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構成・文/宮下悠史

古代オリエント

ラガシュの歴史

2021年3月9日

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ラガシュは同じシュメール人の都市であるウルやウルクなどの比べると影が薄い感じがします

ウルクはウルク文化と呼ばれる世界最古の都市が形成されたとか、ウルク古拙文字や楔形文字が誕生したなどともいわれていますし、ウルはシュメール人最後の王朝であるウル第三王朝のインパクトが強いと言えます。

それに対して、ラガシュやウンマなどのシュメール人の都市は、どうしても影が薄くなります。

しかし、現在のシュメール研究において、ラガシュの遺跡の発掘が最も進んでおり、ラガシュを知らずしてシュメール文明の研究は語れないという人もいる程です。

今回はシュメール人の都市であるラガシュの都市や歴史を解説します。

 

ラガシュの発見

ラガシュは1877年にフランスの駐バスラ・フランス領事E・ド・サルザクにより発見された遺跡です。

当時のイラクはオスマン帝国領だったわけですが、フランス人により発掘される事になります。

ラガシュのギルス地区の遺跡からは、大量の粘土板や紀元前3000年紀の遺跡として世界的に注目を集める事になります。

当時では、メソポタミア地方の北部であるアッシリア遺跡からの出土物が多く、そういう意味でもラガシュの発見は画期的でした。

 

ラガシュの場所

ラガシュはメソポタミア南部のチグリス川の湖畔にあったとされています。

ウルやウルクなどのシュメール人の都市国家がユーフラテス川の流域にあるのに対し、ラガシュはチグリス川の湖畔の存在したとされているのです。

ただし、現在の位置だとチグリス・ユーフラテス川の中間にあるとも言えるでしょう。

ラガシュには、分かっているだけでもラガシュ地区、ギルス地区、シララ地区があり、それぞれに城壁があった事が分かっています。

同じラガシュのギルスやシララなどは、独立した都市国家と言えるほどの規模を誇り研究者を驚かせています。

 

ラガシュの実態

ラガシュには王や皇妃がいた事が分かっています。

紀元前24世紀頃とされるエンエンタルジ、ルガルアンダなどの皇妃による土地経営の記録なども残っています。

皇妃らは民衆を働かせるだけではなく、衣類や大麦などの食料の支給も行い土地を経営していた事も明らかです。

それらの粘土板の記録によりシュメール人の初期王朝は、全ての民衆に対して課税する仕組みではなく、広大な耕地に所属する民衆がおり、独立自営の組織を営んでいた事も分かっています。

シュメール人の頃の都市国家では、中央集権とは行かなかったのでしょう。

仕方がないとはいえ、政治の未熟さがあると指摘する声もあります。

尚、ラガシュだけではなく、ウルやウルク、ウンマなどのシュメール人の都市国家も似た様な仕組みだったのではないか?と考えられています。

因みに、ラガシュの民衆に対しては軍役や賦役があった事も粘土板の記録からは明らかです。

 

激闘のラガシュの歴史

ラガシュの歴史を解説します。

ラガシュ第一王朝の勃興

紀元前2500年頃に世襲制の王朝がラガシュで誕生したと考えられています。

ウルナンシュ王が初代ラガシュ王であった為に、ウルナンシュ王朝と呼ばれたり、ラガシュ第一王朝と呼ばれたりもします。

ラガシュ第一王朝は世襲の王朝であり6代に渡り150年続いたとも考えられています。

ラガシュ第一王朝はウンマとの戦いに敗れ滅亡したとも考えられていますが、実際の所は不明点も多いとされています。

 

エラムとの戦い

ラガシュは位置的にシュメール地方の東に位置し、エラム人の侵入口に当たる都市になっています。

そうした事から、エラム人の侵入を招く事が多くラガシュとエラム人の戦争の記録が残っているのです。

シュメール人は、メソポタミア中部にいるアッカド人達の事は、自分たちと同等の民族として見ていたのに対し、エラム人は蝗の様な民族と蛮族扱いしていました。

エラム人はラガシュを始めとした都市に侵入する事から、シュメール人達は苦々しく思っていたのでしょう。

尚、エラム人とメソポタミアの王朝は何度も争いシュメール人のウル第三王朝を滅ぼしたのもエラム人です。

エラム人はバビロニア地方に出来た古バビロニアに侵入したり、カッシート王国を滅ぼすなどもしています。

エラム人がバビロニアの王朝を滅ぼした時に、ハンムラビ法典の石碑を首都のスーサに持ち去るなどもしています。

メソポタミアの文化はエラム人を介してインダス地方に繋がり、インダス文明が勃興した説も存在します。

 

ラガシュとウンマの100年戦争

ラガシュにとって、エラム人以上に苦労したのが同じシュメール人の都市であるウンマだと考えられています。

ラガシュとウンマは小競り合いも含めれば100年以上に渡り戦った記録もあるほどです。

ラガシュの第五代の王であるエンメテナ王の回顧碑文には、ウンマとの戦いの記録があり、キシュ王であるメシリム王が調停した事も分かっています。

ラガシュ王であるエンメテナ王は戦争の時には、自国の正義を主張したり、ウルク王とラガシュ王が同盟を結ぶなど現代の戦争にも通じる所があります。

古代メソポタミアでも都市同士での合従連衡が行われていた様です。

同じシュメール人の都市であっても土地問題から戦争になる事もあり、メソポタミア文明と言っても平和な時代ではなかった事が分かります。

 

ラガシュの衰退

ラガシュ王であるエンメテナ王の治世が終わるとラガシュ第一王朝は衰退に向かったと考えられています。

ウンマ王であるルガルザゲシがラガシュに侵攻する事になります。

この時のラガシュ王は簒奪者とも言われるウルイニムギナであり、ラガシュはウンマに敗北する事になります。

ここでラガシュ第一王朝は終焉に向かう事になった様です。

ラガシュを制圧したウンマのルガルザゲシは本拠地をウルクに移し、ウルク第三王朝を建国しますが、ルガルザゲシはアッカドのサルゴンに敗れてしまいます。

ルガルザゲシがサルゴンが敗れると、シュメール人の都市はアッカド人に征服される事になります。

 

ラガシュ第二王朝

アッカド帝国のサルゴンが亡くなると、リムシュが後継者となりますが、この時にキクイドなる人物がラガシュ第二王朝を建国したとも言われています。

ただし、キクイドはリムシュに敗れる事になった様です。

アッカド帝国は4代目のナラム・シンの時に大きく勢力を拡げ、四方領域の王を名乗るなど全盛期を迎えます。

ただし、ナラム・シン以降は衰退が顕著になり、気候変動による大飢饉やザグロス山脈にいたグティ人の信仰により滅亡する事になります。

グティ人がメソポタミアで暴れ回っている混乱期にラガシュでは独立の機運が高まりラガシュ第二王朝が再び活発になった話もあります。

この時のラガシュでは文化が大いに発展し、ラガシュ王であるグデア王像はシュメール文化の最高傑作と名高い作品です。

ラガシュ第二王朝はグデア王の時代が全盛期だと考える専門家もいます。

 

ラガシュの滅亡

ラガシュはシュメール人の有力な都市の一つではありましたが、最後までメソポタミアの盟主になる事はありませんでした。

メソポタミア地方ではウル第三王朝が勢力を伸ばす事になります。

ラガシュ第二王朝のナンマハニはウル第三王朝のウル・ナンムにより殺害される事になります。

ナンマハニが殺害された事で、ラガシュ第二王朝も終焉を迎えました。

ラガシュは紀元前21世紀頃には、ウル第三王朝の属州の一つになり、この頃にはラガシュではなくギルスと呼ばれていた様です。

ウル第三王朝時代のラガシュ(ギルス)では、様々な経営の文書などが残っており、ウル第三王朝の経済を支えたのはギルスだとも考えられています。

因みに、ギルスでは農業が盛んであり女性は毛織物の作業に従事する者が6000人もいた事も分かっています。

しかし、ギルスは紀元前2000年紀初めの頃に急速な衰退が始り滅亡したと考えられています。

 

 

 

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