼ばれた天才将軍の栄光と哀れな最期』

2020年9月1日

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宮下悠史

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韓信は、漢王朝建国時に劉邦の配下として大活躍した将軍です。

劉邦配下で内政の最高責任者である蕭何は、韓信の事を「国士無双の人物」だと述べています。

しかし、韓信は最初から尊い身分だったわけではなく、元はお金に困り居候生活をしていた様な人物です。

韓信は性格に問題を抱えていたとも言われていますが、どのようにして楚漢戦争・最大の功労者となり転落したのかを解説します。

尚、韓信は大口を叩く人物であり、実績がなく大口を叩く人物が最強の将軍だったと言える珍しいタイプでもあると感じました。

韓信がいなければ、漢の高祖である劉邦は天下を取る事が出来なかったのかも知れません。

寄食生活を送る

韓信は、先にも言ったよう最初から将軍だったわけではなく、最初は貧乏でお金もなく寄食生活を送っていました。

史記によれば他人の家に寄食し時には、数か月にもなったと記録があります。

韓信は、地元の亭長の家に数か月も寄食し、亭長の妻は韓信を嫌い食事を出さなかった話があります。

韓信は居候だったわけですが、プライドが高かったのか亭長の妻の行動に激怒し、亭長の家を出て行ってしまいました。

韓信は頼る人も無く食べ物に窮すると、老婆が韓信を哀れに思いご飯を恵んだ話があります。

韓信は老婆に数十日間もお世話になり、老婆のもとを去る時に、「将来恩返しをする」事を約束しました。

しかし、老婆は韓信が飢えて困っていたから、ご飯を恵んだだけであり、「自分はお礼なんて期待していない」と言った話が残っています。

後に韓信が大出世して楚王になると、老婆に1000金を与え恩返しをする事となります。

因みに、韓信を邪険に扱った亭長には100銭しか与えませんでした。

居候生活をしていた頃の韓信は、ニートだったとか言われるのですが、実際には書物などを読み兵法の勉強をしていた可能性もあります。

因みに、どこで韓信が兵法を覚えたのかは明らかになっていません。

韓信の股くぐり

韓信の有名なエピソードで「韓信の股くぐり」というものがあります。

韓信は街で無法者に絡まれた時に、「お前は図体がデカく剣を持っているが、実は臆病者だ。その剣で儂を刺す事が出来ないのであれば、俺の股をくぐれ」と韓信を脅します。

この時に、韓信は無法者の股をくぐる事になります。

これが韓信の股くぐりの諺となり、「大志を抱く者は屈辱にもよく耐える」という意味で使われる様になりました。

実際に、ここで韓信が、ならず者を斬ってしまえば、劉邦の将軍として大活躍することはなかったでしょう。

尚、韓信の股くぐりの話は、地元では有名になったようで、後年に楚の将軍・龍且は韓信を臆病者だと判断し、正面から攻撃し大敗しています。

趙の陳余や龍且など、韓信と戦う敵は正面から攻撃する猪武者が多いのですが、韓信の股くぐりの話を知っていて、舐めて掛かってきた可能性も高いです。

項梁の配下となる

韓信が生きた時代は、戦国七雄のうちが滅びが天下統一した時代です。

秦王政は、統一後は始皇帝を名乗り蒙恬に万里の長城を建設させるなど、大土木工事や様々な改革を実行しました。

始皇帝が生きている間は、反乱は起きなかったようですが、始皇帝の死後に長子の扶蘇が亡くなり胡亥が二世皇帝に即位すると、あちこちで反乱が勃発します。

農民出身の陳勝呉広が反乱を起こし、武臣が張耳と陳余の進言に従い陳勝から独立し趙王を名乗り、魏咎が魏王に即位し、斉では田儋が斉王に即位しました。

他にも、楚の将軍出身であった項梁項羽が会稽で挙兵し、韓信のいる淮陰を通り掛かると、韓信も項梁の配下となります。

しかし、秦の将軍である章邯の反撃を受けると、陳勝、項梁、魏咎、田儋と反乱軍の多くが討ち取られてしまいます。

韓信は、項梁の死後は項羽に使えますが、たいして重用される事もありませんでした。

それでも、項羽は王離を鉅鹿で破ると、章邯を降伏させ秦を滅ぼしています。

韓信は自分を用いてくれない項羽に見切りをつけて、漢中にいた劉邦配下となるわけです。

劉邦配下の将軍となる

韓信は劉邦の配下となりますが、劉邦は最初は接待係に任命するだけで韓信を重用する事はありませんでした。

夏侯嬰に助けられる

韓信は劉邦の配下となりますが、素行がよくなかったのか罪を犯し処刑される事になります。

韓信が斬られる番になると「漢王はなぜ壮士を斬るような真似をするのか」と呟きました。

この言葉を聞いた夏侯嬰が韓信の処刑を取りやめて、夏侯嬰は韓信を劉邦に推挙します。

夏侯嬰は劉邦の御者をしていた人物であり、夏侯嬰の推薦だった事から劉邦は韓信を治栗都尉に任命しました。

蕭何に推挙される

治栗都尉は、漢の丞相をやっていた蕭何の配下となりますが、蕭何は韓信を高く評価しました。

蕭何は劉邦に韓信をもっと重用するように勧めましたが、劉邦は韓信を重用しなかったわけです。

韓信は、劉邦も自分を重用する気がない事を悟り劉邦の元を去りますが、蕭何が韓信を追いかけて説得しました。

蕭何があまりにも熱心に韓信を推挙する事から、劉邦もついに韓信を重用し、韓信は兵を率いる将軍となります。

蕭何が韓信を推挙するときに、韓信を指して言った言葉が「国士無双」です。

韓信が将軍となる

劉邦は蕭何の助言を聞き入れて礼をもって韓信を将軍に任命しました。

この時に、韓信は劉邦に項羽の性格的な欠点や関中を治める章邯、司馬欣、董翳が秦の人々から評判が悪い事を指摘しています。

韓信の話を聞いた劉邦は「なぜもっと早く韓信を用いなかったのか」と後悔した話が残っています。

将軍として大活躍する

韓信は、劉邦から将軍に任命されると大活躍する事になります。

韓王鄭昌を破る

劉邦は章邯を破り関中の地を平定しました。

この時に韓王成が項羽に殺害される事件が起きます。

項羽は漢王成の後任の将軍として、鄭昌を韓王に任命しました。

劉邦は鄭昌を攻略する命令を韓信に出すと、韓信は見事に鄭昌を破る事に成功します。

劉邦は、戦国時代・韓の末裔である韓王信を鄭昌の後任の韓王としました。

尚、韓王信の名前も「韓信」であり将軍の韓信と分けて呼ぶために、韓王信と呼ぶのが普通です。

韓信が鄭昌を破ると、劉邦の元に続々と諸侯が集結し56万もの大軍となります。

項羽は反旗を翻した斉への遠征中だったために、首都の彭城ががら空きであり、黥布も項羽の命令に従わなかった為に、劉邦は一気に彭城を陥落させています。

しかし、斉から項羽が戻ってくると、劉邦軍は油断していた事もあり大敗しました。

魏豹を破る

劉邦が項羽に大敗すると諸侯は劉邦を裏切り再び項羽の傘下となります。

この時に、劉邦に反旗を翻した諸侯を討伐するのが、韓信の役目となりました。

劉邦は項羽の本隊と戦う事になります。

魏王であった魏豹は、劉邦に親の病気を理由に帰国しますが、帰国した魏豹は劉邦に背きます。

劉邦は韓信を左丞相に銘じて魏豹を攻撃させています。

韓信は臨晋から攻撃する振りをして、密かに夏陽から軍を移動し安邑を攻撃しました。

魏豹は慌てて韓信の動きに対応しようとしますが、すでに有利な地形は韓信が抑えていた為、魏豹は為すすべなく捕虜となっています。

趙と代を平定(背水の陣)

劉邦は韓信に趙と代の平定を命じています。

趙王は、趙歇ですが、趙の最高権力者は陳余でした。

この時に韓信の軍に張耳がいますが、張耳と陳余の刎頸の交わりと仲違いは有名です。

韓信は、陳余の腹心である夏説を代において破り、趙に侵攻しました。

ここにおいて、韓信と陳余の間で井陘の戦いが勃発します。

陳余の配下には、戦国時代の名将である、李牧の子孫といわれる李左車がいて韓信は警戒していました。

李左車は陳余に、3万の兵を与えてくれれば韓信の後方を脅かし勝利を得る事ができると進言します。

李左車は韓信の軍の後方にいる輜重隊を攻撃し漢軍を飢えさせる事を考えたのでしょう。

しかし、陳余は策を嫌う性格であり韓信と正面から激突する事を選択しました。

韓信は別動隊として騎兵を2千用意し、陳余の城を狙うように指示します。

図1・陳余は猪武者なので、容赦なく突っ込んで来たわけですが、韓信はわざと退却します。

これを見た陳余は、城を開けて全軍で追撃しました。

図2・韓信は、川を背にして戦い兵士は奮闘します。

韓信は逃げ場のない場所にあえて兵士を配置し奮起を促しました。これが世にいう背水の陣です。

図3・韓信の少数の兵士が奮闘している間に、韓信が放った別動隊の騎兵が趙の城を占拠し漢の旗を立てます。

趙軍は混乱し兵は逃走し、陳余を討ち取り趙歇は捕らえる事に成功しました。

韓信は大勝利をおさめますが、後日談で川を背にして戦ったのは、日ごろから兵士を手なずけていたわけでもないから、逃げ場のない場所に布陣せねば、全員が逃げ出してしまうと語っています。

韓信は兵士の心を読むのもうまかった事がわかる話です。

井陘の戦いで韓信は、数千の兵士で陳余の30万の軍勢を破ったとも言われています。

尚、韓信の軍が趙を制圧すると、劉邦は韓信の軍にいた張耳を趙王に任命しています。

李左車の助言

韓信は李左車の事を高く評価していて、李左車を捕らえる様に兵士に命令していました。

韓信は捕らえた李左車の縄を解きアドバイスを求めます。

李左車は「敗軍の将は兵を語らず」と述べますが、韓信が李左車を師と仰ぎ燕と斉を攻略する方法を伝授してほしいというと、韓信の誠意に負けたのかアドバイスを送っています。

韓信の方も自分が井陘の戦いの戦いで趙に勝利出来たのは、陳余が宋襄の仁を行い正面衝突を敢行し、李左車の進言を却下したからだと考えたのでしょう。

李左車は韓信の兵は、魏、代、趙を破り勢いがあるが疲れていて余り役に立たない事を指摘します。

韓信も今の自分の兵では弱小の燕を攻めても屈服出来ないと、悩みを李左車に打ち明けました。

李左車は、韓信に趙の士大夫たちを持て成し、人心を掴んだ上で燕に使者を送るように述べました。

これで李左車は燕を服従させる事が出来るといいます。

李左車の策を実行した韓信は、簡単に燕を服属させる事に成功しました。

尚、韓信が趙をとった事で、韓信の軍にいた張耳が趙王に任命されています。

韓信が李左車を師と仰いだのは、李左車の名声が高かっただけではなく、韓信が趙の名将李牧に憧れていた可能性もあるはずです。

韓信が劉邦に軍を奪われる

韓信は、魏、代、趙、燕を取るなど連戦連勝だったわけですが、項羽と対峙していた劉邦は連戦連敗でした。

劉邦は戦いに敗れると韓信の陣を訪れ、いきなり韓信の印綬を奪ってしまいます。

劉邦は、さらに軍の人事を勝手に行い、韓信には、まだ徴兵していない趙兵を与えて斉の攻略をするように命じました。

劉邦がやった韓信の軍権を突然取り上げたり、人事を勝手に行うなどの行動は韓信にとってみれば気分が悪かったはずです。

斉を不意打ちで破る

劉邦は韓信にを攻略する様に命じましたが、別で酈食其に命じて斉を降伏するように仕向けました。

酈食其は、斉王田広を降伏させる事に成功します。

韓信は、酈食其が斉を降伏させた話を聞くと引き上げようとしますが、韓信の陣にいた蒯通は「劉邦に斉の攻略を見送れと言う命令が来ていない事や、酈食其の如き小僧に及ばないのか」と言われると奮起し、斉を攻撃しました。

斉は劉邦に降伏した事で防備を疎かにしていたため、あっという間に韓信の軍に敗れています。

斉王田広は、酈食其に裏切られたと思い酈食其を煮殺し楚と結びました。

楚の項羽は、斉の田広を助けるために、配下の龍且を援軍として派遣しています。

龍且と決戦

韓信と龍且は、斉の地で決戦を行います。

龍且の部下は、龍且に「韓信の兵は遠くから遠征に来ていて、敗北は死と考えて必死に戦うから手ごわい相手」だと指摘します。

さらに、龍且の部下は斉王田広が健在なのだから、田広が斉の城に使者を送り韓信の軍に揺さぶりを掛ける様に進言しました。

龍且の部下は、韓信に陥落させられた斉の城を味方に付けて、長期戦で飢えさせれば何もしなくても韓信に勝てると言ったわけです。

しかし、龍且は韓信を決戦で破れば、斉の半分は自分の物になると主張し、欲に囚われていました。

他にも、龍且は韓信の股くぐりの話を知っていた為に、韓信の事を臆病者だと考えて、正面からの決戦を選択しています。

韓信は、龍且が自らの勇猛さを頼りに突撃してくる事を想定し、奇策をもって対応します。

韓信は、龍且との決戦の場所の川の上流に土嚢袋を積み水をせき止めました。

韓信が川の上流をせき止めた事で、開戦前は川は人が渡れるようになっていました。

韓信は、兵士に川を渡らせて龍且の軍に攻撃命令を出します。

龍且が応戦すると韓信は退却命令を出し兵を引きます。

すると、龍且は自ら先頭に立ち追撃を行ったわけです。

龍且が追撃に入った事を知った韓信は、川の上流の土嚢袋を決壊させ龍且の軍を孤立させる事に成功しました。

孤立した龍且を韓信は集中攻撃を行い大いに敵を破り龍且も討ち取っています。

ここにおいて韓信は斉を平定する事に成功しました。

劉邦自身は項羽に全く勝てないわけですが、韓信が別動隊となり魏、代、趙、燕、斉を攻略した功績は絶大だといえるでしょう。

韓信が斉王に即位

韓信は斉王に即位しますが、どのようにして斉王になったのか解説します。

蒯通の進言

蒯通は、韓信に劉邦は現在、項羽に攻められて苦しい立場にいるから、ここで斉王になりたいといえば、韓信が斉王になれると進言します。

これを聞き入れた韓信は、斉を安定させる為という理由で劉邦に自らを斉王に要望する様に要請しました。

劉邦は韓信の行動に激怒しますが、張良陳平が劉邦の足を踏み、劉邦を止めています。

張良は劉邦に、韓信を斉王に任命しないと背かれて項羽を破ることが出来ないと言いました。

劉邦も張良の意見を聞き入れて、韓信を斉王に任命しました。

ただし、韓信を斉王にしたのは劉邦の本意ではなく、劉邦は韓信に不信感がたまったはずです。

項羽が韓信に使者を送る

項羽は韓信に武渉という家臣を送ります。

龍且が韓信に敗れた事で、楚の項羽も窮地に立たされていました。

龍且が韓信に敗れた事で、楚は一度に20万の兵士を失ったとも言われています。

斉王になった韓信に、武渉は天下三分の計を説きます。

楚の項羽、漢の劉邦、斉の韓信で天下を3つに分けようと伝えたわけです。

韓信は、劉邦への恩があると武渉に伝えて、武渉の意見を却下しています。

尚、天下三分の計は諸葛亮が最初に言ったとか、蒯通が最初だとか言われていますが、実際には項羽の配下である武渉が史記を見る限りだと、最初に天下三分の計を説いています。

蒯通の教え

蒯通は、韓信のためを思い劉邦からの独立を進めます。

蒯通は、このまま劉邦の配下を続けてしまうと、韓信はいずれは劉邦に誅されてしまうと警鐘を鳴らしたわけです。

しかし、韓信はここでも劉邦の恩義を裏切るわけにはいかないと、蒯通の意見を却下しました。

尚、蒯通の意見を却下した事で、韓信は蒯通に予言した通りになります。

韓信は、まさか大功がある自分を劉邦が誅するわけがないと思っていたのでしょう。

蒯通は韓信が自分の意見を退けた事で、自分の身の危険を感じ、狂人の振りをして韓信の元を去っています。

項羽と劉邦の最終決戦

項羽と劉邦の最終決戦である垓下の戦いでも韓信は活躍しています。

劉邦の援軍に行かない韓信

韓信が斉で龍且を破った事で、項羽軍が戦力を大幅に削がれ、劉邦が優勢となります。

劉邦はあと一歩で、楚の項羽を倒せるところまで行くわけですが、項羽の反撃により手こずっていました。

この時に劉邦は韓信や彭越に援軍要請をしますが、韓信や彭越は劉邦の援軍には行きませんでした。

劉邦が参謀の張良に、韓信や彭越が援軍に来てくれない理由を尋ねると、張良は恩賞の約束をしていないからだと言います。

そこで、劉邦は韓信に斉の地と楚の地を領有する約束をし、彭越には梁王にする約束をしました。

これにより韓信や彭越は、劉邦の元に駆け付けたわけです。

劉邦からしてみれば、韓信が斉王になった事もあり、恩賞の約束をしないと自分を助けてくれない韓信に対して不信感は増した事でしょう。

尚、韓信が劉邦の元に行かなかったのは、故意に行かなかったのではなく、韓信が斉で兵を集めていたからだと考える専門家もいます。

垓下の戦い

項羽と劉邦の最終決戦である垓下の戦いで、韓信が漢軍(劉邦陣営)の指揮を執っています。

史記の高祖本紀によれば、垓下の戦いで韓信が中央の前に布陣し、孔将軍が右にいて、費将軍が左にいた事になっています。

劉邦は周勃などと共に、韓信の後方にいたようです。

垓下の戦いは、項羽と韓信という名将同士の戦いとなりますが、この時の項羽は兵糧も少なく兵士は疲労困憊で、非常に不利な立場にいました。

韓信が自らの軍を前進させて、項羽の軍に攻撃を掛けますが、項羽軍が奮戦し韓信の軍が不利な状況となっています。

韓信は落ち着いて軍を後方に移動すると、項羽の軍は前に出ますが、左右から漢の孔将軍と費将軍が楚軍を攻撃しました。

疲れている項羽の軍に元気がなく、孔将軍と費将軍に挟撃されて進撃が止まると、再び韓信が前に出て項羽の軍を大いに破っています。

項羽は城に籠りますが、張良の策で四面楚歌を行い項羽や楚軍の士気を大いに下げています。

項羽は城を脱出し、僅かな手勢で逃げますが、途中で自刎しました。

項羽の死は劉邦の天下統一を決定づける事になります。

劉邦に軍を奪われる

垓下の戦いで勝利に大きく貢献した韓信ですが、史記の淮陰侯列伝に興味深い記事があります。

淮陰侯列伝によれば「高祖(劉邦)は、急に襲いて斉王(韓信)の軍を奪った」とあるわけです。

劉邦にとってみれば韓信にいつまでも、兵士の指揮権を与えておくのは危険だと判断し、項羽を破った時点で韓信に預けてあった兵の指揮権を奪ってしまったのでしょう。

過去に、韓信の陣に劉邦が現れて指揮権を奪った事がありましたが、韓信はどこか脇が甘いのではないかと思えてきます。

楚王になる

統一後に韓信は斉王から楚王に移されています。

劉邦は東方にある斉の地を重視していて、斉には自分の一族を配置したかった事もあり、韓信を楚王に移したのでしょう。

劉邦は韓信の故郷である楚に移し、韓信に故郷に錦を飾らせる名目で、韓信のお国替えをしたとも言われています。

斉王から楚王に韓信は移りますが、斉の時よりも領地が縮小された事もあり不満だった話もあります。

しかし、多くの専門家は韓信の全盛期は、楚王になった時だと言います。

楚王になった韓信は、食事を恵んで貰った老婆に大金を与えたり、自分の面倒を最後まで見なかった亭長に少しの恩返しをするなど行いました。

過去に韓信に股をくぐらせた、ならず者を中尉に任命した話も残っています。

韓信の転落

韓信は、楚王になりますが1年ほどで楚王の位を剥奪されてしまいます。

鍾離眜を匿う

楚漢戦争で鍾離眜という楚の将軍がいました。

鍾離眜は項羽の配下で巧みな采配をした事で、漢軍を苦しめ劉邦は鍾離眜に恨みを抱いていたわけです。

鍾離眜は、劉邦に指名手配されている事を知っていましたが、同じ楚の出身である韓信に助けを求めています。

しかし、お尋ね者である鍾離眜を匿う行為は、劉邦の韓信に対する猜疑心を強くする事になります。

陳平の策

劉邦は項羽を破り漢の初代皇帝となりますが、韓信が謀反を起こそうとしている情報が入ってきます。

劉邦の諸将は軍勢を使って、楚の韓信を攻撃する様に進言します。

しかし、劉邦の軍師の一人である陳平は、劉邦では采配力で韓信に劣り、兵の質でも劣り、劉邦の配下の将軍では韓信に太刀打ちできないと諭します。

陳平は陳の雲夢に巡狩すれば、韓信は劉邦に挨拶に来るから、そこで力士を使い韓信を捕える様に進言しました。

劉邦は陳平の策を聞き入れて、雲夢に行く事にします。

鍾離眜を斬る

劉邦が韓信を捕えようとしている時に、韓信の方でも本当に謀反を起こそうか迷っていた様です。

韓信の方でも、劉邦が自分を誅するのではないか?と考えて、謀反を起こすべきか。このままいるべきか悩んだ話が史記にあります。

しかし、劉邦は楚漢戦争で絶大な功績を挙げた自分を害する様な事を劉邦はしないだろうと考えて、結局、謀反は起こさずに雲夢の劉邦に謁見に行く事にしました。

ある人が韓信にアドバイスを行い「劉邦が憎んでいる鍾離眜の首を持っていけば、劉邦は気分をよくし韓信に危害を加える事は無い」という話です。

そこで、韓信は自分で匿っていた鍾離眜の首を斬る事を考えて、鍾離眜の所に行きます。

鍾離眜は自分は韓信の為に首を斬られるのは問題ないが、自分(鍾離眜)がいなくなれば、劉邦は韓信を恐れる事がなくなり、誅すると言います。

鍾離眜は韓信を「お前(韓信)は有徳の者ではない」と罵り自刎しています

結果を考えると、鍾離眜の言っていた事が正しかったとなるのでしょう。

淮陰侯に降格

韓信は、劉邦への謁見の為に雲夢に行きますが、案の定、劉邦に捕らえられて洛陽に連行されます。

韓信は、謀反を企んだとして楚王の位を剥奪されますが、劉邦は韓信の功績が大きかった事を考慮し、淮陰侯に降格するだけで命を奪う事はしませんでした。

楚王であれば大きな軍を動かせますが、侯の身分であれば独力では僅かな兵士しか動かす事が出来ません。

その為、兵権のない淮陰侯なら安心と劉邦は考えたのでしょう。

韓信は、淮陰侯になった事で自分よりも功績が遥かに劣る、樊噲や灌嬰と同等の位にされてしまい不本意だった様です。

尚、淮陰侯になってから、樊噲が韓信を酒宴に招いた話があります。

樊噲は戦の天才である韓信の信望者でもあり、自分と同等の位になった韓信を「大王」と呼び上座にした話がありますが、韓信は不満だったようで「樊噲と同列の位になってしまった」と恥じた話が残っています。

それでも、樊噲が韓信を高く評価していた様に、戦えば必ず勝つ韓信の信望者は多くいたのでしょう。

しかし、韓信は淮陰侯にされた不満から、参朝もしないし行幸にも参加しなかった話があります。

こうした行動も劉邦から見れば韓信をよくは思わなかったはずです。

兵の将と将の将

淮陰侯になってから、劉邦と韓信の話が残っています。

劉邦が韓信に「自分はどれ位の兵士を扱えるのか?」と質問すると、韓信は「せいぜい10万です。」と答えました。

劉邦は韓信に「ならばお前は、どれ位の兵士を扱えるのか」と問うと韓信は「多ければ多い程、上手くやる事が出来る」と答えます。

この答えにイラっとしたのか劉邦は「ならば、お前が儂の虜になったのは何故じゃ。」と問うと韓信は「陛下(劉邦)は兵の将たる器はありませんが、将の将たる器があり、それ故に私は陛下に捕らえられてしまったのです」と述べています。

韓信が劉邦を評した「将の将たる器」というのは、劉邦に対する最大限の賛辞となったはずです。

尚、項羽も兵の将たる器ではあるけど、将の将たる器ではないのでしょう。

韓信の最後

楚漢戦争において、最大の功績者である韓信にも最後の時が訪れます。

陳豨に謀反を支持

劉邦のお気に入りでもあった陳豨が、鉅鹿の太守に任命されます。

韓信は陳豨を呼び出すと、鉅鹿は天下の精鋭が集まる場所であり謀反を起こす様に支持をします。

そして、韓信が内部から内応を起こす事を約束しました。

陳豨は、鉅鹿に到着すると謀反を起こし劉邦に反旗を翻す事になります。

劉邦は、陳豨の反乱に激怒し、自ら兵を率いて陳豨討伐に乗り出します。

これが漢王朝の10年目にあたる紀元前196年の事になります。

蕭何の謀

陳豨が反乱を起こすと、韓信は偽の詔を出して兵を発し呂后(劉邦の正室)と太子を襲撃する企てをします。

この時に、韓信の配下で罪を犯し、韓信に処刑されそうになる者が出ました。

罪を犯し韓信に処刑されそうになった者の兄が、楽説と言い、弟の命が危ない事を知ると韓信の計画を呂后に告げます。

呂后は慌てて、相国の蕭何に相談すると、蕭何は一計を案じます。

蕭何は韓信に陳豨の乱は平定され、劉邦が凱旋すると偽の情報を流します。

ここで韓信は計画を中止するべきか悩みますが、この時に蕭何が韓信に挨拶に来ました。

蕭何は韓信に、「劉邦が凱旋して文武百官が挨拶に来るから、韓信も参内した方がよい」と言います。

蕭何は韓信を推挙してくれた人物でもあり、信頼していた為に韓信は参内する事にしました。

韓信が参内すると、呂后は韓信を捕える様に指示し、韓信は処刑される事になります。

韓信の後悔

韓信は刑場で、「蒯通の言う事を聞かなかったから、婦女子に欺かれて身を滅ぼす事になった。これも天命なのだろう」と述べています。

この言葉から、韓信にとっては無念の最後だった事が分かります。

劉邦が陳豨を討伐し都に帰り韓信の死を聞くと喜び、また憐れんだとあります。

劉邦にとってみれば、韓信は危険人物でもありますが、それと同時に自分に天下を取らせてくれた恩人でもあり複雑な気分だったのでしょう。

尚、韓信の最後の言葉を聞いた劉邦は激怒し、蒯通を呼び出しますが、蒯通は言葉を巧みに述べて上手く言い逃れています。

因みに、蒯通は三国志劉表曹操に仕えた蒯越のご先祖様と伝わっています。

司馬遷と韓信

史記を書いた司馬遷は、韓信の故郷である淮陰に取材に行った話があり、そこで韓信の昔話を聞く事になります。

司馬遷は「韓信は母親の葬儀が出せない程の貧乏人だったが志が違っていた。将来は万家の墓守を置ける様にしておいた」などの話があります。

司馬遷は韓信の貧しい頃よりの志の高さに驚いたようです。

ただし、司馬遷は韓信を「道を学んで謙遜して生き、自分の功績を誇らずに慢心しなければ、周の太公望、周公、召公の功績に匹敵し、後世に子々孫々の祀りを受けられたであろう」とも述べています。

他にも、司馬遷は「韓信は天下が漢で固まった時に謀反を起こすのであれば、滅ぼされるのは当然の事だ」とも述べています。

戦いに関しては、天才的な韓信も司馬遷から見れば、どこか脇が甘い様に見えたのでしょう。

個人的な話になるのですが、韓信が蒯通や武渉に言われた時に、独立し劉邦、項羽に次ぐ第三の勢力になったとしても、最後は滅ぼされていた様に思います。

韓信は項羽と同様に戦いには滅法強いですが、国家を理解しているのか?や時勢を見る目があるのか?となると疎いとも感じるからです。

それを考えると、張良、陳平、蕭何などを擁する漢に、韓信が局地戦で勝ってもは最終的には敗北する事になるでしょう。

あと、韓信の脇が甘い性格などを考えると、どのみち最後は滅ぼされていた様に思います。

韓信は一代だけの英傑だったとも呼べるでしょう。

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