秦末期・楚漢戦争

項羽(項籍)は最強の猛将。最後は史記でも屈指の名場面

2021年10月2日

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宮下悠史

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項羽(項籍)は史上最強の猛将とも呼ばれる人物です。

中国史上最強の武将は誰か?という話題になると、必ず候補に挙げられるのが項羽だと言えるでしょう。

項羽は史上最強とも呼べる武力を持ちながらも、劉邦に最後の最後で敗れた事でも有名です。

ただし、項羽の最後は史記でも屈指の名場面であり、項羽の最後は美しく描かれています。

今回は史記や漢書などの記述を元に、史実の項羽がどの様な人物だったのか解説します。

尚、項羽は『羽』が字であり、本来は項籍と呼ぶべきなのかも知れません。

しかし、ここでは多くの方が呼び慣れた項羽で統一したいと思います。

項羽は項燕の孫

項羽の祖父は、戦国時代末期のの名将である項燕です。

項燕は奮戦しますが、最後は楚王に擁立した昌平君と共に最後を迎える事になります。

項羽の父親は項燕の子のうちの誰かなのですが、名前が伝わっていません。

もしかしてですが、項燕と秦の王翦が激突した時に、項羽の父親は討死してしまった可能性もある様に思いました。

他にも、は旧戦国時代の有力者に対して懸賞金を出して逮捕していた話しもあり、項羽の父親は逮捕されて処刑された可能性もあるでしょう。

項燕の子の中に、項梁なる人物がおり、項羽は項梁に育てられる事になります。

項羽が兵法を憶える

項羽は若かりし頃に、文字を習ったが大して覚えられませんでした。

項梁は項羽に机の上の事は向かないと思ったのか、剣術を学ばせる事にします。

しかし、剣術も項羽は興味を持たなかった様で、直ぐに飽きてしまいます。

長続きしない項羽に項梁は怒りますが、項羽は次の様に述べています。

項羽「文字は名前や名字が書ければ十分です。

剣術は一人を相手にするだけなので、習う程の価値はない。

私は万人を相手に出来る様な術を習いたいのです。」

項羽の話を聞いた項梁は、項羽に兵法を学ばせました。

項羽は兵法を学べると分かると喜び、兵法を粗方マスターしたわけです。

しかし、項羽は兵法を深く覚えようとはしませんでした。

個人的に、項羽が軍事に関して天才的だと思うのが、剣術に興味が無くても、後の戦いを見るに圧倒的に武芸に優れていた点です。

さらに、兵法もある程度の勉強をしただけで、必要最低限の要素などは覚えてしまったのでしょう。

項羽の戦いは直感的に判断する事が多い為か、項羽は兵法書を執筆出来る様な人ではないはずです。

しかし、必要最低限だけ覚えたと言うのは、頭でっかちになってしまった蜀の馬謖趙括などに比べると、遥かにマシだったとも言えます。

ただし、項羽は兵法を芯まできちんと学ばなかった事で、後年に韓信の献策を受け入れる事が出来なかった可能性もあるでしょう。

始皇帝の遊行

項羽は項梁と共に、櫟陽にいましたが、項梁が罪を犯してしまいます。

項梁は曹咎(そうきゅう)や司馬欣に助けられますが、呉に逃亡する事になります。

項羽と項梁は呉で暮らしますが、始皇帝の最晩年の遊行を見る機会がありました。

始皇帝の行列を見ると、項羽は次の様に語った話があります。

項羽「奴に取って変わりたいものだ。」

この時に、項梁は慌てて項羽の口をおおい「そんな事を言えば、一族皆殺しにされるぞ。」と注意した話があります。

ただし、史記の項羽本紀によれば、項羽の始皇帝への言動を聞いた項梁は、項羽を奇傑だと評価しています。

奇しくも後年にライバルとなる劉邦の始皇帝の行列を見ており、次の様に語った話もあります。

劉邦「男たるもの、あの様で無ければならぬ。」

項羽と劉邦の言動は、お互いの性格を現わしているとも考えられ、対比される事が多いです。

優れた身体能力

史記には項羽の身体に関する記述があり、身長は八尺であり、高身長だった事が書かれています。

さらに、鼎を持ち上げる事が出来る程の怪力であり、才気があったと記録されています。

これらの記述から項羽は極めて高い身体能力があった事が分かります。

武芸を大して学ばなくても、身体能力の高さで人を圧倒する事も出来たのでしょう。

項羽の戦いの強さの源は、自らの身体能力の高さにあったのかも知れません。

三国志に登場する小覇王と呼ばれた孫策や、父親の孫堅も身体能力が極めて高かった話があります。

名将のパターンの一つに身体能力の高さがあり、長時間に渡って軍隊を指揮したりできるだけの体力がある事も、名将の一つの条件になるのでしょう。

ただし、全ての名将と呼ばれている人物が体力が高かったわけではなく、南北朝時代の韋叡(いえい)の様に体が弱く、儒者の格好で軍を指揮した例もあります。

項梁の挙兵

始皇帝死後に胡亥が即位し、宦官趙高が実権を握る様になると、世の中の秦に対する不満が噴出します。

こうした中で、陳勝呉広の乱が勃発し、反乱は瞬く間に全国に拡がったわけです。

会稽太守の殷通は「先んずれば人を制す」の言葉に従い、項梁と桓楚の二人を将軍とし、反秦の挙兵をしようと考えます。

この時に、項梁と殷通は面会しますが、項梁は項羽に命じて殷通を殺害してしまいました。

項梁の行動に驚いて騒いだ者もいましたが、項羽が数十人撃ち殺したとあります。

これを見ても、項羽の度胸と腕力は天下一品のものだった事が分かるはずです。

項梁は兵を集めて挙兵し、項羽は項梁の副将となりました。

挙兵した時の項羽の年齢は24歳だったと伝わっています。

まとまりがない反乱軍

陳勝の決起から始まった反秦運動ですが、纏まりが全くない状態でした。

陳勝が武臣、張耳、陳余らに趙を攻略させれば、武臣は趙で独立し、武臣が韓広に燕を攻略させれば、韓広が燕で独立と言った具合です。

他にも、周市が魏咎を魏王に擁立したり、斉では田儋らが王を名乗っています。

同盟は結びながらも纏まりが無かったのが、反秦連合軍だったと言えるでしょう。

こうした中で、周文(周章)が函谷関を抜き、秦の都に迫りますが、囚人兵を率いた秦の将軍である章邯に敗れています。

陳勝も章邯に破れ、陳勝は部下の荘賈に殺害されています。

しかし、陳勝が亡くなった情報は項梁陣営に伝わるのが遅く、項梁は召平により、楚の上柱国に任命されました。

こうした中で、項梁の軍の中に項羽はおり、快進撃を続ける事になります。

襄城攻め

項梁の軍は挙兵すると、各地から兵が集まり大勢力となります。

自分に従わない勢力である秦嘉に擁立された景駒を討つ等、項梁の軍は確実に勢力を拡大させます。

こうした中で、項羽が自ら兵を率いて襄城を攻撃しました。

襄城は堅固に守り、項羽は中々降す事が出来なかったわけです。

しかし、襄城が陥落すると項羽は敵を全て穴埋めにしてしまいます。

項羽は多くの者を穴埋めなどで殺害しており、襄城での穴埋めは序章に過ぎません。

項羽は襄城を陥落させた事を、項梁に報告したとあります。

因みに、史記の高祖本紀には『劉邦が項梁に従って、一カ月余りで項羽が襄城を陥落させ帰還した。』とする記述があります。

劉邦が項梁の陣営に加入したのは、項羽が襄城を攻めている最中だったのでしょう。

項羽と劉邦が出撃

項羽と劉邦は項梁の配下で共闘する事になります。

楚の懐王

項梁の元に行方不明となっていた陳勝が本当に亡くなったとする情報が入ってきます。

項梁は諸将を集めて会議を開き、范増の進言により、楚王の後裔を探し出し、楚王に即位させる事にします。

項梁は羊飼いをしていた楚の懐王の孫である「心」を見つけ、祖父と同様に楚の懐王を名乗らせています。

戦国時代の楚の懐王が秦で亡くなったのが、紀元前296年なので、80年以上も経っている状態です。

その為、項梁が擁立した楚の懐王は既に、高齢だったとも考えられています。

楚の上柱国には陳嬰がなり、項梁は武信君と号しました。

項梁が楚の最高官である上柱国にならなかったのは、項梁が懐王と一緒に後方にいれば、軍事が停滞すると考えたからでしょう。

後述しますが、項羽としてみれば楚の懐王を擁立したのは、項梁であり項家のお陰だと考えていた様です。

尚、項梁は楚の懐王がいる首都を盱眙に定めました。

項羽と劉邦

項梁は項羽と劉邦に命じて、成陽を攻めさせています。

項羽と劉邦は成陽を落とすと、西では濮陽を陥落させています。

さらに、項羽と劉邦は雍丘と落とし、秦の丞相である李斯の長子が守る、李由を斬るなど大いに秦軍を破りました

項梁も自ら兵を率いて、章邯を破るなど大戦果を挙げています。

この時に、楚軍は絶好調であり各地で秦軍を破ったわけです。

項梁の死

項梁の軍は好調であり、項梁に驕りの心が見え始めます。

宋義は項梁を諫めますが、聞き入れられる事はなく、宋義は斉への使者として出されます。

章邯は項梁を急襲するチャンスを伺っており、定陶を急襲し項梁を斬る事に成功しました。

章邯は項梁を討ち取ると、趙を平定すべく北に向かいます。

項梁は項羽の父親代わりでもあり、項梁の死は項羽にとって、衝撃は大きかったはずです。

項梁は唯一項羽を制御できる人物でもあり、項梁の死は項羽にとっても不幸な出来事だった事は間違いないでしょう。

項梁が生きている間は、項羽は戦いに集中すればよく、最も活躍出来た時代の様にも思います。

尚、項梁が死ななかったら、項羽は有能な将軍として生涯を終えていた可能性もある様に思います。

兵を東に戻す

項羽と劉邦は、項梁の死を聞くと、次の様に述べた話があります。

「武信君が敗れた事で、士卒は恐れを抱いたであろう。」

項羽と劉邦は呂臣の軍と東に向かい、呂臣は彭城の東、項羽は彭城の西、劉邦は碭に駐屯しました。

快進撃を続けていた項羽と劉邦ですが、項梁の死により軍を東に戻さなければならなくなったとも言えます。

楚軍に思わぬ所で、土がついたとも言えるでしょう。

軍を二つに分ける

楚の懐王は項梁が敗れると、都を盱眙から彭城に移しています。

楚の懐王はここで退いてしまったら、秦軍に必ず敗れると判断したのか、前線に近い彭城に遷都したわけです。

楚の懐王は軍を二つに分ける決断をします。

一軍は劉邦が率いる事になり西行し、秦の首都である咸陽を目指します。

もう一つの軍を宋義を上将軍とし、次将に項羽、末将に范増を命じました。

宋義の軍は卿子冠軍と号し、項羽が魯公に任命されています。

楚の懐王は士気を高める為に、次の様に言いました。

「最初に関中に入った者を関中の王とする。」

秦の都を最初に落とした者を関中の王にすると、懐王は宣言したわけです。

ただし、劉邦は秦の咸陽を直接目指す事になりますが、宋義や項羽の軍は趙への救援を命じられました。

つまり、宋義や項羽は関中へ行くには、遠回りが必要であり、楚の懐王による項羽らに対する嫌がらせと考える人もいます。

項羽は襄城の戦いで住民を穴埋めにした事もあり、楚の懐王が項羽の残虐性を危惧したとする説もある様です。

項羽は宋義の下で、趙を目指す事になります。

宋義を斬る

宋義の軍は北上して、趙を目指します。

安陽に到着すると、宋義は軍を停止させ46日間も滞在しました。

宋義の言い分としては、秦と趙を戦わせておき、秦軍が疲弊を待ち軍を北上させると述べたわけです。

しかし、実際には自分の子である宋襄を斉の大臣にするなど、政治工作を行っています。

項羽は本気で趙を救いたいと思っていた様で、兵士の士気が下がり始めていた事もあり激怒します。

項羽は遂に宋義の所まで行き、宋義を斬り捨ててしまいます。

さらに、項羽は宋襄にも追手を出し、宋襄を斬る事にも成功しました。

項羽は宋義の軍を奪い、桓楚を楚の懐王に派遣し事後報告を行います。

楚の懐王は項羽を上将軍に任命しています。

項羽は上将軍になると、兵を率いて北上し趙に向かいます。

鉅鹿の戦い

項羽の最大の見せ場と言ってよいのが、鉅鹿の戦いだと言えます。

圧倒的な秦軍

項羽は鉅鹿に到着しますが、秦の正規軍を率いた王離が鉅鹿の城を包囲していました。

この時の王離の軍は圧倒的であり、趙へ援軍に来た諸侯らは、救援の軍を出せず見守るのがやっとだったわけです。

鉅鹿の城では趙歇と張耳が窮地に陥りますが、張耳と刎頸の交わりを結んだ陳余や張耳の子である張敖ですら、傍観する事しか出来ませんでした。

さらに、王離は章邯に兵糧の補給を命じています。

諸侯が戦おうとしない中で、項羽だけは秦軍と積極的に戦おうとします。

項羽の祖父である項燕は、王離の祖父である王翦に破れ、楚は滅亡しました。

それを考えると、項羽が王離を敵視してもおかしくはないでしょう。

さらに言えば、自分の育ての親である項梁を殺害した秦軍を相手に闘志を燃やしていた可能性もあります。

自ら河を渡る

項羽は手始めに英布と蒲将軍に2万の兵を授け、鉅鹿の城への救援としました。

しかし、英布と蒲将軍は大した戦果を挙げる事が出来なかったわけです。

趙の首脳部の一人である陳余は項羽に自ら兵を率いて渡河し、秦軍と戦う様に要請します。

ここにおいて、項羽は自ら楚軍の兵を率いて、秦軍に決戦を挑む事になります。

決死の姿勢を見せる

項羽は楚軍の本隊を率いて渡河すると、船を沈め三日分の食料を残して捨ててしまいました。

項羽は秦軍に対して、決死の姿勢を見せたわけです。

韓信が後に井陘の戦いで、背水の陣を見せる事になります。

韓信の背水の陣は、陳余が正面突撃を好む事を知っており、勝てる計算の中で背水の陣を行ったはずです。

しかし、この時の項羽は策があったわけではなく、持っていたのは覚悟だけだった様に感じます。

尚、項羽が挑んだ秦軍は秦の正規軍であり、30万の兵士もさることながら、武装度でも楚軍を圧倒していた事でしょう。

圧倒的な強さを見せる

項羽の軍は秦軍に突撃を掛けます。

この時の楚軍は圧倒的な強さを見せており、楚兵一人で秦兵十人と戦ったとあります。

趙へ援軍に来ていた諸侯は、圧倒的な楚軍の強さの前に、動く事も出来ず見守ったとあります。

項羽の軍は秦将蘇角を斬り、渉間は焼身自殺し、大将の王離は捕虜となりました。

楚軍の圧倒的な強さを見せつけ大勝したわけです。

項羽が諸侯の盟主となる

項羽の圧倒的な強さを見た諸侯らは、項羽に平伏しています。

これにより、項羽は文句なしで諸侯の盟主となり大軍を率いる事になりました。

ただし、項羽が趙への救援に行っている間に、劉邦は武関を抜き関中に乱入し、秦を降伏させています。

しかし、劉邦が関中に入れたのは、項羽が秦の正規軍30万を完膚なきまでに破った事も大きかった様に思います。

王離が敗れた事で、秦軍の主力は壊滅しましたが、章邯がまだ残っていました。

章邯を破る

項羽は章邯を討つべく軍を進めています。

この時に、章邯は秦の宮廷では趙高が実権を握っており、功を立てれば妬まれて処刑され、戦いに敗れれば罪により処刑される事を知ります。

こうした中で、項羽の軍に押され、章邯はじりじりと後退を始めます。。

陳余は章邯に手紙を送り、秦は白起蒙恬など名将を殺す国だと述べ盟約を促しました。

章邯は配下の始成を送り、項羽と盟約しようと考える様になります。

こうした中で、項羽は章邯の軍に攻撃を掛けて、漳水の南や汙水の湖畔で秦軍を破っています。

しかし、章邯は戦いに敗れながらも軍を纏め、敗走しなかったのか粘りを見せたわけです。

章邯と盟約

項羽は章邯が粘った事もあり、軍糧が少なくなり、諸将を集めると次の様に述べています。

項羽「軍糧が少なくなってきているから、章邯と盟約を結ぼうと思う。」

項羽の諸将も賛成した事で、項羽と章邯は殷墟で盟約を結ぶ事になりました。

盟約が終わると、章邯は趙高の事を項羽に話し涙を流したとあります。

この時の章邯の苦悩はかなり深かったのでしょう。

項羽は体育会系の人でもあり、章邯の様な涙を流す様な人物は嫌いではなかったはずです。

項羽にとってみれば、章邯は叔父である項梁を殺害した憎き相手だったはずですが、章邯の戦いぶりを見るうちに見方が変わってきた可能性もあるでしょう。

項羽は章邯を雍王に命じ楚軍の中に置き、秦兵は章邯配下の司馬欣に指揮させる事にしました。

尚、項羽が章邯を関中の雍王に任じるのは、楚の懐王が言った「最初に関中に入った者が関中王」とする言葉に反しており、この時には項羽は楚の懐王に忠誠心は無かったとする説もあります。

秦軍二十万を穴埋め

章邯が降伏した事で、秦軍20万も項羽の配下となりました。

しかし、楚では秦人に対する恨みが多くあり、楚人は秦人を奴隷の様に使い、小さな事でも侮辱したわけです。

秦人は楚人に対して、恨みを持ち、多くが次の様に語り合います。

「章邯将軍は我らを偽って諸侯に身を投じた。

このまま上手く行き、函谷関に入り秦を滅ぼせればよいが、もし出来なかったら諸侯は我らを捕え東に帰るであろう。

そうすれば秦の首脳部は、我らの一族を皆殺しにするはずである。」

降伏した秦兵は楚兵からのストレスもあり、不穏な空気が流れたわけです。

秦兵は20万もおり、暴動でも起こされれば、項羽らの命も危うい状態でした。

こうした中で、項羽は英布や蒲将軍を陣営に呼び、次の様に決断しました。

項羽「秦の吏卒は数は多いのに心服していない。

関中に入ってから命令に背くような事があれば、事態は急変するはずである。

今のうちに秦の兵士は皆殺しにしてしまい、章邯と司馬欣、董翳の三人だけを秦に入れるのが良いと思う。」

項羽は秦兵を夜中に急襲し、新安城の南で穴埋めにしたとも伝わっています。

別説としては、項羽軍には秦兵を養うだけの兵糧を持っておらず、秦兵と楚兵の間で殺し合いまで起きてしまい、仕方なく決断したとする話もあります。

他にも、項羽は穴埋めではなく、武器を奪った秦の兵士を崖に布陣させ、夜中に楚兵が急襲し崖に突き落としたとする説もあります。

項羽が多くの秦兵を殺戮の対象にしてしまった事は間違いないのでしょう。

ただし、後の事を考えれば、ここで項羽が秦兵20万を殺してしまったのは悪手だったとも言えます。

尚、秦兵20万が殺されてしまった事件は、章邯にとってはトラウマ級の出来事だった事でしょう。

秦の滅亡

史記には、は項羽が滅ぼしたと記録があります。

しかし、実質的には劉邦が子嬰を降伏させた時点で、秦は滅亡したとも言えます。

函谷関を破る

項羽は函谷関に辿り着きますが、この時に劉邦は既に秦王子嬰を降伏させていました。

さらに、劉邦は函谷関を守備し、項羽を関中に入れるのを拒否したわけです。

項羽は劉邦に態度に怒り、英布に命じて函谷関を攻撃しています。

函谷関は落ち項羽軍は関中に突入しました。

二人の内通者

項羽が函谷関を破ると、劉邦の左司馬である曹無傷が項羽に内通しました。

曹無傷は劉邦が子嬰を宰相とし、秦の財宝を全て奪ったと告げたわけです。

項羽は翌朝に、劉邦を攻撃する事を決めて、鴻門に陣を置きます。

項羽の軍師である范増も劉邦を危険視しており、早めに片付けた方がよいと献策しました。

しかし、項羽の一族である項伯は、劉邦の軍師である張良に世話になった事があり、項伯が劉邦に内通する事になります。

この時に項羽の軍勢は40万いたとする話がありますが、劉邦軍は10万しかおらず戦力的には項羽に及ばなかったわけです。

劉邦は項伯を介して、項羽に詫びを入れる事になります。

鴻門之会

項伯は項羽の前に行くと、「劉邦を許すべきだ。」と述べます。

劉邦も翌朝に、項羽に詫びると述べていると話し、項羽は劉邦と会見する事になります。

これが鴻門之会です。

鴻門之会では、范増が項羽に劉邦を討たせようとしますが、項羽は劉邦を敵とみておらず、討とうとはしませんでした。

范増は項荘に劉邦を討たせようとしますが、項伯が劉邦を庇った事で、劉邦を討つ事が出来なかったわけです。

劉邦配下の樊噲(はんかい)の活躍もあり、劉邦は命拾いしました。

鴻門之会が終わると、項羽の軍師である范増は、劉邦を処刑しなかった項羽の甘さに対し、次の様に述べています。

范増「ああ小僧らは共に計るに足りない。

項羽の天下を奪う者は、必ずや沛公(劉邦)となるであろう。

一族は劉邦の虜になんってしまうはずだ。」

范増の言葉からは無念さが漂ってきます。

項羽にとってみれば、鴻門之会で劉邦を討たなかった事で、自ら禍根を残したとも言えるでしょう。

秦王朝の終焉

項羽の軍が咸陽に入る事になりました。

項羽は降伏した秦王子嬰を処刑し、秦の宮室を焼いた話があります。

項羽本紀によれば、秦の宮室は三カ月に渡って火が消えなかったとされています。

秦の始皇帝が作った阿房宮など、とてつもない広さであり、全て焼くのに時間が掛かったとも言われています。

項羽が秦の王宮を焼いたとする説ですが、項羽を暴君として見せかけるための話であり、実際は項羽は宮殿を焼いていないとする説もあります。

先にも述べた様に、史記には秦王朝を滅ぼしたのは項羽だと記載があります。

関東に都を置く

項羽は関中に都を置く事をしませんでした。

一般的には項羽が故郷に錦を飾りたいと考え、関中に都を置かなかったと言われています。

しかし、個人的には別の原因があった様に思います。

関中に都を置く様に勧められる

ある人が項羽に、次の様に進言した話があります。

「関中は山河を隔てており、四方は塞がれています。

関中の土地は肥えていますし、関中に首都を置けば、天下の覇者となる事が出来るはずです。」

項羽に関中のどこかの都市を首都とする様に進言した事になるでしょう。

秦が天下統一出来た理由の一つとして、関中の守りの固さがあったはずです。

商鞅が宰相をやっていた、秦の孝公の時代に函谷関は出来たとも言われていますが、戦国時代を通して、函谷関が抜かれたのは孟嘗君が合従軍を率いて秦を攻めた時くらいでしょう。

守備の固さで言えば、関中は強固であり、天然の要塞でもあったはずです。

しかし、項羽は関中を首都とはしませんでした。

故郷に錦を飾る

項羽は焼け野原になってしまった秦の宮殿を見て、故郷を想い関東に帰ろうとした話があります。

項羽は次の様に述べたとも言われています。

項羽「富貴になったのに故郷に帰らないのは、錦を着て夜道を歩くようなものである。

誰にも知って貰えない。」

項羽は偉くなって、故郷に錦を飾りたいと願ったとする話があります。

この話を聞いた人の中で、次の様に述べた人がいました。

「人は『楚人は猿が衣冠を着けただけ』と言うが、果たして本当であった。」

つまり、故郷に錦を飾りたい為に、関中に都を置くのは稚拙だと言いたかったのでしょう。

項羽はこの話を聞くと、言った人物を探し出し煮殺しています。

項羽が関中に都を置かなかった理由

項羽が関中に都を置かなかった理由ですが、一般的には故郷に錦を飾りたかった為だとされています。

しかし、実際には項羽が関中に都を置くのは、現実的ではなかったとする説もあるわけです。

項羽は章邯が降伏した後に、秦兵20万を穴埋めにしています。

これらの行為は秦人の恨みを買う行為である事は間違いないでしょう。

項羽が秦人に恨まれている状態で関中を支配してしまったら、反乱が勃発するなど問題が多く出ると感じました。

実際の所なのですが、「故郷に錦を飾りたい。」と考えたのは、項羽よりも楚兵だったのではないでしょうか。

項羽が関中を首都にしてしまったら、項羽は秦人から恨みを買われている為、多くの楚兵を関中に残さなくてはならなくなります。

そうなると、楚兵はいつになっても、故郷に帰る事が出来なくなってしまうわけです。

陳平の言葉によれば、項羽は人柄が恭敬で人を愛すると評した言葉があり、兵士達が故郷に帰りたいとする言葉を無視できなかった様にも思いました。

個人的には、項羽が関中に都を置かなかったのは、故郷の人々に自慢したかったわけではなく、自分に付き従ってくれた兵士を無視できなかったからだと感じています。

懐王との確執

項羽は秦を滅ぼすと、楚の懐王に秦を滅ぼした事や忠誠を尽くす事を伝えます。

しかし、楚の懐王は次の様に述べています。

懐王「最初の約束の通りにせよ。」

楚の懐王は「最初に関中王に入った者を関中王とする。」と宣言していました。

その為、楚の懐王は関中王には最初に関中に入った、劉邦が関中王になるべきだと考えたのでしょう。

しかし、楚の懐王は劉邦にはまっすぐに関中に向かわせる配慮をしましたが、宋義、項羽、范増のグループには趙を救援させた上で、関中を目指させたわけです。

懐王の劉邦に対する配慮は、迂回ルートを取らされた、項羽にとってみれば不平等だと感じていたのでしょう。

項羽は懐王を尊び義帝としましたが、自らも王になりたいと考え、次の様に述べています。

項羽「天下に初めて兵乱が起きた時に、仮に諸侯を立てて秦を討った。

甲冑を身にまとい武器を手に取り、戦争を行い身を野外に晒すのは3年に及んだ。

秦を滅ぼし天下を平定したのは、諸将の諸君や儂の功績である。

義帝には何の功労もない。楚の懐王は地を分けて王とするべき人であろう。」

項羽の言葉を解釈すれば、義帝は諸侯の長をするのではなく、一地方を治めるべきだと述べた事になります。

諸将も「それがよい。」と賛同した事で、項羽は封建を行い「王」や「侯」を定めたわけです。

秦を滅ぼした後には、項羽には義帝を奉る気が無かった事が分かります。

義帝のやり方は項羽にとって不利な部分もあった事で、義帝と項羽の間で確執が生まれていたのでしょう。

項羽十八諸侯

項羽は地を分けて、自分も含めて18人を王としています。

一般的には項羽の封建は戦国時代に逆戻りさせただけだと考える人もいます。

尚、項羽の論功行賞は不平等であり、不満が噴出したとする話もあります。

西楚の覇王・項羽

項羽は関東の九郡の王となり、西楚の覇王と号しています。

項羽は九郡の王となり、彭城を首都に定めました。

この時から、項羽は義帝の下から完全に独立したとも言えます。

尚、項羽は西楚の王となりますが、そうなると東楚はあるのか?と考える人もいるはずです。

あくまで想像ですが、楚には義帝がおり、義帝が「楚」及び「東楚」だった事で、項羽は西楚になったように思います。

後述しますが、義帝は早い段階で項羽に殺害されており、国が残らなかったのでしょう。

漢中王・劉邦

関中に一番乗りした劉邦は漢中王に任命しています。

漢中王に劉邦を任命するにあたって、項羽は次の様に述べています。

「巴蜀の地は道が険しく、秦で兵禍を避けた者は皆が蜀にいる。

巴蜀の地も関中である。」

これにより劉邦は漢中王になったわけです。

しかし、実際の巴蜀の地は罪人の流刑地であった事で、劉邦は激怒し項羽に戦いを挑もうとも考えました。

劉邦の参謀である蕭何が諫めた事で、劉邦は漢中王となり南鄭を首都にします。

雍王・章邯

章邯は秦の将軍ではありましたが、殷墟で項羽と盟約を結び降伏し雍王に任命されていました。

そのまま章邯は雍王に任命されたのでしょう。

項羽は章邯を雍王に任じ、廃丘を首都にしています。

塞王・司馬欣

司馬欣は過去に、獄吏をしており項梁を助けた事がありました。

そうした事もあり、項羽は司馬欣に対して好感もあったのでしょう。

司馬欣は塞王に任じられ、咸陽より東で黄河に至る地域を治めさせる事になります。

項羽は司馬欣を櫟陽を首都にする様に命じています。

翟王・董翳

董翳は章邯に楚に降伏する様に、進言した人物とも言われています。

そうした事情もあり董翳には上郡を与え、翟王に任命しました。

董翳は都を高奴としました。

三秦

雍王章邯、塞王司馬欣、翟王董翳の3人で関中の地を分割し王としたわけです。

秦人には秦の土地を治めさせるのがよいと考え、章邯、司馬欣、董翳を三秦の王とした話もあります。

項羽や范増が劉邦を警戒し、関中に出て来れない様に封じ込める為に、章邯、司馬欣、董翳の三人を配置したとも言われています。

しかし、章邯、司馬欣、董翳の配下にいた秦兵20万を項羽が生き埋めにしており、章邯、司馬欣、董翳らは秦人から評判が悪かった話もあります。

関中で評判が良かったのは関中での略奪を禁止した劉邦になりますが、劉邦を関中に入れるのは危険すぎると判断したのでしょう。

苦肉の策が章邯、司馬欣、董翳を三秦に配置する事だった様に思います。

西魏王・魏豹

項羽は魏王であった魏豹を河東の王とし、西魏王を名乗らせています。

魏豹の兄である魏咎は、秦の章邯に敗れた時は民衆の命を引きかえに焼身自殺しています。

魏咎が亡くなった事で、魏豹が遺志を継いでいました。

魏咎や魏豹は戦国七雄の魏王家の末裔でもあり、魏は河東を領有していた事もあった事から、西魏王としたのでしょう。

尚、劉邦の側室となり、文帝を生んだ薄姫は魏王家の出身でもあります。

項羽は魏豹に平陽に都させています。

河南王・申陽

項羽は鉅鹿で秦軍を破ってから、項羽の軍に趙の張耳が加わりました。

張耳のお気に入りの家臣で、瑕丘侯の申陽がおり、申陽は河南を制圧した功績があったわけです。

さらに、申陽は項羽率いる楚軍を黄河まで迎えた事もあり、項羽は申陽を河南王としました。

項羽は申陽には洛陽を都として定めさせています。

韓王成

韓王成は、過去に張良が項梁に「韓王家の子孫で王に立った者がいない。」と述べた事で、韓王に任命されています。

項羽の十八諸侯の封建では、韓王成は陽翟を首都に定めています。

ただし、韓王成の配下である張良が劉邦と親しかった事もあり、韓王成は早い段階で禍が降りかかる事にもなります。

殷王・司馬卬

趙将であった司馬卬は、河内を平定し多くの功績があった事で、殷王に任じられています。

項羽は司馬卬を河内の王として、朝歌を首都に定めさせています。

余談ですが、司馬卬は戦国時代に李牧と共闘し、秦軍と戦った事もある司馬尚です。

さらに言えば、三国志の勝者と言われた司馬懿は司馬卬の子孫となります。

代王・趙歇

趙王であった趙歇は、代に移されて代王となりました。

項羽が趙を救った後に、趙歇も軍に同行しようとしますが、張耳が引き留めています。

代は匈奴と国境を接するなど重要拠点ではありましたが、僻地となります。

それを考えれば、趙歇は左遷されたとも言えます。

因みに、趙歇は戦国七雄の趙王家の子孫でもあります。

常山王・張耳

趙の丞相であった張耳は、項羽に従って関中に入りました。

張耳は刎頸の交わりを結んだ陳余とは、仲違いし刎頸の交わりは解消しましたが、賢人として名高かった事もあり、常山王になっています。

ただし、張耳は主君である趙歇が代の僻地に移封させられた事もあり、常山王となっても褒められたものではなかったはずです。

主君である趙歇を僻地に追いやり、自分が豊かな地の王になったとも言えるでしょう。

九江王・英布

当陽君の英布は項羽軍の中でも、軍功で言えば常にトップでした。

項羽は英布を九江王とし、六に都させています。

英布は九江王となりますが、項羽に対しては恩賞問題で不満を抱えていたとも考えられています。

ここから先の英布は、項羽の言う事を聞かない様になっていきます。

衡山王・呉芮

呉芮は番君とも呼ばれ百越の民族を率いて、諸侯の軍を助け関中に入りました。

項羽は呉芮の功績を認め衡山王とし、邾を首都に定めています。

尚、楚漢戦争終了後に多くの諸侯が粛清されますが、呉芮だけは漢王朝でも比較的長く王として君臨しています。

呉芮は英布に娘を嫁がせた事でも有名です。

因みに、呉芮配下の梅鋗は十万戸侯に封じられています。

臨江王・共敖

共敖は楚の義帝の柱国であり、兵を率いて南郡を討っています。

共敖の功績を評価した項羽は臨江王としました。

項羽は共敖を江陵を首都にする様に命じています。

遼東王・韓広

韓広は趙から独立して燕王となった経緯があります。

趙が鉅鹿で秦軍に攻められて窮地に陥った時に、韓広は臧荼を援軍の将として差し向けています。

臧荼は項羽と共に関中に入り、燕王に任命されました。

これにより韓広は中国の隅でもある、遼東の僻地に移されてしまったわけです。

韓広は無終を都にする様に命じられました。

燕王・臧荼

臧荼は韓広配下の武将でしたが、項羽と共に関中に入った事で燕王となります。

臧荼は項羽から薊を都にする様に命じられます。

項羽は燕王の韓広よりも、韓広が派遣した臧荼の方を高く評価する事になります。

膠東王・田市

田儋の子で田栄に擁立された斉王田市は、膠東王に任命されています。

項羽が諸侯を封建する前は、斉は一つの国でしたが、三分割される事になります。

田市は項羽の命令に従おうとしますが、田栄は項羽に反抗的であり、これが後に斉に災いをもたらす事になります。

斉王・田都

田都は田市の配下でしたが、田栄の意向に反し、鉅鹿の戦いで項羽に合流しました。

田都は項羽と共に、関中に入った事で斉王に任じられています。

斉の田氏の中で、最も項羽に好意的な所を評価されたのでしょう。

項羽は田都に斉の中心地でもある、臨淄を首都にする様に命じました。

済北王・田安

田安も田都と同様に、田市の配下でしたが、項羽の軍に加わり戦功を挙げています。

項羽が趙の救援に駆け付けた時は、済北の数城を落とし項羽に降っています。

項羽は田安を博陽を首都にする様に指示しました。

尚、済北王になった田安は戦国七雄の最後の一人であり、秦の李信王賁、蒙恬らに降伏した斉王建の孫でもあります。

項羽に不満を持つ者たち

項羽は諸侯を封じたわけですが、平等に欠けた論功行賞だったとも言われ、多くの諸侯が不満を持ったとされています。

項羽に従い函谷関に入った者を優遇したのも不満が出る原因だったとされています。

項梁に従わなかった斉の実力者である田栄を封じなかったり、賢人と言われた陳余も南皮の三県に封じて侯にしただけでした。

さらに、彭越は1万以上の軍勢を保持しながらも、恩賞を貰う事が出来ずに、どこにも帰属する事が出来ない状態だったわけです。

こうした中で、項羽が事件を起こす事になります。

義帝の殺害

項羽の論功行賞が終わると、諸将は領国に向かう事になります。

項羽も自分の領国に向かいますが、義帝に使者を送り、次の様に述べています。

「古来より帝王は方千里の土地におり、いつも川の上流の地方にいたものである。」

項羽は義帝を長沙の郴県に移そうとしました。

項羽が強引に義帝を長沙に移そうとする事に対し、諸侯の間で不穏な空気が流れます。

項羽は義帝が自分に逆らおうとする者達のシンボルになる事を恐れたのか、呉芮と共敖に命じて義帝を殺害してしまいます。

尚、黥布列伝によれば、義帝を殺害したのは英布配下の者となっており、実際には誰が義帝を殺害したのか分からない状態です。

先にも述べた様に、義帝は既に高齢だった可能性が高く、数年のうちに亡くなった可能性も高いと指摘する専門家もいます。

それを考えると、項羽が義帝を殺害する行為は悪手だったとも言えるでしょう。

天下が乱れる

項羽は諸侯を封建しますが、天下が平和になったわけではありません。

今度は諸侯同士で戦う事になります。

韓王成の殺害

項羽は十八の諸侯を定めますが、その中に韓王成がいました。

韓王成は戦国時代の韓王室の末裔ですが、軍功が無かったわけです。

項羽は韓王成を封地には向かわせずに、彭城に連れて行き殺害しています。

因みに、劉邦の軍師である張良は韓王室再興の為に動いており、項羽に対して恨みを抱いた事でしょう。

項羽は韓王成を処刑すると、呉の令であった鄭昌を韓王としました。

臧荼の勢力拡大

項羽は韓広を僻地の遼東に移し、臧荼を燕王としました。

しかし、臧荼は韓広の将軍であった人物であり、韓広にとって見れば納得出来る事ではなかったわけです。

韓広は遼東行きを拒み、臧荼は韓広を攻撃しました。

韓広は戦いに敗れ、臧荼は燕と遼東を合わせた地域の王となります。

田栄が斉王となる

斉の実力者である田栄は、項羽が田市を膠東に移し、斉の将軍だった田都を斉王にしたと聞くと激怒します。

田栄は田都を攻撃し、田都は項羽の元に逃げる事になります。

しかし、田市は項羽を恐れ膠東に自分から移ってしましました。

田栄は田市にも激怒し、田市を殺害し、自ら斉王に即位します。

項羽にとってみれば、田栄が斉王になるのは、見過ごす事は出来なかったはずです。

田栄も項羽に従う気はなく、項羽が任命した済北王の田安も攻撃し殺害しました。

さらに、田栄は彭越に将軍の印綬を授け、梁の地で項羽に背かせています。

項羽は斉を三分割しましたが、結果として田栄が唯一の斉王となったわけです。

陳余が張耳を討つ

南皮にいた陳余は、張同と夏説に命じ斉王田栄の元に向かわせました。

張同と夏説は田栄を説き伏せ、田栄は陳余に兵を貸し与えています。

陳余は常山王の張耳を攻撃し、張耳は呆気なく敗走したわけです。

陳余は代王になっていた、趙歇を趙王として復位させています。

趙歇は陳余の行動に義を感じたのか、陳余を代王に任命しました。

敗れた張耳は劉邦を頼る事になります。

劉邦が関中に進撃

劉邦は関中に進撃します。

関中では、章邯が奮戦しますが、劉邦は短期間のうちに関中の大部分を平定してしまいました。

劉邦が西で背いた事で、項羽は東の田栄と合わせて東西に敵を作った事になります。

この時の項羽が劉邦にどこまで警戒心があったのかは不明ですが、項羽の最大の敵は劉邦となります。

彭越が蕭公角を破る

項羽は諸侯同士で勝手に争ったり、背いたりした事で激怒します。

項羽は韓王とした鄭昌に、劉邦に対し備えさせ、蕭公角には彭越を討たせています。

しかし、彭越は軍隊を指揮するのが巧みであり、蕭公角は呆気なく敗れています。

尚、彭越はゲリラ戦を繰り返し、楚軍の糧道を断つなど苦しめて行きます。

陳平が劉邦陣営に移る

殷王の司馬卬が反旗を翻すと、項羽は陳平を討伐に向かわせます。

陳平は見事に司馬卬を討伐する事に成功しました。

しかし、司馬卬は漢に攻められると呆気なく降伏してしまい、項羽は責任を陳平にあるとしたわけです。

陳平は項羽に処刑されてしまうと考えて、劉邦の元に走る事になります。

劉邦は魏無知の推薦もあり、陳平を配下に加える事になります。

張良と並ぶ軍師とされた陳平を、項羽は使いこなす事が出来ず、劉邦の配下としてしまいました。

韓信も項羽の元にいた過去があり、項羽の欠点として人材を使いこなす事が出来なかったとも言えるでしょう。

尚、楚漢戦争終了後に劉邦は「項羽は范増一人ですら使いこなせなかったが、自分は張良、蕭何、韓信を使いこなす事が出来た。」と勝因を述べています。

項羽の斉討伐

項羽は自ら斉を討伐する決断をします。

張良の手紙

劉邦は張良に命じて、韓の地を従えさせると、項羽に次の手紙を送っています。

「漢王は本来の封職(関中)を得る事が出来なかったので、関中を得ようとしたのです。

漢王は約束通りに関中を得る事が出来れば、東に向かって出ようとはしないでしょう。」

張良は劉邦が函谷関の東を望まないとした上で、「趙と斉は結託して楚を滅ぼそうとしている。」と述べたわけです。

これにより項羽は、東の田栄討伐に向かう事になります。

この時に項羽は九江王の英布に出撃命令を出します。

しかし、英布は病気と称し、部下に数千の兵を率いさせただけでした。

この事から、項羽と英布の間で溝が出来る事になります。

田栄の死

項羽は斉の城陽に行き、田栄と決戦を挑む事になります。

この時の項羽軍は強く田栄の軍を破りました。

田栄は平原に逃亡しますが、平原の民は田栄を殺害しています。

この時に、項羽は城郭や民家を焼き払い、田栄の降伏した捕虜を穴埋めにしてし、老弱婦女を捕虜にしています。

項羽は北海まで行った話があり、斉では広範囲に及んで虐殺した事になるはずです。

田横の反撃

項羽の虐殺に対して、田栄の弟である田横が立ち上がる事になります。

田横は敗残兵を集め城陽で反旗を翻しました。

項羽は田横と戦いますが、田横は粘り勝利を挙げる事が出来なかったわけです。

項羽は斉で虐殺を行ってしまった事で、斉人は戦いに敗れれば、殺されると思い一致団結して楚軍と戦ったのでしょう。

秦末期から楚漢戦争において、項羽が率いる楚の精鋭と正面から戦い、倒せなかったのは田横だけだったとも伝わっています。

田横も優れた人物だと言えます。

劉邦が彭城を落とす

項羽が田横と戦っている隙に、劉邦は諸侯の軍を集めて、項羽の本拠地である彭城を陥落させています。

この時の劉邦の軍は、魏豹、韓王信、陳余、司馬卬、申陽、董翳、司馬欣らが参戦しており、56万もの大軍だったとされています。

項羽は英布に彭城を守備する様に伝えた話しもありますが、この時も英布は動きませんでした。

劉邦は彭城を落とすと、楽勝ムードであり大宴会を始めてしまいます。

項羽が彭城へ帰還

項羽は劉邦が彭城を制圧した話を聞くと、烈火の如く怒り劉邦軍を襲撃しようと考えます。

しかし、項羽の目の前には、田横率いる斉軍がおり、項羽は全軍を彭城に向かわせる事ができませんでした。

項羽は自ら3万の精鋭を指揮し彭城に戻り、残りの兵は斉軍への抑えとしています。

項羽は魯から胡陵に行き彭城を目指しています。

尚、彭城の戦い後に、楚軍が完全に斉からいなくなると、田横は田栄の子である田広を斉王に擁立しました。

彭城の戦い

項羽は3万の兵士で、劉邦軍56万を破る大戦果を挙げます。

劉邦の油断

劉邦は56万もの大軍を手にしていた事から、項羽に対して油断していました。

56万もの大軍を劉邦が手に入れた時点で、普通の相手であれば劉邦の天下となっていたのでしょう。

しかし、項羽は史上最強の猛将と呼ばれた人物であり、楽に天下を取らせてくれる相手ではなかったわけです。

劉邦は美女や財宝を手に入れ、毎日の様に大宴会を催していました。

そこに項羽が夜明けと共に、攻撃を仕掛ける事になります。

劉邦は56万もの大軍を有しながらも油断しており、項羽に為すすべなく敗れています。

この時の項羽軍の強さは圧倒的であり、逃げる漢軍を追撃した事で、睢水の流れが止まったとも伝わっています。

劉邦を追撃

劉邦は項羽に逃げる時に、自分の車に魯元公主と劉盈を載せていました。

しかし、項羽軍に追いつかれる事を恐れた劉邦は、魯元公主と劉盈を車から投げ捨て、御者の夏侯嬰が拾う事が三度もあったとされています。

劉邦は逃げる事に成功しましたが、劉邦の正室である呂雉と父親の劉太公は項羽に捕らえられています。

項羽は呂雉と劉太公を捕え軍中で監禁しました。

項羽が劉邦に大勝すると、諸侯は再び項羽に味方する様になったと伝わっています。

韓信が別動隊を率いる

劉邦は張良の進言により、大将軍の韓信に別動隊を率いて、劉邦に反旗を翻した諸侯の討伐を命じています。

さらに、戦巧者の彭越を味方にしたいと考えていました。

張良は楚軍の英布が項羽と仲違いしている事を知っており、英布も味方に付けようと考えます。

劉邦軍の戦略としては、項羽の本隊と劉邦が戦い、その間に韓信が諸侯を平定する作戦となります。

名将韓信の快進撃は、この辺りから始まったと言えるでしょう。

滎陽の戦い

項羽と劉邦は滎陽で戦う事になります。

蕭何の補給

劉邦は呂后の兄である呂沢の力を借りて、滎陽に逃げています。

滎陽に逃げた時の、劉邦軍はボロボロでしたが、関中にいた蕭何は劉邦の為に援軍を送りました。

蕭何が派遣した援軍により、劉邦軍は息を吹き返す事になります。

漢軍と楚軍は滎陽の南にある京や索で戦うと、漢軍が勝利したとあります。

ここで漢軍は、楚に対する連敗を何とか止めたわけです。

項羽は滎陽よりも西に進撃する事は出来ませんでした。

范増の進言

蕭何が兵站を繋げた事で、劉邦は危機を脱しますが、項羽が劉邦軍の甬道を断つ事になります。

劉邦は項羽に甬道を断ち切られた事で、兵糧が不足し苦しい立場となります。

この時に劉邦は項羽に和睦を願い、滎陽よりも東を楚に割譲すると言ったわけです。

項羽は劉邦と和睦を結ぼうと考えますが、項羽の軍師である范増は、次の様に述べています。

范増「今の漢軍は与しやすい相手です。

現在の状況で滎陽の西を取らなければ、後で必ず後悔する事になるでしょう。」

項羽は范増の進言を聴き入れて、滎陽を囲み劉邦を苦しめます。

尚、これが范増の最後の進言となります。

范増と袂を分かつ

劉邦は陳平の策を入れて、項羽と范増を離間する作戦に出ます。

項羽の使者が来た時に豪勢な接待を行い「范増殿の使者かと思った。」と述べます。

漢側では項羽の使者だと分かると、急に粗末な食事を出したわけです。

子供だましのような手ですが、項羽は范増を疑う様になります。

項羽は范増の権限を奪うと、范増は怒り楚軍から離脱しました。

范増は彭城に向かいますが、途中で背中に腫瘍が出来てしまい命を落とす事になります。

項羽が亜父とまで呼び、項羽が唯一認めた知者である范増はこの世を去ります。

范増の離脱により、項羽の側近で知者がいなくなってしまったとも言えるでしょう。

ここから先の項羽は戦いに勝っても、苦しい状況が続く事になります。

滎陽城を降す

項羽は范増の死を知ってか、厳しく劉邦を攻め立てます。

この時に、紀信が劉邦の身代わりとなり、楚軍を油断させる事に成功します。

劉邦は楚軍の隙をついて、数十騎を引き連れて逃亡しました。

項羽は紀信に劉邦の事を問うと、紀信は既に逃亡したと答えます。

項羽は紀信を焼き殺しました。

この時に項羽は周苛(周昌の兄)も捕えていますが、周苛は項羽を罵った事で処刑されています。

滎陽の戦いは項羽の勝利となりますが、項羽は劉邦を取り逃がしてしまったわけです。

英布の離反

項羽は英布に対して、不満を抱いていました。

項羽は英布を九江王としたのに、病気と称し命令に従わないからです。

しかし、項羽から離反する者が多く、項羽は英布の事を高く評価していた事で、攻撃対象にしなかったわけです。

劉邦は張良の進言もあり、英布に隨何を派遣し、英布の懐柔を図ります。

隨何が上手くやった事で、英布は劉邦の味方となります。

項羽は英布に対し、項声と龍且を派遣しました。

項声と龍且は英布を撃破し、英布と隨何は劉邦の元に逃亡しています。

優勢に戦いを進めるも・・・。

劉邦は成皋に逃げますが、持ちこたえる事が出来ずに、韓信の陣に行き軍を奪いました。

この時の韓信は鄭昌、魏豹、陳余らを破り多くの地を平定し、李左車の進言を聴き入れて、燕も降しています。

項羽は劉邦を相手に優勢に戦いを進めましたが、項羽に味方した諸侯が、次々に韓信の軍事力の前に敗れ去っていたわけです。

項羽自身は劉邦を追い詰めますが、全体的に見れば韓信の軍事力により、劉邦が有利となっていきます。

劉邦は兵を補給すると再び項羽に戦いを挑み、韓信には斉を攻略する様に命じています。

彭越に討つ

項羽は彭越に後方を脅かされた事から、彭越を討つ事になります。

軍糧を焼かれる

項羽は成皋を抜くと、西進しようとします。

劉邦は兵を繰り出し、項羽の西行を阻止しようとしました。

この時に、漢に味方した彭越が黄河を渡り、楚軍を東阿で討ち、楚の将軍となっていた薛公を破っています。

項羽は自ら彭越を討とうと考えます。

ここで劉邦は河南に行こうとしますが、鄭忠が諫めた事で考えを改め、劉賈に命じて河内に防壁を作り彭越を援助しました。

これにより楚軍は軍糧を焼かれる事態となります。

13歳の子供の助言を着きれる

項羽は自ら彭越を討ちに行きます。

この時に、項羽は曹咎に命じて、「決して戦わない様に」と言いつけて劉邦への備えとしています。

項羽は東に向かい陳留・外黄を攻めました。

外黄は抵抗が激しく数日に渡り持ちこたえたわけです。

外黄は漸く城が下ると、項羽は外黄の民衆を穴埋めにしようと考えます。

この時に外黄の舎人の子で13歳の者が項羽に対して、次の様に意見しました。

「彭越は強く軍隊によって外黄を脅かし、外黄の民は畏れ大王(項羽)が来るのを待っていたのです。

大王が民を穴埋めにしてしまうのであれば、民衆は大王を頼りにする事が無くなってしまいます。

民衆を穴埋めにしてしまったら、外黄の東から梁に至る地域は、全ての城で降伏する者がいなくなってしまいます。」

項羽は13歳の子供の進言を聴き入れて、外横の民を許しました。

これにより睢陽から東の地域は、争って項羽に降ったとあります。

13歳の子供の機転が、外横の民を救ったとも言えるでしょう。

子供の名前は伝わっていませんが、普通で考えれば多くの民衆を救った英雄であり、神童と呼んでもよい人物となるはずです。

項羽も范増を失ってから、范増に匹敵する様な参謀を求めており、人の意見に耳を傾けたのかも知れません。

項羽は多くの城を降し彭越の軍を蹴散らしますが、彭越を討ち取る事は出来ませんでした。

項羽は彭越を討ち取る事が出来なかった事から、再び苦難を招く事になります。

曹咎、司馬欣の最後

項羽は要害である成皋を曹咎に任せていましたが、漢は曹咎を挑発しました。

曹咎は挑発に我慢する事が出来ず、出撃し汜水を渡河します。

劉邦軍は汜水を渡河している最中の曹咎を攻撃し大勝しました。

この戦いで漢軍は楚軍の財貨を悉く手に入れたとあるので、楚軍は苦しい立場となっていったはずです。

楚軍は項羽が率いると異常な程に強いのですが、項羽がいない楚軍は指揮官が有能でないのか敗れる事が多いと言えます。

尚、成皋での戦いでは、曹咎だけではなく司馬欣も自刃して果てています。

韓信の斉攻略

劉邦の別動隊となった韓信は斉も平定させる事になります。

韓信が龍且を大破

劉邦は斉を攻略する様に韓信に命じます。

その後に、劉邦は酈食其を使者として派遣し、田広、田横を説得し斉は漢に降伏します。

しかし、蒯通が韓信をけしかけた事で、韓信は斉の不意を衝き無防備な斉を大破しました。

斉の田広と田横は騙されたと考え、酈食其を煮殺し、田広、田横らは高密に逃亡し項羽に援軍要請します。

項羽は龍且を派遣し、斉への援軍としました。

しかし、龍且は周蘭の進言を退け短期決戦を挑み、韓信に大敗しています。

漢の韓信や灌嬰、曹参の活躍もあり斉を平定し、項羽は20万の軍勢を失う大打撃を食らったわけです。

この時点で項羽は天下の大半を敵に回しており、彭越には糧道を断たれるなど、かなり苦しい立場となっています。

韓信に独立を勧める

韓信は斉王となりますが、項羽は武渉を派遣し韓信に独立を促しています。

武渉は「劉邦は信義のない人物」と述べて、項羽が滅びれば韓信も捕らえられて処刑されると忠告します。

武渉は韓信が独立し、項羽、劉邦、韓信で天下三分の計を提唱しました。

しかし、韓信は項羽が自分を冷遇した事を憶えており、逆に劉邦は斉王にしてくれたと恩義を感じていたわけです。

韓信は武渉には断りを入れています。

韓信配下の蒯通も韓信に独立を促しますが、韓信は結局は承諾しませんでした。

尚、韓信は武渉や蒯通の言った通り、項羽が滅んだ後に劉邦、呂后、蕭何らにより処刑される事になります。

広武山の戦い

項羽と劉邦は広武山で戦う事になります。

広武山で対峙

劉邦は項羽がいない隙に成皋を奪還すると、成皋の北にある広武山に陣する事になります。

劉邦は敖倉の穀を軍糧とした話があります。

項羽は成皋で曹咎が敗れた話を聞くと、直ぐに兵を率いて成皋に向かいました。

項羽が成皋に向かっている事を知ると、滎陽の鍾離眜を攻めていた漢軍も恐怖し、滎陽の包囲を解き広武山に移動しています。

項羽と劉邦は広武山で対峙する事になります。

疲弊する楚軍

広武山の戦いの頃のなると、彭越が再び後方に現れて梁の地を荒したわけです。

彭越により項羽は兵站を上手く繋げる事が出来ず、食料が不足してきます。

さらに、最強と言われた項羽の本隊も東西奔走し、疲労が濃くなっていたのでしょう。

それに対し、劉邦の軍は多くの兵糧を持っており、有利な状況でもあったわけです。

人質作戦

項羽はかなり苦しい状況であり、人質作戦を行う事になります。

項羽は捕らえてあった劉邦の父親である劉太公を前に出し、次の様に述べています。

項羽「今すぐに降伏しなければ、お前の父親である劉太公を煮殺す事になる。」

これに対し、劉邦は次の様に述べています。

劉邦「儂とお前は楚の懐王の元で北面して臣下となり、義兄弟の契りを結んだ。

儂の父親はお前の父親でもある。

お前の親父を煮るのであれば、儂にも羹を一つ貰いたいものだ。」

劉邦は降伏を拒否し、項羽は激怒し、劉太公を煮殺そうとしますが、項伯が次の様に述べています。

項伯「天下の事はまだ先が見えない状態です。

天下を制する者は家族に害を与えてはならず、劉太公を殺しても利益は無く、禍を増すだけである。」

項羽は項伯の進言を聴き入れて、劉太公を殺害するのを取りやめました。

尚、項伯は劉邦の軍師である張良と親しく、項羽よりも劉邦よりの人物だったとも考えられます。

項伯の言っている事も最もですが、項羽よりも劉邦に気を遣った事から出た言葉なのかも知れません。

項羽が劉邦に一騎打ちを挑む

項羽と劉邦は睨み合いが続き、膠着状態となります。

広武山の戦いでは、劉邦が堅固な要害の地を抑えている為に、項羽も迂闊に攻撃する事が出来なかったのでしょう。

さらに、項羽の背後には彭越が暴れ回っており、楚軍の兵站を遮断していました。

項羽軍は兵糧が少なくなり、劉邦は戦わずに守ってさえいれば、勝てる状態になっていたはずです。

こうした中で、項羽は劉邦に次の様な提案をしています。

項羽「天下の者が長く苦しんでいるのは、儂と其方(劉邦)の両人がいるからである。

儂は其方と一騎打ちを行い、けりを付けたいと思う。

天下の民を苦しめたくはない。」

項羽は劉邦に一騎打ちを提案したわけです。

これに対し、劉邦は次の様に返しています。

劉邦「儂は一騎打ちではなく、知力で戦いたいと思う。

武芸で戦うなど思ってもいない。」

項羽は一騎打ちの提案を劉邦に断られています。

三国志演義の世界であれば、一騎打ちは多く行われていますが、実際の戦闘では一騎打ちはほぼ起きません。

さらに、項羽と劉邦が武芸で戦った場合は、項羽が圧勝すると思われ、劉邦が一騎打ちを拒否するのは当然の事だと言えます。

項羽は絶対に拒否される提案を劉邦にしたとも言えるでしょう。

項羽にとってみれば、劉邦を臆病者だと宣言し、短期決戦に持ち込みたかったとも言えます。

項羽自ら敵を挑発

項羽は配下の壮士に、劉邦軍を挑発する様に命じます。

漢軍には弓が得意な楼煩人がおり、劉邦は楼煩人に命じ、楚軍の壮士が前に出て来る度に射殺しました。

項羽は劉邦の行為に怒り、自ら甲冑を身にまとい戟を持ち、漢軍を挑発します。

漢軍は本物の項羽だと気づかずに、楼煩人を前に出し射殺しようとします。

しかし、項羽は目をいからせて声を発すると、楼煩人は弓矢を射る事が出来なくなります。

楼煩人は城壁の中に入ってしまい、二度と出て来る事はありませんでした。

項羽は自らの気合いで楼煩人を退けたと同時に、自らの勇気を見せつけた事にもなるでしょう。

劉邦は楼煩人を下がらせた壮士を調べると、項羽本人だという事が分かり、驚いた話があります。

劉邦を負傷させる

項羽と劉邦は広武山の谷間を隔てて、向かい合って話を交わす事になります。

項羽が自ら壮士となり、漢を挑発した話を聞き、劉邦の方としても逃げ腰でいるわけにも、行かなくなってしまったのかも知れません。

項羽は劉邦に戦いを望みますが、劉邦は項羽の様々な罪状を述べ「お前など刑を受けた罪人に撃たせれば十分。」とし、自ら戦おうとはしませんでした。

項羽はこの時に、隠し持っていた弓で劉邦を狙うと、矢は劉邦に直撃し、劉邦は負傷し自らの陣に退く事になります。

項羽の焦り

項羽は人質を取ったり、劉邦に一騎打ちをするなど、子供だましの様な手を使ったと思うかも知れません。

しかし、実際の所、魏、趙、燕、斉などを韓信に平定され、兵站も彭越に断たれるなど、項羽は厳しい状況に追いやられていました。

この時の項羽は天下の大半を敵に回している様な状態と言えます。

弓矢で劉邦を狙ったのも、苦肉の策でもあり、項羽軍は疲弊していたわけです。

それに対し、漢軍は豊富な食料があり、士気も高かったと言えるでしょう。

項羽と劉邦が和睦

項羽の軍は糧道も断たれ疲労も濃くなるばかりでしたが、ここで劉邦が陸賈を項羽の陣に派遣しています。

劉邦は陸賈を通じて、劉太公の返還を願いますが、項羽は聞きませんでした。

劉邦は侯公を派遣し、次の様な取り決めを提案します。

「漢と盟約を結び天下を二分し、鴻溝よりも西を漢の領土とし、東を楚の領土とする。」

項羽は納得し、劉邦の父親である劉太公や妻子を返還しました。

尚、項羽と盟約を取り付けた侯公は平国君としましたが、身を隠した話があります。

劉邦陣営では劉太公や劉邦の妻子が帰ってくると、万歳を唱えました。

しかし、項羽にとってみれば大事な人質を失ってしまう結果にもなっています。

人質を返すのであれば、自分が安全圏に入ってから返還すべきだったとも言えるでしょう。

劉邦の裏切り

劉邦と項羽の間で盟約が成立した事で、項羽は包囲を解いて東に帰ります。

劉邦も西に帰ろうとしますが、劉邦配下の張良と陳平は次の様に述べています。

「今の漢は天下の大半を保有しています。

諸侯は漢に味方し、楚軍は兵は疲弊し食料も少なくなっているのです。

これは天が楚を滅ぼそうとしています。

楚軍の疲れに乗じて天下を取るのが上策です。

今の状態で楚を討たないのは、虎を養って自ら禍根を残す事になります。」

劉邦は張良と陳平の策を採用し、楚軍を背後から襲い掛かる決断をします。

戦国時代末期に項羽の祖父にあたる項燕は、の王翦に撤退中に背後から攻撃を受けて軍が壊滅した話があります。

同じ様に項羽も劉邦に背後から攻撃されてしまったわけです。

ただし、項羽は項燕ほどは簡単に敗れず、奮戦する事になります。

項羽の反撃

劉邦は楚軍を追撃し、陽夏の南に行き軍を止めます。

劉邦の考えでは、韓信と彭越の軍と合流して、項羽を討とうとしたわけです。

戦巧者の韓信と彭越の軍の合流を考える辺りは、劉邦が如何に項羽を警戒していたかが分かります。

しかし、約束の期日までに韓信と彭越は来ませんでした。

項羽は逆に劉邦に大して反撃して来ると、劉邦は大敗して城壁の中に入り塹壕を深くして守る事になります。

疲弊した楚軍と言えど、項羽が指揮すれば、まだまだ強く簡単には勝たせてはくれなかったわけです。

劉邦は張良の進言を入れて、韓信と彭越に多くの地を割く約束をしました。

項羽が追い詰められる

韓信や彭越は貰える土地が確定すると、直ぐに兵を集めて劉邦の軍に合流しました。

さらに、劉賈の軍も寿春で英布と合流し、城父を抜く事になります。

この時になると、楚の大司馬である周殷までも、劉邦に味方し六を降しています。

劉邦軍は終結し、垓下で項羽を囲む事になったわけです。

垓下の戦い

項羽は劉邦に勝ち続けましたが、最後に垓下の戦いで破れる事になります。

四面楚歌

項羽は垓下の城で防戦する事になります。

これが垓下の戦いです。

史記によれば垓下で包囲された項羽の軍は食料は尽きており、兵も疲弊していたとあります。

漢軍は垓下の城を幾重にも囲み包囲しました。

この時に、張良の策で夜に垓下の城に向けて、楚の歌を流しています。

項羽は垓下の城の四方から楚の歌が流れて来た事を知り、次の様に語っています。

項羽「漢は既に楚の地まで平定してしまったのか。なんと楚人の多い事か。」

これが四面楚歌であり、張良の目的は項羽の心を折る事だったはずです。

垓下の歌

項羽は帳の中に行くと、虞美人と共に酒を飲みます。

虞美人は垓下の戦いでしか記録がありませんが、項羽の愛妾であり戦場にも連れて来ていたのでしょう。

さらに、項羽の愛馬は騅(すい)と呼ぶ名馬であり頭によぎります

騅は三国志演義で言う所の、呂布関羽の愛馬となった、赤兎馬の様なものだったはずです。

項羽は意気消沈したのか、次の詩を作り歌う事になります。

力は山を抜き 気は世を蓋うも

時に利あらず 騅逝かず

騅の逝かざるは 如何すべき

虞や虞や なんじを如何せん

項羽はこの歌を数回歌い、虞美人が唱和しました。

楚漢春秋によれば、虞美人は次の歌を項羽に返した事になっています。

漢兵すでに地を略し 四方楚歌の声

大王意気尽き 賎妾何んぞ生に聊んぜん

項羽は涙を流し、左右の者も皆が泣き、誰も顔を上げるものがいなかったとあります。

この時点で項羽は自分の死と、最後の決戦を覚悟した様に思います。

史記や漢書だと虞美人が、この後にどうなったのかの記録はありません。

ただし、物語では虞美人が自害するパターンが多いと言えます。

項羽の脱出

項羽は垓下の城から脱出を決意し、夜のうちに800人を引き連れて、南方から脱出を試みます。

項羽は囲みを破り無事に包囲を脱出する事になります。

夜が明けると漢軍は、灌嬰に五千の兵を率いさせて項羽を追撃させました。

項羽が淮水を渡る頃になると、項羽に付き従っていた者は100余人ほどだったと言います。

項羽は途中で道に迷い農夫に道を聞くと、「左に行くのが良い。」と言われ、左の道に行きます。

しかし、農夫は項羽に嘘の情報を伝えており、大沢にはまり漢軍に追いつかれてしまいます。

項羽の最後

項羽の最後の戦いと項羽の死を解説します。

配下28人

項羽は東に向かい東城に辿り着きますが、この時に項羽に従っている者は、僅か28騎だったと伝わっています。

項羽の28騎に対し、漢軍は数千の兵で項羽を討ち取ろうとします。

項羽は脱出出来ないと悟り、配下の者に次の様に述べています。

項羽「儂は挙兵してから8年が経った。

自ら七十以上の戦いに参加し、敗れた事は一度もなく天下の主となった。

ここにおいて困窮するのは、天が儂を滅ぼすのであり戦いに罪があったわけではない。

今日は死を覚悟しておる。

儂はお前たちの為に、囲みを破り、敵将を討ち取り敵の旗を打ち倒してくれよう。

諸君らに天が儂を滅ぼすのであり、戦いに罪がない事を知らしめてくれよう。」

項羽は部下達に意気込みを示したわけです。

項羽の突撃

漢軍は項羽の28騎を数千の兵で囲みますが、項羽は部隊を4つに分けて円陣を組み四方に突撃する様に指示ました。

さらに、項羽は配下の者達に、次の様に述べています。

項羽「儂は公らの為に、かの一将軍を討ち取って見せよう。」

項羽は言い終わると、山東で会い三カ所に分かれる事を約束します。

項羽が大声を出し突撃すると、漢軍は次々になぎ倒され、項羽は本当に漢の将軍を一人討ち取ってしまったわけです。

楊喜を一喝

項羽は漢軍に突撃を掛けると、漢の将軍である楊喜が項羽を追撃します。

項羽は楊喜を目を見開いて一喝しました。

楊喜は人馬もろとも驚き、数理も後ずさりしたとあります。

項羽は目的地に到着し、最後まで付き従った部下達と合流し、三カ所に分かれて突撃を行います。

圧倒的な強さを見せる

漢軍は再び項羽を包囲しますが、項羽は自ら突撃を仕掛け、またもや漢の指揮官を一人討ち取りました。

さらに、項羽は100人以上を斬り、戦場で暴れまくったわけです。

項羽は再び配下の者達を集めますが、数を数えたら26騎だった話があります。

項羽の最後の28騎は、項羽だけではなく圧倒的な強さを誇っていた事になるでしょう。

数千の兵と戦っても、2騎しか損なわれなかった事になります。

項羽は「どうだ」と誇ると、残った兵は「大王の仰る事は全て本当でした。」と答えています。

最後の最後まで項羽の覇気が衰えていない事も分かるはずです。

項羽が死を覚悟

項羽は東に向かい、烏江から揚子江を渡ろうとします。

烏江の亭長は船を用意しており、項羽に次の様に述べています。

亭長「江東の土地柄は狭いと言えますが、方数千里あり民衆の数も十万は下りません。

江東は王になるには、十分な土地のはずです。

願わくば迅速に江をお渡りください。

船を持っているのは、私だけであり、漢軍が来ても渡る事は出来ません。」

亭長は項羽に江東に逃げて、王になる様に勧めます。

しかし、項羽は笑って次の様に述べています・

項羽「天が儂を滅ぼそうとするのに、儂一人が渡れるはずもない。

それに、儂は江東で挙兵した時に、子弟八千人と江を渡ったのに、生還者は一人もいないのだ。

江東の者たちが儂を憐れみ王としてくれたとしても、儂は父兄に合わせる顔もない。

江東の父兄たちが何も言わなかったとしても、儂は一人自分の心に恥じを感じずにはいられないのだ。」

項羽は生き延びる事が出来たのに、死を選んだと言えます。

さらに、項羽は亭長に愛馬の騅を与え、配下の者達にも馬から降り徒歩になる様に命じました。

項羽の死

項羽は徒歩で漢軍に突撃を掛けると、一人で数百人を殺したと伝わっています。

項羽が兵を指揮するのが上手いだけではなく、個人の武勇でも超一流だと言う事が分かります。

ただし、項羽はこの時に十カ所を超える傷を負ったとあります。

項羽は戦っている最中に、ある人物を見つけると、次の様に述べています。

項羽「お前は呂馬童ではないか。」

呂馬童は振り返ってみると、項羽であり、呂馬童は王翳(おうえい)に向かい、次の様に叫びます。

呂馬童「これが項王だ。」

項羽は呂馬童に対して、次の様に述べています。

項羽「儂の聞いた所によれば、漢は儂の首に千金と万戸の邑を褒賞としていると聞く。

儂はお前の為に、恵んでやりたいと思う。」

項羽は次の瞬間には、自らの首を斬ったわけです。

王翳が項羽の頭を取り、他の兵士らは項羽の屍を手に入れようと殺到し、数十人の死者が出た話があります。

項羽の遺体は楊喜、呂馬童、呂勝、楊武で分け合った話があります。

遺体を合わせてみると、項羽の死体だと確認が取れたわけです。

項羽の遺体を取った王翳、楊喜、呂馬童、呂勝、楊武で万戸の邑を5つに分けた話があります。

一世一代の英雄と言われた覇王項羽は、最後は戦争で果てたと言えるでしょう。

戦場を死に場所に選ぶ所が、西楚の覇王と呼ばれた項羽らしいとも感じています。

魯が降伏

項羽は過去に魯公に封じられた事がありました。

楚の地は全て漢の支配下となりますが、魯だけは漢に降るのを拒んだわけです。

劉邦は天下の兵を集めて魯を討とうとしますが、魯人は項羽への節義を守り死のうとしました。

そこで、漢では項羽の首を持ち、魯人に示すと、魯の人々も漢に降ります。

これにより劉邦の天下統一は成し遂げられたとも言えるでしょう。

項羽を葬る

楚の懐王(義帝)が最初に項羽を魯に封じた事と、魯が最も最後に漢に降った事で、劉邦は魯公の礼を以って項羽を穀城に葬ります。

劉邦は項羽の為に、喪を発し、項羽の葬儀の時には劉邦は涙を見せたと言います。

劉邦は項羽の一族で残った項伯、項襄、項它、玄武侯らを許し、項羽の一族は殺害しなかった話があります。

劉邦は項氏で残った者には、劉氏の姓を与え重用しました。

劉邦はどの様な気持ちで、項羽の一族を許したのかは不明ですが、劉邦なりの最強のライバルであった項羽に対する何らかの気持ちがあったのかも知れません。

項羽の評価

項羽の評価ですが、司馬遷は項羽本紀の本文では、項羽に対して同情的で美しく描いています。

しかし、太史公曰くの部分になると、項羽の「天が我を滅ぼすのであり、我に罪はない。」の言葉を痛烈に批判しています。

史記の蒙恬列伝でも、本文では蒙恬を持ち上げ同情的に描きながらも、最後の部分だと批判しているわけです。

司馬遷は項羽に対して、二面的な評価をしたのでしょう。

項羽を見ていると、よく言えば純粋、悪く言えば単純であり、脇が甘い部分が多い様に思います。

広武山の戦いで、劉邦の父親である劉太公を返してしまい、背後を責められるなどは脇が甘いと言えるでしょう。

さらに言えば、張良や陳平の策に掛かった四面楚歌や、范増との離間の計などは項羽の単純さを現わしている様に思います。

しかし、項羽は兵を用いれば史上最強とも呼べる武将であり、中国史上最強の猛将と考える人も多い様に思いました。

因みに、項羽のライバルである劉邦は三国志劉備に似ているとも言われています。

劉邦が天下が取れて、劉備が天下を取れなかった理由は、最大のライバルである項羽と曹操の差にある様に感じています。

劉邦もライバルが項羽ではなく、曹操の様な人物であれば、天下は取れなかった可能性もあるでしょう。

劉邦は韓信の言葉で「将の将たる人物」と評価されていますが、韓信の言葉を使えば項羽も韓信と同様に「兵の将たる人物」だったはずです。

それにしても、史記の項羽本紀にある項羽の最後は史記でも屈指の名場面であり、美しく描いたとも言えるでしょう。

司馬遷も項羽に対する、何らかの強い思い込みが無ければ、あそこまでの名文は掛けなかった様に思います。

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宮下悠史

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