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構成・文/宮下悠史

室町時代

小笠原貞宗は弓矢の名手であり、小笠原流弓術の中興の祖だったのか!?

2021年6月15日

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小笠原貞宗は南北朝時代に、信濃国の守護に任命され活躍した人物です。

週刊少年ジャンプで松井優征先生が描く「逃げ上手の若君」で知った人も多いのではないでしょうか。

逃げ上手の若君では、飛び出た様な目をしており、弓矢の名手という設定になっています。

史実の小笠原貞宗ですが、小笠原流弓術の師範であり、弓矢の名手だった可能性は極めて高いです。

小笠原貞宗は信濃守護として、諏訪頼重などの国人領主と戦い続けた人物でもあります。

今回は小笠原貞宗が、どの様な人物だったのか解説します。

尚、小笠原貞宗は北条家の得宗御家人として、1292年に現在の長野県飯田市で、生まれたともされています。

小笠原家は甲斐の武田氏と同じ甲斐源氏の出身であり、南部氏なども同族です。

ただし、小笠原家や南部家は甲斐源氏の中でも、庶流にあたる家柄となります。

小笠原家とは

小笠原貞宗を語る前に、信濃国の小笠原家が、どの様な家系だったのか解説します。

鎌倉時代の小笠原家は、甲斐(現在の山梨県)を領国にする、北条家の有力御家人でした。

ただし、鎌倉時代の承久年間以降に、小笠原家の惣領の地位にあったのは、伴野氏でした。

しかし、霜月騒動により伴野氏は没落し、伴野氏に代わり惣領の地位を得たのが小笠原長氏だったわけです。

小笠原長氏の子が小笠原宗長であり、孫が小笠原貞宗となります。

1331年に楠木正成が籠る赤坂城攻めには、幕府側として参陣した話があります。

鎌倉時代の後期には、小笠原家は幕府の御内人として活動した形跡があり、小笠原宗長、貞宗の名は北条家の得宗である、北条時宗、貞時より、それぞれ一字拝領されたと考えられています。

尚、小笠原家は戦国時代の小笠原長時のイメージが強く、武田信玄に滅ぼされた軟弱な戦国大名だったのではないか?と考える人もいるはずです。

後述しますが、実際の小笠原家は弓の達人とも言える家柄となります。

朝廷側に寝返る

小笠原貞宗は、千早城攻めに参陣していますが、その最中に足利高氏(尊氏)が、後醍醐天皇方に寝返る事になります。

小笠原貞宗も足利尊氏に靡き、討幕に舵を切る事になったわけです。

小笠原貞宗の父である宗長は、鎌倉が陥落し鎌倉幕府が滅亡した時に、足利尊氏に書状を送り、関東の状況を伝えた話があります。

尚、近年の研究では、鎌倉幕府の滅亡を機に、小笠原宗長は家督を貞宗に譲った話があります。

 

信濃国の守護となる

鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇の建武の新政が始まる事になります。

この時に、建武政権では、小笠原貞宗を信濃の守護に任命しました。

小笠原貞宗は信濃守にもなっています。

尚、小笠原貞宗が信濃の守護に任ぜられた時に、南信濃の旧北条家の領地である伊那群を獲得したと見られています。

小笠原貞宗は府中(現在の松本市)を本拠地とし、活動する事になります。

 

混乱する信濃

信濃は北条家の旧領だった事もあり、建武政権が出来た後も、反乱が多発します。

さらに、信濃には諏訪頼重などの国人勢力が割拠しており、不安定な状況でした。

こうした中で、小笠原貞宗は北条氏の残党の反乱に悩まされる事になり、鎮圧の為に兵を出しています。

小笠原貞宗が守護になった信濃は、不安定であり非常に治めにくい土地だったわけです。

 

中先代の乱

1335年になると中先代の乱が勃発する事になります。

北条時行を擁立した、諏訪頼重らが挙兵したわけです。

この時に、小笠原貞宗は、諏訪頼重の監視が不十分だったのか、北条時行軍の鎌倉侵攻を許す事態となっています。

さらに、北条方に国司を殺害され、守る事が出来なかったともされています。

信濃の国は、反乱が続出していたわけであり、小笠原貞宗は鎮圧に時間を掛け過ぎてしまい、諏訪頼重まで手を回す事が出来なかった可能性もあるでしょう。

小笠原貞宗の後ろ盾である、国司を失ったのも大きかったはずです。

北条時行軍は快進撃を続け、鎌倉を守備する足利直義も撃破し、鎌倉を占拠しています。

この時に、諏訪は手薄になっていた可能性もありますが、小笠原貞宗が諏訪に侵攻した話もありません。

ただし、北条時行軍は不運も重なり、足利尊氏の軍に敗れています。

この時に、諏訪頼重が自害した事は、小笠原貞宗にとってみれば、運が良かったと言えるでしょう。

 

足利尊氏に従う

鎌倉を奪還した足利尊氏ですが、弟の直義と共に論功行賞を行います。

後醍醐天皇は足利尊氏、直義が論功行賞を始めた事で、朝敵と判断し新田義貞に討伐を命じています。

足利尊氏、直義は軍勢を集める為に、小笠原貞宗に軍勢催促の書状を出し、小笠原貞宗は足利尊氏を支持する事にしました。

信濃の有力国人である、村上信貞も足利尊氏に味方する事を決め、建武政権の軍勢と佐久郡で戦っています。

足利尊氏は新田義貞の軍を破ると、京都に進撃する事になりますが、小笠原貞宗は信濃国の反乱を鎮圧したり、近畿に転戦しています。

 

大徳王子城の戦い

1340年になると、北条時行が伊那にある大徳王子城で挙兵したわけです。

この時の北条時行は、南朝に与していた為、小笠原貞宗が討伐する事になります。

北条時行は鎌倉幕府の執権及び得宗の後継者と目されていた人物ですが、この時には求心力が失われていたのか、味方になったのが諏訪頼継だけになっていた話があります。

小笠原貞宗は大徳王子城を陥落させる事に成功していますが、北条時行を捕える事は出来ませんでした。

 

政長に家督を譲る

1344年になると南朝の脅威が激減した為に、一時的に政局は安定する事になります。

この時に小笠原貞宗は嫡子の政長に家督や、信濃守護の位を譲っています。

小笠原長政には甲斐の小笠原領や信濃の伊賀良などを譲った記録があります。

しかし、小笠原貞宗が政長に譲った土地が少ない事から、信濃国では諏訪氏、高梨氏、村上氏、仁科氏などが割拠しており、小笠原家の勢力は限定的だったと考えられています。

信濃の国は、山が多く堺となっている事で、大きな勢力が育ちにくかったのかも知れません。

足利幕府の首脳部も、小笠原貞宗を信濃の守護に任命はしましたが、国人領主たちにもかなり配慮した形跡が見られます。

尚、小笠原貞宗は家督は譲渡しましたが、信濃守護は継続した話もあり、形式だけの家督相続だったともいえるでしょう。

因みに、1346年に小笠原貞宗は出家し正宗という法名を名乗っています。

 

幕府内の対立

南朝の脅威が去ると、幕府内で対立が起きる事になります。

幕府の執事である高師直と足利直義が対立したり、足利尊氏と直義が対立する事になったわけです。

この時に、小笠原貞宗は高師直と懇意にしていたと考えられ、足利尊氏に味方しています。

足利尊氏は小笠原貞宗に、信濃国の春近領の半分を宛がわれています。

春近領の残りの半分は、上杉藤成の知行となっていました。

上杉家は観応の擾乱では、足利直義に味方しており、対立構造が出来ています。

因みに、小笠原家の因縁の相手である諏訪家も足利直義に与した話があります。

信濃の国では、ここから先は小笠我家と国人領主が対立していく事になります。

 

小笠原貞宗の最後

小笠原貞宗の最後ですが、1347年の7月5日に京都で没した事が分かっています。

旧暦にすると小笠原貞宗が没したのは、貞和3年5月26日となります。

小笠原貞宗の死因に関しては、よく分かっていません。

尚、小笠原貞宗を見てみると一貫して、足利尊氏に付き従っており、先見の明があったと言えるでしょう。

弓の名手だった

逃げ上手の若君で、小笠原貞宗が弓矢の名手という事になっています。

小笠原貞宗が弓矢の名手だと言うのは、漫画内での設定ではなく、史実の小笠原貞宗も弓矢の名手でした。

小笠原貞宗は後醍醐天皇の弓矢の師となり、小笠原長清以来の弓馬術や礼法を完成させた話があります。

後醍醐天皇は武士の礼法を身に着けている人物として、小笠原貞宗に「王」の字を使う事を許された話もあります。

小笠原家の家紋は三階菱(上記)ですが、「王」の文字が三階菱に繋がった話もあります。

小笠原流弓術の祖である、小笠原長清は源頼朝に弓矢を教えていたともされ、小笠原家は弓矢の達人の家柄です。

さらに、小笠原家では代々に渡り、将軍家に弓の師範を務めたともされています。

これが本当であれば、小笠原家では代々に渡り優れた弓術を持っていた一族と言えるでしょう。

ただし、これらの記録が一次資料には見当たらないなどの問題もあり、信憑性が薄いと考える人もいるようです。

それでも、小笠原貞宗が小笠原流弓術の中興の祖だとする専門家もいます。

 

 

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