三国志

廖立は群臣をこき下ろし、庶民に落された人物

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廖立は、三国志の蜀に仕えた武将であり字は「公淵」であり、荊州武陵郡臨沅県の出身です。

赤壁の戦い後に、劉備は荊州の牧となり、荊州の一部を治める事になりますが、ここで廖立が配下となります。

因みに、劉備は廖立の事を高く評価した話があり、諸葛亮は廖立を龐統に匹敵する人物だと述べています。

しかし、廖立は性格に問題があった様で、最後は庶民に落されて亡くなってしまいました。

蜀の問題児とも言える廖立が、どの様な人物であったのか解説します。

因みに、正史三国志だと「劉彭廖李劉魏楊伝」に記録があり劉封、彭羕、廖立、李厳、劉琰、魏延、楊儀ら同じ伝に収録されています。

余談ですが、「劉彭廖李劉魏楊伝」は蜀の問題児達をひとまとめにした伝だと言えるでしょう。

 

劉備に抜擢される

先に述べた様に、廖立は劉備が荊州を孫権から借用する形で。治める事になった時期に配下となります。

廖立は赤壁の戦い後に、劉備の配下となったと言う事です。

西暦208年頃までは、荊州は劉表が治めていたはずであり、その当時に廖立が何をしていたのか分かっていません。

劉備は廖立を高く評価し、30才を待たずして長沙太守に抜擢しています。

廖立は弁は立った様ですが、劉備のどのあたりを気に入られたのかは分かっていません。

劉備は馬謖の事を「口先だけで役に立たない」と述べた話もあり、口先だけの人物を信用する事はないでしょう。

それを考えると、劉備と廖立は、どこか気が合ったのかも知れません。

 

龐統に匹敵する人物

劉備は益州の劉璋を助けて、張魯を討つ名目で龐統を参謀とし蜀に向かう事になります。

ただし、劉備の目的はあくまでも益州の奪取であり張魯討伐ではありません。

諸葛亮や廖立、張飛、趙雲らは最初は、居残り組であり荊州に残っていたわけです。

呉の孫権は荊州にいた諸葛亮に、「士人のうちで役立つ人物は誰か?」と使者を派遣して問う事になります。

この時に諸葛亮は下記の様に答えています

諸葛亮「龐統と廖立は、楚の逸材であり、後世に伝わる功業を成す者達であります。」

この言葉から分かる様に、諸葛亮は廖立を高く評価しています。

この当時の廖立の評価は、龐統に匹敵する人物であり、劉備だけではなく諸葛亮も評価していた事が分かるはずです。

 

蜀に逃げ帰る

劉備は無事に劉璋から蜀を奪う事に成功し、荊州の一部と益州を領有する事になったわけです。

劉備は荊州を孫権から借用していた事もあり、孫権は劉備に荊州を返還して欲しいと依頼します。

呉の都督である魯粛なども、荊州の返還を要求しますが、中々実現しませんでした。

孫権は配下の呂蒙に命じて、荊州の三郡(長沙、零陵、桂陽)を急襲させています。

荊州の長沙の太守は、廖立だったのですが、廖立は逃走して蜀に逃げ帰った話があります。

諸葛亮集には、下記の話しが伝わっています。

「廖立は長沙の太守となっては、門を開いて敵を招き入れ」

これを考えると、廖立が長沙を呂蒙に奪われた時は、かなり酷い負け方だったのかも知れません。

ただし、蜀に逃げてきた廖立を劉備は深く責める事もせず、巴郡の太守に任命した話があります。

元々、劉備は廖立を高く評価し、長沙は呂蒙に奪われたと言っても、廖立は長沙太守をそつなくこなしたと考えたのかも知れません。

尚、219年に劉備は法正や黄忠の活躍もあり、定軍山の戦いで夏侯淵を破り曹操から漢中を奪取すると、漢中王に即位します。

劉備は漢中王に即位すると、巴郡太守である廖立を侍中に任命し、中央に置く事になります。

侍中にした所を見ると、劉備は廖立を気に入り、側近として置いておきたかった事が分かります。

ただし、劉備が呉の陸遜に敗れ夷陵の戦いで大敗すると、廖立は坂を転げ落ちる様に転落していきます。

 

長水校尉に不満を抱く

劉備が白帝城で亡くなると、蜀では劉禅が皇帝に即位する事になります。

劉禅が即位すると、劉禅は祭祀を行い諸葛亮が政務を見る様な形になったとも考えられています。

諸葛亮は丞相として、廖立長水校尉に任命する事になります。

長水校尉は、閑官であり高位であっても仕事は少なく、重要ではないポジションだったわけです。

廖立は、名声・才能において諸葛亮に次ぐ者だと自負していた為に、プライドを傷つけられてしまいます。

劉備の側近とも言える侍中から、長水校尉に移された事がかなりのショックだったのでしょう。

さらに、益州侵攻後に配下となった李厳の下に置かれた事で、廖立はかなり気分を害した事が正史三国志に記録されています。

 

諸葛亮に抗議

諸葛亮集によれば、廖立は丞相である諸葛亮に次ぎの様に述べ抗議した話があります。

廖立「私が諸将の軍の中に入るのが相応しいと思っているのでしょうか。

私を卿に取り立てる様に上奏する事もせず、なぜ五校(歩兵、屯騎、越騎、長水、射声)の位に置かれるのですか。」

この時に、廖立は冷静さを欠き感情的になって、諸葛亮に訴えたのかも知れません。

これに対し、諸葛亮は次の様に返事をしています。

諸葛亮「廖立殿を将軍としたのは全体の比較の中でバランスを取った為です。

卿の位に関してですが、李厳ですら卿になっていないのですから、暫くは五校の位にいるのが適当だと考えております。」

これを見ると諸葛亮は荊州にいた頃は、廖立を龐統に匹敵する人物として扱いながらも、劉禅が即位した頃には廖立の評価が下がっていた様に思います。

廖立が長沙で呆気なく敗れた事を諸葛亮は危惧し、劉備程は重用しなかったのかも知れません。

しかし、これ以降で廖立は蜀に対して、恨みを抱くようになったとも伝わっています。

 

 

蜀の人物を酷評する

廖立は長水校尉にされてしまった恨みからか、蔣琬と李邵の前で蜀の人物を酷評していく事になります。

劉備を酷評

廖立は、丞相掾になった蔣琬と李邵に「軍は遠征しようとしているが、覚えておきなさい」と言った上で、次の言葉を述べています。

廖立「先帝(劉備)は、漢中を手中に収めず、逃走して呉と三軍を奪い合い、結局は呉に三郡をくれてやる事になった。

いたずらに兵を消耗させ、何の戦果も無く帰還した事は言うまでもない。

漢中を失った後には、魏の夏侯淵や張郃らに巴の奥深くまで侵攻を許し、危うく一州を失う所であった。」

廖立の言葉からは、劉備をかなり非難している事が分かります。

劉備は廖立の事を高く評価し、長沙を呂蒙に奪われても、罪を問わず巴郡の太守に任命するなど、寛大な処置を施してくれた様な人です。

廖立が劉備に対し、酷評するのは、かなり酷いと思いました。

諸葛亮集では、「廖立は先帝(劉備)に対し、忠孝の心は無く」と記述されていますが、廖立が劉備の采配を酷評した事から来ているのでしょう。

 

関羽も酷評される

廖立は蔣琬と李邵の前で、関羽も酷評しています。

廖立「先帝が漢中に行っている間に、関羽は身を滅ぼし一人の生存者もいなかった。さらに、上庸も敗北しいたずらに一地方を失っている。

これは関羽が剛勇さだけを頼りとし、軍の作戦行動のやり方がデタラメであり、無駄に突進した為である。

それ故に、関羽は前後に渡って何度も軍勢を失ったのである。」

廖立は劉備が漢中を取り漢中王に即位すると、荊州にいる軍を北上させ曹仁が守る樊城を攻めています。

樊城の戦いでは、幸運が重なり関羽は于禁、龐徳などを破りますが、徐晃が援軍に来ると結局は破れ、樊城を落とす事が出来ませんでした。

さらに、部下の糜芳や傅士仁が裏切った事で、荊州も呉の呂蒙、陸遜らに奪われる失態を犯しています。

関羽は呉軍により斬られてしまいますが、廖立は関羽を堂々と酷評したわけです。

しかし、廖立の口は止まらず、現在の蜀の配下の者達にも批判を浴びせる事になります。

 

蜀の群臣を酷評

廖立は自分の能力以下の者達が、高位に就いているのが気に入らなかったのか、酷評する事になります。

廖立「向朗と文恭は凡人に過ぎない。文恭は治中になってもデタラメな行動しかしておらず、向朗は馬良の兄弟を聖人と思っていた様な人である。

向朗が長史になっても道理にあった行動が出来るはずもない。

中郎の郭攸之は、人の後について行くだけで、大きな仕事は出来ないのに、侍中になっている。

今は衰えた時代であり、向朗、文恭、郭攸之の三人に任せるのは不適切である。

王連の様な俗人が卑しくも偉そうな顔をし、民衆を疲弊した結果が、今日の事態を招いたのである。」

この様に廖立は、向朗、文恭、郭攸之、王連などを批判したわけです。

さらに、馬良も大した人物ではないと批判した事になります。

廖立は劉備の存命中は、侍中をやっていた事もあり、新たに侍中になった郭攸之などが気に入らなかったのでしょう。

向朗、文恭、郭攸之、王連が自分よりも重用されている事に、腹を立てていた可能性も十分にあります。

 

蜀軍を批判

廖立は、蜀の群臣を批判するだけではなく、蜀の兵士を過少に扱った話もあります。

ある人が、廖立の前で次の様に述べます。

ある人「国家の兵士は選び抜かれ鍛えられている。部隊も組織もしっかりと立てられている。」

これを聞いた廖立は、首を上げて屋根を見つめながら、憤然とし血相を変え次の様に言い放ちます。

廖立「褒める程の価値があろうか。」

この時の廖立は怒鳴って言ったとも伝わっています。

蔣琬と李邵は、廖立を放置しておくのは危険だと判断したのか、ありのままに諸葛亮に報告する事になります。

さらに、諸葛亮の耳には蔣琬達以外からも、廖立が多くの人々や組織を批判しているとする、声が届いていたのでしょう。

 

庶民に落される

諸葛亮も廖立を放置しておくのは、危険だと判断したのか、蜀の皇帝である劉禅に上表する事になります。

諸葛亮「長水校尉の廖立は、何もせずに尊大に構え、士人たちの評価をし群臣たちをこき下ろしています。

さらに、将軍たちは小者だと言い、先帝(劉備)を誹謗し、多くの臣下の名誉を傷つけています。

廖立の誹謗は多く報告され、羊が群れを乱すだけでも危険であるのに、廖立は高位に昇っているのです。

普通以下の人間には、廖立の言葉の良し悪しは判断出来ませんし、廖立を放置しておくのは危険窮まりない事でもあります。」

諸葛亮は廖立を野放しにしておくのは危険だと判断し、劉禅に報告したわけです。

劉禅は諸葛亮集によれば、次の様な処置を行った話があります。

劉禅「三苗が政治を乱した時に、五帝の瞬は命を助け流刑にした事がある。

廖立は道理に背いた男ではあるが、朕は処刑するのに忍びない。

廖立を直ちに荒地に放逐せよ。」

諸葛亮集によれば、劉禅は詔勅を出し、廖立を僻地に追放し庶民に落しています。

正史三国志によれば、廖立を汶山郡に流したとあります。

廖立は庶民に落されると、妻子と共に汶山郡に移り農耕に携わり生計を立てたとあります。

 

希望を失う

廖立が庶民に落されたのは、何年の事なのかは分かりません。

しかし、廖立が批判した中に王連(西暦224年没)が入っていると言う事は、224年よりも前の段階で庶民に落された様に思います。

廖立が庶民に落されてからも、諸葛亮は南蛮征伐で孟獲を捕えたり、北伐の軍を起こしたりしています。

しかし、諸葛亮も西暦234年に五丈原の戦いで、魏軍を率いる司馬懿と対峙している最中に亡くなってしまいました。

諸葛亮が亡くなった事を知ると、廖立は次の様に述べています。

廖立「私は結局は、蛮民のままで終わってしまうであろう。」

この時の廖立は、涙を流して言った話もあり、諸葛亮の死は衝撃だったのでしょう。

李厳も罪を犯し庶民に落されますが、諸葛亮が亡くなった時に、衝撃を受けた話があり、諸葛亮の政治は公平であり、功績を立てれば自分を再び取り立ててくれると信じていた事が分かります。

 

姜維と会う

蜀では諸葛亮の死後に、蔣琬や費禕が最高責任者となり、国を運営していきます。

費禕が郭循により暗殺されると、姜維が何度も北伐を行い魏と戦う時代に突入したわけです。

ただし、劉禅の周りには宦官の黄皓がはべり、蜀は衰退に向かいます。

そうした中で、姜維が監軍として汶山郡を通った時に、廖立と面会した話があります。

姜維は廖立の弁論が衰える事を知らず、賞賛した話があります。

姜維が蜀に降伏したのが、228年の第一次北伐の時であり、廖立が長水校尉や侍中をしていた時代に面識は無かったはずです。

それを考えると、蜀軍の中で廖立は有名であり、姜維もうわさを聞きつけて会いに行ったのかも知れません。

ただし、姜維も廖立を再び取り立てる様に、進言するなどはしなかったのでしょう。

 

廖立の最後

廖立の最後ですが、正史三国志によれば廖立は結局、配所で死亡し妻子は蜀に帰ったとあります。

これを考えると、廖立は結局、庶民のままで人生を終わらせた事が分かります。

廖立が再び官位に返り咲く事は無かったのでしょう。

廖立の死後に、妻たちが蜀に帰る事を許されたのは、庶民になってからの廖立の行いがよく、姜維も賞賛した事が原因の様に感じました。

流刑にされてからの廖立の行いは模範になるようなものだったのかも知れません。

廖立が汶山郡に流されても、蜀の群臣たちの悪口を言い続けていたとしたら、劉禅や諸葛亮も「致し方なし」と判断し、廖立を処刑した様にも思います。

ただし、廖立は様々な人物や蜀の国を酷評した為に、家族に迷惑を掛けてしまったとも言えるでしょう。

廖立の妻子も、廖立が不満を心の奥に留めて置けば、よい生活が出来たようにも思いました。

しかし、廖立は天寿を全うした様であり、見方を変えれば宮廷の権力闘争の場から降りた事で、天寿を全う出来たとも感じています。

尚、廖立と同じ「廖姓」で、荊州の襄陽郡出身である廖化と廖立の関係は、記述がなく分かっていません。

それでも、廖立は廖化は同姓というだけで、関係ないとするのが妥当なのでしょう。

 

ゆっくり解説動画

下記が廖立のゆっくり解説動画となっています。

興味があれば、ご視聴してみてください。

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