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構成・文/宮下悠史

斉(戦国) 春秋戦国時代

公孫閈(こうそんかい)は斉の策士

2021年10月30日

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名前公孫閈(こうそんかい)
生没年不明
斉(戦国)
コメント策士ではあるが、良い人には思えない。

公孫閈(こうそんかい)は斉の公族であり策士でもあります。

公孫閈は戦国策の斉策に詳しい記述があり、鄒忌の為に田忌を出奔させたり、田嬰が薛に封じられる様に仕向けた人物でもあります。

鄒忌や田忌とのやり取りを見ていると、誠実な人物とは言えませんが、優れた策謀を持っていた事は明らかでしょう。

さらに、楚の威王の前で弁舌を振るった事を考えれば、交渉術にも長けていたと言えそうです。

今回は戦国策の記述を元に、公孫閈の解説を行います。

 

楚の威王を説得

戦国策によれば、斉の威王は田嬰を薛に封じようとします。

田嬰は斉の威王と魏の恵王の会見を設定し、お互いを「王」と呼ぶなど、会見を成功させた功績があったからです。

しかし、春秋時代に王を名乗ったのは周王と楚王だけであり、斉や魏が王を名乗る事は楚の威王にとってみれば、許せる事ではありませんでした。

楚の威王は斉と魏の会見をセッティングした田嬰を恨み、田嬰が薛に封じられる話を聞くと、阻止しようと斉の威王に圧力を掛ける事になります。

斉の威王は田嬰を薛に封じてしまえば、楚に攻められる状態となり、田嬰を薛に封じるのを取りやめようと考えます。

この時に、公孫閈が動き田嬰に次の様に述べています。

公孫閈「あなたが薛に封じられるかは斉ではなく、楚次第です。

私が楚王に説いて、楚王も喜んで貴方が薛に封じられる様に仕向けて見せましょう。」

田嬰も公孫閈に任せる事とし、公孫閈は楚王と面会しました。

公孫閈は楚の威王と面会すると、次の様に述べています。

公孫閈「魯や宋が楚に対して従属するのに、斉が楚に従属しないのは、魯や宋が小国であり斉が大国だからです。

楚王様は魯や宋が小国だという利点は知っていますが、斉が大国だと言う事を気にしておられません。

現在の状況だと、斉は田嬰に薛の地を割いて与えると申しているのです。

斉は田嬰に薛を割けば、その分だけ斉は弱体化します。

斉王が田嬰に地を割くと言っているのに、阻止する理由はありません。」

楚の威王は公孫閈の言葉を受け入れ、田嬰が薛に封じられるのを阻止するのをやめました。

公孫閈は田嬰の為に動き、見事に役目を果たしたと言えるでしょう。

尚、田嬰の後継者は孟嘗君であり戦国四君の一人に数えられ食客が3000人いた事でも有名です。

公孫閈が楚の威王への使者にならなかったら、田嬰は薛に封じられない可能性が高く、孟嘗君も歴史に登場しなかった可能性もある様に思います。

 

田忌を追放

田忌に魏を攻めさせる

斉の威王の時代は成侯鄒忌が宰相となり、田忌が将軍となっていました。

しかし、宰相の鄒忌と将軍の田忌は険悪な仲であり、お互いを嫌っていたわけです。

こうした中で、公孫閈は鄒忌の為に、次の様に述べています。

公孫閈「あなたは、なぜ斉王の為と申し、魏を討つ様に進言しないのですか。

斉が魏に勝利すれば、あなたの謀が成功した事となり、褒賞を得る事が出来るはずです。

将軍の田忌が戦いに敗れたり、軍が停滞したり、田忌が戦死しなかった場合は、田忌の責任とし誅殺してしまえばよいでしょう。」

鄒忌は「なるほど。」と思い、斉の威王に進言し、田忌を将軍として魏を攻撃させました。

しかし、田忌の軍は予想を超える強さを誇り、戦いをする度に勝利を収めます。

尚、田忌が勝利した戦いは、桂陽の戦いも含まれるとも考えられています。

 

田忌の出奔

鄒忌は何度も田忌が戦いに勝利したと、公孫閈に告げる事になります。

鄒忌の言葉を聞くと、公孫閈は十金の金を持ち市場に人をやり、次の様に占わせています。

「私は田忌様の配下の者であるが、田忌様は『儂は何度も戦いに勝利し、名は天下に響いておる。

大事(謀反)を決行したいと思うが、吉か否かどちらであろうか。』と言っておられるのだ。」

そして、占いを行い、占いを行った者が証言し、田忌は斉に帰る事が出来なくなり出奔しました。

子供だましの様な策でもありますが、公孫閈の策は成功し田忌を追放する事に成功したわけです。

ただし、田忌は斉の宣王の時代になると、讒言で出奔した事になったと判明し斉に戻る事になります。

この時までに、公孫閈が生きていたのかは不明ですが、田忌が戻ってきたとなれば、公孫閈の立場はかなり微妙になったとも言えるでしょう。

尚、田忌は後に天才兵法家である孫臏を迎える事となり、馬陵の戦いで勝利するなど大功を建てています。

 

公孫閈の評価

公孫閈は策士ではあると思いますが、権力闘争の為に田忌に出兵させた事実もあります。

それを考えれば策士ではありますが、忠臣とは言い難いと感じました。

ただし、主君とも言える田嬰や鄒忌の為に、動いた事も事実であり、それを考えれば直属の君主の為には役立つ存在だったとも言えるでしょう。

戦国七雄の時代は、様々な説を述べる者がおり合従連衡を行いますが、公孫閈も戦国時代の遊説家らしい人物だとも思いました。

参考文献:平凡社 戦国策1斉策 編・劉向 訳・常石茂

 

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