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構成・文/宮下悠史

秦末期・楚漢戦争

章邯は秦の最後の名将

2021年2月26日

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章邯を紹介したいと思います。

章邯は、項羽と劉邦など楚漢戦争に詳しい人であれば知っているはずです。

章邯を名将だというと、「違うんじゃないの~」「項羽に降伏してるよ~」とかいう人も多いと思います。

しかし、自分の中では章邯は明らかに名将であり名臣だと思っています。

春秋戦国時代や三国志、古代中国の歴史に詳しい作家の宮城谷昌光さんも「楚漢名臣列伝」に章邯を入れてあります。

春秋戦国時代を題材にした漫画であるキングダムでも、章邯が登場する可能性はゼロではないと考えています。

ただし、章邯は李牧同様に悲劇の最後を迎えたとも感じます。

尚、「趙正書」なる書物が近年発見され、趙正書の記述だと秦を腐敗させた趙高を討ったのは、章邯だという記述が注目を集めています。

趙正書の記述が正しいのであれば、司馬遷が書いた史記とは違った歴史が見えて来る事になるでしょう。

 

陳勝呉広の乱が起きる

章邯は元々は将軍ではありませんでした。

少府という山海地沢の税務官であったようです。

ただし、出どころは不明ですが、宮城谷昌光さんの物語では、王翦の元で武将をしていた記述もあるので、秦の統一後に少府に任命されたのかも知れません。

この頃は陳勝が呉広と共に「陳勝・呉広の乱」を起こした時期です。

陳勝呉広の乱は、始皇帝(政)の過酷な政治に悩まされて立ち上がった農民の反乱です。

正確にいえば始皇帝の政治も過酷でしたが、2世皇帝胡亥の政治はもっと過酷で悪かったと言うべきでしょう。

この時に陳勝は扶蘇(始皇帝の長男)を名乗り、呉広は項燕を名乗りました。

秦に対して不満を持っている民衆を集めるために、楚の英雄である項燕や始皇帝の長子である扶蘇を名乗ったわけです。

もちろん、扶蘇も項燕もいないわけですから、扶蘇や項燕を期待して集まった人たちの中で、落胆した人は多いかと思います。

しかし、陳勝の軍は次第に大きくなり陳勝は陳県を攻め落とし、本拠地として張楚という国を作りました。

張楚は史上初の農民が建てた国です。

 

周文が函谷関を抜く

陳勝は王となり呉広も仮王に任命され、周辺の国々の討伐を始めました。

張耳や陳余などが陳勝の元に駆けつけたのもこの頃です。

陳勝の元には春申君や項燕の元で、働いた事があるという周文という男がいました。

楚では春申君や項燕は絶大な人気があり、この二人の元で働いた事がある周文を陳勝は気に入り将軍に任命します。

そして、わずかな兵を与えて、秦の都である咸陽を落とす様に指示を出します。

周文の軍勢は最初は小さかったのですが、道を歩けば人が集まりついには10万を超えたと言われいます。

秦の2世皇帝は激怒しますが、周りの側近などが「群盗に過ぎないとか、群の役人が捕らえる」と言ったようです。

しかし、周文の軍は郡の役人では、手が負えないほどの大軍となっています。

そして、函谷関まで押し寄せて、ついには函谷関を落としてしまったわけです。

函谷関といえばキングダムでは、難攻不落の要塞として描かれていて、春申君や李牧を首脳にした楚・趙・魏・韓・燕の合従軍を以てしても落とす事が出来ませんでした。

史実でも、函谷関は戦国四君の一人である孟嘗君が攻めあぐねたり無敵の要塞として、秦を守ってきました。その函谷関を周文が落としたわけです。

これにより秦の首脳陣はパニックになった事でしょう。

尚、この時の周文の兵力は数十万に達していたと史記には書かれています。

 

章邯が囚人を率いて将軍となる

秦の首脳は驚き二世皇帝は、蜀か巴に避難する案も出されたようです。

二世皇帝は周文の軍が咸陽の到達する前に、逃げなければならないと考えていた節もあります。

二世皇帝が上郡にいる、秦の精鋭30万を呼び寄せるのが、遅かったのも咸陽が危機になった原因です。

しかし、ここで章邯が二世皇帝に意見を出します。

秦の都付近で強制労働させている囚人に恩赦を出し、章邯が囚人兵を率いて周文と戦うと述べました。

二世皇帝としては、章邯の軍が自分が逃げるための、時間稼ぎになればよいと考えたのか許可を出します。

これにより章邯は将軍となりました。

囚人兵という事で、兵士の質はよいとは言えないでしょう。

しかし、章邯の兵士は敵を倒せば罪が許されるので士気は高かったようです。

 

章邯と周文が激突

章邯と周文が激突するわけですが、章邯の兵士は囚人ばかりで質がよいとは言えません。

しかし、周文の兵士の方も、つい最近まで農民だったわけで質がよいとは言えないでしょう。

この二つの軍が激突したわけです。

章邯は囚人だらけの兵士なので、組織だった攻撃は出来ないと判断して守りを固めます。

周文は攻めあぐねてしまうわけですが、ここにきて章邯が自ら兵を率いて周文の背後を突きました。

囚人軍なので、将軍自ら別動隊を率いなければ成功しない事を理解していたのでしょう。

これにより決着が付き周文は後退します。しかし、周文もただ単にやられたわけではなく、函谷関を抜けて曹陽の地で態勢を立て直します。

函谷関の付近で周文は態勢を立て直したわけですが、そこに章邯は猛攻撃を繰り広げます。

周文の守りが堅かったせいもあり、章邯軍もかなりの損害が出たようです。

函谷関が使者で大量にあふれたような記述も見た事があります。

しかし、結局は章邯の猛攻撃が功を奏し、周文も戦死して軍は壊滅しました。

章邯の勝利にに喜悦した2世皇帝は、司馬欣・董翳を援軍として章邯につけて東進させるように指示します。

 

章邯が陳勝を滅ぼす

周文を倒した後の章邯は、連戦連勝でついに陳勝の本拠地である陳まで迫ります。

陳勝の方は連戦連敗で後がなく、ついには自ら出陣してきますが、章邯に敵うはずもなく敗れています。

陳勝は逃げたのですが、部下に裏切られて命を落としました。

呉広も部下に裏切られて死んでいますので、陳勝は挙兵してからわずか半年で滅びる事になったわけです。

 

魏と斉を破る

章邯は陳勝を倒しましたが、陳勝が制圧した土地で独立した王などが各地にいました。

他にも、旧戦国時代の子孫など、この当時は秦以外にも多数の勢力が乱立していたわけです。

この勢力を討伐するのも章邯は任命されています。

周市という人物は陳勝の配下として魏方面の侵攻を命じられていました。

見事に魏の辺りを秦から征服したわけですが、自分で王に立たず、戦国時代魏王室の末裔である魏咎を王に立てています。

さらに、斉では斉王室の末裔である田儋が従弟の田栄、田横と共に斉の地を奪い取っています。

章邯は魏の地を平定するために魏咎を攻めます。魏咎の方は章邯の勢いを止めれない事が分かっているので、斉に援軍を依頼します。

斉では義侠心の厚い田儋が自ら援軍に来ますが、章邯はその情報をいち早くキャッチしていて、斉に対して伏兵を置きます。

援軍を壊滅する作戦です。章邯にしてみれば斉も制圧しなければいけないので、自分から出向いてくれてラッキーと思ったのかも知れません。

この策が成功し田儋は破れ討死します。

魏咎は斉の援軍も破れ城を守り抜けないと判断すると、城内の兵士の助命を条件に焼身自殺しました。

尚、魏咎の元には後に劉邦の元で活躍する陳平が部下にいましたが、献策しても周囲に嫌われてしまい意見を採用されなかったという話もあります。

後に、陳平は楚に移る事にしました。

陳平はその後、漢に移り重用され漢帝国が成立すると、最後は丞相にもなっています。

 

章邯が連敗する

章邯はここまで連戦連勝です。

しかし、章邯もついに敗れる時が来ました。

項梁(項燕の息子)と戦った時です。

章邯配下の司馬欣は項梁の事を知っていて「並々ならぬ者です。用心なさってください。」と伝えた話があります。

この頃の項梁は軍師に范増を招いていて、范増の策があたり、章邯は項梁に急襲されてしまいます。

ここにおいて初めて章邯は負ける事になります。今までの連勝が嘘だったかのようにあっけなく敗れたわけです。

敗退して濮陽に移動した章邯ですが、ここで項羽や劉邦などに遭遇してしまい、またもや敗北してしまいます。

章邯は痛い2連敗を喫してしまいました。さらに、連敗により兵士の減少が激しくて戦える戦力が整いません。

秦の法律だと戦いに負けてしまうと、罰せられたり将軍を交代させられるのが普通にあります。

そのため、戦いに負けたために逃亡した将軍も少なからずいるわけです。

章邯としては、敗報が咸陽の2世皇帝や秦の首脳陣に届く前に、勝報を届けなければなりません。

しかし、今までの連戦連勝で気を良くしたのか、二世皇帝が援軍を章邯に寄こします。

これにより章邯は兵士を補充させる事が出来ました。今と違って通信網が発達していないので、タイムラグが生じたために援軍を送ってくれたのでしょう。

敗報が伝わる前に、援軍を決定してくれたのだと思われます。

尚、章邯への援軍の兵士は、囚人兵ではなく、ある程度まともな兵士だった様にも感じています。

項梁を斬る

兵を補充した事で、章邯は再び戦力が整い定陶にいる項梁に攻めかかります。

定陶は水上交通の要所で有名な場所です。

ここに項梁は留まっていました。

項梁の方が油断していたとも言われていますが、章邯は奇襲を掛けて項梁を討ち取ります。

秦にとって最大の反乱首謀者でもある、項梁を討ち取ったわけです。

これは大きな戦果と言えるでしょう。

普通で考えれば大乱収束に向けて大きく前進したわけです。

あとは、張耳や陳余がいる趙を倒せば反乱の大半は終わるかに見えました。

 

楽な戦いのはずが・・・。

趙の討伐は秦の正規軍である王離将軍がやる事になっていました。

王離は王翦の孫にあたる人物で、楚漢戦争を題材にした物語では章邯の部下として登場する事が多いです。

しかし、実際には正規軍を率いた将軍は王離だったのでしょう。

王離は代々将軍の家柄ですし、蒙恬趙高により自殺させられた時に、蒙恬の後釜の将軍に任命された人物です。

つまり、上郡にいた秦の正規軍を率いたのは、王離と考えるのが妥当でしょう。

章邯は税務官だったのですが、咸陽が危なくなったので囚人兵を率いて、急遽将軍になった人物です。元々将軍であったわけではありません。

趙の討伐は王離が担当する事になり、章邯は王離に食料を供給するだけの役目となりました。

役職でいえば章邯よりも、王離の方が圧倒的に上だった事でしょう。

これで王離が趙の城である鉅鹿を落とせば乱は終息し、章邯も多大な恩賞を与えられる事になったのかも知れません。

普通で考えれば、秦の精鋭部隊を率いているわけですし、王離が負ける事はありません。

因みに、各地の秦に反旗を翻したような人も趙に対して援軍を送っています。

鉅鹿に籠る張耳や趙王(趙歇)も、何もしなかったわけではないのです。

しかし、兵士の質や秦の正規軍を見ると圧倒されてしまい、救援に来ても助けようとする人はいませんでした。張耳と刎頸の交わりを結んだ陳余すら傍観しています。

他にも、張耳の子である張敖が兵を集めて帰ってきても、父を救援しようとはせずに見守るしかありませんでした。

しかし、「まさか」という事態が起きます。

 

王離が項羽に大敗する

王離の方も秦の正規軍が攻めているにも関わらず、城を攻め落とす事が出来ません。

数カ月が経過しても攻め落とす事が出来なかったようです。

ただし、趙の方も諸侯の援軍が来ても、助けてくれる人もなく孤立した状態でした。

そこに楚軍を率いた項羽が現れます。他の諸侯は傍観するだけでしたが、項羽だけは違っていました。

自分の叔父である項梁を、秦に討たれた事が頭から離れなかったのか、黥布を先陣として秦軍と戦わせます。

しかし、黥布は勝つことが出来ませんでした。

そこで、今度は項羽自ら軍を率いて王離に決戦を挑みます。普通で考えれば秦軍30万の精鋭に勝てるはずもないのですが、予想に反して項羽は秦の大軍を撃破してしまうわけです。

楚の兵士は一人で秦の兵士10人を相手に、戦ったとも記録が残っています。項羽により王離は捕らえられてしまいました。

もしかしてですが、王離が指揮するよりは、章邯が秦の正規軍を指揮した方がよかったのかも知れません・・・。

 

出処進退に迷う

破れた秦兵は章邯の軍に逃げてきます。

ここにおいて章邯は皇帝の指示を仰ぐ事にしました。司馬欣を咸陽に使者として送る事にしました。

司馬欣から秦の宮廷での情報も章邯の元に入ってきました。

秦の宮廷では、趙高が権力を握っていて、重臣たちを虐殺しているとの情報です。

丞相であった李斯も罪に落とされて殺されてしまいますし、秦の権力を趙高が握っていました

趙高は嫉妬心が強い人物で、功を立てれば妬まれて処刑されてしまいますし、功を立てなくても無能と判断されて殺されてしまいます。

つまり、章邯の立場としては、戦いに勝とうが負けようが殺されるような運命なわけです。

ここで王離が趙を攻め落とし楚を破っていれば、逃げて来た秦の公子でも見つけ出し、担ぎあげて趙高打倒に立ち上がるのもよいでしょう。

しかし、王離は敗れ去り目の前には、項羽率いる楚軍がいるわけで、戦略を立て直すゆとりを与えてはくれません。

ここで章邯は防衛の形を作りながら、ゆるゆると南下します。

ここで走って逃げてしまうと、楚軍に急襲されてしまい秦軍は全滅すると考えたのでしょう。防御は固いので項羽としても攻め落とす事が出来ません。

ここにおいて陳余からの手紙が章邯の元に届けられます。

「白起を殺した事を例に挙げて秦は名将を殺す国だ。ここで項羽と盟約して共に秦を攻めるべき」という内容です。

実際に長平の戦いで、趙括を破り40万の兵士を生き埋めにした白起は、宰相の范雎と不和になった事もあり、秦の昭王から自刃する様に命じられています。

秦に限らず魏の信陵君や越の文種など功を成しても、悲劇的な最後を迎えた例は多く、章邯も心に来るものがあったのでしょう。

陳余からの手紙が、章邯は項羽と盟約するきっかけになります。

尚、この時に楚軍は食糧が欠乏していた事や、章邯が大敗しない事に項羽が感心していたなどもあり、殷墟で盟約する事になったわけです。

もしかしてですが、秦が腐敗していなければ、章邯が守りを固めて項羽の食料が尽きるのを待ち、勝利した可能性もあるかも知れません。

項羽と盟約した時に、章邯は涙を流して盟約したとあるので悩みは深刻だったのでしょう。

 

王にはなったが

項羽と共に秦の咸陽を目指すわけですが、項羽が思いがけない行動を起こします。

秦兵は楚兵に服従していたわけではなく、楚人は秦に対する恨みが酷かったのか秦兵を苛烈に扱ったのでしょう。

秦兵の一部が謀反の気配を見せます。それを察知した項羽は20万の秦兵を急襲して虐殺してしまうわけです。

章邯、司馬欣・董翳だけを残して殺してしまいました。

その後、先に咸陽に到着していた劉邦を無視する形で、項羽は秦の咸陽に攻め込み子嬰(秦王)を殺し秦を滅亡させました。

尚、趙高ですが、劉邦が咸陽に到着する前に、子嬰により謀殺されています。

項羽の論功行賞が始まると、章邯、司馬欣・董翳は関中の地を3つに分割して王となります。

ただし、この3人は秦の兵士20万を見殺しにされたと考えられていて、秦人には評判はよくなかったようです。

章邯は雍王に任命されました。

 

劉邦との対決

章邯の役目としては、漢中にいる劉邦を閉じ込めておく事です。

劉邦は蕭何の進言により韓信を将軍に任命して関中に攻めてきました。

司馬欣・董翳は韓信に攻められて劉邦に降伏しますが、章邯だけは戦い続けます。

自分の本拠地である廃丘に立てこもり10カ月もの間、孤立無援になっているにも関わらず戦い続けたわけです。

この間に、項羽は張良の策略により斉の討伐に行き章邯を助ける事はしませんでした。

廃丘が水攻めにより城が壊れると章邯は自殺しています。

ここにおいて関中の地は劉邦のものとなったわけです。

尚、作家の宮城谷昌光さんは小説で、章邯を救援する項羽が見たかったと言っています。

斉など討伐に行かずに、章邯を助ける項羽が見たかったというのです。

その気持ち分かるような気がします。

キングダムで章邯は王翦の部下として登場して欲しいなとも思います。

あと、出来れば秦が天下統一して終わりではなく、秦が滅亡するところで終わって欲しいなと感じてもいます。

政や李信が熱い気持ちで作った王朝が腐敗して、滅亡する様を描いてもいいかなと感じました。

尚、下記は章邯を題材にしたゆっくり解説動画です。

興味があれば視聴してみてください。

 

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