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構成・文/宮下悠史

前漢 後漢

王莽と新の建国と滅亡

2021年6月27日

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王莽は、前漢王朝から簒奪(禅譲?)により、新を建国した人物です。

王莽は世界史の教科書にも出て来る人物ですが、非常に評価が低いと言えます。

西周王朝を模範とした国家を作ろうとした話がありますが、時代に合わず社会混乱を引き起こしました。

王莽が建国した新も、王莽一代で終わり15年しか持たず、最後は殺害されています。

因みに、王莽は中国史において、秦を滅亡に導いた宦官趙高や安禄山に匹敵する奸臣との評価があります。

王莽が奸臣だとされる理由は、政治の失敗が原因です。

少なくとも現実にあった政治を行い、上手くやれば奸臣扱いされる事はなかったでしょう。

尚、前漢王朝の終わり頃の人口は、6000万ほどいた話がありますが、王莽が政治を行うと人口が2000万人にまで激減した話があります。

これを見ても、王莽がどれだけの政治を行ったかが分かるはずです。

今回は理想の国を建国しようとした王莽がどの様にして、滅亡への道を辿ったのかを解説します。

 

王莽の生い立ち

王莽は紀元前45年に王曼の次男として生まれる事になります。

王莽の一族は、9人が列侯となり、5人が大司馬に就任した事で繁栄しますが、王莽の父親である王曼だけは早くに世を去る事になります。

父や兄が早く亡くなった事で、若い頃の王莽は苦労した話がありますが、若き日の王莽は熱心に儒教を学び、親孝行に勤しんでいた話があります。

王莽の父親である王曼の妹の王政君は、前漢の元帝(劉奭)の皇后となり、豊かに暮らしていた話があります。

王政君は、元帝、成帝、哀帝、平帝の4人の皇帝に仕えた事で、常に権力の中枢にいたわけです。

それを考えると、王莽が本当に貧しい暮らしをしていたのか、疑問が残るとする専門家もいます。

ただし、王家の一族の中では、不遇な生活をしていたのではないか?と考えられています。

王莽の一族は戦国七雄の田斉の血を引いている話もありますが、本当なのかは定かではありません。

 

王鳳に重用される

王莽は王鳳に重用される事で権力への階段を昇って行く事になります。

王鳳が権力を得る

紀元前33年に元帝が亡くなると、王政君が生んだ成帝(劉驁)の時代になります。

成帝が即位した時は、まだ10代であり、政治の実権は外戚である王政君の一族が握る事になります。

前漢の恵帝の母親である呂后(呂雉)が絶大なる権力を握ったように、王政君の一族も外戚として、権力を握る事になったわけです。

外戚の中でも、特に絶打なる力を得たのが王鳳となります。

王鳳は王政君の兄に当たる人物であり、大司馬となり、さらには軍事の最高職でもある大将軍へと昇進していきます。

王鳳や王政君の弟である王譚・王商・王立・王根・王逢も要職に就き五侯と呼ばれ、一族は大いに繁栄する事になります。

ただし、王鳳が権力を得た初期の頃は、王莽は王鳳の恩恵を殆ど受ける事が出来なかったともされています。

 

王鳳の信頼を勝ち取る

王鳳は絶大なる権力を持ちますが、病気に掛かってしまいます。

この時に、王鳳の信頼を得ようと必死に看病したのが、王莽であり服も着替えず体も洗わず献身的に王鳳を看病する事になります。

王莽の必死の看病により、王鳳から絶大なる信頼を得る事になったわけです。

王鳳は自分の権力を固める為に、対立勢力を失脚させたり、要職に就いている弟達である五侯とも関係が悪化させていきます。

王鳳は前漢の大臣や一族の者たちと関係を悪化させる一方で、王莽に対しては絶大なる信頼を寄せる事になります。

王鳳は紀元前22年に亡くなりますが、自分の弟で要職に就いている五侯を重く用いない様にと遺言した話があります。

王鳳は自分の後継者として、従兄の王音を指名しています。

王鳳は敵が多くクーデーターが起きそうになった事もありますが、王音が密告し事前に防げた話があり、王鳳は王音を信頼していたのでしょう。

王音は大司馬や車騎将軍となり、王一族はより一層繁栄した話があります。

成帝は自ら政治を行う様になると、王一族を疎ましく思った話しもありますが、王音は成帝を尊重した為に、信頼が揺るがなかったと言われています。

 

王莽が出世街道を驀進

王莽は成帝の時代に、出世街道に乗る事になります。

ただし、讒言によりライバルを蹴落とし出世したとも考えられています。

成帝の時代の混乱

成帝は暗君であり、まともに政治を行う気はなかったとも考えられています。

成帝は趙姉妹を寵愛し、皇后を廃し趙飛燕を皇后にしようと考えてます。

趙飛燕を皇后にする事に、太后は反対しますが、成帝は強引に趙飛燕を皇后にしたわけです。

ただし、趙飛燕に飽きると妹である、趙合徳を寵愛する事になります。

成帝には子供もいましたが、趙姉妹によって次々と殺害され、成帝の子がいなくなってしまった話しもあります。

成帝の子が亡くなっている事を考えると、趙姉妹は殷の妲己や夏の末喜に匹敵する悪女だったともいえるでしょう。

この様な状態の中で、王莽は順調に出世を重ねて行く事になります。

 

王莽が大司馬になる

王政君の姉の子に淳于長なる人物がおり、王政君の信頼を得ていました。

王莽は淳于長の存在が邪魔であり、淳于長の事を王政君に讒言し、淳于長は獄死する事になった話があります。

王莽の出世の秘密は、ライバルたちを讒言により次々に失脚させたとも言われています。

王莽はライバルを失脚させると、当然の如く、出世を重ねる事になります。

淳于長が失脚した時に、王莽は大司馬となり、権力の中枢に完全に入っていく事になったわけです。

王莽は新都侯にも任命されています。

ただし、王莽は大司馬にはなりましたが、成帝が崩御した事で王莽にとっては逆風が強くなります。

 

王莽が地位を奪われる

成帝が崩御すると、趙姉妹の妹である趙合徳が成帝を殺害したとする噂が流れる事になります。

王政君は、事実関係を調べようとしますが、趙合徳が自害した事で、真相は分からなくなってしまいます。

先に述べた様に、成帝は実子がいなくなってしまった事で、元帝の孫にあたる、劉欣が哀帝として即位する事になりました。

この時に、趙合徳の姉である、趙飛燕は哀帝を支持した事で、危機を乗り越える事に成功します。

哀帝は臣下に自殺を命じるなど厳しい態度で政治に臨む姿もありましたが、暗愚な人物とも言われ、自分の男色相手である董賢を重用する事になります。

因みに、男色を意味する断袖という言葉は、哀帝と董賢の関係から出来た故事成語です。

董賢が大司馬の位に任命された事で、王莽は大司馬の位を去らなければならなくなります。

董賢が重用される事で、王一族の勢いは弱まり、王莽も中央から自分の封地である新都に帰る事になりました。

哀帝に董賢が気に入られた事で、董賢の一族は繁栄する事になったわけです。

王莽と言えども、エスカレート式に出世したわけではありません。

ただし、哀帝は6年ほどで崩御しています。

 

王莽が大司馬に復帰

哀帝は崩御する時に、董賢に皇帝の璽綬を託す事になったわけです。

哀帝は董賢に次の皇帝の指名権を与えた事になります。

ここで王一族の逆襲が始まります。

王閎は王政君の後ろ盾を得ると、董賢を殺害し、璽綬を強奪する事に成功します。

王政君は董賢が亡くなった事で、後任として王莽を大司馬に任命しました。

これにより王莽は再び権力の中枢に返り咲く事になります。

ただし、董賢を討った王閎は、一門の王莽に対して反王莽の態度を貫いたとも伝わっています。

哀帝の後継者には王政君と王莽の意向により、平帝が即位します。

ただし、この時の平帝は、10歳にも満たぬ子供でした。

政治はかなり混乱していましたが、庶民は平和だったのか、この時代までは順調に人口が増えて行った話があります。

因みに、王莽は董賢の財宝を没収し、43億銭なる莫大な資産を、自分のものにしてしまったとも伝わっています。

これを見ても、王莽が清廉潔白な人物でない事は分かるはずです。

 

王莽が権力を握る

平帝が幼かった事で、王莽が権力を握る事になります。

これが悪夢の始りだったとも言えるでしょう。

王莽の粛清

王莽は自分の権力を確立する為に、平帝の一族を首都の長安に入れなかった話があります。

王莽は平帝の一族が長安に入れば、再び権力を奪われると思ったのでしょう。

さらに、王莽は皇太后となっていた趙飛燕を庶民に落し、自殺に追い込んでいます。

王莽は自分にとって脅威になりそうな人物は、次々に粛清したとも伝わっています。

王莽は自らの権力を固める為には、手段を選ばなかったのでしょう。

粛清により自分の権力を強化した、王莽は安漢公に就任する事になります。

 

二人の息子を殺害

王莽は二人の息子を自殺に追い込んだ話があります。

王莽の長男の王宇は、王莽が平帝の外戚を長安に入れないのは、平帝が成長した時に、禍根を残すと考え平帝の外戚を長安に入れようとします。

しかし、門番が気付き事件が発覚した事で、王宇は捕らえられて自害する事になったわけです。

一説によれば、長男の王宇は王莽の暴虐さを知っており、諫めた事で王莽の怒りを買い処刑されたとも言われています

王莽の次男である王獲は、王莽が地方に飛ばされた時に、奴隷を殺害した罪で捕えられ、自害する事になります。

王莽が王獲を処刑するのは、身内であっても罪を覆い隠さない王莽の成人君子像を作るための演出だったとも考えられています。

王莽は自分が身を飾るのに必死であり、そのためには息子であっても犠牲にする事も厭わない人物でもあるのでしょう。

尚、王莽が息子を処刑したのは、儒教の考えでは父親が絶対的な存在であり「子は父に意見するべきでではない。」とする考えが強かった為とも言われています。

 

宰衡となる

王莽は西暦4年に、自分の娘を平帝の皇后にしています。

娘を皇后にする事で、王莽は権力の強化と安定を図ったのでしょう。

王莽は平帝の義理の父親となり、外戚として王政君に匹敵するだけの実力を兼ね備える事になります。

この時から、王莽は宰衡という独自の地位に就く事になります。

宰衡は殷の伊尹が「阿衡」という役職に就き、周の周公旦が「太宰」の位に就いた事に由来すると言われています。

 

王莽が錫を受ける

錫(きゅうしゃく)は車、楽器、衣服など皇帝のみが許された品物です。

王莽は錫を受ける事になります。

王莽は錫を受けた事により、皇帝に匹敵する実力があった事が分かります。

この辺りを見るに、王莽は帝位簒奪を企んでいる事は間違いなかったのでしょう。

 

王莽と儒教

王莽は儒教に傾倒し、重んじる事になります。

周公旦を理想の人物に掲げる

王莽は若い頃から儒教を熱心に学んでいました。

王莽は孔子と同様に、周の文王の子で武王の弟にあたる、周公旦を理想の人物として考えていたわけです。

しかし、王莽の儒教信奉が国を乱す事になります。

周公旦の時代は、王莽よりも1000年昔の時代とも言われています。

王莽は1000年前の伝承された政治を理想に掲げ、政策を行っていきます。

現代の日本で言えば、1000年前の平安時代の政策を王莽は行おうとした事になるでしょう。

歴史を見ると理想主義は、破滅しやすいわけですが、王莽にも同じ事が言えます。

 

讖緯説

王莽は前漢末期に流行した、讖緯説を利用し権力を強化した話があります。

讖緯説は儒教の経書の内容を予言として解釈するものです。

経書の記述には、隠された内容があり、それを解き明かすのが讖緯説です。

ただし、讖緯説は読み方によって、どの様にも解釈できるわけであり、王莽は自分にとって都合の良い様に讖緯説を使う事になります。

 

周公旦の礼

王莽は自ら周公旦に準える為に、周公旦の著作だと知られている「周礼」を使う事になります。

王莽は夷狄から白雉をさせています。

白雉は周公旦が政治を執っていた際に、現れた瑞祥と言われています。

王莽は王政君に言上して、白雉を宗廟に供えています。

哀帝期の政局の混乱から、朝廷では王莽に期待しており、群臣たちは「霍光の故事」を王莽に賜う様に王政君に要請しました。

しかし、群臣たちの願いがエスカレートしたのか、王政君には霍光の上を行く「周公の故事」を王莽に賜う様に依頼し、王政君も群臣の要請に断る事が出来なかった話があります。

これを見ると、朝廷でも王莽人気はあった様に思うかも知れませんが、アンチ王莽の大臣や一族も多くいた様です。

 

王莽が皇帝に即位

王莽は皇帝に即位する事になります。

王莽がどの様にして、皇帝のなったのか解説します。

禅譲による王朝交代を狙う

儒教の理想としては、王朝が変わる際は放伐と呼ばれる武力征伐ではなく、平和的な禅譲が理想とされていました。

五帝の堯が瞬に帝位を譲った様に、徳のある者に帝位を譲る事を禅譲と言います。

ただし、禅譲と言っても実質は、力を持った臣下が衰えた皇帝に無理やり退位を要請するのが禅譲です。

王莽は自分が皇帝になる為の根拠や理論を集める様になります。

王莽は高名な儒家などを集め自らが皇帝になれる様に理論武装を始めます。

こうした中で平帝が崩御する事になります。

 

平帝の崩御

西暦5年に平帝が僅か14歳で崩御しました。

平帝が亡くなった理由ですが、当時から王莽による毒殺説はあったようです。

平帝も年齢を重ねるにつれて、王莽に対して反発する様になったのではないか?とも考えられています。

王莽にとっては、平帝は反抗期を迎え、扱いにくい存在に変わっていったのかも知れません。

王莽は平帝の母親である、衛姫も自殺に追い込んでおり、王莽が平帝を毒殺してもおかしくはないと当時の人も考えたのでしょう。

王莽は自分のパフォーマンスの為であれば、子であっても容赦なく殺害した経緯もあり、王莽が平帝を殺害する可能性は高いと考える人もいます。

ただし、王莽が平帝を毒殺した証拠はありません。

王莽の政治が余りにも酷かった為、平帝の王莽毒殺説が出来た可能性もあるはずです。

王莽は僅か2歳の王嬰を皇帝に即位させます。

しかし、2歳の子供に政治が出来るはずもなく、王莽が引き続き権力を手中に収めました。

因みに、劉嬰は皇帝にすら即位していないとも考えられています。

 

仮皇帝となる

普通の臣下であれば、殷の伊尹や周公旦の様に摂政として政治を行う事になります。

しかし、王莽は自らを摂皇帝とし、その後に仮皇帝と名前を改めています。

摂皇帝や仮皇帝を名乗る辺りは、王莽が親王朝を作り正式な皇帝になる気を内外にアピールした事になるでしょう。

ここまで来れば、王莽も皇帝即位まであと一歩だと言えます。

ただし、王莽のこうした態度に劉氏の一族や高官などが反発します。

 

劉信と翟義が反旗を翻す

西暦7年になると、翟義は劉信こそが天子に相応しいと反旗を翻します。

劉信は各国に檄を飛ばし仲間を集めると10万の大軍になった話があります。

王莽は、孫建、王邑、王駿らを鎮圧に向かわせています。

孫建、王邑、王駿らは翟義を破り、何とか反乱を鎮圧したわけです。

 

王政君の怒り

王莽が皇帝になろうとしている事は明らかであり、王政君が激怒した話があります。

王政君は王莽が大司馬に就任出来る様に、取り計らった人物ではありますが、漢に対して恩義を感じており、王蒙の態度が許せなかったわけです。

王政君は王莽の使者に「お前が今の地位を得る事が出来たのは、誰のお陰だ。」と怒りをぶつけた話があります。

王政君は外戚ではありましたが、王氏と劉氏の共存を望んでおり、王蒙の簒奪とも取れるやり方は気に入らなかったのでしょう。

尚、王莽が皇帝となり新を建国する事は、王氏の一族からも支持されていなかった話もあり、王莽の独りよがりだったとも考えられています。

因みに、王莽は王政君を無視して、皇帝に即位に向かう事になります。

 

瑞祥が現れる

王莽が皇帝になるという瑞祥も現れる事になります。

夢の中で、下記の話が出てきた人物が現れる事になります。

「王莽を天子として国を治める様に。疑うのであれば、あの場所を掘ってみよ。」

言われた場所を掘ってみると、神像が出て来る事になります。

神像はあらかじめ埋めておいたと思われますが、王莽が皇帝になるという瑞祥が出た事になったわけです。

他にも、井戸から「安漢公(王莽)に告ぐ、皇帝と為らん」と書かれた石まで出てきます。

「天の使者が王莽が皇帝になると言った。」とする夢を見た者まで現れます。

さらには、王莽が天子になるべき、という内容が書かれた前漢の高祖である劉邦の予言書が発見されたりもしました。

これらの瑞祥は王莽による自作自演だと思われますが、王莽が皇帝になる後押しを大いに得る事になります。

 

 

新を建国

西暦8年になると王莽は、皇帝に即位し新を建国します。

王莽は最初に大司馬になった時に、新都侯に任命されており、新都侯の「新」を取り、「新」を国名にしたと言われています。

王莽は多くの学者を使い理論武装していた為に、誰も反論が出来なかった話があります。

西暦8年で劉邦が項羽を破り、建国した前漢は滅亡した事になるでしょう。

王莽は新を建国する為に、強引な理論構成をおこなった記録があります。

王莽の皇帝即位は簒奪とみなす事も出来ますが、中国史上初の禅譲と見做す場合もあります。

 

王莽の政治

王莽は新の皇帝となり政治を行いますが、社会的な大混乱を引き起こす事になります。

土地所有の禁止

この時代は土地が財産であり、貴族の大土地所有者が農園で多くの奴隷を働かせ、莫大な利益を得る事が多かったわけです。

その為、貧富の差も出来る事になります。

哀帝の時代に、既に貴族の大土地所有は問題となり、これを放置しておくと貴族の権限が強くなりすぎて、国家は運営が困難になっていく事が目に見えていました。

哀帝は限田法を行い大土地所有を制限しようとしますが崩御します。

王莽は哀帝の時代に出来なかった、大土地所有問題にメスを入れる事になります。

王莽は理想主義者であり、全ての私有地を公有地としました。

王莽は周の時代の様に、国が直接民衆に土地を分け与えようとしたわけです。

王莽の大土地所有に関する政策は、古来の方法に立ち返っても、時代に合わず現実には通用しなかったと言われています。

ただし、王莽は私有地を無くし、公有地とした事で「世界初の社会主義者」だと評価される場合もあります。

しかし、多くの方が分かっている様に、社会主義は失敗する運命にあり、王莽の政策も失敗する事になります。

 

奴隷制の廃止

王莽は奴隷制の廃止を宣言する事になります。

王莽はアメリカのリンカーンよりも先に、奴隷解放宣言を行う事になります。

王莽の場合は、慈悲深い皇帝の姿を作るためのアピールだったとも考えられています。

しかし、貴族たちは奴隷の労働力を使い、大農園を経営していたわけであり、多くの反感があったり、農場が立ちいかなくなった話があります。

突然の奴隷解放宣言は、社会の混乱を引き起こしたと言えるでしょう。

 

多くの名称を解明

王莽の改革の一つとして、名称の変更があります。

王莽は地域の名前や役職など、あらゆる物事の名称を変更した話があります。

その結果として、混乱が引き起こされる事になります。

急に地方の名前が変わったり、役職が変わったりすれば、混乱するのは当たり前と言えるでしょう。

因みに、王莽は二文字の名前を禁じた話があり、三国志の時代で曹操劉備孫堅などの名前が多いのは、王莽の改革が原因とされています。

理由はよく分かっていませんが、名前の決まりだけは、新王朝の崩壊後も継続される事になります。

 

中華思想を強化

王莽は儒教に傾倒しており、中華思想は当然だと思っていた話があります。

王莽は中華思想を全面に出した外交を展開する事になります。

中華の周辺国は、倭王、高句麗王などの「王」で呼ばれるのが普通でした。

しかし、王莽は極端な中華思想から周辺国を「王」ではなく、「侯」へ格下げしたわけです。

朝鮮の北部に高句麗という国がありますが、高句麗の「高」という文字が気に入らなかったのか「下句麗」と呼ぶようになります。

中国の北方にいた遊牧民族の匈奴は、「降奴」と呼んでいます。

当り前ですが、王莽のこうした尊大なる中華思想の表れにより、周辺国の反感を買う事になります。

王莽の極端な中華思想は、前漢の時は有効だった国々とも関係を悪化させ、王莽が建国した新から離れて行く事になりました。

新の辺境地域では、治安が悪化し、異民族に対する警戒レベルが引き上げられる事になります。

さらに、周辺国の勢力は、新の内乱にも関わって来る事になったわけです。

王莽は周辺国へのやり方を見ると、空気を読まない中華思想に拘り、外交センスは皆無に等しいと言えるでしょう。

 

井田法

王莽の農業政策の中で、井田法(せいでんほう)を実施した記録があります。

井田法は、周王朝で行われた農業方法であり、土地を9つに区切り8つを人々に与え、中央を公田とし、皆が耕すという方法です。

井田法は井田制と呼ばれる事もあり、諸子百家の孟子に記録が残っています。

しかし、孟子は周王朝の時代から数百年後の人物であり、本当に井田法が実施されたのかも不明です。

理想主義である王莽は井田法を行う事になります。

王莽は周王朝を理想とし、井田法を使った重農政策を行いますが、前漢では高度な貨幣経済が行われていました。

王莽は人々に強制的に井田法を使った農業を行わせようとしますが、突然言われても、多くの人々が実行出来なかったのでしょう。

王莽の井田法は人々を混乱に陥れる事になります。

尚、春秋戦国時代の初期に、秦の孝公の宰相となった商鞅も重農政策を敷いていますが、商鞅の改革では当時(戦国時代初期の頃)の状況にあっていたのでしょう。

それに対して、王莽の井田法は時代錯誤の悪法となってしまったわけです。

他にも塩と鉄の専売を強化し、民衆からの反感を得た話しもあります。

 

王莽銭の失敗

漢王朝の初期の頃は、秦の始皇帝が定めた公定貨幣である半両銭が多く流通していました。

漢の武帝の時代の頃からは、五銖銭が流通していたわけです。

王莽は五銖銭の存在を否定し、方孔円銭や戦国時代に使われた布幣、刀幣などが発行する様になります。

実際の価値より、はるかに額面が高い、貨幣が作られた話もあります。

王莽が発行した貨幣の事を王莽銭とも呼びます。

しかし、王莽が発行した王莽銭を使う人は少なく、多くの人々は五銖銭を今まで通り使う事になります。

王莽は人々に強制的に五銖銭を使うのを辞めさせようと、法律で五銖銭の使用を禁止しました。

王莽の信用していいのか分からない王莽銭しか使えなくなった事で、社会混乱が起きる事になります。

王莽は7年間で4度の貨幣改革を行った話しもあり、社会が如何に混乱していたのか分かるはずです。

王莽がその場しのぎの、思い付きの政策で国を乱した事も明らかでしょう。

 

治水の失敗

王莽は経済、農業など数多くの政策を実行しますが、大半は失敗しています。

王莽の失敗の中で、最大の失敗が治水の失敗と言われています。

古代文明においては非常に重要です。

メソポタミア文明シュメール人達は灌漑農業を行い都市を発展させたり、中国でも夏王朝の禹は治水の成功により帝位に就いています。

中華の帝王は治水を成功させ、人々に食料を安定的に提供する義務があったとも言えます。

王莽の時代に黄河が決壊し、多くの民衆が生活に困苦する状態でした。

王莽は黄河が決壊し甚大な被害だったにも関わらず、自分の領地と関係がない場所だった事から放置したとも伝わっています。

これが人々に恨まれる結果となります。

王莽は治水の失敗により、人々の暮らしを安定させる事が出来ませんでした。

治水を最優先にしなかった王莽に民衆の不満は極限にまで達して行く事になります。

王莽の失政により山には山賊が多く現れ、街には盗賊が溢れる様になります。

王莽が作った理想国家であるはずの新は、不穏な空気が流れ治安は最低な状態になっていきます。

 

王莽の逸話

王莽は理想主義で現実を見た政策を実行する事が出来ずに、内政で失敗しました。

しかし、王莽には様々な逸話があり、印象に残ったものを解説します。

解剖実験

王莽は自分に対して反抗的だった王孫慶を捕え、生きたまま医師に解剖させた話があります。

五臓や血管に関して記録させ「これで病気の治癒方法が分かる」と述べたと言われています。

見方を変えれば医学発展の為の実験に近い様にも見えますが、実際には殷の紂王が比干に行った残虐な処刑方法だとも考えられるはずです。

医師も三国志の名医である華佗や扁鵲の様なものではなく、一般の医者だったのでしょう。

 

亡き声の悲哀な者を集める

王莽は天に救いを求める為に、鳴き声の悲哀な者を集めた逸話があります。

王莽は単に鳴き声が悲哀な者を集めるだけではなく、官僚に取り立てたそうです。

鳴き声が悲哀であった為に、官僚に取り立てられた者は5000人を超えた話しもあります。

古代の世界は迷信がまかり通っていましたが、王莽の行為はやり過ぎだと言えるでしょう。

王莽の集めた鳴き声の悲哀な者の声は、天に届かなかったのか、新は短期間で滅んでいます。

 

飛行実験

王莽の前で「1日に千里を飛ぶことが出来、匈奴を偵察する事が出来る。」と述べた者が現れます。

王莽に飛ぶことが出来ると言った者は、全身に羽毛をまとい、紐でつなぐ仕組みで、空を飛ぼうとします。

しかし、この程度で人間が飛べるはずもなく、少し飛んで墜落したそうです。

王莽が飛行実験を行ったという事でしょう。

王莽と言えば、残虐な話もありますが、飛行実験に対しては、「飛べる」と言った人物が悪い様に思います。

 

各地で反乱が起きる

王莽の政治が上手く行かず、社会が混乱したわけです。

先に述べた様に王莽は極端な中華思想の持ち主であり、周辺国に反感を買われていました。

周辺の国々は、新の辺境を荒らす事になります。

王莽は反旗を翻した周辺国と戦う為に、軍隊を派遣しますが、兵站が滞ってしまいます。

さらに、飢饉が発生した事で兵士達は逃亡し、さらに辺境の地では民衆が流民化していく有様でした。

王莽の軍隊も質が悪く、民衆から略奪したりとやりたい放題だった話があります。

こうした中で西暦18年に赤眉の乱が勃発する事になります。

反乱軍の中で最大勢力である更始帝(劉玄)の勢力に向かって100万と号する兵を派遣します。

 

昆陽の戦い

王莽が派遣した新の大軍は、昆陽の戦いで劉秀と戦う事になります。

実際の兵士の数は不明ですが、王莽の兵士の数は40万とも50万とも言われています。

それに対して、劉秀の軍勢は1万しかいなかった話があります。

王莽が派遣した新の軍勢は圧倒的に有利な状況でした。

昆陽の戦いでは、王莽の新軍は大軍ではあったが、指揮系統に問題があったともされています。

それに対して、劉秀の軍勢は数は少なくても、精鋭ぞろいであり、指揮官である劉秀自体も卓越した戦闘能力を秘めていたわけです。

劉秀は王莽の軍勢を強襲し、新の軍隊を大いに破る事になります。

昆陽の戦いで大敗北を喫した事で、王莽は転落して行きます。

 

王莽の最後

更始帝の軍隊は、新の首都である長安に雪崩れ込む事になります。

昆陽の戦いで軍隊を失った王莽に対抗する術はありませんでした。

王莽の最後は、商人の杜呉という人物に殺害され、さらし首にされた話があります。

王莽を倒した更始帝ですが、後にだらしなくなり、最後は殺害されています。

劉秀は兄である劉縯が殺害されるなどの不幸な出来事はありましたが、光武帝となり勢力を固め漢王朝を復興させる事に成功しました。

王莽が簒奪した前漢は、劉秀により復興され時代は、後漢へと続く事になります。

因みに、前漢の末期の頃には人口が6000万人にも届くほどだったと言われていますが、光武帝が人口を調べたところ、2000万人まで減っていたとされています。

王莽の引き起こした社会的な混乱により、人口の三分の二は死去してしまった事になるでしょう。

王莽に政治に関しても、良い部分が見当たらないなど酷評される事も多いです。

 

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