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張魯は名君であり、まともな宗教指導者

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張魯は五斗米道の宗教指導者であり、三国志演義では野心家で感じがよい人物ではありません。

しかし、正史三国志を中心に見た張魯は、民衆の為の政治を行った様にも見えますし、名君と呼べる存在です。

劉焉から漢中を制圧する様に命令され、漢中で独立してしまった事実はあります。

それでも、史実の張魯を見る限り、行いはかなりまともだと言えるでしょう。

三国志の宗教勢力は、張角太平道笮融の仏教、張魯の五斗米道などがありますが、その中では張魯が一番まともだと言えます。

今回は、張魯がどの様な人物だったのかを解説します。

余談ですが、張魯は楚漢戦争で劉邦の軍師として活躍した、張良の後裔だとされています。

正史三国志では公孫瓚、陶謙張楊公孫度、張燕、張繡、張魯を「二公孫陶四張伝第八」とし、同じ伝に収録しています。

しかし、陳寿は評の部分では公孫瓚、陶謙、張楊、公孫度らの問題点を指摘し、張燕、張繡、張魯の方が優れていると述べています。

 

三国志演義の張魯

三国志演義の張魯を簡単に説明しますが、史実に比べると人間性が悪く描かれています。

三国志演義だと張魯は益州を奪い取ろうとしたり、王位を名乗ろうとするなど強欲で暗愚な人物として描かれています。

さらに、馬超と仲違いを起こしたりと、かなり酷い描かれ方をしています。

史実だと善政を行ったとされる張魯が暗愚な人物として、描かれてしまった理由は、三国志演義が蜀を正義としている事にある様です。

張魯は後に曹操に協力するわけであり、張魯が善人だと劉備陣営が霞んでしまう為に、張魯をあえて欲深い暗愚な人物として、羅貫中が描いたとされています。

しかし、史実の張魯はまともな感性を持った人物であり、周瑜、魯粛、曹操、曹真らと共に、三国志演義被害者の会に入ってもよい人物です。

 

五斗米道

史実の張魯を見る上で欠かせないのが、五斗米道の存在だと感じています。

五斗米道は、張魯が開祖の宗教団体に思うかも知れませんが、実際には張魯の祖父である張陵が始めた宗教団体です。

五斗米道は張陵の後継者に息子の張衡がなり、さらに張衡の子である張魯が後継者になった話があります。

五斗米道は、五斗(約10リットル)の米を治めれば信者になる事が出来た話があります。

しかし、五斗米道で得た資金を、張魯は自分の為に使わなかった話もあり、人格者ぶりを感じます。

尚、五斗米道は病気に掛かると犯した過失を告白させたとあり、太平道と同じような事をやっていたいと、正史三国志の張魯伝にあります。

さらに、「誠実であれ」「人を騙すな」など人間にとって基本的な道徳心に関しての、教えを説いていたわけです。

 

劉焉と張魯の母

張角が起こした黄巾の乱が皇甫嵩、朱儁、盧植らの活躍により平定されると、劉焉が益州の牧となり蜀の地に赴く事になります。

張魯の母親は巫術を使う事が出来て、姿が若々しかったとあり、今でいう美魔女だったのでしょう。

張魯の母親と劉焉は家を行き来する仲だったとあり、大人の関係も結んでいたと考えられています。

しかし、張魯の母親が劉焉に気に入られた事で、張魯にも道が開ける事になります。

劉焉は張魯を督義司馬に任命し、別部司馬の張脩と共に漢中太守である蘇固を攻撃させる事にしました。

 

漢中の主となる

華陽国志によれば、張魯と張脩の漢中侵攻に対し、蘇固は部下である陳調の防衛策を採用せず、逃走し身を隠した話があります。

蘇固は趙崇の所に逃げますが、趙崇は蘇固を隠すと、自分は様子を見て来るといい出掛けてしまいます。

趙崇がなかなか帰って来ない事から、蘇固は部下に様子を見に行かせますが、部下は捕まってしまい張脩に蘇固の居場所を教えてしまいます。

もちろん、蘇固は殺されてしまいますが、趙崇が蘇固の顛末を聞くと、激昂し単騎で張脩の軍に突撃を掛けたわけです。

趙崇は単騎にも関わらず、圧倒的な武力を発揮し、張脩の陣まであと一歩の所まで行きます。

しかし、多勢に無勢であり、趙崇は討ち取られ、漢中の地は平定される事になります。

ここで、思いもよらぬ事が起きます。

突如として張魯が張脩を攻撃し討ち取り、軍隊を奪ってしまったわけです。

普通に考えれば問題行動になるはずですが、劉焉が張魯を咎めた記録も無く、普通に張魯に命令を行っています。

劉焉にしてみれば、自分の言う事を聞いてくれれば、張脩でも張魯でも構わなかったのかも知れません。

 

張脩の謎

正史三国志だと張魯は父親である張衡の後を継ぎ、五斗米道を引き継いだ事になっています。

しかし、典略では張脩が五斗米道の教祖となっているわけです。

典略には張角が滅亡し、張脩も滅んだと記述があります。

典略では、張魯は漢中で張脩の教えが民衆に受け入れられている事に目を付け、張脩の教えに手を加え粉飾した事になっていました。

典略の記述を信じるのであれば、五斗米道の教祖は張脩であり、張魯は張脩死後に五斗米道の教えを利用した事になるでしょう。

この辺りは、正史三国志と整合性が取れない様に感じます。

尚、正史三国志に注釈を入れた張脩は、典略の記述は「張脩」ではなく、張魯の父親である「張衡」の間違いではないのか?と述べています。

さらに、典略が間違っていないのであれば、どこかで写し間違いがあったのではないか?とも言及しています。

張脩と張魯は同じ「張姓」ではありますが、関係もよく分かってはいません。

 

劉焉の野望

劉焉は張魯が漢中を平定すると、長安への通路である橋を焼き、漢の使者を殺害させています。

その上で、劉焉は都に次の様に上表しています。

「米賊(五斗米道の信者)が、道路を遮断したせいで都と連絡が取れなくなりました。」

劉焉は益州での独立を企んでおり、張魯を悪者とし都に上書したわけです。

張魯としてみれば、劉焉の命令があったからこそ、橋を焼き切ったのでしょう。

尚、荊州刺史の劉表は「劉焉に野心がある」と、朝廷に報告した話もあります。

ただし、劉表であっても天地を祀る儀式を行い、皇帝になろうとする野心を見せた事もあります。

劉焉や劉表の行動を見るに、後漢末期のカオスな様子を伺い知る事が出来るはずです。

劉焉の時代は、張魯は漢中の責任者ではありましたが、劉焉の命令で動いていたのでしょう。

 

張魯が漢中で独立

劉焉は西暦194年に亡くなり、劉璋が後継者となります。

劉璋が後継者になると、張魯は独立の動きを見せる様になったわけです。

劉璋は張魯が命令に従わぬ事を悟ると、張魯の母親や家族を皆殺しにしてしまいます。

これにより、劉璋と張魯は断絶し、張魯の漢中での独立は決定的となります。

劉璋は張魯討伐を考えますが、上手くは行かなかったわけです。

 

張魯の統治

張魯は漢中の主となるや自らを「師君」と名乗り、官職の整備を行っています。

張魯は宗教の力で漢中の統治を行い、最上位を自らである「師君」とし、上から「治頭大祭酒」「祭酒」「鬼卒」などの役職を置く事になります。

宗教での統治と聞くと、かなり危なそうに感じるかも知れませんが、三国志の中でもトップクラスでまともな行政を行ったのが張魯です。

五斗米道の教えでは、誠実さや人を欺いてはならない事を教えています。

さらに、張魯は官吏から市民に至るまで慈善を施した話がある程です。

信者に寄進させた五斗の米は、先にも述べた様に自らの為に使う事は皆無であり、貧しい人々に分け与えています。

張魯は義舎(現在の道の駅の様なもの)を設置し、米と肉を旅人に与えています。

他にも、罪を犯した者でも3度までは許し、4度目は道路工事などの公共事業に従事させた事で、地域の為に尽くさせた話もあります。

これを見ると、張魯の名君ぶりが分かるはずです。

新の王莽の様な現実離れした様な政策ではなく、思いやりを持ちながらも現実に沿った政治を張魯は行ったのでしょう。

張魯の善政は成果を上げ、難民や流民も張魯を頼って漢中にやってきた話があります。

張魯の勢力は拡大し、曹操も手が出せない程になり、朝廷からの義務も貢物だけとした話もあります。

朝廷は張魯を鎮民中郎将、漢寧太守にしています。

世間では董卓が暴政を行ったり、李傕と郭汜が泥沼の争いをし、曹操が呂布や群雄を討伐し、袁紹との官渡の戦いや、孫権との赤壁の戦いなどで激烈な戦いを繰り広げる中、漢中は30年に渡り平和だったとする記述もあるほどです。

三国志の時代は、人口の7割が死去したとも言われていて、民衆は非常に苦しんだ時代でもありました。

そうした中で、張魯は当時としてはあり得ない様な理想の楽園を誕生させたとも言えます。

 

王位に就かず

漢中の住民で地中から、玉印を手に入れ張魯に献上した者がおり、部下たちは張魯に漢寧王を名乗る様に進言した話があります。

地中から玉印が出たというのは、王が出現する瑞祥と部下たちは考えたのでしょう。

張魯も漢中が富んでいた事もあり、悩んだようですが、参謀の閻圃が次の様に述べています。

閻圃「漢川の住民は10万戸を超え、財力は豊かであり肥沃な地を有しております。

漢中の四方は堅固な地勢によって守られ、上手く行き天子を助ける事が出来れば、春秋五覇の斉の桓公や晋の文公の様にもなる事が出来るのです。

失敗したとしても、後漢の光武帝に帰服した竇融(とうゆう)の様にもなれます。

現在は、刑罰の権利も有しており、王になるまでもないでしょう。王を名乗れば自ら禍を招き寄せるだけです。

閻圃の進言を聞き入れた張魯は、王を名乗る事をしませんでした。

袁術が王位を名乗って自滅している所を見ると、張魯の聡明さが分かるような気がします。

 

馬超の出奔

西暦211年になると、鍾繇が張魯討伐を名目にして兵を挙げる事になります。

関中の馬超や韓遂は、張魯ではなく自分らが曹操の勢力に討伐されると感じ、兵を挙げる事になります。

この時に、朝廷にいた馬超の父親である、馬騰や一族の大半が処刑されています。

三国志演義では曹操が馬超の家族を処刑した為に、馬超は挙兵しますが、史実では馬超が反乱を起こした為に、馬騰らが殺害されています。

潼関の戦いで、曹操は馬超や韓遂の勢力を破りますが、張魯まで征伐する事は出来ませんでした。

尚、馬超や韓遂が挙兵した時には、張魯も楊昂を派遣し助けた話があります。

その後に、馬超は張魯を頼って漢中にやってきます。

張魯は馬超に娘を娶らせようとしますが、配下の者が次の様に述べています。

「身内を愛せない者が、他人を愛する事が出来るはずもありません」

張魯はこの言葉を聞くと馬超に娘を娶らすのを止めた話があります。

馬超は失地回復の為に、張魯に兵を借りて曹操の勢力と戦いますが、悉く失敗し馬超は楊白の言葉もあり、漢中に居づらくなったのか出奔する事になります。

ただし、張魯と馬超は仲が悪くなったわけではなく、馬超が出て行ってからも、馬超配下の龐徳(ほうとく)などは張魯の許に留まった話があります。

龐徳ら多くの馬超配下の者が漢中に残ったのは、張魯の仁徳なのかも知れません。

 

曹操との戦い

建安20年(西暦215年)になると、曹操の勢力が遂に漢中に手を伸ばす事になります。

張衛の奮戦

張魯は曹操が漢中に攻め寄せて来る事を知ると、降伏を決意する事になります。

曹操は赤壁の戦いで敗れたとはいえ、北方の大半を領有していますし、漢中しかない張魯では太刀打ち出来ないと判断したのでしょう。

しかし、張魯の弟である張衛は、曹操と決戦を主張し、自ら兵を率いて曹操に挑む事になります。

正史三国志によれば、曹操は散関から出て武都に行き、陽平関で張衛と戦う事になります。

ただし、この時に張魯は既に逃亡していた話もあります。

「魏名臣奏」の董昭の上奏文によれば、思った以上に張衛の防御が固く、曹操は多くの損害が出て撤退しようとした話があります。

しかし、道に迷い間違って敵陣に飛び込んでしまった部隊があり、張衛の軍は敵の奇襲を受けたと勘違いし、軍隊が混乱し、曹操がこの機を逃さずに攻撃命令を出し張衛を破った話があります。

「世語」では、張魯が巴中に逃亡し降伏を願い出たが、張衛には戦う意思があり、曹操は兵糧が切れかかったので撤退しようとしました。

しかし、曹操の部下で「張魯が降伏し、張衛が徹底抗戦しても孤立しているから勝てる」と進言した話があります。

それでも曹操はためらっていましたが、夜中に野生の鹿が数千頭も張衛の陣に突入した事で混乱が発生し、曹操の部下である高祚の軍が道を誤り張衛の軍と遭遇戦となったわけです。

この時に張衛の軍は混乱し、高祚は敵と遭遇した事で急いで軍鼓を打ち鳴らし、張衛は大軍と遭遇したと勘違いし、曹操に降伏した話があります。

正史三国志や世語などの記述を見ると、曹操は撤退も視野に入れていましたが、偶然が重なり張衛を撃破した事が書かれています。

 

張魯が逃亡

正史三国志によると、陽平関の戦いで敗北した事を知ると、張魯は地に平伏して降伏しようとした話があります。

しかし、張魯の参謀である閻圃は、次の様に述べています。

閻圃「追い詰められた状態で降伏しても評価は低くなるはずです。竇邑侯を頼るか朴胡(ふこ)のもとに行くべきです。

抵抗した後に、臣礼を取るのであれば、必ずや評価は高くなる事でしょう。」

張魯は閻圃の進言を聴き入れ、南山に逃走し巴中に向かう事になります。

張魯が逃亡する時に、張魯の部下達は蔵を全て焼き、宝物が曹操が手に入れる事が出来ない様にしようとした話があります。

ここで張魯は次の様に述べています。

張魯「私は元々は国家に帰順したいと考えていた。現在、その願いは叶えられないでいる。

これから逃亡するのも、敵の刃をかわすだけであり、悪意があるわけではない。

宝物が入った蔵は、国家の宝であるし、焼いてはならぬ。」

張魯は、蔵を焼くことなく封印し立ち去ったわけです。

曹操は南鄭に入ると、張魯の話を聞き大いに感心し、張魯は善良な心を持っていると認める事になります。

 

張魯が降伏

曹操は張魯を殺すのは忍びないと思い、張魯に使者を立てています。

張魯は曹操の使者に慰撫、説得され家族全員で出頭する事を決意したわけです。

曹操は張魯がやって来ると自ら出迎え、鎮南将軍の位を授け、賓客の礼をもって待遇し、閬中侯に取り立て1万戸を与え優遇した話があります。

さらに、張魯の五人の子と重臣の閻圃らを全て列侯に取り立てています。

張魯の娘は、曹操の子である曹宇の嫁に迎えた程です。

この様に曹操は張魯の人間性を認め、好待遇で帰順を許した事になります。

尚、正史三国志に注釈を入れた裴松之は、張魯は降伏したにも関わらず、1万戸を与えた事に関し、優遇し過ぎだと述べています。

それに対し、習鑿歯(しゅうさくし)は、曹操の張魯に対する態度は、賞罰の根本原理を認識していると考えた話が残っています。

曹操の張魯に対する評価は、やり過ぎという人もいれば、適正と考える人もいる状態です。

 

張魯と蜀の関係

余談ですが、張魯が逃亡したと聞くと、益州の主になっていた劉備は配下の黄権を張魯の元に向かわせ配下にしようとした話があります。

しかし、黄権が張魯に到達する前に、曹操が張魯を帰順させた為に、上手く行かなかった話があります。

ただし、劉備は蜀の地を手に入れると、北上し法正や黄忠の活躍もあり、魏の夏侯淵を破り漢中の地を支配する事に成功しました。

劉備が夷陵の戦いで敗れ、白帝城で亡くなると、諸葛亮は国内を整え南蛮征伐を行い、さらには北伐を始めています。

諸葛亮の北伐は、諸葛亮が五丈原の戦いの陣中で亡くなるまで続きますが、漢中は北伐の前線基地となっています。

諸葛亮は北伐では、民に対しかなりの無理をさせた様にも思いますが、漢中は張魯の遺徳があったのか、反乱が起きたなどの話もありません。

 

張魯と呉の関係

張魯と呉は、西と東に別れていて関係ないと思うかも知れません。

呉の孫権の勢力と張魯に関して調べてみたら、赤壁の戦い後に周瑜が益州の地を孫瑜と共に攻め取り、漢中の張魯も併呑しようとした話があります。

諸葛亮の天下三分の計ではなく、周瑜や甘寧の天下二分の計を進言しています。

周瑜のプランでは漢中の張魯の討伐が終わった後に、襄陽から北伐を行う作戦だった様です。

ただし、周瑜は蜀に攻め込む前に病死し、代わりに劉備が龐統などを連れ、益州に入る事になります。

呉書呂岱伝の記述では、西暦211年に呂岱が尹異ら二千の兵を率いて西方を目指した話があります。

孫権は漢興郡まで来るように、張魯に呼び掛けています。

ここで張魯と呂岱を孫権は、合流させるつもりだったのでしょう。

しかし、張魯が孫権を疑った為に、この計画は実行せれず、呂岱も帰還する様に孫権は命じています。

東の外れである海辺にいる孫権と、西の漢中にいる張魯の間にも、コンタクトはあったようです。

 

張魯の最後と子孫

張魯は一説によると紀元前216年に死去した事になっています。

曹操に降伏した翌年には、死去してしまった事になるはずです。

曹操に降伏したとはいえ、逃亡生活の精神的な疲労が蓄積されていたのかも知れません。

張魯の娘が曹宇に嫁ぎますが、曹宇の子が曹奐であり、曹魏の最後の皇帝となります。

ただし、曹奐の母親が誰なのかは不明であり、張魯の娘が母親ではないかも知れません。

魏では曹叡の代までは、皇帝の権力が強かったわけですが、曹爽との権力争いで勝利した司馬懿の一族が実権を握る事になります。

司馬懿亡きあとも、息子の司馬師、司馬昭と続き、司馬炎の代で曹奐が禅譲を行い魏は終焉を迎える事になります。

曹奐は皇帝の位を降りてからも生き続け、司馬氏の皇族の争いである八王の乱で死去したと伝わっています。

曹奐の母親が張魯の娘であれば、魏の最後の皇帝は張魯の血が流れていると言えるでしょう。

尚、張魯が頂点となって運営していた五斗米道ですが、現在も正一教(しょういつきょう)として続いています。

 

 

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