春秋戦国時代

春秋五覇のまとめ【実は10人以上もいた】

2021年5月16日

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宮下悠史

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春秋五覇は、春秋時代の諸侯の頭を意味し、周王朝に代わり天下を運営したとも言える存在です。

春秋五覇の名前が最初に登場したのは「孟子」とも呼ばれていますが、書物によって春秋五覇のメンバーはバラバラだとも言えます。

春秋五覇に必ず入るのは、斉の桓公と晋の文公であり「斉桓晋文」の名前で呼ばれる事も多いと言えるでしょう。

しかし、春秋五覇の斉の桓公や晋の文公以外は、楚の荘王や秦の穆公が入ったりして、メンバーは流動的であり固定されていません。

今回は春秋五覇のメンバーと覇者になる条件などを解説します。

覇者の条件

春秋五覇は、春秋時代の諸侯同盟の長であり、覇者と呼ばれたりもします。

どの様な人物が覇者と呼ばれるのか解説します。

圧倒的な軍事力

春秋五覇の条件として、圧倒的な軍事力が要求されます。

覇者は小国を守ってあげたり、滅んだ国を復興させたり、世の中の秩序を保つ存在でなければいけません。

礼の精神を説くだけでは、諸侯を従える事は出来ず、覇者になる為には軍事力が必要と言えます。

実際に、春秋時代の強国である斉、晋、、楚などから覇者が出ている事を考えると、軍事力は必須と言えるでしょう。

ただし、宋の襄公は中規模な国の君主ですが、史記索隠や漢書では覇者となっています。

諸侯同盟を作る

戦国時代になると、小国は淘汰され戦国七雄の時代になっていきますが、春秋時代は小国が沢山あったわけです。

覇者になるには、小国も含めた会盟を開き諸侯のリーダーに選ばれる必要があります。

斉の桓公も会盟を開きますが、段々と集まる諸侯が増えていき勢力が拡大していく事になります。

晋の文公や呉王夫差、越王勾践なども諸侯を集めて会盟を行い覇者になった記述があります。

軍事力を背景に会盟を行い覇者になるのが基本とも言えるでしょう。

小国を守り滅んだ国を復興する

覇者の役目として小国を守ると言うのがあります。

覇者は小国から貢物を貰う代わりに、小国を守る必要があります。

蛮夷とされている楚や異民族から小国を守るのも覇者の役目と言えるでしょう。

尚、孔子は「管仲がいなければ、戎に蹂躙されていた。」と述べています。

管仲は斉の桓公を補佐し覇者に押し上げた人物であり、管仲が斉の桓公を補佐し覇者となり、小国を守らなかったら戎に中華は蹂躙されていたと言いたかった様に思います。

ただし、小国は利がないと思えば、別の大国に寝返ってしまう事もあり、背信外交を行う事も少なくはありませんでした。

春秋五覇は小国を守ったとも伝わっていますが、自分の会盟に加わらない小国は滅ぼす事も少なくはありません。

尚、斉の桓公が狄に滅ぼされた衛を復興させた様に、覇者は滅んだ国を復興する場合もあります。

勤皇思想

勤皇思想も春秋五覇の条件に入れる場合もあります。

周王朝に対しての勤皇思想があるかどうかです。

斉の桓公は、管仲の進言もあり勤皇思想を示していますし、晋の文公も勤皇思想を見せています。

周王朝は諸侯同盟を作り上げた覇者に対して、周王の代わりに天下を経営する様に命令する場合もあります。

ただし、楚の荘王などは勤皇思想は薄いと考えられています。

著者の選り好み

春秋五覇は、著者の選り好みによって決められる事があります。

孟子は春秋五覇がいたとは記録しましたが、斉の桓公以外のメンバーは明らかにしなかったわけです。

つまり、残りの四人は書物を書いた著者の選り好みで決めたりしています。

それを考えると、春秋五覇とは言いますが、無理して五人に絞る事も無い様に感じる所です。

覇権国が変わるまで

覇権国が変わるまでは、覇者と考える人もいます。

例を挙げると、楚の荘王は覇者になりましたが、息子の共王の代で晋に鄢陵の戦いで敗れています。

鄢陵の戦いで、晋が楚を破った事で、覇者は楚から晋に移り、当時の晋の君主である厲公が覇者になったと考えます。

晋は厲公、悼公、平公、昭公、頃公、定公と続き、これらの人物を覇者に数えるわけです。。

晋の定公の時代に、黄池の会で呉王夫差と会盟の長を争った話があります。

晋の定公と呉王夫差の黄池の会は、史記の場所により、どちらが盟主になったのか食い違いがあり、分からない部分でもあります。

しかし、覇者の継承方式により、春秋五覇の人数を大幅に増やしているとも言えそうです。

代表的な春秋五覇の人物

代表的な春秋五覇の人物を列挙します。

下記がウィキペディアの春秋五覇の表になりますが、書物により食い違いが大きい事が分るはずです。

上記の図に則り代表的な春秋五覇を解説します。

鄭の荘公

辞通によれば最初の覇者が鄭の荘公となっています。

鄭の荘公の祖父に当たる鄭の桓公は、周の厲王の末子であり鄭に封じられています。

これが鄭の始まりであり、鄭の桓公は周の幽王の元で卿にもなりますが、最後は申公や犬戎に攻められた周の幽王に殉じています。

鄭の武公は国を移動させ、新鄭を首都とし堅城を築く事になります。

鄭は荘公の代が全盛期とも言える状態であり、鄭の荘公は北戎に攻められた斉の救援に太子忽を向かわせるなど、覇者の様な事もしています。

ただし、斉に救援に行った鄭の太子忽に斉の釐公が娘を娶らせようとすると「我が国は小国、斉は大国で釣り合いが取れません」と述べた話があり、国力で考えれば鄭は中規模だと考えた方がよいでしょう。

尚、鄭の荘公は周王室の禾を取ったり、周の桓王率いる陳・蔡・虢・衛を撃破した話があり、戦上手ではありますが、周王室と敵対した事実もあります。

因みに、鄭の荘公以後の鄭は振るわず、北の晋と南の楚に挟まれ苦しい立場となります。

ただし、鄭からは子産なる名臣も輩出する事になった事実もあります。

斉の桓公

斉の桓公は春秋五覇の筆頭の様な人物です。

諸侯同盟を作る流れを確立した人物でもあります。

斉の桓公は凡庸な人物だとも言われていますが、宰相の管仲により覇者に昇る事が出来たと言えるでしょう。

斉の桓公は本人の能力的には大した事はないのかも知れませんが、宰相の管仲の言う事であれば、素直に耳を貸す事が出来、行動に移す事が出来た人物です。

漢の高祖である劉邦張良の言葉であれば、何でも聞けるように、斉の桓公も管仲の言う事であれば、聞く事が出来ました。

優れた臣下の言葉を素直に聞き実行できるというのは、名君の一つのタイプだと言えるでしょう。

尚、秦の胡亥は、趙高のいう事を何でも聞く事が出来た為に身を滅ぼしています。

それを考えれば、斉の桓公は名君であり春秋五覇の筆頭とも言えるでしょう。

ただし、管仲の死後は振るわず、斉の内乱のきっかけを作っています。

秦の穆公

秦の穆公も覇者に数えられる事になります。

秦の穆公は、晋の恵公や文公など、晋の君主を二回に渡って晋公に即位させた実績があります。

さらに、百里渓や由余などの名臣を用いて国を大いに栄させています。

ただし、晋の文公がいた時代は、時代の主役は晋だったと言えるでしょう。

尚、秦の穆公が亡くなった時に国政の中心にいた177名が殉死した話があり、秦は振るわなくなります。

秦の穆公以降で、秦の勢力が拡大されるのは、戦国時代に秦の孝公が商鞅を用いるまで待たねばなりません。

因みに、秦の穆公の子孫が秦の始皇帝であり天下統一を成し遂げる事になります。

宋の襄公

宋の襄公も覇者に入る場合があります。

ただし、宋は中規模な国であり、国力から言えば春秋五覇に相応しくないとも言えます。

しかし、宋の襄公は信義がある人物として、管仲に認められ斉の桓公の後継者である、斉の孝公の後見まで頼まれた人物です。

他国の人間に斉の後見人を頼むのは、当時から宋の襄公の名声は高かったのでしょう。

尚、斉の桓公が亡くなると、斉の公子達が争いますが、宋の襄公は諸侯を集め亡命した斉の孝公を斉に入れる事に成功しています。

宋の襄公が諸侯の軍を率いた実績がある事で、覇者として認められた部分もある様に思います。

ただし、宋の襄公は後年に楚の成王と泓水の戦いでは、戦いに信義を持ち込み、楚軍が川を渡り陣形が整ってから攻撃を掛けるなどの、仁義の暴走みたいな事も行っています。

宋の襄公が泓水の戦いで行った行動は「宋襄の仁」とも呼ばれ「つまらない情けを掛けて、酷い目に遭う事」を指す諺にもなっています。

尚、宋の襄公は泓水の戦いで敗れた後に、宋にやってきた晋の公子である重耳を持て成した為に、宋の国は楚に攻められた時に救われる事になりました。

宋の襄公は失敗もしましたが、最後にファインプレーをした君主とも言えそうです。

晋の文公

晋の文公(重耳)は、斉の桓公と並び必ず春秋五覇の一人に入る人物です。

重耳の父親である晋の献公が驪姫を寵愛した事で、国が乱れ太子申生は自刃し、重耳と夷吾(後の晋の恵公)は亡命する事になります。

重耳は配下の趙衰、狐偃、賈佗、先軫・魏武子、介子推らと亡命生活に入る事になります。

重耳は白狄に亡命し、さらに衛、斉、曹、宋、鄭、楚、などの諸国を回る事になります。

重耳は小国では相手にされなかったりしますが、大国である斉の桓公や楚の成王、秦の穆公からは丁重に扱われる事になったわけです。

重耳は亡命19年の生活を終え、秦の穆公の後ろ盾により覇者に道を駆け上る事になります。

重耳は晋の文公として即位するや、周王室の内紛を鎮め、楚を城濮の戦いで破った事で、尊王攘夷を諸侯にアピールする事で覇者となります。

ただし、重耳も年齢には勝てず、晋公として即位し9年後には亡くなっています。

晋の襄公

晋の襄公も春秋五覇に一人に加えられる場合があります。

ただし、父親である晋の文公の様に、誰しもが認める覇者ではなく、大半の場合は春秋五覇に数えられません。

晋の襄公が即位すると、喪が終わらない状態で秦が攻めてきた話しがあり、怒った襄公が喪服を白から黒に変えて秦軍を破った話があります。

晋の襄公は、捕えた秦将である孟明視を母親の言葉で逃がしてしまい、先軫からは「我ら軍人が苦労して捕らえた者を婦人の言葉一つで釈放するとは何事ですか。」と言われた話があります。

全祖望では、晋の襄公は春秋五覇の一人に数えられますが、春秋五覇の中ではインパクトが薄いと言わざるを得ないでしょう。

晋の景公

晋の景公も中国清の時代の儒学者である全祖望により、春秋五覇の一人に数えられる事があります。

ただし、晋の景公の時代に晋の六卿の筆頭である荀林父が邲の戦いで、楚の荘王に敗れている事もあり、晋の景公が覇者で良いのか?と考える人もいます。

さらに、史記には晋の成公、景公の時代は「政治は厳酷極め」とある様に、覇者の資質に問題があるのでは?とも感じました。

尚、晋の景公の時代に、趙氏が一時滅亡しますが、韓厥(戦国七雄の韓の祖)が趙氏再興を働きかけた事で復興しています。

晋の悼公

晋の悼公は、晋で最後の名君と呼ばれた人物です。

晋の悼公も春秋五覇の一人にされる事もあります。

悼公の時代は、魏絳が宰相として活躍し、晋は活性化された話があります。

さらに、魏絳の後継者である姫彪には、叔向を後継者にするなどの配慮も行っています。

晋の悼公は名君とは呼ばれていますが、僅か29才で亡くなってしまい、悼公の時代の後期には、政治が六卿に移るきっかけが出来ていたと指摘する専門家もいます。

尚、晋の悼公以後は、公室の力が弱体化していき、最後はの三国に分割される事になります。

楚の荘王

楚の荘王は、孫叔敖を宰相とし、楚が中華で最も強大だった時代の王様です。

「鳴かず飛ばず」などのエピソードでも有名と言えます。

楚の荘王は、邲の戦いで晋軍に勝利するなど、実績で言えば春秋五覇の一人に数えられます。

ただし、周王室に対して「鼎の軽重を問う」などの話もあり、周王室に対する敬意は薄いと言わざるを得ません。

さらに、楚は「王」を名乗っているわけであり、周王と同格の立場だと考えている節もあります。

楚の荘王は、軍事力では問題なく、春秋五覇の一人に選ばれるだけの実力があった事は間違いないです。

呉王闔閭

呉王闔閭は、孫武や伍子胥などの名臣に支えられて呉を大国にした名君です。

闔閭の時代に、楚の首都である郢を陥落させるなどの攻勢に出た事もありました。

しかし、味方の内部分裂から楚から引き揚げねばならなくなり、最後は越王勾践との戦いで敗れ亡くなっています。

呉王闔閭は呉を中華で最強国に押し上げた実績はあるかと思いますが、楚と同様に「王」を名乗っているわけであり、尊王思想は薄いと言えます。

ただし、軍事力や楚を壊滅状態に追いやった事を考えれば、春秋五覇の一人に数えても問題はないでしょう。

尚、呉の始祖は、太伯と虞仲であり、周の文王の叔父にあたります。

太伯と虞仲が周を継がずに出奔し、弟の季歴(周の文王の父)が後継者になっています。

この事から、呉は周王室の兄と呼べる家柄だという考えもあったようです。

呉王夫差

呉王闔閭が越王勾践との戦いで戦死した後に、後継者となり越を破ったのが夫差です。

越王勾践との臥薪嘗胆の故事成語などは有名と言えます。

呉は夫差の代で滅亡している事もあり、春秋五覇の一人に入れてよいのか?という疑問もあります。

しかし、黄池の会で、晋の定公を盟主の座を争った話もあり、春秋五覇の一人に選ばれた様にも感じます。

ただし、黄池の会は、史記の記載場所によって差異があり、呉が盟主になったのか、晋が盟主になったのかはっきりとしません。

呉が盟主になったとしても、その直後に越により、呉の首都が陥落しています。

呉王夫差を春秋五覇に入れるにしても、「寂しき覇者」と言った感じにしか思えません。

越王勾践

越王勾践は、呉王夫差に敗れるも范蠡や文種などの名臣に支えられ、呉を滅ぼし覇者になっています。

諸侯を集めての会盟も行うなど、覇者らしい事も行った記録があります。

呉を滅ぼした全盛期の越王勾践で言えば、春秋五覇の一人に相応しいと言えます。

ただし、越王勾践は覇者となった後に、范蠡は出奔し、文種を処刑している事実があります。

范蠡は越王勾践の事を「苦難を共に出来ても、喜びを分かち合う事が出来ない」と評した話も有名です。

越王勾践以降の越の記録がよく分からず、越は無彊の代に壊滅的な打撃を受け、楚の威王に滅ぼされた歴史があるわけです。

それを考えると、越は一代だけの覇者とも言えるでしょう。

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