古代オリエント

シュメール人の謎を解く『文明の発展から滅亡まで』

2021年2月16日

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宮下悠史

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シュメール人を解説します。

人によっては、シュメール人がメソポタミアの地に突如現れて、高度な文明をもたらし去って行ったと考える人もいます。

テレビやネット上などでも正体不明の民族として気になる人が多い様です。

さらに、シュメール人自体が惑星ニビルから来たとか言っている事もあり、ミステリアスの度合いが深まっているとも言えるでしょう。

しかし、よく考えてみると、テレビやネットで言われるほどは謎はないと考えています。

尚、メソポタミアの地はシュメール人が覇権を握るまでは、ウバイド人がいたとされています。

ウバイド人のウバイド文化からの流れが、シュメール文明だと考えると、不思議は無い様に感じています。

因みに、シュメール人のウルやウルクアッカド人サルゴンにより陥落し、その後にシュメール人がウル第三王朝を建国しますが、ウル第三王朝を最後にメソポタミアからシュメール人は姿を消します。

メソポタミアの主役の都市も、ウルやラガシュなどのメソポタミア南部の都市からバビロニア地方のバビロンが中心地に移行しました。

バビロンには王朝が幾つも出来て、ハンムラビ法典で有名なハンムラビ王のバビロン第一王朝やカッシート王国、海の国第一王朝などの国が出来ます。

シュメール人はそれらの民族に交じって、段々と混血が進み姿を消したのかも知れません。

シュメール人の歴史と王朝

シュメール人の歴史と王朝を紹介します。(随時加筆)

ラガシュ第一王朝

ラガシュ第一王朝は、シュメール人が建国した都市国家です。

ただし、ラガシュ第一王朝は分かっていない事が多く、建国者のエヘンガルは神話の中の人物でもありますし、ラガシュ第一王朝の二代目だとされるルガル・シャ・ゲン・シュルも神話の域を出ません。

ラガシュ第一王朝の三代目の王であるウルナンシェは、50程のまとまった碑文が見つかっていて実在した人物だと考えられています。

ウルナンシェから世襲制の王朝が始まったとする専門家もいる状態です。

ラガシュ第一王朝のウルナンシェから始まったとする説もあり、ウルナンシェ王朝と呼ばれる事もあります。

尚、ラガシュ第一王朝はエンメテナの時代に全盛期を迎えウルイニムギナの時代にウンマのルガルザゲシにより滅ぼされています。

因みに、ラガシュは地理的にメソポタミアの東に位置しエラム人の侵入やウンマと戦った記録があります。

ウンマは同じシュメール人の都市となりますが、100年に渡り争った記録も残っています。

ウンマとラガシュの間で出来た和平協定が世界最初の国際条約だとも言われています。

ラガシュを征服したルガルザゲシは初のシュメール人統一の直前まで行った人物でもあります。

ラガシュ第一王朝の歴代王

エンヘガル
ルガル・シャ・ゲン・シュル
ウル・ナンシェ
アクルガル
エアンナトゥム
エンアンナトゥム1世
エンメテナ
エンアンナトゥム2世
エンエタルジ
ルガルアンダ
ウルイニムギナ(ウルカギナ)

ラガシュ第二王朝

ラガシュ第二王朝は、サルゴン亡き後のアッカド帝国の王となったリムシュの代に勃興したと考えられています。

アッカドのリムシュに対して、シュメール人のキクイドなる人物がラガシュにて反乱を起こし誕生しました。

ただし、キクイドの反乱はリムシュによって鎮圧された話もあります。

ラガシュはその後に繁栄する事になりグデア王の時代に大いに栄えた話しもあります。

しかし、紀元前22世紀の末頃に、ウル第三王朝のウルナンムによりラガシュ王ナンマハニが殺害された事でラガシュ第二王朝は終焉となります。

ウルク第三王朝

ウルク第三王朝は、ウンマ王であるルガルザゲシがラガシュ王ウルイニムギナを破り、ウルクに本拠地を移した事で誕生した王朝です。

ただし、ルガルザゲシはアッカドのサルゴンに敗れた事で、ウルク第三王朝は滅亡しました。

ルガルザゲシ一代の王朝を言っても良いでしょう。

尚、ウルク第三王朝を滅ぼしたサルゴンは初のメソポタミア統一を成し遂げな話もあります。

ウルク第三王朝の歴代王

ルガルザゲシ

シュメール人の解説動画

シュメール人のゆっくり解説動画となっています。

文字で読むのが苦手な方は、こちらをご視聴してみてください。

尚、動画とブログの文字では構成や内容を変えてあります。

シュメール人は、どこから来たのか?

シュメール人の謎を解く上で、どこから来たのかは重要です。

シュメール人がどこから来たのか分からない理由

シュメール人がどこから来たのか分からない理由ですが、最大の理由は文献が残されていないからです。

シュメール人が楔形文字を発明した事は有名ですが、それ以前は、まともな文字がありませんでした。

ただし、貸した物を忘れない様にするために記述した文字の様な物は存在したようです。

シュメール人が使っていたシュメール語は「膠着語」だと言われています。

膠着語は日本語の様に「●●を」「●●に」「●●が」などを付けていく言語です。

メソポタミア地方には、様々な民族がいましたが、シュメール人以外で膠着語を使う民族がいなかったとされています。

その事から正体不明の民族だと考えられています。因みに、シュメール人がやってくる前のウバイド人もどこから来たのか不明だとされています。

結局は、記録がないので分からないと言うのが正しいようです。

ただし、シュメール人はウバイド期から既にシュメール地方にいた説もあり、それが信憑性が高いのではないか?とも感じています。

惑星ニビルから来た?

シュメール人ですが、惑星ニビルから来た説もあります。

因みに、惑星ニビルは3600年周期で地球に近づき禍をもたらすともされています。

尚、2017年10月に惑星ニビルが地球に近づき人類が滅亡する説も海外では騒がれていたようです。

惑星ニビルには「アヌンナキ」と呼ばれる集団がいたとされています。

惑星ニビルは戦争などもあり、オゾン層が破壊されてしまい滅亡の危機となります。

この時に、惑星ニビルのアヌンナキ達は、金があれば惑星ニビルを救う事が出来る事を結論付けます。

黄金を求めに地球に来て、金を採掘しました。

しかし、重労働だった為に、自分たちのクローンを作り、それが人間でありシュメール人だと言うのです。

突飛な説に思うかも知れませんが、学者の中には、それを真実と考える人もいます。

アヌンナキが人間を作ったのが41万年前のアフリカであり、シュメール人が現れまでに40万年以上ある事になります。

40万年間は、何をやっていたの?という問題もあり、自分的には信憑性は低いと考えています。

因みに、惑星ニビルから地球にシュメール人がやってきた説は、古代宇宙飛行士説となります。

余談ですが、マヤ文明などにも古代宇宙飛行士説があるようです。

異常に発達したシュメール人の天文学

シュメール人の特徴として、異常に発達した天文学があります。

なぜ天文学が異常に発達したのか?

シュメール人ですが、恐ろしい程に天文学が発達していた事が分かっています。

肉眼では見る事が出来ない天王星、海王星、冥王星の存在もシュメール人は知っていたとされています。

シュメール人の天文学が発達した理由ですが、神権政治と考え方にあったようです。

シュメール人は、自然災害や自然現象は、神がおこしたものと考えていました。

シュメール人は神の意志は、天体に現れると考えたようです。

シュメール人の時代にも、川には堤防もあったようですが、現代程の立派なものではありません。

そのため、メソポタミアの水源となっているチグリス川ユーフラテス川が氾濫すると大変な事になってしまいます。

自然災害をいち早く知るために天文学が発達したようです。

「神の意思は天体に現れる」とシュメール人が考えた事で天文学が発達してと覚えておきましょう。

肉眼では見れない天王星、海王星、冥王星の存在を知っていた

シュメール人の凄いところですが、紀元前3000年の時代に天王星、海王星、冥王星の存在を知っていた事です。

水星、金星、火星、木星は肉眼でも見る事が出来ます。

しかし、天王星、海王星、冥王星は肉眼では見る事が出来ません。

尚、近代において天王星、冥王星、海王星が発見されたのは下記の通りです。

惑星
天王星1781年
海王星1846年
冥王星1930年

さらに、天王星や海王星が青色の星だという事も分かっていました。

天王星や海王星の内部に水(氷)がある事も知っていたようです。

1986年にボイジャー2号が観測して分かった事を既にシュメール人は理解していた事になります。

それを考えると、シュメール人が天王星、海王星、冥王星の存在を知っていた事は、如何に凄いかが分かるはずです。

因みに、シュメール人は2万5920年掛けて地球の傾いた地軸が一周する歳差運動の周期まで分かっていたとされています。

優れた太陰暦を持っていた

シュメール人は、誤差が殆どない優れた太陰暦を持っていた事が分かっています

古代エジプトなどが太陽を基準とした、太陽暦を持っていたのに対して、メソポタミア文明のシュメール人は月を基準とした太陰暦を持っていたわけです。

現在の日本は太陽暦であるグレゴリウス暦を使っていますが、過去には太陰暦を使っていた事もあります。

尚、太陰暦は月の形で日数を知ったりするわけですが、3日目なら三日月、15日目は十五夜など、現在でも残っている太陰暦の言葉もあります。

1週間が7日だと言うのもシュメール人が発祥だともする説もあります。

ジャイアントインパクト説を既に唱えていた

シュメール人は、地球や月が出来た原因として、ジャイアントインパクト説、分裂説などを既に唱えていた事が分かってきています。

シュメール文明によれば惑星ニビルが土星にぶつかる事で、土星の衛星であるガガが弾け飛んで冥王星になったと言います。

さらに、惑星ニビルがティアマト(惑星)にぶつかる事で、地球と月が出来たと言います。

現代でも地球や月が出来た原因は分かっていません。

地球や月については、親子説や分裂説、巨大隕石衝突説などがありますが、詳しくは分かっていないのです。

しかし、シュメール人は紀元前の段階で、惑星同士の衝突により地球が出来たとされるジャイアントインパクト説を既に提唱していた事は驚きだと言えます。

ニネヴェ定数を既に知っていた

ニネヴェ定数は古代アッシリアの首都であるニネヴェ遺跡から見つかった数字です。

紀元前7~8世紀頃のものだとされています。

ニネヴェ定数は「195兆9552億」となります。

195兆9552億という数字だけだと全く意味が分からないでしょう。

実は、195兆9552億という数字は、太陽系の天体の全ての公転周期で割り切れる数字だと言えます。

何でここまでシュメール人は知っていたんだ?となるかも知れませんが、記録が残っています。

どうやって発見したかなどもシュメール人の謎を大きくしている部分となります。

医術が発達していた

シュメール人は医学が非常に発達していたと言われています。

白内障の手術を既に行っていた話もあるくらいです。

白内障は多くの場合で年を取ると発症します。

目の病気となり非常にデリケートな問題です。

手術を行うにしても目の中に人の手を入れる事となり、素人では行う事が出来ません。

そういう技術が紀元前3000年の段階で既にあった事には驚きです。

制度が充実していた

シュメール人ですが、制度が充実していた事が分かっています。

シュメール人の場合は、裁判もあり陪審員制度を採用していた事も分かっています。

議会もあり二院制となっていますから、現在の政治の場に繋がるものもあるはずです。

さらに、学校もあり卒論などの様に現在でも採用されている制度もありました。

学生の場合は就活まであったような記録もあり、シュメール人の生活は、現代と余り変わりがないのでは?と思える部分も存在します。

都市国家が出来ていた

シュメール人ですが、都市国家が出来ていた事が分かっています。

ネット上のブログなどを見ると、突然シュメール人が現れて都市国家を築いた様な話をされる場合もあります。

しかし、自分の中では、シュメール人の前にあたるウバイド期には既に都市の原型が出来ていたと考えています。

ウバイド期に天水農業から灌漑農業に変わった事で余剰食糧が増えた結果として、人々が集まってきて都市が形成されたと考えるのが普通でしょう。

さらに、様々な専門職も出来て都市が発展し、それがシュメール人の「ウル」「ウルク」「ラガシュ」などの年を発展させていきます。

因みに、メソポタミア文明は、インダス川流域にあったインダス文明とも交易をおこなった話もあります。

それを考えると、エジプト・メソポタミアという古代オリエントの範囲を超えた交易があり、シュメール人の都市国家は、かなり賑わっていたのではないか?とも考えられるはずです。

神権政治を行っていた

シュメール人は、神権政治を行っていたとされています。

神の意志で政治を行う仕組みが出来ていたようです。

ただし、神権政治と言うと、神官が神の意志を聞き民衆に伝える事で政治を行っていたと考えるかも知れません。

実際には、表向きは神官が民衆に神意を伝えていたかも知れませんが、政治を牛耳っていた権力者はいたようです。

シュメール人の間では貧富の差があり、富を牛耳っている者が神の意思だと民衆に伝えて、富を牛耳っていたと考える専門家も多いです。

私自身も神権政治は表向きだけで、裏では権力者がいた様に感じています。

尚、シュメール人の都市は一番高いところに神殿があったとされています。

さらに、ジッグラトと呼ばれる巨大神殿まで建築しています。

シュメール人は高い建築力も兼ね備えていたわけです。

ジッグラトについて補足しますと、川が氾濫した時の住民の避難所としても使われていたそうです。

尚、初期の神殿は部屋が一つしかありませんでしたが、時代が進むにつれて神殿の部屋の数も増えて行ったことも分かっています。

楔形文字を作った

世界最古の文字はメソポタミア文明の楔形文字だとされています。

ただし、楔形文字も突然シュメール人が作ったわけではなく、過去には交易や人間同士の貸し借りの中での記録があり、それが発展したものを文字としてシュメール人が作ったというわけです。

尚、楔文字と言えば小難しい事が書かれているのでは?と思うかも知れません。

しかし、実際の楔形文字には歴史などの記録だけではなく、学園物の娯楽小説まであったようです。

シュメール人は、紀元前の段階で様々な娯楽もあった事が分かっています。

尚、シュメール人は文字を粘土板に記録しています。

紙や木ではなく粘土板に記録した理由ですが、メソポタミア地方は土が大量にあった地域だからです。

シュメール人の住居も粘土のレンガだったとされています。

粘土煉瓦は雨に弱いわけですが、この地域は降水量が非常に少ないために、粘土のレンガでも十分だったのでしょう。

ただし、粘土では強度が無い為に風化などの問題はあったようです。

尚、シュメール人は人間は土から生まれたと考えていた話もあります。

楔形文字に話を戻しますが、シュメール人は都市間の争いなどがあり衰退していき、アッカド人の国家がメソポタミアで勢いを増していきます。

アッカド人はセム語系の民族でありアッカド人のサルゴンは初の全メソポタミア統一を成し遂げています。

ただし、アッカド人は文字を持たなかった為に、シュメール人の楔形文字をそのまま使った話もあります。

楔形文字は、アケメネス朝ペルシアの時代まで使われた事が分かっています。

現在は使っている人はいませんが、長く使われた文字だと言えそうです。

ギルガメッシュ叙事詩と大洪水

ギルガメッシュ叙事詩は、メソポタミアの神話が描かれています。

最古のものは、紀元前20000年だと言われています。

ギルガメッシュ叙事詩の中に、洪水伝説があるわけです。

もちろん、メソポタミア地方は、チグリス川とユーフラテス川という大河に挟まれた地域であり、大洪水が起きれば壊滅的な被害を食らう事は必須な地域といえます。

ギルガメッシュ叙事詩の中の洪水伝説が、旧約聖書のノアの箱舟伝説の話の元になっている説もあります。

因みに、中国では洪水を見事に治めた「禹」という人物が夏王朝の開祖となっています。

ギルガメッシュ叙事詩だけではなく、世界的に洪水伝説があるのは興味深いところです。

シュメール人はなぜ滅亡したのか?

シュメール人は、高度な文明を持っていましたが、現在ではシュメール語を話す人もいませんし滅亡しています。

高度な文明を持っていたシュメール人がなぜ滅亡をしたのか解説します。

高度な文明は持っていたが・・・。

シュメール人は、一時はアッカド人にメソポタミア盟主の座を追われましたが、ウル第三王朝で復活しています。

しかし、高度な文明を持っていたはずのシュメール人がなぜ滅びたのか?不思議がる人もいるのではないでしょうか?

シュメール人は現代人に匹敵する様々な天体観測の技術はあったようですが、鉄すらも作れない民族でした。

もともと、鉱石が非常に少ない地域なのですが、鉄が初めて作られたのはヒッタイトの頃だとされています。

他にも、アッカド人がサルゴンを中心に団結したのに対し、シュメール人は都市間で争ったりしてまとまりが悪かったとも考えられています。

シュメール人のウンマ王ルガルザゲシがラガシュ王ウルイニムギナを破り、本拠地をウルクに移しウルク第三王朝を建国しますが、サルゴンに敗れています。

サルゴンアッカド帝国を築く事が出来たのに、ルガルザゲシがシュメール地方を統一したとはいえ、シュメール人は都市の独自性が強かったのも滅亡した原因と考える人もいます。

一つの部分では圧倒的に進んだ技術を持っていましたが、別のところでは脆弱さがあったのでしょう。

メソポタミアの地系は解放的な地形であり、攻めやすく守りにくい地形も、シュメール人の国が滅亡した原因と言えそうです。

これがシュメール人が滅亡した理由になるような気がしてなりません。

周辺異民族の攻撃に消耗

シュメール人の都市である「ウル」「ウルク」「ラガシュ」などには城壁があった事が分かっています。

都市を異民族から守るための城壁が存在したわけです。

メソポタミアという地域は、山などの天然の要塞がなく非常に開放的な地域となっています。

それゆえに、守りにくい地形でもあったのでしょう。

天然の要塞がない守りにくい地形もシュメール人の滅亡と関係が深い様に感じます。

地政学的に不利な地域がメソポタミアとなります。

アーリア人やインド・ヨーロッパ語族とされるフルリ人の国であるミタンニ王国の進出により、土地を失ったアムル人が大量に難民としてウル第三王朝に流れ込んで来た話もあります。

ウル第三王朝はアムル人の難民を防ぐために、壁を作りますが結局は飢饉なども重なり滅んだ説です。

尚、ウル第三王朝崩壊後のメソポタミアは群雄割拠となりますが、群雄割拠を制したのが難民であったはずであるアムル人が作った古バビロニアになります。

古バビロニアはバビロン第一王朝の名前でも有名であり、全盛期の王であるハンムラビ王のハンムラビ法典は世界史に詳しくない人でも名前くらいは聞いた事があるでしょう。

因みに、ハンムラビ法典の原形になったのが、ウル第三王朝のウルナンム法典です。

ウルナンム法典はシュメール法典とも呼ばれています。

シュメール人のアイデンティティの消失

調べてみるとシュメール人と言うのは、日本人の様に単一民族を指す言葉ではないようです。

アジア人、アフリカ人、ヨーロッパ人と似たような定義だったとされています。

シュメールという地域にいた人を指す言葉でした。

他にもシュメール語を話す人がシュメール人の定義だった説などもあります。

つまり、アッカド人がメソポタミアを統一した時に、公用語はアッカド語となりました。

これによりシュメール語を話す人がいなくなっていき、ウル第三王朝が滅亡した時に、シュメール語を話す人がどんどん少なくなっていったとも考えられます。

一部では歴史から忽然と姿を消した様な事が言われていますが、実際には開放的な地形が原因で、どんどん他の民族が入ってきて、シュメール人が同化してしまったのが原因なのでしょう。

決して、用事を済ませたシュメール人が惑星ニビルに帰ったなどは無い様に感じています。

尚、シュメール人は高度な文明は持っていたが、少数民族だった説もあります。

数の論理で多民族に圧倒されて姿を消した説なども有力です。

シュメール人は天皇家と繋がっていた

都市伝説の域は出ませんが、シュメール人と日本の天皇家や日本人と繋がっている説があります。

先にシュメール語は膠着語だという話しをしました。

多くの方がご存知の様に、日本語も「●●を」「●●が」と文章を続けていく膠着語です。

さらに、日本語の様に子音や母音も表記していく記述となります。

日本の古語で皇は「スメ」、天皇は「スメラ」と呼ばれていました。

シュメール語で「スメ」は神という意味があり「神=天皇」で関係があるんじゃないか?と考える人もいます。

天皇家のシンボルは菊花紋ですが、シュメール人の粘土板にも菊花紋が描かれています。

さらに、日本の最初の方の天皇や皇族の名前には「命」や「尊」という文字が入る事が多いです。

日本神話の英雄であるヤマトタケルも日本武尊と書かれたり倭建命と表記されたりしています。

命や尊などの言葉もシュメール語が訛って伝わったものだと考えられています。

尚、シュメール人は自分たちの事を「キエンギ(葦の国の民)」と呼んでいたそうです。

日本でも豊津芦原中国と神話で出て来る事から共通点が見られます。

こうした多くの共通点から日本人や天皇家とシュメール人が繋がっているのではないか?と考える人もいるわけです。

ただし、これらの説は、想像の域を出ませんし確定したと言い切る事は出来ないでしょう。

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