その他 三国志

陳宮『曹操から呂布に鞍替えした男』

2020年7月4日

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宮下悠史

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陳宮は三国志に登場する人物で、最初は曹操に仕えていましたが、曹操を見限り呂布の配下となった人物です。

陳宮を見ると行動が非常に分かりにくい人物だとも感じました。

さらに、曹操を見限ったとはいえ呂布に仕えるのは、知恵者が行う事なのか?という疑問もあった次第です。

今回は陳寿の正史三国志をベースにして解説します。

曹操に仕えるまで

陳宮は兗州の東郡の出身であり、若い時から天下の著名な人物と交わりあっていた様です。

陳宮は兗州では名が通った人物だったのでしょう。

羅貫中の三国志演義だと、曹操が董卓暗殺に失敗し逃亡する時に助けた設定になっています。

陳宮は曹操の為に官職を辞めて一緒に逃亡するのですが、呂伯奢を曹操が誤って殺害してしまった時に、

「儂が人を裏切ろうとも、人が自分を裏切るのは許せない」という言葉を聞き、曹操に対して不信感を抱き、後に曹操と戦う事になります。

しかし、正史三国志を見ると呂伯奢と曹操の話の現場に陳宮がいたとは一言も書かれていません。

曹操に兗州の主にする

陳宮が曹操に仕えていた頃に、兗州刺史である劉岱が黄巾賊の残党に敗れ亡くなってしまいます。

兗州は主がいなくなってしまうのですが、陳宮は曹操に兗州の主になる様に勧めたとされています。

陳宮は兗州の出身であり、兗州の有力者を説得し曹操を兗州の牧にする事に成功しました。

曹操時代の陳宮の最大の功績は、曹操に兗州一国を取らせた事となるでしょう。

曹操から呂布に寝返る

194年に曹操の父親である曹嵩が陶謙の部下に殺害される事件が起きます。

曹操は東郡を陳宮、鄄城に荀彧程昱、濮陽を夏侯惇に守らせて、自らは徐州を攻めたわけです。

この時に、陳宮は突如、曹操に対して反旗を翻す事になります。

この時の首謀者は、陳宮か張超のどちらかだと思われます。

陳宮は張邈を説得し味方につけると、呂布を兗州に招き寄せていました。

張邈は劉翊を使者とし、荀彧から兵糧を奪おうとしますが失敗し荀彧に悟られる事になります。

陳宮が兗州の有力者に働き掛けたのか、鄄城、范、東阿の3城以外は、全て呂布や陳宮に靡く事になります。

陳宮や張邈が裏切った事を知った曹操は徐州に引き返す事になりますが、戦いは膠着状態に突入しました。

この時に、たまたま蝗が大発生したせいで、呂布と曹操の両方が先頭不可能な状態となり両軍とも兵を引く事になります。

陳宮が曹操を裏切った理由

陳宮が曹操を裏切った理由は、正確な事は分かっていませんが、様々な事が言われています。

曹操は徐州に侵攻した時に、虐殺をしたとされているわけです。

曹操の虐殺行為に陳宮が嫌気が指し見限ったとする説があります。

他にも、兗州の人々が曹操に失望した事も考えられるはずです。

兗州の人々が曹操の徐州虐殺の話を聞いて、兗州を任せるべき人物ではないと判断した説となります。

兗州の有力者を説得したのは陳宮であり、兗州の人々の声を聞いた結果として陳宮が曹操に反旗を翻した説となります。

陳宮が反旗を翻すと、鄄城、范、東阿の3城以外は、全て陳宮に靡いた事を考えると十分にあり得るでしょう。

陳宮が曹操陣営で居場所を無くし、反乱を起こした説もあります。

曹操は有力な人材を熱心に集めていて、194年の段階では荀彧や程昱の台頭があり陳宮の居場所が無くなってしまった説です。

後年に劉備の元を徐庶が去るわけですが、諸葛亮の台頭があり徐庶の居場所が無くなった説もあります。

同じことが曹操陣営でも起きた可能性も否定は出来ません。

陳宮が呂布を裏切る!?

194年の曹操と呂布の曹操の兗州攻防戦は、互角か呂布の方が優勢に戦いを進めていました。

しかし、195年の段階になると、曹操が一気に呂布を破ります。

荀彧の進言で曹操は麦を刈り取り食料確保が出来た事が大きかったのではないかと思われます。

呂布や陳宮は民衆の事を考えて、麦を刈り取る事が出来なかったのかも知れません。

呂布や陳宮は、徐州の主となった劉備を頼る事になります。

この時に劉備は呂布を丁重に扱ったのですが、呂布の方は話に一貫性が無かったり劉備の事を弟と呼ぶなど不遜な態度をした話があります。

劉備は不快に思いながらも呂布を保護するわけですが、劉備が袁術を攻めた時に、呂布が挙兵し劉備は窮地に陥ってしまいます。

劉備は前に袁術、後ろに呂布という窮地に陥ったわけです。

この時の劉備軍は兵糧が尽きて兵士同士で食べ合いを始めるなど、地獄絵図が展開されました。

結局、劉備は呂布に降伏するわけですが、劉備は呂布に対して恨みを抱いたのではないかと思われます。

呂布が徐州の主となりますが、配下の郝萌が呂布を急襲し、呂布が高順の陣に逃げると言う事件が起きます。

郝萌は高順が攻撃し討ち取る事になりますが、郝萌配下の曹性「共謀者は陳宮だ」と述べたわけです。

この時に陳宮は顔を赤らめた為に、その場にいた全員が陳宮が郝萌の反乱と関わっていた事に気付いたとされています。

しかし、この時の呂布は何故か陳宮の事を不問とした話があります。

曹操との最終決戦

198年に下邳において曹操と陳宮、呂布の最終決戦が行われました。

陳宮の策を聞かない呂布

呂布は高順に命じて劉備を攻撃する事になります。

陥陣営の異名をとる高順劉備を破り、さらに曹操の援軍としてきた夏侯惇も撃破します。

曹操が自ら徐州を攻めて彭城まで進軍してきます。

陳宮は、曹操の兵士は疲れているから、この時点で叩けば勝てると呂布に進言しますが、呂布はもっと引き付けておいてから討つべきと考えて陳宮の案を却下しました。

正史三国志の荀攸伝に呂布が出撃してきたが破った記述があるので、呂布は自分の作戦を実行した結果として敗れたのでしょう。

曹操は呂布が籠る下邳を囲む事になります。

曹操の攻撃が厳しかったせいか呂布は、降伏しようとしますが陳宮が降伏を止めた話しもあります。

陳宮は主戦派だったのでしょう。

陳宮は呂布が城外に出て、陳宮が城を指揮し戦う策を提案します。

曹操軍が呂布を攻めれば陳宮の軍が曹操軍の背後を攻撃し、曹操が陳宮が籠る城を攻めれば、呂布が曹操の背後を突く作戦です。

さらに、呂布が曹操軍の糧道を断つ事が出来れば、戦いに勝てるという策でした。

呂布は乗り気になりますが、呂布の妻が反対したために陳宮の策は実行されませんでした。

因みに、呂布は袁術に援軍要請をしますが、袁術は兵を出す構えを見せただけで援軍は送れなかった様です。

陳宮が捕虜となる

下邳を囲む曹操軍も苦しんでいたわけですが、郭嘉荀攸が曹操に水攻めを提案します。

荀攸の水攻めが成功すると、下邳の城内は苦しくなり上下バラバラの状態となったわけです。

呂布の配下である魏続、侯成、宋憲の3人は、主戦派の筆頭である陳宮を襲撃する事件が起きました。

陳宮は捕虜になってしまい曹操の前に連れていかれる事になります。

魏続、侯成、宋憲が呂布ではなく陳宮を捕えたのは、呂布の武力を恐れた可能性もありますが、主戦派の筆頭が陳宮だったからでしょう。

陳宮が捕まると、呂布は白桜門に登り包囲が厳しくなると、曹操に降伏しました。

因みに、呂布軍の名将である高順と張遼も捕虜となっています。

陳宮の最後

陳宮と曹操の問答が三国志の注釈に残っています。

曹操は知恵者であるはずの陳宮がなぜ捕虜になってしまったのか?と問うと、陳宮は呂布が自分の言う事を聞かなかったからだと述べています。

曹操は陳宮を再び配下にしたかったようで、其方が死んでしまったら年老いた母親や妻子はどうなるのか?と問います。

この時に陳宮は、孝を持って天下を治める者は人の親を殺さない、仁を持って天下を治める者は人の祭祀を絶やさないと言い放ち、処刑台に向かったわけです。

この時に曹操は引き留める事が出来ずに、涙ながら陳宮を見送ったとされています。

陳宮の方は曹操を振り返る事もしなかったそうです。

陳宮は処刑されてしまうのですが、三国志系の漫画やドラマでは陳宮の最後は名場面として扱われている事が多いと言えます。

陳宮の最後は見事なものだったのでしょう。

因みに、曹操は陳宮の妻子の面倒をしっかりと見た話が残っています。残された家族の面倒をしっかりと見る所は曹操らしいと思いました。

陳宮で思った事

陳宮で思った事を幾つかお話します。

陳宮は高順と仲が悪かったわけですが、非常に残念に感じます。

前漢王朝の初期に、宰相の陳平と将軍の周勃が協力し呂氏を滅ぼし漢王朝を守り抜いたわけです。

宰相と将軍が結束した事で力を発揮出来た部分があるのでしょう。

しかし、呂布の配下で知者の陳宮と陥陣営の高順は、陳平と周勃にはなれなかった様です。

呂布の配下には、張遼もいたのに滅亡してしまうのは残念に感じました。

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