春秋戦国時代

呂不韋を徹底解析!最後は悲惨だが子孫は帝王となった

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呂不韋は一商人から秦国の最高権力者である相国にまで昇りつめた人物です。

呂不韋が商人をしていた時代は、秦の昭王がいて名将白起や魏冄、范雎などの臣下がいて、秦は他国を圧倒する状態になっていました。

戦国七雄の中でも、秦の一強状態になってい たのです。

秦の昭王の太子は安国君(公子柱)ですが、寵愛する華陽夫人に子がない事を呂不韋は知ります。

呂不韋は安国君の20人はいたとされる子の中から、趙の人質になっていた異人(後の荘襄王)に目を付けます。

そこから呂不韋は秦の内部に入り込み宰相となり、秦の臣下で最高位である相国になります。

ただし、最後は秦の荘襄王の後継者である秦王政(後の始皇帝)により命を落とす事になります。

商人だった呂不韋がどの様にして、秦の王室と繋がり最高位に昇り最後を迎えたのかを解説します。

因みに、呂不韋の子孫は漢の高祖劉邦の皇后である呂后となります。

今回は呂不韋を徹底解析します。

尚、漫画キングダムには呂氏四柱(昌平君蒙武、李斯、蔡沢)なる呂不韋の重臣が存在します。

しかし、史記、戦国策、資治通鑑などを見る限りでは、昌平君、蒙武、李斯、蔡沢の4人が呂不韋派だった記述は存在しません。

 

奇貨居くべし

呂不韋の出世を語る上で重要なのが、奇貨居くべしという言葉です。

実際に司馬遷が書いた史記の呂不韋列伝にもある言葉となります。

呂不韋は商人出身

呂不韋と言うと秦の権力を握っている事から貴族の出身だと思っているかも知れません。

しかし、先に述べた様に史実の呂不韋を見ると貴族ではなく商人出身です。

ちなみに、呂不韋の出身地は史記の呂不韋伝では韓の陽翟という事になっていますが、戦国策では衛の濮陽と言う事になっています。

このため出身地ははっきりしていませんが、商売でかなり儲けていたようで大商人だったという事は確かなようです。

呂不韋は時期を見るのが上手く安い時に買い高い時に売って富を得たと言います。

現代に呂不韋が生きていたとしたら株、FX,ビットコインなどのトレードで莫大な富を得ていたかも知れません。

ただし、ここまでの呂不韋の生活を見ると富は得ていたようですが、秦王室とは全く無関係の生活をしています。

 

秦の公子異人を知る

秦の昭王の40年に魏に人質に行っていた悼太子が亡くなってしまいます。

昭王の寿命が長かった事もあり、子である悼太子の方が先に死んでしまったとも言えます。

尚、ここで興味深いのが強国秦であっても、太子が他国に人質に行っている点でしょう。

悼太子が亡くなった事で秦の王位継承順位が変わる事になります。

代わりに太子に建てられたのが公子柱(後の孝文王)です。

公子柱は子福者で生涯に子供の数が20余人もいたとされています。

その中の一人が、異人であり後の始皇帝の父となる人物です。

 

呂不韋が異人の世話をする

異人は公子柱の子ではありましたが、長男でもなく趙に人質に出されていました。

当時の秦と趙は、険悪な仲であり対立関係にあった話があります。

趙奢が胡傷を紀元前269年の閼与の戦いで破った為です。

もちろん、趙と秦の仲が冷え切っている事から人質である異人は趙で冷遇されていました。

異人が冷遇される理由の一つとして、異人の生母である夏姫の身分が低かった事も原因と言えるでしょう。

異人は王族でありながら豊かな生活を送る事も出来ずにいたようです。

呂不韋が趙を訪れた時に、異人の存在を知ります。

 

出世の始り

呂不韋は異人を見た時に、お金の匂いがを感じ取ったようです。

「奇貨居くべし」と感じ取ったわけです。

現在の異人は珍しい品物で、安売りの最中だと思った事でしょう。

呂不韋は異人が、いずれ化ける可能性があると踏んでいました。

異人を知った呂不韋が父親の元に帰り話した問答が残っています。

呂不韋「畑を耕す事で得られる利益は幾倍ですか?」

父親「10倍だ」

呂不韋「珠玉から得られる利益は何倍ですか?」

父親「100倍だ」

呂不韋「国家の主を立てた場合の利益は何倍ですか?」

父親「数え切れぬほど膨大だ」

この問答が終ると呂不韋は父親に異人の事を話し、自分は異人の家来となり補佐する事を宣言します。

 

呂不韋が異人に仕える

呂不韋は異人に仕える事にしました。

呂不韋は商人として蓄えたお金がありましたから、それを異人の為に使う事にします。

異人の方も趙にこのまま人質としていても、冷遇されて朽ちるだけである事を理解していたのか、呂不韋を信じる事にしたようです。

呂不韋は異人の名声を高めるために、趙の名士たちと交わりを結べるように仕向けました。

異人も名声を上げるために、行いを注意したりする努力をしたようです。

ここでよく見られなければ、異人は奇貨居くべしとはならない事から呂不韋も必死だったのでしょう。

さらに、公子柱に新たなる太子が発表される前に、異人を仕立てて秦に売り込まなければなりません。

呂不韋が補佐する異人が秦王の後継者になれるのかは時間との戦いでもありました。

 

 

華陽夫人に目を付ける

秦の昭王の太子である公子柱(安国君)の正夫人は華陽夫人と言います。

賢さを公子柱に認められて正夫人になったわけです。

しかし、公子柱には子供が沢山いましたが、華陽夫人との間には子供が一人もいませんでした。

公子柱が秦王になれば華陽夫人は后となるわけですが、子供がいない華陽夫人は心配でなりません。

公子柱が突然亡くなってしまった場合も、今の生活を維持できる保証もないわけです。

特に女性の場合は、美貌が衰えると寵愛を失う事も多いため華陽夫人は身の安泰も考えていました。

その華陽夫人に目を付けたのが呂不韋です。

呂不韋は華陽夫人と話をしたいと思い弟である陽泉君に面会をします。

そして、華陽夫人と自分が会ってくれるように依頼したようです。

陽泉君も自分の地位を不安に思ったのか呂不韋と華陽夫人を引き合わせました。

そこで、呂不韋は華陽夫人に対して異人を養子として迎える事を提案します。

この案に華陽夫人も乗り公子柱に自分の養子に異人を迎えたいと懇願したわけです。

公子柱も趙にいる異人に対して調べを入れるわけですが、交わっている人物に趙の名士が多く驚くわけです。

公子柱は自分の後継者を決めていなかった事もあり異人を太子にする事にします。

さらに、呂不韋は異人の傳役に指名されています。

このようにして、呂不韋は異人という「奇貨」を秦に売りつけたわけです。

 

 

安く買って高く売るはビジネスの基本だと思う

呂不韋は商人だったわけですが、そのせいか相場を見るのがかなり上手かったような気がします。

ビジネスの基本は安く買って高く売る事でしょう。

常にそういう見方で世の中を見ていたからこそ、異人が金になると言う事を判断したと思いました。

尚、越の范蠡は大臣から商人になったわけですが、呂不韋は逆に商人から大臣になったわけです。

王様を立てる事が出来れば確かに莫大な富を得る事が出来る事は間違いありません。

しかし、他の大臣との権力闘争などもあるわけですし、デメリットも数多くあるわけです。

物事を考える時は、出処進退も心がけた方がいいかなと思いました。

范蠡や范雎・蔡沢のように引くべき時は身を引くべきでしょう。

 

 

趙は異人を帰国させなかった

秦の太子である公子柱の正夫人である華陽夫人の養子となった異人は、秦の後継者に指名される事になりました。

呂不韋としては、異人に趙で死なれては困りますし、趙を説得して秦に帰国させようとします。

しかし、趙の首脳部は異人は趙にいた方が利益になると考えて帰国を許しませんでした。

秦で政変などが起きたりすれば、異人は秦王になれない可能性もあり呂不韋としてみれば地団太を踏んでいたはずです。

 

呂不韋の子が秦王政なのか

呂不韋の子が秦王政だとする説があり、史記でも触れています。

呂不韋の子であれば、秦王政は秦の王族ではない事になってしまいます。

呂不韋の妾を異人が欲しがる

趙で呂不韋と異人は暮らしていたわけですが、ある日、呂不韋の妾を異人が気に入り「自分に欲しい」と言い出します。

呂不韋としては、妾の事を大そう気に入っていたようで、内心怒りを覚えたようです。

しかし、ここで断ってしまうと、「奇貨居くべし」の計画が台無しになってしまいます。

そこで、嫌々ながらも妾を異人にくれてやったわけです。

この妾が産んだのが、秦王政(後の始皇帝)です。

ちなみに、キングダムでは呂不韋と妾の関係は許嫁だった事にしてあります。

尚、呂不韋の妾の事を趙姫と呼びます。

秦王政は呂不韋の子供なのか?

司馬遷が書いた史記の話の中で、呂不韋が異人に趙姫を渡した時に、既に趙姫は妊娠していたと言うのです。

この司馬遷の説が正しい事になれば、秦王政は秦の血筋を引いてない事になります。

さらに、呂不韋との関係は血を分けた親子となるでしょう。

他にも、呂不韋と趙姫は、この後も不倫の関係を続けているわけです。

これを考えれば、秦王政は呂不韋の子であっても不思議ではありません。

ただし、秦王政に取ってみれば自分は秦の正当な後継者だと主張したい為に反目するでしょう。

実際に、この事を秦王政は知っていて、自分の出生が生涯のコンプレックスだったともされているわけです。

しかし、本当に呂不韋の子が秦王政なのかは、実際のところ調べようがないでしょう。

尚、楚の春申君も自分の妾である李園の妹を孝列王に献上しています。

そのため、李園の妹の子である楚の幽王や哀王などは春申君の子だとする説を司馬遷は採用しています。

司馬遷の何らかの性格の問題もあり、こういう噂を拾うのが好きだったのかも知れません。

因みに、司馬遷は呂不韋の事を「有名だが行いが芳しくない人物」と評しています。

この有名だが行いが芳しくないと言うのは、趙姫との不倫を続けるなどの行為を指したと思われます。

呂不韋は呂氏春秋を完成させるなど、当代一流の文化人でもあります。

そのため、呂不韋としてみれば「不倫は文化だ」と叫びたかったのかも知れませんが・・・。

 

秦王政は趙が嫌いだった

秦王政が生まれる少し前に、長平の戦いが勃発しています。

秦の白起将軍の前に、趙の趙括は大敗し40万人を生き埋めにされているわけです。

この時は、蘇代が秦の宰相である范雎を巧みに説き講和に成功しました。

しかし、翌年に秦の将軍である王陵、王齕、鄭安平らは趙の都邯鄲を囲みます。

この時の趙は滅亡寸前の危機に立たされていました。

趙の民衆は食べる物に困り近所の子供同士を交換して、殺してしまい人を食料として食べた記録も残っているくらいです。

趙はここまで秦に苦しめられてしまうと、秦に対する怒りはさぞかし酷かった事でしょう。

この時に、邯鄲で生まれたのが秦王政です。

趙の国民の怒りは異人や趙姫・秦王政に向けられたようで、かなりの虐めや嫌がらせがあったようです。

後に、秦王政は趙を滅ぼすわけですが、自分の家に危害を加えた家を許す事はしませんでした。

邯鄲での辛い思いがあったから今がある。とは考えずに、自ら邯鄲に乗り込み自分の家族に対して危害を加えた者は徹底的に探し出して絞殺したようです。

三国志の公孫度の例もありますが、人に恨みを買うような行為をすると後で何をされるか分からないと言う事なのでしょう。

 

呂不韋が異人を秦に送る

秦が趙の邯鄲を容赦なく攻めた事で呂不韋としては心配でなりませんでした。

ここで趙の住民や王侯貴族が怒り異人を殺すような事があれば、呂不韋の今までの苦労が水の泡になるからです。

呂不韋は、この状況下では家族全員を秦に送り届ける事は不可能だと考えます。

しかし、異人一人であれば可能かも知れないと考えて、門番を買収して秦の陣に異人を送り届けています。

さらに、異人の家族は趙の富豪にお金を払い迫害を逃れさせたようです。

ここにおいて、異人は秦にたどり着き華陽夫人と対面して気に入られたようです。

この時に、異人という名前を子楚と改めています。

しかし、子楚が秦に行った事で呂不韋と趙姫はラブラブの生活に戻った可能性もあるはずです。

この辺りも司馬遷のいう「有名だけど行いが芳しくない行為」になるのかも知れません。

ちなみに、秦は邯鄲を包囲したわけですが、平原君や毛遂の活躍もあり信陵君や春申君の援軍を呼び寄せたりしています。

さらに、平原君は全財産を投げうったり李同の決死隊の活躍もあり邯鄲は落城を免れています。

 

呂不韋も簡単に権力を握ったわけではない

呂不韋は「奇貨居くべし」で異人に目を付けた事で苦難もなく秦の相国になったと思っている人もいる事でしょう。

しかし、実際の呂不韋を見ると、邯鄲が囲まれてしまったり、愛妾を異人に渡さなければならなかったりと苦難がある事が分かります。

呂不韋としてみれば、かなりストレスが溜まっていて、趙姫との最後の夜にはかなり頑張ってしまったのかも知れません。

その頑張りで出来た子が始皇帝なのかも知れません。

ちなみに、秦の昭王が死ぬと孝文王が立ち子楚は太子になっています。

孝文王は僅か3日で亡くなり子楚が荘襄王として即位する事になります。

 

 

呂不韋が秦の実権を握る【仲父の誕生】

呂不韋は子楚(異人)を補佐する事で、秦において高位に就く事になります。

丞相となり、最後には人民において最高位である相国に就任するわけです。

さらに、秦王政からは仲父とまで言われています。

呂不韋がどのようにして、秦でのし上がる事が出来たのか解説します。

子楚が秦王となる

秦において56年の長きにわたって王位にあった昭王がついに亡くなります。

これにより公子柱が孝文王となり即位しますが、わずか3日で亡くなってしまいます。

これにより子楚があっという間に、秦王となりました。

子楚は荘襄王となるわけですが、呂不韋としても突然すぎてビックリした事でしょう。

普通で考えれば子楚は何年か太子として過ごし、王位になるものだと思っていたはずです。

孝文王が余りにも早く亡くなってしまった為に、呂不韋による暗殺説を考える人もいるようです。

しかし、呂不韋が孝文王を暗殺したなどの記録は資料として残っていません。

孝文王が死んだ時に、既に太子として子楚が指名されていた為に、秦では後継者争いが起きずにスムーズに世代交代が成されています。

ここで秦が後継者争いで混乱してくれれば他の6国(斉・燕・趙・魏・韓・楚)は盛り返しのチャンスが訪れたわけですが、そうはなりませんでした。

荘襄王は即位すると、恩人である呂不韋を丞相に指名しています。

当時の秦では丞相が最高位だった為に、呂不韋はついに秦での最高権力者にもなったわけです。

ここにおいて呂不韋の「奇貨居くべし」の計画は成就される事になりました。

尚、子楚を養子とした華陽夫人は華陽太后となり、子楚の生母である夏姫は夏太后となっています。

呂不韋が暗躍し機転を利かせたお陰で、華陽夫人も生母の夏姫にも恩恵はかなりあったはずです。

 

荘襄王がわずか3年で亡くなる

荘襄王が即位した後ですが、この時にも国難が起きています。

邯鄲の戦い以降は、魏の信陵君は趙に居候していたわけですが、魏の安釐王の要請により魏に帰国したわけです。

安釐王は信陵君を上将軍に任命します。

信陵君は自分が上将軍に任命された事を諸侯に通達した事で、秦に対して合従軍を起こすわけです。

信陵君は、魏・趙・韓・燕・楚の五カ国連合軍を率いて秦に攻め込みます。

秦では蒙驁を将軍として、信陵君と戦わせていますが、黄河の外で敗れています。

さらに、信陵君は函谷関の前まで押し寄せてきました。

秦にとっては手痛い敗戦を味わったわけです。

尚、信陵君主導による合従軍の敗戦をキングダムでは全く扱われていません。

紀元前241年の春申君主導の合従軍に関しては、龐煖や李牧と共に函谷関の戦い蕞の戦いで大きく扱われていますが、秦にとっての脅威は信陵君の合従軍だったはずです。

そこが残念に感じました。

信陵君が攻めて来た年に荘襄王は突然亡くなってしまいます。

即位してからわずか3年で亡くなってしまったのです。

孝文王も突然死しましたし、荘襄王も突然亡くなってしまった事で呂不韋としてみてもかなり驚いた事でしょう。

 

荘襄王が亡くなると相国になるが趙姫との関係が問題に

荘襄王が亡くなると秦王政が王位に就く事になります。

秦王政はこの時にまだ年齢が13歳だった事もあり実権は呂不韋が握っていました。

秦にとって脅威である信陵君は、魏の安釐王に疑われて失脚してしまいます。

秦の首脳陣は信陵君と安釐王の離間策を取ったわけですが、もしかして考えたのは呂不韋だったのかも知れません。

呂不韋は荘襄王が亡くなると相国に任命されています。

相国というのは丞相と役目は同じですが、位を高くした名誉職のようなものです。

秦王政も呂不韋に対して敬意を払い仲父とまで呼んでいます。

自分の父親に匹敵する人物と敬意を表したわけです。

さらに、呂不韋は文化事業にも乗り出し呂氏春秋を完成させたり、戦国四君のように食客を3000人集めたりと莫大な財力と権力を手中に収める事になります。

しかし、呂不韋にも泣き所があったわけです。

それが、趙姫との関係です。

荘襄王が亡くなると、趙姫は呂不韋の所に毎晩訪れるようになります。

呂不韋としてみては、既に趙姫に興味もなく困った存在だったわけです。

しかし、今の趙姫は秦王政の母親で大后でもあり、邪険に扱う事も出来ません。

呂不韋は秦の丞相や相国などの権力を手中に治めながらも泣き所があった事で、後で大どんでん返しをくらう事になります。

史記で司馬遷が評価した様に「有名だが行いが芳しくない」と言われてしまう事にもなります。

ちなみに、趙姫に関しては自分の代わりの男を用意して縁を切るようにしています。

尚、代わりの男が巨根の嫪毐(ろうあい)です。

 

嫪毐(ろうあい)の乱で失脚

呂不韋は権勢を極めますが、嫪毐の乱で失脚する事になります。

呂不韋は太后となった趙姫に巨根の嫪毐を紹介する事になります。

嫪毐は去勢せずに宦官として、宮中に入る事になったわけです。

趙姫は嫪毐を気に入り、嫪毐は絶大なる権力を手にする事になります。

この時の秦の国内では「文信侯(呂不韋)に味方しようか、長信侯(嫪毐)に味方しようか。」で秦の国内は揺れた話があります。

趙姫に気に入られた事で、嫪毐は呂不韋に次ぐ権力を得る事に成功します。

嫪毐は独自の国である嫪国まで作ってしまった程です。

因みに、嫪毐は趙姫との間に子供まで作ってしまいます。

しかし、「嫪毐は宦官ではない」とを密告する者がおり、嫪毐は秦に反旗を翻しますが、昌平君や昌文君により鎮圧されています。

嫪毐は処刑されてしまいますが、話はそれだけでは終わりませんでした。

呂不韋も連座する事になります。

 

呂不韋の最後

呂不韋の最後を解説します。

商人から身を起こし秦で最高権力者の座に上り詰めた呂不韋にも最後の時が訪れる事になります。

呂不韋は相国を剥奪される

嫪毐(ろうあい)が乱を起こして鎮圧されると、呂不韋も連座して失脚してしまいます。

ここにおいて相国の身分も失う事になります。

普通であれば呂不韋は処刑されてもおかしくありませんでした。

しかし、呂不韋は秦王政の父親である荘襄王を秦王にしたキングメーカーでもありますし功績も絶大なるものがあったわけです。

さらに、呂不韋は諸侯でも名が通っていますし、賓客たちは呂不韋を処罰しないように、秦王政に嘆願します。

秦王政も呂不韋を処刑する事は出来ずに、河南で蟄居する事になりました。

この時に、後に趙の仮の宰相となる司空馬も呂不韋と共に失脚し、河南に移った話が戦国策にあります。

司空馬は、趙の幽穆王と問答をし、李牧の死と趙の滅亡を予言した人物でもあります。

 

呂不韋の最後

呂不韋は蟄居中にも関わらず多くの名士が呂不韋の元を訪れたりしていたわけです。

これに秦王政は権力の座を再び奪われるのではないかと考え恐怖を覚えます。

呂不韋の事をかつては仲父とも呼んでいたわけですが、ここにおいて嫌がらせとも取れる手紙を呂不韋に送り付けます。

「君(呂不韋)にどのような功績があって、秦は河南で10万戸を授けたのか。家族と共に蜀へうつれ」

この様に命令しています。

呂不韋は秦王政の命令に従って、蜀に移りますが、秦王政が呂不韋の権勢を根こそぎ奪い排除することに気が付きます。

それに絶望したのか蜀に行く道中で呂不韋は自殺しています。

尚、呂不韋の家族の大半は蜀に移り住んだ話が残っています。

 

呂不韋における出処進退

呂不韋を見ていると荘襄王を「奇貨居くべし」と考えて、キングメーカーとなり莫大な富を築いたわけです。

しかし、出世すると権力闘争もありますし、危険な面もあるわけです。

出る時は出る引くときは引く事を出処進退を呼びますが、歴史上でも名宰相とか名臣と呼ばれた人でも出処進退に失敗した人は多いです。

呉起は、楚の悼王が亡くなると貴族によって殺されていますし、秦の商鞅も孝公が亡くなると恵文王や貴族たちに殺されてしまいました。

越の文種も句践を覇者にするのに功績がありましたが、自殺させられています。

しかし、全ての功臣が殺されたわけではなく、秦の范雎は昭王が生きている間に権力を返上し天寿を全うしています。

他にも、越の范蠡も主君である句践が覇者になると、大臣をやめて商人になっています。

范蠡は政治家から商人となり、商人から政治家になった呂不韋とは反対のパターンです。

呂不韋も范蠡を見習って、権力があるうちに引退して商人に戻った方が良かったのかも知れません。

それか悠々自適の生活を目指すのもよいでしょう。

歴史上を見ても最後を全うした人物は意外と少ないです。

劉邦の元で活躍した韓信、彭越、黥布などの武将も処刑されているわけです。

陳平、張良、蕭何などは身を屈し難を逃れた部分もあります。

呂不韋を見ても引くときにひかなかった事が、最後の最後で災いを呼んだとも言えそうです。

尚、粛清される前に、見事なボケ老人の演技で逆に権力を奪ってしまった司馬懿の様な人物もいます。

それを考えれば、呂不韋や嫪毐は司馬懿になれなかったと言えそうです。

しかし、呂不韋は一介の商人から秦で最も尊貴な大臣になってしまうわけですから、傑物と言えるのではないかと思います。

確かに、司馬遷の評価したように「有名だが行いが芳しくない人物」とも言えそうですが、傑物ではないかと私は感じています。

 

呂不韋の子孫

呂不韋の子孫に関してのお話です。

呂不韋の子孫は劉邦の皇后になった呂后であり、呂后の子が漢の孝恵帝なので呂不韋の子孫は皇帝となり帝王になったとも言えます。

尚、三国志にも呂不韋の子孫を名乗る人物は登場します。

劉邦の嫁呂后は呂不韋の子孫です。

呂不韋の一族は秦王政の命令により蜀に住み着きました。

しかし、ずっと蜀にいた人もいれば離れた人もいるようです。

秦王政は6国(韓・魏・趙・燕・楚・斉)を滅ぼして天下統一を成し遂げます。

しかし、強引な政策が反動となり、始皇帝が崩御するとわずか4年で滅亡してしまいます。

陳勝呉広の乱が決起となり、秦の章邯は陳勝を滅ぼす事に成功しますが、、秦の内部が胡亥趙高の暴政もあり腐敗していた事から項羽に降伏しています。

秦の都を落としたのは武関から秦に攻め入った劉邦です。

この劉邦の妻を呂雉と呼ぶのですが、これが呂不韋の子孫です。

秦を完全に滅ぼしたのは項羽(項燕の孫)ですが、秦の都を制圧したのは劉邦なわけです。

これを考えれば間接的ではありますが、秦を滅ぼしたのは呂不韋の子孫だとも言えます。

歴史の因果を感じる部分でもあります。

 

呂不韋の子孫が帝王になる?

劉邦は楚漢戦争において項羽を破り漢の皇帝となります。

その後、劉邦は亡くなるのですが、劉邦が亡くなると呂雉が政務を見るようになります。

呂后は劉邦に気に入られていた戚夫人なども含めて次々に粛清していきます。

劉邦の他の女性に産ませた子であっても、容赦なく罪を問い粛清を行っているわけです。

そして、呂氏の一族を王位につけたりして高官を独占しようとしたりもしました。

呂氏の呂禄は趙王になっていますし、呂産は呂王に建てられています。

漢の皇帝は呂后の息子である恵帝ですが、司馬遷は実質天下を運営しているのは呂后だと判断しています。

そのため、劉邦の高祖本紀の次が恵帝本紀ではなく呂后本紀となっているわけです。

しかし、余りにも過激に粛清してしまったせいか、恵帝は病んでしまい死亡してしまう事になります。

その後、後宮の女性に恵帝に子がいた事にして傀儡の皇帝を擁立したりもしています。

この頃の漢の宮廷はかなり乱れていました。

呂后が政務を執っているわけですから、ある意味、呂不韋の子孫が天下を取ったと言えるでしょう。

しかし、呂后が死ぬと劉邦時代の功臣である陳平や周勃が立ち上がり劉氏に実権を戻しています。

皇帝には劉邦の子である劉恒(文帝)が即位しました。

劉恒の父親は劉邦ですが、母親は薄姫ですので、呂后との血のつながりはありません。

そのため呂不韋の子孫である呂后は一代だけの女帝だと考えるべきでしょう。

尚、呂后の政治ですが宮廷では粛清などがあり功臣たちには嫌われていたようですが、司馬遷によると宮廷の中でずっと揉めていたため、庶民は平和だったとあります。

呂后は大臣達には嫌われて人民には好かれた人だったと言う事なのでしょう。

因みに、薄姫は戦国時代の魏の王室と繋がりがある人物です。

余談ですが、劉邦配下で鴻門の会において、項羽配下の范増の劉邦暗殺計画を阻止した樊噲(はんかい)の妻は呂后の妹の呂嬃です。

呂嬃は呂后が亡くなり、陳平や周勃が蜂起した事で命を落としています。

 

三国志の呂凱も呂不韋の子孫

三国志の時代に蜀に仕えた呂凱も呂不韋の子孫です。

最初にも言いましたが、呂不韋の子孫が呂布ではありません。

呂凱は諸葛亮からも信頼されていましたし、道理を守った人物とも評価されています。

呂凱は諸葛亮の南征でも活躍したりしています。

しかし、最後は諸葛亮が帰還後に南蛮の反乱により命を落としています。

呂凱が亡くなると子の呂祥が跡を継いでいます。

 

呂不韋について

呂不韋は終わりが良くなかった為に、好きだという人は少ないように思います。

キングダムでは大物ではありますが、どこか胡散臭い部分も見え隠れするように感じました。

貨幣を重視している辺りが、そのように見えてしまうのかも知れません。

しかし、呂不韋は奇貨居くべしとあるように、目利きが凄く利く人物だと思っています。

呂后の父親である呂公は劉邦を見た時に「必ず凄い人物になる」と予言したそうです。

これもある意味、呂不韋譲りの人物鑑定術だったのではないでしょうか?

呂后の代で天下を運営したのも、ある意味、当然の成り行きだったのかも知れません。

尚、漢の恵帝は呂后の子ですので、呂不韋の子孫は皇帝になった事は間違いないです。

ちなみに、キングダムの有名どころでは、司馬尚と李信の子孫は皇帝になっています。

 

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