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構成・文/宮下悠史

秦末期・楚漢戦争

張良は劉邦に天下を取らせた軍師

2021年4月30日

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張良は漢の劉邦の軍師となり活躍した人物です。

戦国時代の韓の貴族の家柄でしたが、韓が滅びた事で秦に恨みを持ちます。

張良は軍隊を率いた事はありませんが、様々な献策により劉邦を助け天下を取らせた人物です。

三国志の荀彧が曹操に「我が張子房」と言ったり、秀吉配下の竹中半兵衛と黒田官兵衛の事を劉邦配下の張良や陳平に喩えられるなど、知者の代名詞になっている人物でもあります。

今回は劉邦の軍師となった張良がどの様な人物で、どの様な策を劉邦に献じたのかを紹介します。

尚、劉邦配下の張良、蕭何韓信の3人を漢の三傑を呼ばれる事もあります。

因みに、劉邦は天下統一後に自分が項羽を破る事が出来たのは「張良、蕭何、韓信の3人を使いこなす事が出来たからだ」と述べた事は有名です。

今回は中国史における諸葛亮、呂尚(太公望)と並ぶ、代表的な軍師である張良を解説します。

 

韓の大臣の家柄

史記によれば、張良は戦国七雄の韓の大臣の家柄だったとされています。

張良の祖父は開地で、父親は開平だと伝わっています。

張良も戦国時代は、「開」を姓としていたはずです。

張良の父親である開平は、韓の桓恵王の23年(紀元前250年)に死去した記録があり、この時の張良は子供だった事でしょう。

開平は韓の大臣だった様ではありますが、実績はよく分かっていません。

さらにいえば、この当時は秦が圧倒的に強く白起ら秦の将軍に手も足も出ずに、韓は領地を奪われています。

こうした中で、張良は幼少期や青年時代を過ごしたのでしょう。

尚、韓には申不害や韓非子などの思想があり、張良もこれらの思想に触れる機会はあったはずです。

ただし、張良が韓非子や申不害の事をどの様に思っていたのかは、記録がなく分かっていません。

 

韓の滅亡

韓は秦に歯が立たずに領土を割かれていき、紀元前230年に内史騰により韓の首都である新鄭が陥落し、滅亡しています。

史記などの記述を見るに、この秦との戦いで張良の弟が戦死したのではないかと考える事が出来るはずです。

張良の家は韓の大臣の家柄であり、召使は300人もいた様ですが、韓の滅亡と共に張良は庶民に身を落とす事になります。

張良は弟の葬式もせず、財産を使い秦に対して復讐を誓う事になります。

張良の外見は美女・婦人の様だったとあり、冷静沈着な人物として思われがちですが、内面に関してはかなりの苛烈な持ち主だとも言えます。

紀元前226年に韓の首都であった新鄭で、韓の元貴族たちによる大規模な反乱が起きたとする話もありますが、張良がどれほど関わっていたのかは不明です。

尚、秦は韓だけではなく、趙、魏、燕、楚などの諸侯を滅ぼし、紀元前221年に秦の王賁蒙恬李信が斉を滅ぼし秦の統一戦争は達成される事になります。

嬴政(秦王政)は天下統一すると、始皇帝を名乗る事になります。

 

張良の始皇帝暗殺計画

始皇帝の暗殺と言えば、戦国時代に燕の太子丹の密命を受けた荊軻が有名ですが、張良も始皇帝を暗殺しようとした話があります。

倉海君と力士

張良は家財を使い韓への復讐の為に、協力してくれる者を探す事になります。

張良は始皇帝の暗殺を狙っていたわけです。

しかし、始皇帝の暗殺などという大それた事に協力してくれる者はなく、途方に暮れる日を過ごしていました。

張良が淮陽に行った時に、倉海君なる賢者と出会う事になります。

倉海君は張良に力を貸す事になります。

倉海君が張良に力を貸した理由は、淮陽の地は楚の領域であり、楚は最後の王である昌平君項燕が、秦の王翦により敗れた事で滅亡した国でもあります。

この時の秦兵のの傍若無人ぶりが酷かったのか「楚は例え三家になろうとも、秦を滅ぼすのは楚なり」と言った話が残っています。

楚は反秦感情の強い地域であった為に、倉海君は張良に協力したのかも知れません。

倉海君は、張良に怪力の持ち主である力士を紹介する事になります。

大力の力士を手に入れた張良は、重さ約30キロの鉄槌を作り、始皇帝が天下を巡行する時の馬車を狙う事になります。

 

暗殺に失敗

始皇帝は天下統一後に、紀元前219年に泰山に登るなど、各地を巡遊する事になります。

始皇帝の巡行するルートに張良と力士が待ち構えており、暗殺計画に移る事になります。

張良と力士は、始皇帝の馬車を見つけると、鉄槌を投げつけ始皇帝の命を狙う事になります。

しかし、鉄槌は始皇帝の馬車には当たらず、副車に当たっただけで終わってしまいました。

張良や力士は暗殺に失敗した事を悟りますが、急いで逃亡する事になります。

命を狙われ激怒した始皇帝は、全国に張良の指名手配を出す事になったわけです。

この時に張良は姓名を変えて「張良」と名乗った話があります。

お気づきの方もいるかと思いますが、始皇帝の暗殺に失敗する前は「張良」ではなく、父親や祖父と同じように「開」を姓とした名前を名乗っていたはずです。

それが全国から指名手配された事で、名前を変える必要に迫られ、張良という名前に変えたのでしょう。

項伯と知り合う

張良は下邳に行く事になりますが、項伯と知り合い友人となります。

項伯は、後に秦を滅ぼす項羽の一族であり、項羽の父親の一番下の弟となります。

どの様に張良と項伯が知り合ったのかは不明ですが、項伯が人を殺してしまい逃亡しなければならなくなった時に、張良が項伯を助けた話があります。

張良と項伯は、項伯の方が年上ですが、助けて貰った仮があるせいなのか、後の事を考えると項伯は張良に関して、かなり気を遣っている様にも感じます。

尚、ここで張良が項伯を助けた事が、後の幸運を呼ぶことになったわけです。

 

太公望の兵法書

ある時に、張良が橋の上を歩いていると、一人の老人に会います。

老人は何を思ったのか、自分の靴をわざと橋の下に落とします。

老人は張良に向かって「拾ってこい」と命じたわけです。

張良は内心は怒りを覚えますが、相手が老人という事もあり、橋の下の靴を拾って来る事になります。

さらに、老人は「履かせろ」と言うと、張良は老人に靴を履かせてあげます。

老人は立ち去りますが、老人は突如として戻ってきて、「お前に教えたい事がある。5日後の早朝にここに来い」と張良に命じ帰って行きました。

5日後に張良は夜明けと共に出発すると、既に老人が先に待っていたわけです。

老人は張良に「老人を待たせるとは何事だ」と怒り5日後にまた来るように言います。

5日後に張良は鶏がなく時間に約束の場所に行き、まだ日が昇る前だったにも関わらず、老人は既にいました。

老人は張良を叱りつけ5日後にまた来るように命じます。

5日後に張良は夜半に出かけて橋の前に行くと、老人は来ておらず、暫くすると老人が来たわけです。

老人は張良に「こうでなくてはならぬ」と言い、太公望の兵法書を渡すと次の様に述べています。

老人「これを読めば王者の師となるであろう。10年後に汝は業を興す事になる。13年後に汝は儂を見る事になるであろう。穀城山下にある黄石が我である」

老人は、そう言い残すと去って行ってしまいました。

張良は老人から貰い受けた太公望の兵法書を熟読し、本当に帝王の師となるわけです。

尚、太公望は周王朝の文王や武王を補佐した名軍師であり、周が殷の紂王を牧野の戦いで破ると斉に封じられています。

太公望の書物と言えば六韜が有名ですが、張良が老人から受け取った太公望の兵法書と六韜の関係は不明です。

しかし、太公望の兵法書を手に入れた張良に道が開かれた事は間違いなさそうです。

ただし、張良の女性の様な風貌のせいか、張良の言葉を用いる人物はいなかったともされています。

 

劉邦に出会う

秦は始皇帝が亡くなると、始皇帝の遺言に反し胡亥が二世皇帝となります。

胡亥は兄である扶蘇を趙高らと計らい自刃させています。

さらに、蒙恬蒙毅などの建国の功臣たちも趙高により粛清される事になったわけです。

二世皇帝胡亥や趙高の政治が過酷だった事もあり、始皇帝の死と共に反発も生まれ陳勝呉広の乱が勃発します。

陳勝や呉広が反旗を翻しただけではなく、様々な人物が秦に対して行動を起こす事になります。

張良の挙兵しますが兵士が100人程度しか集まらなかった事もあり、景駒の軍に合流する為に留(地名)に向かう事になります。

景駒に合流する前に、張良は沛県の出身である劉邦に出会う事になります。

劉邦は張良の話を聞くと納得し、張良の献策を用いる事になりました。

張良は太公望の兵法書で学んだ事を様々な人に進言したのに、用いられなかったのに、劉邦だけは張良の言葉に耳を傾けたわけです。

張良は景駒に会いに行くのをやめ、劉邦の参謀として仕える事になります。

後に景駒は、北上してきた項梁に敗れ亡くなる事になります。

 

韓を再興する

項梁は楚の懐王の孫である「心」を楚王として擁立し、懐王を名乗らせる事になります。

張良は劉邦に断りを入れ、項梁に面会すると、次の様に述べた話があります。

張良「韓の公子である横陽君成は賢人であります。横陽君の成を韓王に立てれば、楚の勢力はさらに強大になるに違いありません。」

張良の策を聴き入れた項梁は、横陽君の成を韓王にしたわけです。

ここから先は、張良は劉邦の許を離れ韓王成と共に行動します。

張良は韓の故地の奪還を企て十余城を陥落させた話があります。

しかし、秦軍の反撃に遭い得た城を失うなどの事態にまで陥ってしまいました。

この頃になると、楚軍では項梁が秦の章邯に討たれ討死しています。

楚の懐王は「関中を最初に平定した物を関中王にする」と言い、項羽や劉邦を関中に向かわせています。

ただし、楚の懐王は項羽には、関中を目指す前に、王離や章邯に囲まれた趙の鉅鹿を救う様に命じています。

劉邦は関中を目指しますが、苦戦が続き洛陽を南下し、張良がいる付近まで来たわけです。

ここで劉邦と張良は合流し、韓王成には断りを入れ、再び劉邦の参謀として張良が立つ事になります。

尚、劉邦は秦に取り返された韓の城を見事に奪還する事にも成功しました。

 

劉邦軍の快進撃

劉邦は関中王になりたい為に、宛を無視し、急いで武関から関中に入ろうとしました。

ここで張良は劉邦に「宛を降しておかないと、前方には秦軍、後方には宛と挟まれる事となり、危うくなります」と述べた話があります。

張良の献策を聴き入れた劉邦は、宛の城を重厚に包囲した話があります。

南陽郡の太守は、絶望し自刃しようとしますが、配下の陳恢は自分が使者になる事を望みます。

陳恢は劉邦と面会すると、「宛の攻略には時間が掛かるから、南陽軍の太守を諸侯に封じて、宛を守らせた方が良い」と述べたわけです。

劉邦は陳恢の策を受け入、南陽郡の太守を侯とし、陳恢にも千戸を与えています。

南陽郡の太守が降伏した事で、秦の城では劉邦に降る者が多数現れ、劉邦は関中に向かって素早く進撃する事になります。

 

秦を降伏させる

劉邦は武関を超えると関中に乱入する事になります。

この頃になると、趙高が胡亥を殺し、趙高も子嬰により殺されていました。

秦王として即位した子嬰は、嶢関に数万の兵を送り劉邦軍を決戦を挑む事にします。

劉邦は連戦連勝だった事もあり、すぐに攻撃を仕掛けようとします。

張良は劉邦が危ういと考えて、次のような献策を行います。

張良「秦軍はまだ強く軽視するべきではありません。」

さらに、張良は秦の将軍が商人出身である事を伝え、利益をちらつかせると同時に、劉邦軍を大軍に見立てる様にしました。

張良は酈食其を秦の将軍の元に派遣し、利害を説かせて降伏させる様に進言します。

張良の策が成功した事で、秦軍は数万の兵と共に降伏し、ともに秦の首都である咸陽を目指す事になります。

さらに、劉邦は藍田において、秦の将軍を降伏させる約束を取り付ける事になります。

しかし、藍田の戦いにおいて張良は次の様に述べています。

張良「秦軍は将軍一人が降伏しただけであり、兵士らは納得したわけではありません。納得していない兵士を取り込めば、こちらが危険になります。今の秦軍は油断していますから、徹底的に打ち破るべきです。」

張良の進言を聴き入れた劉邦は、秦軍を突如攻撃し、大敗させています。

不意を衝かれた秦軍は、いとも簡単に敗れたわけです。

張良の進言は騙し討ちであり、卑怯な行動ではありますが、秦は虎狼の国とも呼ばれ裏切りを常としていた国でもあり、張良も信義を持って戦う事はしなかったのでしょう。

ここにおいて、秦王子嬰は降伏を決意し、軛を掛けて劉邦の前に現れ、皇帝の璽、符、節などを劉邦に渡したわけです。

 

咸陽に入城

子嬰が降伏した事で、劉邦は秦の首都である咸陽に入る事になります。

咸陽には阿房宮と呼ばれる壮大な宮殿や、中国全土から集められた数千人の美女がいたわけです。

ここで樊噲が、秦の宮殿を出て外で宿営する様に言いますが、劉邦は聞く耳を持ちません。

すると、張良が劉邦に進言する事になります。

張良「秦は無道を行った為に、沛公(劉邦)はここまで来る事が出来たのです。天下の為に有害な賊を取り除くのであれば、喪服を着て秦に無残に処刑された人々への弔意を示すべきです。

秦に入った者が快楽を優先させるのであれば、夏の桀王を助けて暴虐をするのと同じです。忠言は耳が痛いですが、実行すれば効き目があり、良薬口に苦しと同じ意味となるでしょう。

樊噲の言葉を聴き入れるべきです。」

張良の言葉を聴き入れた劉邦は、咸陽を出て覇上に陣を移す事になります。

劉邦は張良の言葉であれば、何でも受け入れる事が出来たと伝わっています。

 

項羽が関中に到着

項羽は鉅鹿の戦いで、秦将王離を破り趙歇、張耳、陳余などを救っています。

さらに、殷墟で秦の章邯の軍を破り、関中に向かう頃には40万もの大軍になっていたとも伝わっています。

項羽の軍は函谷関に迫っていたわけです。

ある人が、劉邦に「ここを保つには、函谷関を守り西進してくる項羽の軍を入れてはなりません」と献策しました。

劉邦はこの意見を聞き入れて、急いで函谷関の守りを固めたわけです。

項羽は劉邦の行動に怒り、配下の黥布に函谷関を攻撃させる事にしました。

黥布は函谷関を抜き、楚軍は咸陽を目指して西進する事になります。

この時に、劉邦配下の曹無傷は項羽に内通し、「劉邦が関中の王になるつもりだ」と伝えました。

項羽の軍が40万もいるのに対して、劉邦の軍は10万程度しかいなかった話があります。

項羽は覇上にいる劉邦の軍に攻撃を仕掛けようと考えていたわけです。

ここで、過去に張良に恩があった項伯が動く事になります。

 

項伯が劉邦を助ける

項伯は過去に張良に恩があり、張良の命の危険を感じ、項羽の陣を抜け出し張良に面会を求める事になります。

項伯は張良に次の様に述べた話があります。

項伯「明日になれば項羽は沛公(劉邦)を殺す事になるであろう。汝(張良)も巻き添えをくらう事になる。汝はここから去った方がいい。儂も一緒に行く。」

項伯は恩人である張良の為に、項羽が劉邦を攻撃しようとしている事を伝えに来てくれたわけです。

これに対して、張良は「自分は韓王の為に劉邦に付き従っている。ここで逃げ去るのは不義だ。」と言い、項伯を連れて劉邦に面会する事になります。

劉邦は驚き対策を尋ねると、劉邦が自ら項羽の陣に行き項伯と共に、項羽に謝罪するべきだと、張良は伝える事になります。

項伯は劉邦の為に、項羽に劉邦を許す様に説得したわけです。

さらに、劉邦も項羽に陳謝する事になります。

 

鴻門之会

項羽と劉邦は鴻門之会を開き会談する事になります。

この時に、項羽の参謀である范増は劉邦を危険人物としてみなしており、亡き者にしようと企てていたわけです。

劉邦は項羽に函谷関を閉じたのは、盗賊に備える為だと伝え敵意がない事を示します。

それでも、范増は項荘を使い劉邦を亡き者にしようと企みますが、項伯により阻止されています。

さらに、樊噲の活躍もあり項羽が劉邦を危険視していなかった事で、劉邦は危機を免れたわけです。

劉邦は厠に行くと見せかけて、密かに馬に乗り去る事に成功しました。

劉邦が去った後に、残った張良は白璧一双を項羽に献じ、范増にも玉斗一双を献じ、劉邦が自陣に帰った事を伝えています。

張良の去った後に、范増は張良から献じられた宝玉を破壊し、項羽に劉邦を処罰する様に求めますが、項羽は劉邦を罰する気はありませんでした。

この項羽の見通しの甘さが、劉邦及び張良を助けたとも言えるでしょう。

尚、項羽は会談の中で、劉邦を悪く言ったのは曹無傷だと伝えた事もあり、劉邦は曹無傷を鴻門之会の後に処刑しています。

 

韓王成が斬られる

項羽は咸陽に進撃すると、咸陽を破壊し、秦王子嬰を殺害し、秦の宮殿も焼いてしまいます。

そして、諸侯の分封を行い劉邦は巴蜀の地が与えられ、封地に向かう事になります。

劉邦が去る時に、張良は次の様に言った話が残っています。

張良「王(劉邦)はなぜ通ってきた桟道を焼き、東に還る気持ちがない事を天下に示し。項羽を安心させないのですか。」

これにより劉邦は桟道を焼き、東に還る意思がない事を示した話が伝わっています。

ただし、ちゃんと東に還る抜け道は用意していた話もあります。

韓王成は陽翟にを都にする様に、項羽に命じられる事になります。

張良は韓の新たなる首都である陽翟に向かいますが、項羽は韓王成を陽翟に行かせる事はありませんでした。

項羽は劉邦を助ける張良に不快を覚え、さらに功績が少ない韓王成に国を与えたくなかったとも言われています。

張良は劉邦が桟道を焼き、敵意がない事を示し安心させた話もあります。

しかし、項羽は韓王成を侯の身分に落し、さらには彭城で殺害してしまったわけです。

ここにおいて韓は再び滅亡する事になります。

張良は項羽に「斉の田栄は趙と連合し楚を滅ぼそうとしている」と告げ、自身は劉邦の許に向かう事になります。

 

張良の進言

この時の劉邦は韓信を大将軍とし、既に董翳、司馬欣、章邯を降し、三秦の地を手に入れていたわけです。

張良から彭城ががら空きになっている事を聞いた劉邦は、諸侯の軍を集め彭城を急襲する事になります。

この時の劉邦は諸侯の軍を合わせると56万もの大軍だった話があります。

劉邦は彭城を陥落させると、諸侯と共に大宴会を催し、すっかりと油断してしまった話があります。

この時に張良が劉邦に、意見しなかったのかは不明です。

項羽は本拠地の彭城が落とされた事を知ると、烈火の如く怒り急いで彭城に帰る事になります。

項羽の軍3万に急襲された劉邦の軍は56万もいるのに、大敗し多くの将兵が討たれています。

普通に考えれば56万の軍勢がいる劉邦の天下統一で決まりなのですが、圧倒的な強さを見せる項羽の前に再び逆転を許す事になったわけです。

劉邦が敗れると、魏豹が離脱したり、趙の陳余も張耳との因縁から劉邦に背く事になります。

戦いに敗れた劉邦は張良に自分は函谷関の東の地は捨てると宣言し、捨てる代わりに自分と天下を分ける人物を訪ねる事になります。

ここで張良は次の様に答えています。

張良「楚の九江王の黥布は、項羽とは上手く行っていません。彭越は斉王田栄と共に、梁の地で反乱を起こしています。黥布と彭越には急いで使者を送るべきです。

漢王(劉邦)の諸将の中では、韓信だけが一方を任す事が出来ます。関東の地を棄てるのであれば黥布、彭越、韓信の三名に、拾わせるべきです。」

張良の言葉を聞いた劉邦は、随何に黥布を説得させるなど、黥布、彭越、韓信を味方とし、項羽を悩ませる様になった話があります。

この後の項羽は陳平の策略により、范増を去らせてしまうなどもあり、戦いに勝っても状況が不利になっていきます。

さらに、劉邦の将軍である韓信が魏豹を倒し、陳余を井陘の戦いで破るなど勢力を拡大させたわけです。

 

韓信が斉王になる

韓信は劉邦に命じられて斉の攻略に向かいます。

しかし、劉邦は独自に外交を展開し、酈食其を斉に派遣し降伏させています、

酈食其の弁舌により、斉王の田広や首脳部の田横は漢に味方する事を決めたわけです。

田広や田横は防備を解除したわけですが、異心を持った韓信は、蒯通の進言を聴き入れ、降伏した斉を急襲しました。

漢に裏切られたと思った、斉の田広らは酈食其を煮殺した話もあります。

韓信は斉を手中にしますが、斉は楚に援軍を依頼し、項羽は龍且を派遣しています。

韓信は濰水の戦いで奇策を用いて、龍且を破ると蒯通の進言もあり、劉邦に斉王になりたいと使者を出す事になります。

劉邦は韓信が斉王になりたいと使者を派遣してくると、不快だと思いますが、張良と陳平に足を踏まれ合図を送られます。

張良は劉邦に、「韓信を斉王に認めないと、漢は不利になる」と諭しています。

張良や陳平は韓信が独立したり、項羽に味方する事を恐れて、韓信を斉王に認める様に説得したわけです。

韓信は、これにより斉王になっています。

 

韓信と彭越

張良の戦略や陳平の智謀、韓信の采配、蕭何の補給などもあり、項羽は彭越に糧道を断たれるなど不利な状況に陥っていきます。

ここで項羽は鴻溝から西を劉邦、東を項羽が治める様にし、天下を二分しようと提案する事になります。

劉邦も項羽の提案を了承し、項羽は東に還り、劉邦も西に帰ろうとします。

しかし、ここで張良が劉邦に進言する事になります。

張良「項羽の軍は兵糧が少なく疲弊しています。項羽を追撃するべきです。」

張良だけではなく陳平も、和約を破棄し項羽を追撃する事に賛成しました。

劉邦は彭越や韓信らにも使者を派遣し、期日を決め約束の場所に集まる様に言い渡します。

しかし、韓信も彭越の定めた日時には、現れずに逆に劉邦は項羽に反撃を許す事になります。

困窮した劉邦は、張良に韓信と彭越がやってこない理由を尋ねた話があります。

張良「楚を破るのは目前にも関わらず、韓信や彭越が現れないのは当然の事です。韓信も彭越も得られる領地が定まっていないからです。」

張良の言葉に従い、劉邦は陳より東の海までの地域を韓信に与え、彭越には睢陽の北から穀城に至る地域を与え梁王にする事を約束しました。

韓信と彭越の領地を定めると、二人は援軍としてやって来る事になります。

 

四面楚歌

韓信と彭越の援軍を得た劉邦は垓下で項羽を包囲する事になります。

この時に、張良は楚の歌を垓下の四方から流す事で、項羽軍の心を折る作戦を実行したと言われています。

これが四面楚歌の語源であり、現代では「周りが敵だらけ」の状態を四面楚歌と呼ぶようになっています。

四面楚歌により楚軍は脱走兵が多数出て、戦える状態では無くなってしまったわけです。

項羽は800の兵で城を出ますが、烏江まで行くと追撃してきた漢軍と激戦を繰り広げますが、多勢に無勢であり最後は自刃しています。

項羽の死により楚漢戦争は終わりを迎える事になります。

張良が凧に乗った?

四面楚歌で変わった話があり、張良が体重が軽い事を生かし、凧に乗り空中から楚の歌を届けた話があります。

しかし、これは虚構の世界での話だと思われます。

張良は確かに華奢な体型であった事が分かっていますが、凧に乗るのは現実的ではない様に思うからです。

日本の忍者も漫画などの世界では、凧に乗って空中を飛びますが、現実的だとは言えないでしょう。

絶対にありえないとは言いませんが、張良が凧で四面楚歌を行ったのは、虚構の世界の話だと感じています。

 

留侯に任ぜられる

楚漢戦争が終焉を迎えると、皇帝となった劉邦は論功行賞を行う事になります。

この時に劉邦は、「策を巡らし、勝ちを外の千里に決するのは、子房(張良)の功績なり。斉の三万戸を選んで欲しい」と言ったわけです。

つまり、斉の三万戸であれば、好きな地域に張良を封じると宣言した事になります。

張良は劉邦に次の様に述べています

張良「私は下邳から始り、主上とは留でお会いしました。これは天が私を陛下(劉邦)に授けた事になります。私は留に封じてくれれば十分です。斉の三万戸には相応しくはありません。」

これにより張良は留県に封じられる事になったわけです。

張良は留侯とも呼ばれる様になります。

尚、史記には諸侯の歴史書が書かれた留侯世家があり、張良の事が書かれています。

 

謀反を未然に防ぐ

劉邦は洛陽におり、功績が大きかった20名ほどの、論功行賞は無事に終える事が出来たわけです。

しかし、それ以外の者の論功行賞は中々進みませんでした。

こうした中で、劉邦が洛陽の南宮から諸将たちが話をしているのを、見かける事になります。

これを見た劉邦は、張良に「諸将らは何をしているのか?」と尋ねる事になります。

すると、張良は次の様に答えています。

張良「陛下(劉邦)は、ご存知ないのですか?あれは謀反を企んでいるのでございます。」

劉邦は驚き「天下は定まったのに、何故、今になって謀反を起こそうとするのじゃ。」と張良に言います。

張良「陛下は布衣の身から天下をお取りになりました。しかし、褒賞を得る事が出来たのは、蕭何や曹参などの信愛している人物だけです。

さらに、陛下が嫌っている者は誅殺されています。諸将らは自分らは封地を得る事が出来ず、誅殺される事を恐れているのです。それ故に、謀反を起こそうと考えているのです。」

これを聞いた劉邦は、慌てて対策を述べると、張良は「郡臣の中で陛下が嫌っている事は明らかな人物で、その事を群臣も知っている者を封じてください。」と伝えています。

これにより劉邦は、雍歯を列侯に封じる事にしたわけです。

雍歯が列侯に封じられた事を知った諸将は、「雍歯でさえも列侯になれるのであれば、何の心配もない」と語り、落ち着きを取り戻した話があります。

張良の進言により、謀反は未然に防がれたとも言えるでしょう。

 

長安に遷都

劉邦は洛陽を本拠地にしていましたが、劉敬は関中にある長安を首都にする様に勧めた話があります。

劉邦の諸将の多くは関東の出身だった事もあり、成皋、伊水、洛水の堅固さがあると言ったわけです。

これに対して、張良は次の様に述べています。

張良「洛陽は確かに、諸将の言う様な堅固さはありますが、土地が狭く痩せています。さらに、四方から敵が集まる土地でもあります。

それに比べ関中であれば肥沃な地は千里を超え、胡や大宛から通商の利益を得る事も出来るのです。

さらに、函谷関や山々の険阻さがあり、ただ一面を持って東を制するだけで諸侯を制す事が出来ます。」

これを聞いた劉邦は、張良の言葉に従い関中に入り、前漢は長安を首都にする事になったわけです。

尚、中国では唐など歴代王朝が、関中にある長安を首都にした話もあります。

 

前漢の後継者問題に終止符を打つ

劉邦の皇后は、呂后と言い糟糠の妻でもあります。

しかし、劉邦は側室の戚夫人を愛し、戚夫人との間に出来た子である劉如意を後継者にしたいと考える様になります。

劉邦と呂后の間に出来た子である、劉盈(後の漢の恵帝)は大人しい人物であり、劉如意が活発で才気が溢れていた事も原因と言われています。

呂后としては自分の子である劉盈が皇帝になれないのではないか?と危ぶんだわけです。

もちろん、漢の大臣の中にも周昌の様な長子である、劉盈を後継者にするべきだとの声もありましたが、劉邦が強引に劉如意を後継者にしないかと呂后は不安でした。

困り果てた呂后は、張良に相談する事になります。呂后は張良のいる留に呂沢を派遣し意見を求めています。

張良としては気が進まぬ部分もあったようですが、次の様に答えています。

張良「陛下(劉邦)が東園公、甪里先生、綺里季、夏黄公の4人を招聘しましたが、応じる事はありませんでした。

しかし、陛下は逆に東園公、甪里先生、綺里季、夏黄公ら4名の事を尊敬しているのです。彼らを太子(劉盈)が呼び寄せる事が出来たならば、陛下の気持も変わるやも知れません。」

張良の言葉に従い、呂后や劉盈は東園公、甪里先生、綺里季、夏黄公ら4人を招致し配下にしています。

劉邦は宴席の時に、太子である劉盈の後ろに並々ならぬ4人の人物が控えている事に気が付きます。

劉邦はあの者達は誰か?と尋ねると、東園公、甪里先生、綺里季、夏黄公だと伝えられ、驚きを隠しませんでした。

彼ら4人は劉邦が礼儀に欠けるから応じなかったが、劉盈の謙虚さを慕っている事を知り、皇太子を変える事を止めた話があります。

これにより劉盈と劉如意の後継者問題に終止符が打たれる事になります。

劉邦は戚夫人には「儂は太子を変えようと考えておったが、あの4人が太子を補佐するのであれば、既に羽と翼が生えてしまった様なものだ。どうにも出来ぬ。呂后が其方の主になるであろう。」と伝えた話があります。

余談ですが、劉邦は黥布討伐が終わってから、間もなくして亡くなっています。

張良の生涯の主である劉邦は紀元前195年に崩御したと言う事です。

劉邦の後継者は、劉盈となり皇帝に即位しますが、母親である呂后の時代に入る事になります。

 

張良の最後

張良は劉邦の死後に数年してから亡くなったとされています。

張良は女性の様な容貌だったわけですが、病弱な体質でもあったわけです。

張良は自らを述懐すると、次の様に述べています。

「我が家は、代々韓の宰相であった。韓が滅びた時は財産を惜しまずに、韓の仇である秦に報い天下を震撼させた事もある。

しかしながら、現在は帝王の師でもあり、万戸に封じられ列侯にもなる事が出来た。

これは庶民の極みであり、儂は満足しておる。後は赤松子(仙人の名)に従って、遊びたいと思うだけである。」

史記によれば、張良は穀類を食べなくなり、道引の術を覚え、身を軽くする事を学んだとあります。

張良は天下統一後は、仙人の様な修業を始めた事になるのでしょう。

呂后は張良に恩を感じており、「人間の一生は、白駒が戸の間を通り過ぎる様に一瞬です。自ら苦しむ必要はありませぬ。」と伝えた話があります。

張良は呂后の言葉を聞くと、穀物を食べる様になった話があります。

張良は9年後に亡くなったとされ、文成侯と諡される事になります。

尚、張良が過去に太公望の兵法書を授けたとされる老人が、穀城山下の黄石だと言う話があり、張良は黄石を実際に見つけて大事にした話があります。

張良の死後には、黄石も葬り祀った話もあるわけです。

尚、張良が天下統一後に、漢の大臣にもならずに、仙人の修業をしたのは、出処進退の意味もあるのかも知れません。

 

張良の子孫

張良の子孫ですが、張良が亡くなると息子の張不疑が後継者となります。

呂后は張良に対して、敵意を抱いていなかった為か、呂后の時代は無事に通り過ぎる事になります。

しかし、呂后が亡くなり陳平や周勃が、呂氏を排除すると劉邦の子である劉恒(漢の文帝)が即位しました。

張不疑は漢の文帝の時代に、罪を犯し国を除かれた話があります。

張良には、張辟彊という子もおり、張辟彊は聡明さを丞相の陳平に驚かれた話があり、陳平からは「父君(張良)からの進言の様だ」と言われています。

尚、三国志に登場する五斗米道の教祖である張魯は、張良の子孫とも伝わっています。

どこまで本当かは分かりませんが、張良が仙術を学んだのと、張魯の五斗米道は何かしらの繋がりがあるのかも知れません。

張良は後世まで知者の代名詞となった事は間違いないでしょう。

 

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