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構成・文/宮下悠史

その他 三国志 魏(三国志)

李孚(りふ)は臨機応変に使者・役人として対処できる優れた人物

2021年10月18日

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名前李孚(りふ) 字は子憲
生没年不明
勢力袁紹→袁尚→袁譚→曹操
年表194年頃 忍耐力が強い人物と認められる
204年 鄴の審配への使者となる。
205年 袁譚に仕えるも滅亡し曹操に仕える
コメント使者として二度も曹操を出し抜く。

李孚(りふ)の字は『子憲』であり、使者として2度も曹操を出し抜いた人物として有名です。

李孚が使者となって、曹操軍を通過した話は三国志演義でも採用されています。

李孚の記述は正史三国志の「劉司馬梁張温賈伝」に収録されている賈逵伝にあり、裴松之が魏略から採用した注釈に記述がある人物です。

魏略にある李孚の記述によれば、李孚は最初は馮氏だったとありますが、後に「李姓」に改名したとあります。

李孚がなぜ李姓に変えたのかの記述はなく分かっていません。

しかし、どこかのタイミングで李姓に改めたのでしょう。

今回は史実の李孚が、どの様な人物だったのか、正史三国志の賈逵伝の注釈を元にして解説します。

 

忍耐強い人物

魏略によれば、李孚が学生時代だった興平年間(西暦194~195年)に、鉅鹿で飢饉があり飢えに苦しんだ話があります。

李孚は庭に韮(ニラ)を植えており、成長するまで食べないつもりだったわけです。

しかし、飢饉とあれば空腹に苦しむ事もあり、李孚に韮を分けて欲しいと願う人も出る事になります。

ここで李孚は、誰が韮を分けて欲しいと頼まれても与える事はしませんでしたし、自分でも韮を食べませんでした。

郷里の人々は、李孚が忍耐強く意思を曲げない人だと、噂になったとされています。

魏略には李孚が成長した韮を、皆に分けたのかの記述は存在しません。

しかし、魏略の記述を見る限りだと、李孚に対する悪評が出た様にも感じないので、李孚は成長した韮を皆に分け与えた様に思います。

 

袁尚に仕える

李孚は後に役人となり、袁尚に仕える事になります。

当時の袁家では袁紹が官渡の戦いで曹操に破れ、2年後には袁紹も亡くなっていました。

袁紹が後継者を明確に長子の袁譚なのか、自分が期待していた袁尚なのかをはっきりと、しないままで没していたわけです。

それにより、袁譚と袁尚の間で後継者争いが勃発する事になります。

官渡の戦いで勝利した曹操は、郭嘉の進言もあり、袁譚と袁尚を争わせる事としました。

こうした袁家の内紛を利用し、曹操が勢力を拡げようとする中で、李孚は袁尚の配下となったわけです。

袁尚が冀州を領有すると、袁尚は李孚を主簿に任命しています。

 

曹操を2度も出し抜く

曹操が鄴を包囲

袁尚は本拠地の鄴を審配に任せて、自らは袁譚の討伐に乗り出しました。

この時に、李孚も袁尚に従軍し、袁譚攻めに加わっています。

しかし、袁尚が鄴にいない隙を狙い、曹操が突如として鄴を包囲したわけです。

この時に鄴を守る審配の兵は数が少なく、袁尚は鄴が陥落する事を恐れました。

 

李孚が使者となる

袁尚は鄴を守備する審配と連絡を取り、「援軍に駆け付ける」と連絡したいと考えます。

この時に、袁尚は誰を使者にすればよいのか、李孚に相談しました。

李孚は袁尚の問いに対して、次の様に述べています。

李孚「今、能力無き者を使者として派遣すれば、内外の実情を審配殿に知らせる事も出来ないでしょう。

私が自ら使者となり、敵の包囲をかいくぐり、鄴の城内まで到達したいと考えております。」

李孚の言葉に対し、袁尚はどの様な準備が必要なのか?と問います。

李孚は次の様に答えました。

李孚「聞くところによれば、曹操軍の鄴への包囲は厳重だと聞いております。

人数が多ければ、曹操の兵に見つかり捕らえられてしまう事でしょう。

私は3騎を共とし、少数で鄴の包囲を搔い潜ろうと思います。」

袁尚は李孚の進言を受け入れ、李孚は信頼できる3騎を選び、鄴城を目指す事にしました。

李孚はこの時に、従者の3人に対し目的地の説明を行わず、携帯食料と駿馬を支給し、武器は持たなかったと伝わっています。

目的地の説明を行わなかったのは、何かあった時に、敵に自分の行動がバレてしまう事を危惧したのでしょう。

武器を持たせなかったのも、怪しまれるのを恐れたからだと感じます。

 

曹操軍を観察

鄴を目指した李孚は、梁淇(りょうき)に到着すると、馬腹に問事(巡視する役人)が使う杖を付けて、鄴城を目指す事になります。

後の事を考えれば、この時に李孚の方では、曹操軍の包囲を破る為の策が頭の中にあったのでしょう。

李孚は鄴を包囲している曹操軍を発見しますが、曹操軍で禁止されていた放牧をする者が極めて多い事に気が付きます。

曹操軍では夜の闇に紛れて、放牧をする者が極めて多かったのでしょう。

これを李孚は利用する事になります。

 

都督の振りをして通過

曹操軍で刻を知らせる太鼓がなると、李孚は自ら都督と称し北から曹操軍に入り、東、南と回ったわけです。

ここで李孚は自ら決まりを破った、兵士らを罰し叱責しました。

この時の李孚は一歩ごとで将兵を叱責したとある事から、数えきれない程の人数の兵士と叱責したのでしょう。

曹操軍の兵士は李孚を本物の都督だと思い、李孚は曹操の陣の前を通って南方から鄴城に向かいます。

李孚は章門の前に到着すると、見張りの兵をまたもや怒鳴り散らし、さらに守備兵を捕縛したとあります。

この時に章門を守っていた兵士らは、まさか自分が偽物の都督に怒鳴られていると、は思ってもいなかったでしょう。

この時の李孚は、迫真の演技だった事が目に見えるようです。

李孚は鄴城の下まで来ると、城壁の上にいた兵士に合図を送り、縄を垂らして貰い無事に鄴の城中に辿り着く事が出来ました。

 

笑うしかない曹操

李孚が城内に入ると、鄴を守っていた審配は多いに喜ぶ事になります。

審配は袁氏に対し、強い忠誠心を持っており、袁尚が援軍に向かっている事を心から喜んだはずです。

さらに、兵士達も袁尚の援軍が向かっている事を知り、太鼓を打ち鳴らし万歳を唱える事になります。

李孚は見事に役目を果たし、鄴城の士気は多いに高まったと言えます。

曹操軍の兵士らは、李孚が行った方法を曹操にありのままに報告しました。

この時に、曹操は笑いながら次の様に答えています。

曹操「あやつは、ただ単に陣を通過しただけではないはずじゃ。

必ず帰路の使者として、再び包囲を通はずである。」

曹操としては、してやられた感もあり、笑うしかなかったのでしょう。

それと同時に、曹操としては、次こそは李孚を捕えてやろうと考えたはずです。

 

李孚の策

李孚は審配に袁尚の援軍が向かっている事を知り、任務は達成しましたが、今度は任務を達成した事を袁尚に知らせる必要があったわけです。

しかし、李孚は曹操軍の包囲は厳重であり、再び曹操軍が突破するのは難しいと考えます。

そこで、李孚は策を考え審配に、次の様に進言しました。

李孚「今の城内では兵糧は少なく、老人や子供の為に使うのは無駄です。

老人や子供を城外に追い出し、食料を節約するに限ります。」

審配は李孚の策を受け入れ、曹操に偽りの降伏を願い出る事になります。

夜間に審配は3つの城門を開き、数千人の老人や子供に白旗を持たせ、三方向から曹操軍に降伏させました。

さらに、松明をガンガン炊いて、かなり明るくして数千人を降伏させたわけです。

この時に、松明を多く炊いた事で、兵士らは火に目が行ってしまい、包囲が疎かになります。

李孚は包囲が緩んだ事を悟ると、北門から脱出し西北から曹操軍の包囲を通り抜ける事に成功します。

曹操は翌朝になると、李孚が再び脱出した事を知り、次の様に述べています。

曹操「やはり儂が言った通り、李孚は脱出した。」

この時の曹操は手を打って述べたと正史三国志に記述があり、「してやられた感」が余りにも強く笑うしかなかったのでしょう。

尚、三国志演義では李孚が使者になった事や、城内の老人や子供を城内に出して降伏させた事だけが記載されています。

三國志演義の著者である羅貫中も、李孚が面白い奴だと思い採用した様に思います。

 

袁尚の敗北

袁尚は李孚の報告を聞くと、多いに喜ぶ事になります。

ただし、袁尚は審配が籠城する鄴に向かいますが、曹操と袁尚では指揮能力に差が出たのか、袁尚は鄴の救援に失敗し逃走する事になります。

鄴城は審配が最後まで奮戦しますが、甥の審栄に裏切られ落城しました。

袁尚は北方に逃走しますが、中山まで来ると袁譚が袁尚を追撃し、袁尚は兄の袁煕を頼り、さらに北に逃走しています。

この過程で袁尚と李孚は、離れ離れになってしまいました、

 

曹操に仕える

袁譚の死

袁尚と離れ離れになった李孚は、袁尚と敵対していた袁譚に降伏し仕える事になります。

袁譚は李孚を主簿に任命しました。

袁譚は袁尚と同じ待遇で、李孚を迎えたという事になるのでしょう。

この時に李孚は平原に帰ったとする記述があり、李孚は袁譚から平原の城を任されたはずです。

袁譚は袁尚を北方に追いやった事で、袁家の後継者争いでは勝利しています。

しかし、曹操が袁譚を放置しておくはずもなく、曹操は袁譚がいる南皮に攻撃を仕掛けました。

この時は袁譚軍と激戦となりますが、曹操軍の楽進や曹純の奮戦もあり、袁譚も戦死し曹操軍の勝利となります。

袁譚は亡くなりますが、李孚は平原の城をまだ守っていたわけです。

 

城内の混乱

李孚は降伏を決意し、平原の城内も降伏と決まる事になりました。

しかし、「最後まで戦い抜きたい」とか「降伏したら酷い目に遭う」と考える人もいたのか、城内では落ち着きが見られなかったわけです。

李孚は城内の混沌とした様子を目にし、曹操と自ら会いに行く事になります

李孚は自ら馬に乗ると、曹操の軍門まで行き、「冀州の主簿をやっている李孚が面会を求めている。」と告げます。

曹操は李孚と面会する事としました。

李孚は曹操に会うと、「叩頭して挨拶した。」とする記述が正史三国志にある事から、かなり腰を低くして曹操と面会したのでしょう。

この時に曹操と李孚の間で、鄴城で李孚が行った曹操軍の通過に関しての話が出たのかは記録がなくて分かっていません。

しかし、曹操として見ても「李孚とはどの様な人物なのか?」と、かなり興味を持った様に思います。

 

城内を落ち着ける

李孚は城内の現状を告げ、曹操に明確な命令を宣布して欲しいと願います。

曹操は李孚に対し、宣布する事は許しますが、次の様に述べています。

曹操「其方の考えで宣布せよ。」

曹操は城内を落ち着ける為の内容を、李孚に一任した事になります。

曹操としてみれば、城内の事が詳細に分かっていない自分が行うよりも、城内の事を把握している李孚が考えた方が最適だと思ったのでしょう。

李孚は城内に戻ると、次の様に述べています。

李孚「各々方は元の職務に戻る様にせよ。争ってはならぬ。」

実際の言葉はもっと長かったと思いますが、正史三国志の注釈には上記の様に記載されており、城内は落ち着きを取り戻す事になります。

 

閑職に追いやられる

李孚は戻って曹操に話しますが、曹操は李孚を使える奴だと評価したとあります。

曹操は李孚の事を重用しようとした様ですが、李孚を讒言する者もいたわけです。

李孚は鄴城を通る時に、曹操軍の陣営を通り多くの者を叱責していました。

他にも、鄴城から袁尚の元に帰る時には、城内の老人や子供を曹操軍に投降させていた過去があります。

それを考えると、李孚は主君の為に、役立ちはしましたが、良く思っていない人もいたのかも知れません。

しかし、閑職に追いやられても活躍出来るのが、李孚という人物です。

 

その後の李孚

正史三国志によれば、李孚は地方の解の長を代行したとあります。

閑職に追いやられたと記録があり、下の立場からのスタートとなったのでしょう。

しかし、李孚は有能な人物であり、厳格で行き届いた統治を行い名を挙げる事になります。

李孚は段々と出世していき、司隷校尉にまでなったとあります。

司隷校尉は中央の官吏を取り締まる役職であり、李孚が高い評価を得ていた事が分かります。

司隷校尉になった時に、李孚は既に70歳を超えていた話がありますが、李孚の緻密な考えと決断力は衰えを知らなかったともあります。

魏略には「李孚の策略は昔と比べても引けを取らなかった。」とあり、耄碌とは無縁の人だったのでしょう。

李孚は陽平太守在任中に亡くなったとあります。

李孚は長生きしたわけですが、年代的に考えると魏の曹丕や曹植の時代までは生きた様に感じています。

場合によっては、司馬懿が曹爽に対して起こした政変の辺りまで、李孚は生きた可能性もある様に思いました。

 

李孚の評価

三国志で使者と言えば、黄巾賊に包囲された孔融を救い、劉備に救援を求めた太史慈

馬超に包囲された冀城の城主韋康の為に、使者となった閻温(えんおん)

この辺りが有名ではないかと思います。

尚、太史慈は使者の任務は成功していますが、閻温は失敗しています。

李孚は袁尚が戦いに敗れた為に、目立たないですが、見事に使者としての任務を果たした立派な人物だとも言えるはずです。

閑職に追いやられてから、魏の司隷校尉になった事を考えれば、有能な人物であった事は間違いないでしょう。

魏に仕えてからの記録が少ないのは、内政の仕事が多く派手な事変や戦争には余り関わらなかったのが原因だと思います。

しかし、李孚を見ていると魏には目立たないが有能な人物が数多くいる様に思いました。

 

コーエーテクモゲームズ・三国志の能力値

三国志14統率76武力72知力65政治50魅力67

 

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