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構成・文/宮下悠史

秦末期・楚漢戦争

項梁は秦末期の重要なキーマン

2021年9月14日

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項梁は西楚の礎を築いたとも言える人物であり、覇王と呼ばれた項羽の叔父にあたる人物でもあります。

司馬遷の史記には、項梁の列伝や本紀などは存在しませんが、間違いなく秦末期のキーマンになる人物です。

項梁は定陶の戦いで、秦の章邯に破れ戦死していますが、項梁が戦死しなかったら歴史は大きく変わっていたのかも知れません。

今回は覇王項羽の育ての親とも言うべき、項梁を解説します。

 

項燕の子

項梁の出自ははっきりとしており、史記・項羽本紀や漢書・陳勝項籍伝に項燕の子だと記述があります。

項梁の父親である項燕は楚の将軍として、秦の李信蒙恬を破る活躍を見せています。

しかし、王翦蒙武が60万の大軍で楚を攻撃すると、昌平君と共に戦いますが、敗れています。

項燕の死を以って、春秋戦国時代の楚は滅亡したとも言えるでしょう。

秦末期に陳勝と呉広は反乱を起こしますが、項燕と扶蘇の名を使っており、項燕の名はかなりの求心力を持っていたはずです。

さらに言えば、項燕の子である項梁も人々から注目された事でしょう。

尚、史記によれば項家は、代々に渡り楚の将軍の家柄で「項」に封じられた事で、姓を「項」にしたとあります。

因みに、項梁の兄弟には項伯がおり、一族に項荘がいた事が分かっています。

楚の滅亡と秦の天下統一

項梁が生まれた年は、分かってはいません。

しかし、甥の項羽が生まれた年は紀元前232年とはっきりとしています。

項梁が項羽の父親代わりだった事を考えると、少なくとも項梁は項羽よりも10歳以上は年上だったと考えられるはずです。

それを考えると、項梁の青年期は秦が圧倒的な国力を背景に、戦国七雄を打倒する戦いの最終段階だった事でしょう。

楚では孝烈王の時代に春申君が宰相となり、春申君が暗殺されると李園が実権を握った様ですが、秦に対抗するのは難しい状態でした。

趙では李牧の奮戦もありましたが、韓や魏が滅亡し、燕も遼東を残すのみとなり、秦の攻撃目標が楚に向けられます。

こうした中で、楚の項燕は楚軍を率いて紀元前225年に秦の李信、蒙恬を破る活躍を見せています。

多分ですが、紀元前225年の李信らとの戦いでは、項梁は20歳を超えていた可能性も高く、項燕の軍に従軍した可能性もある様に思います。

しかし、項燕は紀元前224年に秦の王翦が60万の大軍を率いて、楚に侵攻して来ると項燕は大敗し、首都の寿春も陥落し楚王負芻も捕らえられています。

史記の始皇本紀によれば、負芻が捕らえられた後も、項燕は昌平君を楚王に立てて戦い続けますが、王翦、蒙武に破れ楚は滅亡しました。

項梁は父親である項燕の戦いぶりを見て、思う所があったはずです。

秦は紀元前222年までには、秦の王賁らが燕王喜、代王嘉、斉王建を降し天下統一を成し遂げています。

尚、楚は秦に対する恨みが深く楚の南公は「楚は例え三家になろうとも、秦を滅ぼすのは楚だ。」と予言した話があります。

楚の南公の予言を成就させたのが項梁であり、項羽なのでしょう。

 

まきぞいを食らう

秦の統一後ですが、項梁が巻き添えを食らった話が史記に掲載されています。

項梁がどの様な事件に巻き込まれたのかは定かではありません。

この時に、項梁は櫟陽県で逮捕されたとあります。

蘄の獄吏をしていた曹咎(そうきゅう)は、項梁がただモノではないと考え、書信を作り項梁をフォローしました。

曹咎は櫟陽の獄吏である司馬欣に手紙を送り、司馬欣も項梁を並みの人物ではないと感じたのか、罰する事は無かったわけです。

この話は項梁の人望を示す逸話となるでしょう。

 

呉に移る

項梁は後に人を殺害してしまいます。

項梁の兄弟である項伯も人を殺したり、張良と誼を結ぶなど任侠の人だった話があります。

同じ様に項梁も任侠の人であり、殺人を犯してしまったのでしょう。

項梁は今回の殺人は、捕まれば処刑されると思ったのか、項羽を連れて呉に移住しました。

呉では項梁を暖かく迎えてくれたようです。

呉は過去に、楚で令尹をしていた春申君が政務を行った地でもあり、楚人で名が通った項梁は喜ばれたのでしょう。

 

人を見極める

項梁が呉に移ると、呉の賢士大夫らは、項梁を親分として扱ったとあります。

項梁は楚の名将項燕の子というだけではなく、面倒見がよい親分肌な人間であり、人望を集めたのでしょう。

項梁は呉で葬儀や大夫役があると必ず参加し、項梁がいつも元締めになったとあります。

項梁はこの時に、人間観察をしていた様で、兵法で賓客や子弟の能力を見極めたとあります。

項梁は秦によって、天下が荒れると判断し、人物を見定めていたのかも知れません。

後に項梁は挙兵しますが、項梁は用いなかった人物がいました。

用いられなかった人は、自分に能力があると思っていた様で、項梁に自薦すると、項梁は次の様に述べた話があります。

項梁「前にそれがしの葬儀があった時に、お前に事をやらしてみたが出来なかった。

それ故に、用いる事が出来ないのだ。」

項梁がよく人を監察していたからこその言葉なのでしょう。

項梁の言葉に多くの人が納得した話もあります。

項羽を認める

始皇帝は天下統一後に、各地の巡遊を行い会稽に行き浙江に行った話があります。

項梁と項羽は始皇帝の行列を見たわけです。

この時に、項羽は始皇帝を見て次の様に述べた話があります。

項羽「奴(始皇帝)にとって変わりたいものだ。」

項梁は項羽の口を止め、次の様に述べています。

項梁「みだらな事を言うな。一族皆殺しにされるぞ。」

項梁は項羽の発言に驚いた面もあったようですが、項梁は項羽の覇気を認めたのか、項羽を奇傑と評価した話があります。

尚、項梁にとって幸運な部分は、史上最強の猛将と呼ばれた項羽が身内にいた事でもある様に思いました。

項羽の武が無ければ、項梁も幸先良いスタートが切れなかった可能性もあります。

三国志では曹操の配下には初期から夏侯惇、夏侯淵、曹仁がいましたし、劉備関羽張飛が配下にいました。

項羽のライバルとなる劉邦蕭何、樊噲、曹参、周勃などがいたわけです。

それを考えると項梁の配下に項羽がいきなりいたと言うのは、項梁が天下取りも狙える幸先良いスタートを切る暗示にも見えます。

尚、始皇帝が会稽に行ったのは、始皇帝の最後の巡遊である紀元前210年の事です。

始皇帝は紀元前210年に巡遊中に崩御しており、項梁も項羽も始皇帝を見たと思ったら、1年もしないうちに亡くなってしまい驚いた可能性もある様に思います。

 

項梁が挙兵

始皇帝の死で天下が乱れ、項梁も挙兵し群雄の一人となります。

先んずれば即ち人を制す

始皇帝が紀元前210年に崩御すると、胡亥が二世皇帝として即位し、宦官趙高が補佐する体制となりました。

しかし、始皇帝が崩御した反動なのか、陳勝と呉広が陳勝呉広の乱を引き起こしています。

陳勝と呉広は先に述べた様に、項燕と扶蘇を名乗った話があり、項燕の子である項梁からしてみれば、陳勝が項燕を名乗るのは不本意だった様に感じます。

陳勝呉広の乱をきっかけに、全国の各地で反乱が勃発しました。

こうした中で、会稽太守である殷通は項梁を招き、次の様に述べています

殷通「江北で反乱が勃発しておる。これは天が秦を滅ぼすと言っているのであろう。

『先んずれば即ち人を制し、後るれば人に制せられる』と聞いているが、儂は挙兵し其方(項梁)と桓楚を将軍にしたいと思う。」

殷通の言葉を聞いた項梁は「桓楚の居場所は甥の項羽が知っている。」と述べました。

項梁は外に出て項羽に会うと、事情を話し剣を持って待たせます。

項梁が殷通の部屋に戻ると、殷通に項梁は次の様に言います。

項梁「項羽を呼んで会稽太守の名で、桓楚を招いて貰いたい。」

殷通が「分かった。」と述べ、項梁は項羽を呼び、項羽が中に入ってきたわけです。

この時に、項梁は項羽に目配せを行い、項羽は殷通を殺害しました。

殷通の会稽太守の印綬を項梁が身に着け、騒ぎ出した役人数十人を項羽が斬ったわけです。

これにより項梁は役所を制圧し、人々は項梁に従う様になりました。

項梁は人望があった事で、殷通を殺害しても、人々から支持されたのでしょう。

尚、項梁が項羽に目配せで、殷通を殺害したやり方は、任侠に生きた項梁だからこそ、普通に行えたのでしょう。

殷通を殺害するあたり、項梁の度胸の大きさとも言えます。

因みに、殷通が述べた「先んずれば即ち人を制す」の話は、故事成語にもなっています。

しかし、先んずれば即ち人を制すと述べた殷通は、項梁に先に制せられてしまったともいえるでしょう。

 

精鋭八千を得る

項梁は役所を制圧すると、豪吏を呼び大事を起こす理由を諭したとあります。

豪吏達に理由を説明した事を考えると、項梁は予め計画を練り、殷通の殺害したわけではなかったのでしょう。

項梁は人々に殷通を斬った事への、事後説明をした事になるはずです。

項梁は呉中で挙兵し、四隣の諸県の兵を収め八千の精鋭を得ました。

この精鋭部隊が項梁軍の中核を成します。

項梁は元々人をよく観察していた事から、校尉、軍侯、司馬などはスムーズに決められたはずです。

 

楚の上柱国となる

項梁は挙兵しましたが、この時には秦の反撃が始ります。

陳勝配下の周章が函谷関を抜き秦の首都咸陽に迫りますが、秦の章邯が撃退しています。

章邯は陳勝を討つべく、快進撃を続ける事になります。

この時に、陳勝配下の召平は広陵を降そうとしましたが、降す事が出来ませんでした。

召平は陳勝が敗走している事を知ると、揚子江を渡り呉に向かいます。

召平は呉で項梁と面会し、陳勝の命令と偽り、楚の上柱国(楚の最高位)を項梁に授けて、次の様に述べます。

召平「江東は既に平定しましたから、早く兵を率いて西行し秦を討つ様に。」

これにより項梁は八千の兵を率いて、江を渡り西を目指しました。

項梁が西を目指した記述がある事から、この時の項梁は陳勝配下の勢力になったとも言えるでしょう。

ただし、召平は偽りを述べたのであり、項梁は偽の楚の上柱国になったとも言えます。

 

人々が集まる

項梁が江を渡ると、陳嬰が項梁の軍に加わります。

陳嬰は人望があり2万の若者を従えていたわけです。

陳嬰は王になる様にと要請もありましたが、母親の言葉により「王」とはならず、項梁に従う事にしました。

淮水を渡った頃になると英布(黥布)や蒲将軍、桓楚なども加わり、兵力は6,7万に達したとあります。

項梁の軍は進めば進むほど、人々が集まり大軍となったのでしょう。

項梁は下邳に陣営を設ける事にしました。

 

景駒と秦嘉を破る

項梁は多くの人々の支持を得ましたが、項梁に従わない勢力もいました。

秦嘉は景駒を楚王に立てて、彭城の東に陣営を構え、項梁を迎撃する構えを見せます。

楚の屈氏、昭氏、景氏などは、名門であり、楚の名門景氏の子孫である景駒に目を付けて、秦嘉は挙兵したのでしょう。

この時に、項梁は次の様に述べています。

項梁「最初に事を起こした陳勝は、戦いに敗れて行方が分からなくなっている。

しかし、秦嘉が陳勝に背き景駒を楚王にするのは、大逆無道である。」

項梁が秦嘉を攻撃し、秦嘉は戦いに敗れて敗走しました。

項梁は秦嘉を追撃し、胡陵まで行くと、秦嘉は態勢を立て直したのか、反撃に転じます。

しかし、項梁は1日の戦いで秦嘉を討ち取り、秦嘉の軍を吸収しました。

秦嘉の死を聞いた景駒は梁に向かいますが、亡くなっています。

 

章邯との戦い

陳勝を破った章邯は、栗に向かいます。

項梁は章邯に配下の、余樊君、朱鶏石に命じて、章邯を迎え撃たせています。

余樊君、朱鶏石は章邯に敗れて、余樊君は戦死し、朱鶏石は敗走しました。

項梁は兵を率いて薛に入ると、朱鶏石を殺害した話があります。

朱鶏石が逃げた事を問題としたのか、負け方が余りにも酷かったのか処刑したのでしょう。

 

項羽が穴埋め

項梁は項羽に襄城を攻撃されています。

しかし、襄城の守備は堅固であり、項羽は手こずります。

襄城を降すと、項羽は敵を全て穴埋めにしています。

項羽は帰って項梁に報告したとありますが、項梁がどの様に思ったのかは記載がありません。

項梁自体も人を殺害したり、項羽に目配せで殷通を殺害した過去もあり、余り気にもしなかった可能性もあるでしょう。

項梁にしてみれば「仕方がない行為」と思った可能性もある様に思います。

 

楚の懐王を立てる

陳勝が亡くなった事が「噂ではなく真実」だとする情報が入ってきます。

章邯が活発に動いている事も考え、陳勝の死が真実だとする結論に至ったのでしょう。

項梁は薛で諸将を集め、今後の対策を練る事になります。

項梁は楚の上柱国になったと信じていた可能性もあり、人を集めて本格的な対策を練る事にしたとも考えられます。

薛の会議に范増が参加した話があります。

范増は陳勝が王になったのは、自ら墓穴を掘るものであり、項梁に楚王の子孫を立てる事を進言しました。

范増は楚に従っている多くの者が、項家が楚の将軍の家柄であり、楚王の子孫を王に立てると考えているから、従っていると述べます。

項梁は范増の献策を優れていると考え、楚の懐王の孫である心を見つけ、祖父と同様に楚の懐王を名乗らせています。

項梁は自らを武信君と号しました。

項梁は陳嬰を楚の上柱国に任命するなど五県を与え、西暦208年に楚の懐王を盱台に配置し首都としています。

尚、戦国時代の楚の懐王は296年に亡くなっており、項梁が活躍した時代とは80年以上も離れている事が分かります。

それを考えると、項梁が立てた楚の懐王である「心」は、かなりの高齢だった可能性が高い様に感じます。

因みに、この頃には劉邦も項梁の軍に加わる事になります。

 

田栄を救援

秦軍を率いる章邯は、魏咎をターゲットに定め魏に侵攻しました。

魏咎は単独で章邯を倒すだけの力はなく、斉に援軍要請します。

斉では斉王となっていた田儋が自ら田栄らを率いて、魏咎の救援に向かいました。

ここで章邯は田儋の動きを読んでおり、後詰決戦を挑み田儋を討ち取り、田栄を敗走させています。

田儋が敗れた事で、魏咎は戦意を失い民衆の命と引き換えに自らは焼身自殺した話があります。

田儋の死が伝わると、斉では田仮(斉王建の弟)がいち早く動き、斉王に即位しました。

田仮は田角を仮の宰相としています。

この時の田栄は敗残兵をまとめ東阿に籠城する事となり、斉王を誰にするかの会議に参画出来なかったのでしょう。

項梁は司馬の龍且と共に、東阿に向かいます。

項梁と龍且は大いに秦軍を破り、田栄を救う事に成功しました。

 

田栄との対立

田栄は秦軍の包囲が説かれると、斉王に即位した田仮を攻撃します。

この時に田仮は楚の項梁の元に逃げ、斉の宰相であった田角は田間と共に趙歇、陳余、張耳を頼る事にしたのか趙に逃げます。

田栄は弟の田横と共に、田儋の子である田市を斉王に立てました。

項梁は、さらに秦軍を討とうと考え、田栄に使いを送りますが、田栄は次の様に答えています。

田栄「田仮を殺し、趙で田角、田間を殺害したら出兵しましょう。」

田栄の返事に対し、項梁は次の様に返答しています。

項梁「田仮は楚と与国の王であり、困窮し私を頼ってきたのであるから、殺す事は出来ない。

趙も同じ様に、田角、田間を斉との出兵と交換に、命を奪う事はしないであろう。」

項梁は義侠の人であり、頼って来た田仮を殺害する事が出来なかったはずです。

項梁や項羽は人を簡単に殺す様に見えますが、頼って来た人物に対しては、「助けたい」とする気持ちが強かったのでしょう。

田栄の方でも、田仮や田角が生きていては、いつ国を逐われるか分からない状態であり、田仮や田角が生きている状態で、斉を開ける事が出来なかったはずです。

項梁と田栄の思惑の違いから、田栄は出兵し項梁を助ける事がありませんでした。

尚、斉が項梁を助けなかった事を項羽は恨んでおり、秦滅亡後に斉を攻撃すると大虐殺を行っています。

 

楚軍の快進撃

項梁は項羽と劉邦に西陽を攻める様に命じ、項羽と劉邦は成陽を見事に陥落させています。

後のライバルとなる項羽と劉邦も、項梁の下で共闘していたわけです。

因みに、項羽が望み、項羽と劉邦が義兄弟になった話もあります。

項羽と劉邦の快進撃は続き濮陽も降しています。

ただし、定陶を攻略する事は出来ず、兵を西に向けて雍丘で秦軍に大勝し李由を斬ります。

李由は秦で丞相を行っている李斯の子であり、大戦果を挙げたと言えます。

項羽と劉邦は外横に進撃しますが、ここで項梁が動きます。

東阿にいた項梁は突如動き、定陶に向かい秦軍を多いに破ります。

この頃の、楚は項羽、劉邦らの活躍もあり、快進撃を続けたと言えるでしょう。

 

宋義の諫言

楚軍が秦軍を各地で圧倒した事で、項梁の心に驕りが生じたと史記にあります。

宋義は項梁に、次の様に諫言しています。

宋義「戦いに勝っても将が驕り兵が怠ければ失敗に終わります。

状況を見るに兵が少し怠けて来ておりますし、秦兵は益々増えて来ています。

私は現在の状況を見るに、不安だと感じます。」

しかし、項梁にも驕る気配があった様で、宋義を煩い奴と思ったのか、斉への使いに出しています。

この時点で、項梁に死亡フラグが立ったとも言えるでしょう。

尚、宋義は斉に行く途中に、楚に向かう使者である斉の高陵君顕に出会います。

宋義は高陵君顕に「武信君(項梁)は必ず敗れる。ゆっくり行けば敗れた後で命は助かるが、早く行けば災難に遭う。」と項梁の敗北を予言しました。

宋義の予言は的中する事になります。

項梁の最後

秦軍は楚軍に各地で敗れて、章邯は多くの兵を失っていたはずです。

しかし、敗北が都に伝わる前に、章邯が張楚(陳勝)、魏、斉などを破った話を聞いており、秦の首脳部は気分をよくし援軍を派遣していたのでしょう。

章邯は不利な状況にいましたが、兵や物資の補充を得る事が出来たはずです。

章邯は態勢を立て直すと、項梁がいる定陶を急襲しました。

この時の項梁は度重なる連勝で油断していた事もあり、呆気なく討ち取られてしまいます。

項梁の死により、楚軍に動揺が走り、外横にいた項羽と劉邦は相談し、兵を東に戻しています。

この時に呂臣も兵を東に向かわさせ、項羽、劉邦、呂臣が彭城の付近に駐屯し守りを固めています。

秦に対して連戦連勝だった楚軍ですが、項梁の死で一気に躓いたわけです。

尚、定陶は水上交通の要所であり、城を包囲するのが難しく、逃げるに容易い城だとする説があります。

定陶で章邯が項梁を斬る事が出来たのは、かなり運が良かったとする説もあります。

項梁の死因は戦死となりますが、史記だと簡単な記述しかなく、どの様な最後だったのかの詳しい描写はありません。

項梁亡き後の楚

項梁は死亡しますが、章邯は項梁を斬った事で、楚は瓦解すると感じたのか北方の趙へ向かっています。

趙では秦の王離が鉅鹿を包囲していました。

楚の懐王は宋義、項羽、范増に趙の救援に向かわせ、劉邦には関中に進撃する様に命じています。

項羽は趙に向かう途中に宋義を斬り、鉅鹿に進撃すると鉅鹿の戦いで王離を大いに破り、諸侯の兵は項羽に従いました。

劉邦は武関を抜き、秦王子嬰を降伏させています。

項羽が函谷関を抜き子嬰を斬り、秦は完全に滅亡しました。

項梁は志半ばで倒れる事になりましたが、項梁の遺志は引き継がれたと言ってもよいでしょう。

 

項梁の評価

項梁の死は、歴史を大きく変えた可能性があります。

項梁と項羽を比べてみると、項梁の方が項羽よりも見識は遥かに高かった様に思います。

項羽は范増を疑い去らせていますが、項梁であれば范増をもっと使いこなせた可能性もあるでしょう。

鴻門之会では、項羽には劉邦の危険性が分からずに、許していますが、項梁であれば劉邦の危険さを認識したかも知れません。

項梁が生きていれば、劉邦は皇帝になれなかった可能性もある様に感じています。

尚、項梁の軍には陳平や韓信もいたはずですが、項梁は大した役目を与えていなかった様にも感じています。

それを考えると、項梁にどこまで人を見る目があったのかは分からない部分もあります。

項梁であれば范増を使いこなす事は出来ても、陳平は韓信に関しては、どこまで使いこなせたのかは分かりません。

もし仮に、項梁が生き続けたら韓信や陳平などは世に埋もれてしまった可能性もある様に感じます。

項梁と劉邦が対立した場合を考えると、項梁の配下には項羽がいる事になるでしょう。

項羽は間違いなく兵の将であり、見識の高さなどから考えると、劉邦は項梁の方がやりにくい相手だった様に思います。

項羽にしても、最も輝いていた時代は項梁が主君としていた時代や、秦の滅亡までだった様に感じています。

 

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