古代ギリシア

テルモピュライの戦いとレオニダス王の奮戦

2021年6月14日

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宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細

テルモピュライの戦いは、ギリシア本土の征服を企てたアケメネス朝ペルシアとスパルタを始めとしたギリシア連合(ポリスの集合体)の戦いを指します。

この戦いで奮戦し後世に名を残したのがスパルタ王であるレオニダス1世です。

アケメネス朝ペルシアは、王であるクセルクセス1世が自ら兵を率いて参戦しています。

クセルクセス1世の父親であるダレイオス一世がマラトンの戦いでアテネに敗れて、一度はギリシア征服は断念しました。

しかし、クセルクセス1世の代になると、再びギリシャを支配下にする為に動いたわけです。

今回はテルモピュライの戦いの流れを最初から詳しく解説します。

尚、映画300(スリーハンドレッド)は、テルモピュレイの戦いでのスパルタ軍を率いたレオニダス1世のお話となっています。

因みに、スパルタの代表的な王様と言えば、リュクルゴスとレオニダス王を挙げる人が多いのではないかと思います。

アテネとスパルタ以外のポリスを脅す

アケメネス朝ペルシアは、当時で言えば超大国です。

上記の地図を見ると分かりますが、ギリシアはポリスが多く都市国家ですが、アケメネス朝ペルシアは広大な領地を持っていました。

それを生かしてギリシャのアテネとスパルタを除くポリスを脅し隷属させようとします。

アテネとスパルタにはアケメネス朝ペルシアは使者は送りませんでした。

アケメネス朝ペルシアがアテネとスパルタに使者を送らなかった理由ですが、マラトンの戦いの前に使者を送ったら、アテネは使者を斬り、スパルタでは有無を言わさずに井戸の中に放り込んでしまったからです。

ただし、ギリシアのポリス間の結束は強かったのか、大してペルシア側には靡かなかったとされています。

ここにおいてアテネやスパルタを中心とするギリシアポリス連合とアケメネス朝ペルシアの戦いが始まるわけです。

レオニダス王の出撃

レオニダス王がスパルタ兵300を率いて出撃しますが、なぜ大型ポリスのスパルタが少数の兵士しかテルモピュライの戦いで送れなかったのか解説します。

オリンピックが開催されていた

アケメネス朝ペルシアがギリシアに攻めて来た時ですが、ギリシアの各ポリスではオリンピックを行っていました。

そのためどのポリスも少数の兵士しか送り出す事が出来なかったわけです。

現代の日本人だと国家の存亡を掛けた戦いよりも、オリンピックを優先させる古代ギリシアの考えが理解できない事でしょう。

ギリシアポリスの間では、オリンピック中は戦争があっても休戦にするルールがあったようです。

ただし、オリンピック中の休戦ルールはギリシアの独自ルールでありアケメネス朝ペルシアに通用するはずもありません。

さらに、スパルタではカルネイア祭をしていた為に、殆ど兵士を送る事が出来ませんでした。

レオニダス王に付き従う兵士は、僅か300人です。

デルフォイの神託・「王が亡びるか国が亡びるか」

レオニダス王は、ペルシアとの戦いについてデルフォイの神託を聞いてみる事にします。

デルフォイの神託では「王が亡びるか国が亡びるか」のどちらかだと出てしまったわけです。

デルフォイの神託は、神のお告げを聞くわけですが、当時のギリシアでは非常に影響力を持っていました。

デルフォイの神託により政治や軍事が決定される事も数多くあったわけです。

これによりレオニダス王も出陣の決意をします。

余談ですが、「無知の知」で有名なソクラテスも、デルフォイの神託で「ソクラテスよりも賢い者はいない」という結果となり、ソフィスト達を論破しまくる生活を送るようになったと言われています。

尚、ソクラテスの弟子にはプラトンやアレキサンダー大王の家庭教師となったアリストテレス(孫弟子)などがいます。

古代ギリシアでは、アポロン神殿があるデルフォイの神託は非常に重要な要素だったわけです。

レオニダスが死を覚悟する

レオニダスはアケメネス朝ペルシアからギリシアを守るために出撃する事を決意します。

この時にレオニダス王の妻であるゴルゴに行った言葉が残っています。

「よき夫と結婚し、よき子を生め」

上記はレオニダス王がゴルゴに言った言葉ですが、既に死を覚悟していた事が分かるはずです。

スパルタでは、7歳から軍隊に入れられて男だけの集団生活を送ります。

そのため「育ての親は母親ではなく国家」だという思想があったのでしょう。

レオニダスは既に子供(子孫)がいる300人の精鋭部隊を率いて戦場であるテルモピュライに向かいます。

戦闘民族スパルタ

スパルタのライバルであるアテネは哲学や芸術を愛しましたが、スパルタでは芸術や美食は人間を軟弱にさせると考えていたらしく、厳しい軍事教育を施したわけです。

スパルタの余りにも厳しいやり方は、スパルタ教育として今でも残っています。

尚、スパルタは肉体の強さであれば、歴史上最強の軍隊とも呼ばれています。

特にスパルタの重装歩兵が繰り出すファランクスの威力は桁違いで、正面からぶつかれば無敵を誇っていました。

スパルタの余りに息があったファランクスに、「スパルタのファランクスは一匹の生き物のようだ」と揶揄されています。

レオニダスの軍勢は、ギリシア諸ポリスと比べてみても、兵力は少なくても異様に強かったわけです。

ギリシア連合軍とペルシアの戦力

テルモピュライの戦いでの、よくある勘違いがスパルタ兵300がペルシア兵20万と戦ったという話です。

正確に言えば、スパルタ兵が300だっただけで、ギリシアのポリス連合軍の合計では5000人から7000人ほどの兵士が揃ったとされています。

テルモピュライの戦いは、紀元前という事もあり兵力に関しては、はっきりとしません。

歴史の父と呼ばれたヘロドトスの資料なんかでは、ペルシア軍200万とする記述もあり、現実的にありえない数字まで出ているわけです。

ただし、200万と数字が絶対に間違っているかと言えば、そうとは言えない部分もあり、兵站部隊や非戦闘員も含めると、200万いたのではないか?とする説もあります。

しかし、専門家の間ではペルシア軍20万から30万が妥当ではないか?と考える人が多いです。

それでも、ギリシア軍が5000から7000だという事は、戦力差は50倍という圧倒的な差があった事は事実のようです。

テルモピュライを決戦場に選んだ理由

テルモピュライの戦いは、名前の通り「テルモピュライ」が戦場となっています。

テルモピュライでスパルタを始めとする、ギリシアポリス連合が待ち構えていたわけです。

テルモピュライを戦場に選んだ理由ですが、上記の図を見ると分かるように片側が海になっていて、反対側は山となっています。

道も隘路になっていて、テルモピュライであれば大軍であっても伸びきってしまう為、少数の兵士でも足止めが出来ると考えたのでしょう。

上記の図だと抜け道が分かりやい程に書かれていますが、実際にはペルシア軍は抜け道の存在を知らなかったわけです。

尚、ペルシア軍の補給を考えても、テルモピュライは絶対に通らなければならない場所となります。

スパルタ軍の圧倒的強さ

テルモピュライの戦いの内容を詳しく解説します。

クセルクセス1世が武装解除を要求

テルモピュライの戦いが始まる前に、ペルシア側のクセルクセス1世がギリシア側に使者を出して投降を呼びかけています。

クセルクセス1世は、ギリシアの自由を保障する事ともっと肥沃な土地にギリシア人を移すと伝えた様です。

しかし、ギリシア側はクセルクセス1世の嘘を見破り降伏勧告を撥ねつけています。

さらに、ダレイオス1世は武装解除するように使者を送って来たとされています。

しかし、ダレイオス1世は「来たりて取れ!」とアケメネス朝ペルシアを挑発しました。

当時のスパルタの文化で文言は手短に答える習慣(ラコニックフレーズ)があったようで、「来たれて取れ!」だけになってしまった様です。

クセルクセス1世も、ここにおいて開戦を決意します。

屈強なスパルタ兵

クセルクセス1世は、攻撃を命じてテルモピュライの戦いが始ます。

狭い隘路ではスパルタの重装歩兵のファランクスが地の利を得ます。

さらに、スパルタ兵は長槍を持っていますが、ペルシア兵は槍が短かったらしく、武器の優劣もありスパルタ軍がペルシアを押し返します。

スパルタ兵が持つラージシールドも敵の攻撃を跳ね返します。

これに焦ったペルシア王クセルクセス1世は、ペルシア軍最強を誇る不死隊を投入する事になります。

しかし、レオニダス率いるスパルタ軍はひるまず、ペルシア軍最強部隊を追い返す事に成功するわけです。

因みに、この時にスパルタ兵の損害は2,3人だったと言われています。

これを見ると、如何にスパルタ軍が強くペルシア軍を圧倒していたのかが分かります。

ペルシア軍は騎兵戦に強いとも言われていますが、狭い隘路の地形では得意の騎兵を出す事も出来なかったのでしょう。

スパルタ軍におけるファランクスと長槍・ラージシールドの防御が面白い様に戦場にマッチしていたようです。

エフィアルデスの抜け道

レオニダス王率いるスパルタ軍の奮戦により、ペルシア王であるクセルクセス1世は焦り出します。

テルモピュレイで奮戦する前衛のスパルタ軍を切り崩す事が出来なかったからです。

しかし、ここでクセルクセス1世に幸運が訪れます。

地元のギリシア人であるエフィアルデスが、抜け道を教えてくれたわけです。

抜け道を通ればギリシア連合軍の背後に回る事が可能だという事を知ります。

ギリシア人であるエフィアルデスが、アケメネス朝ペルシアに味方したのは、お金が目的だったのではないか?と言われています。

ペルシア軍は抜け道を通って、ギリシア連合軍の背後に回ろうとしますが、途中でギリシア連合軍のポキスの軍勢を見かけたそうです。

ペルシア軍の兵士はスパルタ兵だと勘違いして、動揺が走った話が伝わっています。

テルモピュレイの戦い最終決戦前夜

テルモピュレイの戦いの最終決戦の直前の様子を解説します。

大半のギリシア連合が撤退

抜け道を通って背後に回られる事をギリシアポリス連合は察知します。

背後を取られて挟み撃ちにされてしまったら、ギリシアポリス連合は壊滅する事は確実です。

ギリシアポリス連合軍は、軍議を開きスパルタ、テスピアイ、テーベの軍勢を残し撤退する事を決めます。

スパルタ兵300、テスピアイ兵700、テーベ兵400を残して他のポリスの軍は撤退しました。

この時点でギリシア連合の兵力は、僅か1400となってしまったわけです。

尚、テーベ兵は撤退したかった様ですが、レオニダス王に無理やり残された話も伝わっています。

テスピアイの兵は進んでテルモピュレイに残った話がありますので、スパルタだけではなくテスピアイの奮戦も凄まじかったのでしょう。

しかも、テスピアイの方がスパルタよりも兵力は700で倍以上あります。

レオニダスが残った理由

レオニダスが戦場に残った理由ですが、様々な説が言われています。

先にも書きましたが、レオニダス王は戦いに行く前にデルフォイの神託で「王が亡びるか、国が亡びるか」という言葉を貰っています。

ここで自分が亡びないと国が亡びると感じて残った可能性もあります。

他にも、自分が殿(しんがり)として残り、暴れ回っているうちに、他のギリシアのポリス達が撤退してくれればいいと考えたのかも知れません。

尚、スパルタでは女性も含めた市民全体が過酷なまでの軍事訓練を受けているわけです。

ここでスパルタ王であるレオニダス1世が撤退してしまうと、部下に示しがつかないと考えたのかも知れません。

因みに、テルモピュレイの戦いの後に、プラタイアの戦いがありますが、ここで指揮官の一人が「夜の間に撤退するのは臆病者のする事だ」と反対した話があります。

これを考えると、スパルタ人の名誉の為にもレオニダス王は撤退する事が出来なかった可能性もあります。

レオニダス王の最後

レオニダス王は戦場に残ったわけですが、前方も後方もペルシア軍に囲まれてしまう状態となったわけです。

レオニダス王の軍勢は決死の覚悟でペルシア軍に挑む事になります。

この時のスパルタ軍の奮戦は凄まじく槍が折れれば剣で戦い、剣が折れれば拳で戦い、拳が使い物にならなくなったら噛みついて戦ったとされています。

しかし、この戦いの中で弓矢の攻撃を受けてレオニダス王は戦死してしまいます。

これがレオニダス王の最後です。

ギリシアポリスの中で残ったのは、スパルタ、テスピアイ、テーベの3ポリスでした。

しかし、テーベは圧倒的な戦力差の前に降伏してしまいます。

レオニダスの丘

レオニダス王は戦死しましたが、スパルタ兵とテスピアイの兵士は戦いを止めませんでした。

レオニダスの丘(後に呼ばれる事になる)に行き徹底抗戦をします。

テルモピュレイの戦いでは、指揮官がいなくなってもスパルタとテスピアイの兵士は戦い続けたわけです。

元寇の時に日本軍が親が死のうが子が死のうが、指揮官が死のうが戦い続けた話もあります。

それと似たような状態が、テルモピュレイの戦いでのスパルタ・テスピアイの軍勢だったのかも知れません。

ペルシア軍はスパルタ・テスピアイ連合軍を包囲して、圧倒的に優勢な立場にいました。

しかし、スパルタやテスピアイの兵の強さに恐れをなして白兵戦を嫌い大量の弓矢を使って敵を全滅させたようです。

これにより勝負が決まりペルシア軍の勝利に終わります。

ペルシア軍は勝ちはしましたが、クセルクセス1世の一族にも戦死者が出るなど、損害は大きかったわけです。

テルモピュライの戦いが終わって

テルモピュライの戦いが終わった後に、様々な話が残っているので紹介します。

クセルクセス1世の怒りが爆発

アケメネス朝ペルシアですが、勇者には敵であっても敬意を示すのが普通でした。

しかし、思わぬ大損害を出してしまったクセルクセス1世は、怒りが収まらずにレオニダス王の首を斬り磔としたらしいです。

レオニダス王の予想外に奮戦に、クセルクセス1世は余裕がなくなってしまったのでしょう。

尚、レオニダス王の遺体は40年後にギリシャに引き渡された話が残っています。

金よりも名誉

アケメネス朝ペルシアは、ギリシアのオリンピックの期間を狙って攻めたわけではないとする説があります。

テルモピュライの戦いでギリシア軍が余りにも少ない事から、「何でこんなに軍勢が少なかったんだ?」とギリシア人に聞いた話が残っています。

それに対して、ギリシア人は「オリンピックをしていたからだ」と答えます。

ペルシアの将軍が「オリンピックに勝つとどうなるんだ?」と質問されると「オリーブの葉冠が貰えます」とギリシア人は返答したそうです。

これを聞いたペルシアの将軍は「我々が戦っていた相手は、金ではなく名誉のために戦うのか」と驚いた話が残っています。

当時のギリシア人の価値観を見れる一幕なのでしょう。

エフィアルデスの末路

ペルシアが勝利を収める事が出来た理由は、ギリシア人であるエフィアルデスが抜け道を教えたからです。

エフィアルデスは、お金の為に教えた話もありますが、報酬は貰えなかった話があります。

エフィアルデスが恩賞を貰う事が出来なかった理由ですが、最終的にペルシア軍はギリシアのポリス連合に敗れて撤退したからです。

エフィアルデスは、裏切り者として不名誉な立場となってしまいました。

ギリシアでは、エフィアルデスという名が呪われているとし、生まれた子供に「エフィアルデス」と名付ける人がいなくなった話もあります。

エフィアルデスは、後世にまで名を残す不名誉な事をしたとも言えるでしょう。

スパルタ軍の生き残り

スパルタ軍は全滅したと思われるかも知れませんが、生き残った人もいます。

スパルタ決死隊の300人のうちアリストデモスとエウリュトスは病気となりレオニダス王の許可を取り国に帰る事になります。

しかし、エウリュトスは病気にも関わらず戦場に戻り討ち死にしています。

アリストデモスの方はスパルタに帰国するわけですが、「腰抜け」「臆病者」のレッテルを貼られてしまうわけです。

スパルタの様な気質の国では、戦場から病気であっても帰国する事は許させる事ではなかったのでしょう。

アリストデモスは名誉挽回の為に、プラタイアの戦いで獅子奮迅の活躍をして討ち死にしたわけです。

しかし、ここでスパルタ市民は名誉の戦死とせずに「死にたがりは勇者ではない」と言った話が残っています。

1回臆病者のレッテルを貼られてしまうと挽回するのは大変だと言う事なのでしょう。

ペルシア戦争はギリシア軍の勝利に終わる

テルモピュライの戦いで敗れた事で、ギリシア軍は撤退します。

レオニダス王らが残って奮戦したお陰で、他のギリシアポリスは無事に撤退出来たようです。

当初、ギリシア側は陸の防衛ラインがテルモピュライで海の防衛ラインがアルテミシオンを考えていました。

アルテミシオンはギリシア最強の海軍であるアテネを中心に戦っていたわけです。

しかし、テルモピュライの戦いでギリシア連合が敗れた為、海のギリシア軍はアルテミシオンから撤退します。

その後は、アテネが陥落するなどもありましたが、サラミスの海戦ではアテネの名将・テミストクレスの采配があたり、陸戦でもプラタイアの戦いでギリシアポリス連合が勝利しています。

テルモピュレイの戦いでは敗れましたが、オリンピックが終わるまでの時間稼ぎとなり、レオニダス王の死は無駄にはなりませんでした。

ペルシア戦争後は、アテネとスパルタが対立しますが、ペロポネス戦争でスパルタが勝利します。

レオニダス王は、テルモピュレイの戦いで最後を迎えましたが、スパルタは発展に向かっていく事になります。

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