三国志

趙雲の史実・三国志随一の人気キャラだが謎が多い

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趙雲は三国志でも、随一の人気キャラではないかと思っています。

趙雲以外の人気キャラで言えば、諸葛亮関羽張飛劉備などが挙げられるはずです。

しかし、後述しますが、諸葛亮、関羽、張飛、劉備はアンチがいる事も事実と言えます。

趙雲は三国志演義では五虎大将軍に選ばれていますが、実際の趙雲は関羽、張飛、馬超黄忠と同格ではありません。

関羽、張飛、馬超、黄忠よりも遥かに下の役職だったわけです。

正史三国志を記述した陳寿は、趙雲の実力を認めたのか関羽らと同じ伝に収録されています。

人によっては、趙雲は不遇の人生を送っていたのではないか?と考える人もいます。

今回は史実の趙雲が、どの様な人物なのか解説します。

さらに、「追記」として三国志演義での趙雲の活躍も解説しました。

史実の趙雲と比べてみると、面白いのかも知れません。

尚、趙雲と言えば三国志演義では最も一騎打ちを行った武将ですが、史実の趙雲は一騎打ちを行った記録が存在しません。

 

趙雲の人柄

趙雲は字が子龍であり、常山真定県の出身です。

趙雲の字が「子龍」と言うのも、有名であり名前からカッコよさが出ている様に感じがします。

正史三国志で裴松之が採用した注釈である、趙雲別伝(後述)によると、趙雲は身長八尺(184cm)、姿や顔つきが立派だったとあります。

趙雲別伝の記述を信じるのであれば、趙雲は今でいうイケメンであり、容姿に優れていた事になるでしょう。

尚、正史三国志では容姿が優れていた人物として周瑜孫策、荀彧、馬騰などがいます。

因みに、趙雲は白龍と呼ばれる馬に乗っていた話しもありますが、正史三国志には愛馬の白龍は登場しません。

 

公孫瓚の配下となる

趙雲は世の中が乱れて来ると、郷里の郡から義勇兵の隊長に推挙され、公孫瓚の元に赴く事になります。

当時の北方では袁紹と公孫瓚が争っており、公孫瓚は州の民衆らが袁紹に味方する事を憂いていました。

趙雲が公孫瓚の元に現れると、公孫瓚は喜びますが、趙雲をからかって次の様に述べた話があります。

公孫瓚「君の地方の住民は袁氏に味方する事を願っていると聞く。

それなのに君は、一人だけ思い直し、なぜ正道に向かう事が出来たのかね。」

公孫瓚の問いに対して、趙雲は次の様に答えています。

趙雲「現在の天下の者は色々と言っておりますが、誰が正しいのかは皆が分からず、人民は憂慮しておられます。

私共は、仁政を行う者に従うのであり、袁公(袁紹)を軽視し、将軍(公孫瓚)を贔屓するものではありません。」

上記は趙雲別伝の話ですが、趙雲の頑固な性格を現わしている様にも思います。

 

劉備との出会いと別れ

趙雲は公孫瓚の配下となりますが、この頃に劉備も公孫瓚を頼って身を寄せていたわけです。

劉備は趙雲を知ると高く評価した話があります。

正史三国志によれば青州で戦っていた、公孫瓚配下の田楷の援軍に劉備が向かう事になり、趙雲が随行し主騎になったとあります。

後に、田楷と劉備は陶謙の救援に向かいますが、この頃に趙雲の兄が亡くなり郷里に帰る事になったと考えられています。

劉備は趙雲が戻る意思がない事を悟り、手を握り別れを惜しむ事になります。

趙雲は劉備に次の様に述べています。

趙雲「絶対に恩徳を裏切りません。」

趙雲は頑固で義理堅い面がある様に見受けられる事から、兄が亡くなった時に喪に服さない訳にはいかなかったのでしょう。

趙雲は去りますが、劉備と趙雲の元には信頼関係が築けていたはずです。

 

劉備との再会

劉備は陶謙から徐州を譲られて主となりますが、呂布を招き入れた事で徐州を乗っ取られてしまいました。

劉備は袁術と戦ったりもしましたが、最終的には曹操の元に逃げ延びます。

後に劉備は曹操に反旗を翻し、北方の袁紹の元に逃れる事になりました。

劉備が鄴を訪れると、趙雲と再会した話があります。

この時に、劉備は趙雲と同じ床で眠った話があり、関羽や張飛並みに趙雲を大切に扱ったのでしょう。

 

趙雲が数百の兵を集める

袁紹と曹操の間で官渡の戦いが勃発します。

劉備は袁紹配下として働き、汝南近辺を荒らしまわる事になります。

劉備は趙雲を派遣し、数百の兵を得る事が出来ました。

趙雲が集めた兵士は「劉将軍(劉備)の部下」を名乗っていましたが、袁紹は知る由もなかったとする話があります。

しかし、劉備軍の兵士は袁紹からの借り物であり、自在に動かす事が出来なかったのか、曹仁に敗れています。

袁紹の元に劉備は戻りますが、曹操軍として参戦していた関羽が顔良を斬った事もあり、居心地が悪かったのか荊州に赴く事になります。

趙雲も劉備と共に荊州に向かいました。

 

博望坡の戦い

劉表から新野を任された劉備ですが、曹操軍の夏侯惇と博望坡で戦う事になります。

博望坡の戦いで、趙雲は夏侯蘭を捕える活躍を見せています。

夏侯蘭を捕える

劉備と夏侯惇は対峙しますが、劉備は陣営を焼き払い撤退しました。

夏侯惇は自ら追撃に出ますが、劉備の用意してあった伏兵が現れます。

夏侯惇は窮地に陥りますが、李典が救援に駆け付けた事で難を逃れました。

この時に趙雲が同郷の夏侯蘭を捕える武功を挙げた話が、趙雲別伝にあります。

趙雲と夏侯蘭は幼少の頃より、知り合いだったと記述されています。

夏侯蘭は趙雲の同郷であるとしている事から、夏侯惇や夏侯淵の一族ではないと考えられています。

 

夏侯蘭を推挙

趙雲は夏侯蘭を捕えますが、劉備に口添えを行い夏侯蘭の命を助けています。

さらに、趙雲は夏侯蘭を法律に詳しいとして推挙し、劉備は夏侯蘭を軍正としました。

趙雲は夏侯蘭を助けましたが、それ以後は自分から夏侯蘭に接近しようとはしなかったとあります。

趙雲は性格からいって、派閥を形成したりするような人物ではなかったのでしょう。

他にも、人づき合いには慎重だった話もあります。

趙雲は武人ではありますが、賈詡(かく)の様な人付き合いを行っていたと見る事が出来ます。

 

長坂の戦い

長坂の戦いは、趙雲の最大の見せ場です。

甘夫人や劉禅を救う活躍を見せています。

劉備の南下

劉表が亡くなると、劉琮が後継者となりますが、親曹操派の意向もあり、劉備に無断で曹操に帰順してしまいました。

劉備は怒りますが、曹操軍が迫っている事もあり、南下を始めます。

この時に劉備は10万の民衆を引き連れていた事で、行軍速度が遅かったわけです。

曹操は自らの精鋭部隊である虎豹騎を出し、劉備軍を猛追しました。

劉備は長坂で曹操軍に追いつかれて、窮地に陥ります。

 

甘夫人と劉禅を保護

劉備は窮地に陥り妻子を捨てて逃亡しました。

ここで趙雲が獅子奮迅の活躍をする事になります。

趙雲は劉備の子である阿斗(劉禅)を保護し、曹操軍を蹴散らし甘夫人も保護する事に成功しています。

劉備は先に安全地帯まで非難していましたが、趙雲が中々帰って来なかったわけです。

劉備に対して「趙雲は北方に逃げたに違いありません。」と述べた人がいました。

劉備は、趙雲を讒言した者を手戟で叩き、次の様に述べています。

劉備「子龍(趙雲)が自分を見捨てて逃げるはずがない。」

劉備の趙雲への信頼の高さが分かる話です。

それから暫くして、趙雲が甘夫人と阿斗を保護して現れたわけです。

劉備の喜びは大きかった事でしょう。

 

美人の樊氏

長坂の戦い後に、劉備は魯粛と出会い孫権と同盟を結びました。

周瑜や黄蓋の活躍もあり、赤壁の戦いでは曹操軍に勝利しています。

後に劉備は荊州南部を孫権から借用し、趙雲を偏将軍・桂陽太守に任命しています。

元の桂陽太守である趙範は、趙雲と誼を結ぼうと考え、兄嫁で未亡人となっていた樊氏を趙雲に勧めました。

樊氏は大変な美人であり、趙雲の周りの者も樊氏を娶る様に勧めています。

しかし、趙雲は趙範に次の様に述べ、縁談を断わっています。

趙雲「あなたと私は同姓であり、兄嫁であったのなら、それもまた同性です。

お受けする事は出来ませぬ。」

樊氏を娶る事を趙雲は固辞したわけです。

趙雲は樊氏との縁談を断わった理由として、部下に次の様に述べています。

趙雲「趙範は切羽詰まって降伏したに過ぎない。

よって趙範の心底を計る事は出来ない。

それに天下に女性は大勢いるのだから。」

趙範は趙雲が辞退した事で不安となり、曹操の元へ逃亡しています。

美人の樊氏を娶らなかった事に対し、趙雲は何の未練も持たなかったとされています。

この事から、趙雲女嫌い説も存在するようです。

関羽が呂布配下の秦宜禄の妻を欲した話がある事を考えると、関羽よりも趙雲の方が女性に対して欲がないと考えるべきでしょう。

 

孫尚香を取り締まる

劉備は孫権の妹である孫尚香(孫夫人)を娶っていましたが、孫尚香が我儘で困っていたわけです。

劉備は孫尚香の取り締まりには、趙雲が最適だと感じ奥むきの事を取り締まらせています。

劉備は趙雲を留営司馬に任命し、張魯討伐の名目で益州に向かいます。

この時に、孫権は孫尚香を呉に帰らせるべく、大船団を率いて迎えを寄越したわけです。

孫尚香の方でも趙雲が相手では堅物過ぎてやりにくく、呉に帰りたくなったのかも知れません。

孫尚香は劉禅を連れて呉に帰ろうとしますが、趙雲と張飛が兵を指揮して長江を遮っています。

趙雲と張飛が長江を遮った事で、孫尚香は劉禅を連れて呉に帰る事が出来ませんでした。

劉禅連れ去りを未然に防いだ趙雲の功績は大きいと言えるでしょう。

 

趙雲の益州入り

益州に入った劉備は、張松や法正が内応した事から楽勝かと思われました。

しかし、張松の兄である張粛が劉璋に密告した事で、劉備と劉璋は全面対決に突入します。

劉備は李厳が寝返るなど戦いを優位に進めますが、軍師の龐統が張任により討たれてしまいます。

劉備は諸葛亮を荊州から呼び寄せ、関羽を荊州の守備とし、諸葛亮、張飛、趙雲らは益州に入りました。

趙雲は江州に到着すると、江陽方面から進軍させ、成都で落ち合う事になりました。

馬超が劉備陣営に加わり、劉璋を簡雍が降伏させた事で、劉備は益州を支配下に収めています。

劉備は趙雲の功績を認め、翊軍将軍に任じています。

 

趙雲の諫言

劉備は益州を取ると、成都の中にある建物と城外の桑田などを、諸将に分け与えるのがよいとする意見が出されました。

それに対し、趙雲は毅然と次の様に述べています。

趙雲「前漢の名将である霍去病は、『匈奴を滅ぼしていない』と述べ、屋敷を作ろうとしませんでした。

現在の国賊は匈奴の比ではありません。まだ平穏を望む段階ではないはずです。

天下は平定され郷里に戻り農業をするのが、一番の適切な行為となります。

益州の民衆は戦禍にあったばかりであり、田畑や住宅は全て返還すべきです。

住民を慰撫し落ち着かせた後で、賦役や徴税を行えば、民衆の支持を得られる事でしょう。」

劉備は趙雲の進言を即座に実行したとあります。

自分の利益よりも、国家の事を考える辺りは、趙雲らしいと言えるでしょう。

 

子龍は一身これ胆なり

劉備が「子龍は一身これ胆なり」と述べた話しが、趙雲別伝にあります。

定軍山の戦いの後に起きた話しとなります。

黄忠が兵糧を奪いに出陣

劉備は漢中に進出し、張飛が張郃を破り、黄忠が定軍山で夏侯淵を討ち取りました。

しかし、曹操が夏侯淵の援軍として、漢中まで来ていたわけです。

この時に黄忠が曹操軍が兵糧を輸送している所を見つけます。

黄忠は趙雲の兵士も引き連れて、略奪に行きました。

しかし、黄忠は約束の時間になっても戻って来なかったわけです。

趙雲は黄忠の様子を見に、軽装で数十騎を率いて陣を出ています。

 

趙雲と曹操の軍が遭遇

趙雲は黄忠の様子を見に行きますが、少数の趙雲らと曹操軍が遭遇してしまいました。

曹操軍の先頭は趙雲らに攻撃を仕掛けています。

さらに、運が悪い事に曹操の本隊も到着しました。

趙雲は圧倒的に不利な状態でしたが、曹操軍に突撃を仕掛けて、戦いながら引くを繰り返しました。

趙雲の勇猛さの前に、曹操は逆に押されますが、兵力では曹操が上で再び盛り返しています。

 

張著を救出

趙雲は戦いながら退き、自分の陣に向かいます。

この時に、激戦だったせいか将軍の張著が負傷してしまったわけです。

趙雲は負傷した張著を助けに戻り、張著を救出し自陣に迎え入れています。

趙雲は自分の陣に戻る事が出来ましたが、曹操が趙雲の陣に攻撃を仕掛けてきました。

 

曹操軍を打ち破る

この時の趙雲の陣営には張翼がおり、門を閉じて防御を固めようとします。

しかし、趙雲は陣営に入ると目立つ様に門を開け、旗を伏せて太鼓を鳴らすのをやめさせています。

曹操の軍兵は、趙雲に伏兵の用意があると感じ、追撃をやめて軍を退く事にしました。

曹操軍が軍を返すと、趙雲は突如として太鼓を打ち鳴らし、弩で曹操軍の背後から攻撃を仕掛けています。

曹操の軍は陣を乱して、我先にと逃げ帰ったわけです。

曹操軍は退却の最中に、漢水に落ちて亡くなった者が多数出たと伝わっています。

趙雲の見事は判断力と武勇で曹操を追い払う事に成功しました。

 

劉備が趙雲を絶賛

趙雲は曹操軍を撃退しますが、翌朝になると劉備が趙雲の陣営にやってきたわけです。

さらに、劉備は昨日の戦場を視察すると、次の様に述べています。

劉備「子龍は一身これ胆なり」

つまり、劉備は趙雲の事を「全身が肝っ玉の様だ」と述べたわけです。

劉備は趙雲の為に日暮れまで音楽を演奏させ、宴会を催し趙雲を労いました。

劉備は趙雲の事を「虎威将軍」と呼んだ話があります。

劉備は趙雲の武勇に驚嘆したはずです。

 

劉備の呉への遠征を諫める

劉備の入蜀後に関羽は荊州を守っていました。

劉備が漢中を取ると、関羽は北上しますが、樊城を抜く事が出来ずに撤退しています。

しかし、孫権に裏切られ呂蒙により江陵や公安などの荊州の地を全て取られてしまいました。

関羽も斬られ、蜀の勢力は荊州での領地を全て失ったわけです。

劉備は孫権に対し、恨みを抱き呉を攻撃しようとしますが、趙雲は次の様に諫めています。

趙雲「国に害を成しているのは、曹操であって孫権ではありません。

魏を滅ぼす事が出来れば、孫権はおのずと頭を下げてきます。

曹操の子である曹丕は、後漢の献帝から簒奪を行いました。

簒奪を非難する人々の心に添い、関中を手に入れ逆賊を討伐するべきです。

関東の正義の志がある者は我らを官軍として迎え入れ、歓迎してくれる事でしょう。

魏を放置し呉と戦ってはなりません。

戦闘が始まってしまえば、直ぐに和解する事は出来ないのです。」

劉備は趙雲の諫めを聞かずに出陣しています。

この時に、劉備は趙雲を江州に配置し取り締まらせています。

劉備が呉の陸遜に夷陵の戦いで敗れると、趙雲は永安まで兵を進めましたが、呉軍は既に退却していた話があります。

夷陵の戦いで最も劉備を止めたのが、趙雲となるのかも知れません。

尚、近年の研究では「劉備は怒りから呉を攻撃したわけではない」とする説を支持する人が増えている状態です

 

諸葛亮の第一次北伐

諸葛亮の第一次北伐に趙雲も従軍しています。

曹真を引き付ける

劉備の死後に諸葛亮が政務を執ります。

諸葛亮は南蛮の孟獲を服従させると、北伐を開始します。

諸葛亮の第一次北伐では、上庸の孟達が蜀に寝返りますが、司馬懿に斬られるなどの躓きはありました。

しかし、涼州の大部分が蜀に靡くなど、戦略的に優位に進めています。

この時に、趙雲は鄧芝(とうし)と共に箕谷道を進撃し、長安にいる魏の大将軍曹真を引き付けるのが役目だったわけです。

趙雲は自らが蜀の主力だと見せかけて、大軍であると吹聴しながら進軍しています。

曹真は趙雲の軍が蜀軍の本隊だと認識し、諸将を率いて迎撃してきました。

趙雲の軍は陽動であり、魏の本隊である曹真に勝てるはずもなく敗れています。

しかし、ここでも趙雲は戦いながら引くという戦法を駆使して、曹真の追撃を振り切り、軍を纏めて引き上げています。

趙雲は見事な撤退戦を披露した事になるでしょう。

 

自ら殿を務める

諸葛亮の本隊は祁山を攻撃し、戦いは全て上手く行くかに思えました。

魏は張郃を派遣しますが、馬謖が迎え撃ち街亭で対峙する事になります。

馬謖は山の上に布陣した事で、張郃に補給を断たれ街亭の戦いで破れています。

趙雲も陽動部隊であった為に、曹真に敗れています。

この時の趙雲の撤退は見事だった様で、諸葛亮と鄧芝の間で次の話が残っています。

諸葛亮「街亭の軍が撤退する時は、指揮は乱れて将兵はバラバラになったが、

箕谷道の軍が撤退する時に、軍は乱れなかったのは何故か。」

これに対して、鄧芝は次の様に答えています。

鄧芝「趙雲が自ら後詰となり、軍需品や物資を捨てずに済み、将兵は軍を乱す事がありませんでした」

鄧芝の言葉からは、趙雲の撤退戦での巧みさが分かるはずです。

街亭の戦いで敗れた馬謖も趙雲の様な撤退戦が出来れば、「泣いて馬謖を斬る」とはいかなかったでしょう。

尚、諸葛亮が鄧芝に聞いたのは、趙雲は自らを誇る人物ではなく、多くを語らない人物だった可能性もある様に感じます。

趙雲は美学として「多くを語らない」というのを持っていたのかも知れません。

趙雲は出世しなかった話もありますが、原因としては、自分の功績を吹聴しなかった事があるのかも知れません。

 

諸葛亮が趙雲を絶賛

趙雲の撤退が見事だったせいか、軍需品の絹が残っていました。

諸葛亮は残った絹を趙雲の将兵に分け与えようとしたわけです。

諸葛亮としては、趙雲に伝えても受け取らない事は確実であり、趙雲の将兵に報いようとしたのかも知れません。

しかし、趙雲は次の様に答えています。

趙雲「負け戦だったのに、下賜があるのは何故でしょうか。

この物資は全て赤岸の蔵に収め、10月になったら冬支度として下賜して貰いたい。」

趙雲の言葉に諸葛亮は大いに嘉とした話があります。

ただし、趙雲の部下としてみれば、褒賞を貰えなかったわけであり、不満に思った人物もいるのかも知れません。

趙雲自体は性格からも奢侈を好んだ様には思えず、部下に多くを分け与えていた可能性もあるでしょう。

 

趙雲の最後

正史三国志によれば、趙雲は229年に亡くなったとあります。

第二次北伐が228年に行われていますが、趙雲が参加した記録はありません。

それを考えると、第一次北伐が終わった後に、体調を崩して亡くなった様にも思いました。

趙雲の最後に関しては、どの様なものだったのかは記載がありません。

既に老将となっていた趙雲の穏やかな最後だった可能性もあるでしょう。

尚、趙雲は西暦261年に順平侯の諡号を贈られています。

蜀の人物の中で諡号を贈られているのは、下記の12人しかいません。

「法正、諸葛亮、蔣琬、費禕、陳祗、夏侯覇、関羽、張飛、馬超、龐統、黄忠」

これを考えると、蜀の人間が如何に趙雲を評価していたかが分かるはずです。

 

趙雲の評価

陳寿は趙雲や黄忠の事を勇猛な武将であり、前漢の劉邦に仕えた灌嬰(かんえい)や夏侯嬰の様だと述べています。

灌嬰や夏侯嬰は、漢に忠誠を尽くした名臣です。

しかし、韓信の様に大軍を率いて兵を自在に操る様な名将ではありません。

それを考えると、陳寿は趙雲を一軍を率いる武将として優れていたと認識していたのでしょう。

尚、趙雲は魏延よりも位が下だった話もあり、不遇だったと考える人もいます。

陳寿にしてみれば、趙雲は関羽、張飛、馬超、黄忠と同列の功績を挙げたと認識しており、「関張馬黄趙伝」として一つにまとめたのかも知れません。

趙雲が蜀の数多くいる武将の中から諡号を賜わったのは、趙雲が二度に渡り劉禅を救った事が関係している可能性もあるでしょう。

長坂の戦いや孫尚香の事件の時に、趙雲が劉禅を救わなければ、劉禅は皇帝になれなかった可能性もあるからです。

劉禅を二度救った事から趙雲は諡号が贈られ、陳寿は趙雲は諡号が贈られた武将だからと、関羽、張飛、馬超、黄忠と同じ伝に収録した様にも感じています。

 

趙雲は三国志でナンバーワンの人気武将だと思う

趙雲は三国志の武将の中で、総合的に考えると人気ナンバーワンになるかと思います。

諸葛亮も人気がありますが、演義のチート能力があり、アンチもいる様に思います。

劉備、関羽、張飛などの人気キャラは史実での性格を考えると「いやだな~。」と感じる人も多いはずです。

それに比べ、アンチ趙雲という人は殆どいない様に思いました。

上記の理由から三国志での人気ナンバーワンは趙雲になると感じています。

 

趙雲別伝とは

正史三国志には裴松之が注釈を入れており、趙雲別伝の記述を採用しています。

趙雲別伝は、趙雲の子孫が書いたとも言われていますが、議論されている部分であり、信憑性がないとする意見もあります。

正史三国志と趙雲別伝の違いもあり、劉備に仕えた時期や第一次北伐の後に、降格したのか褒賞を受けたのかで違いがあります。

その様な違いから、趙雲別伝は事実を誇張したのではないか?とも考えられているわけです。

趙雲別伝は創作とも考えられています。

しかし、裴松之が趙雲別伝の記述を注釈に加えたり、宋の時代に司馬光が資治通鑑にも趙雲別伝の内容を取り入れています。

正史三国志の趙雲の内容は余りにも少なすぎてしまい、趙雲別伝に書かれた記述は事実なのではないか?とする話も存在します。

正史三国志の記述だけなら、趙雲よりも王平や張嶷の方が活躍しているなどの議論もある様です。

趙雲別伝の存在が真実なのかは、現在となっては分からない部分でもあります。

 

趙雲の子孫

趙雲が亡くなると、趙統が跡を継いだ話があります。

正史三国志によると、趙統は虎賁中郎・督行領軍まで昇進したとあります。

趙雲の次男である趙広は、牙門将となり姜維に従って、沓中に行き前線で亡くなったとあります。

西暦262年に姜維が魏の鄧艾に敗れて、沓中に撤退した話があり、この時に趙広が亡くなった可能性もあります。

余談ですが、姜維が敗れて沓中に撤退すると、廖化が姜維を批判した話があります。

さらに、黄皓が蜀の宮廷で実権を握った時に、姜維が「自分は沓中で屯田がしたい。」と述べた話しも存在します。

それを考えると、趙広は蜀の晩年に戦死したのかも知れません。

趙雲には娘の趙氏がおり、趙氏は関羽の子である関平に嫁いだ話もあります。

趙氏と関平の間に、関樾(かんえつ)なる子が出来た話しもありますが、正史三国志に記載がない事から、どこまでが本当なのかは不明です。

尚、趙統の方は蜀の滅亡時まで生きていたのかは定かではありませんし、鍾会の乱などで亡くなった可能性もあるでしょう。

司馬炎が三国志を終焉させますが、西晋の時代に趙雲の子孫がどうなったのかは分からない状態だと言えます。

三國志演義の趙雲

おまけとして、三国志演義の趙雲の活躍を見て行きたいと思います。

公孫瓚を助ける

袁紹は公孫瓚に冀州を一緒に攻めようと言い、公孫瓚は出陣しました。

しかし、冀州を袁紹が独り占めしてしまい、公孫瓚は弟の公孫越を派遣し抗議します。

袁紹は公孫越を董卓の兵に変装させた部下に、殺害させてしまいます。

怒った公孫瓚は冀州に攻め寄せますが、袁紹軍には軍師の田豊、逢紀、審配や武将の顔良、文醜などがおり苦戦します。

公孫瓚は文醜に追われ絶体絶命のピンチに陥りますが、ここで公孫瓚が登場し文醜を追い払ったわけです。

公孫瓚を救ったシーンが三国志演義での趙雲のデビュー戦となっています。

 

劉備を知る

公孫瓚の陣営には、劉備もいました。

趙雲は公孫瓚に仕えますが、失望した部分もあり劉備に惹かれる事になります。

しかし、趙雲は公孫瓚に仕えており、劉備の乗り換える事が出来ませんでした。

ここで劉備と趙雲は一旦別れる事になります。

 

臥牛山

関羽を慕う周倉という武将がいますが、劉備の元にやってきて次の様に述べています。

周倉「武芸に優れた武将が現れ、仲間の裴元紹を一撃で倒してしまいました。」

周倉の言葉を聞いた劉備は、直ぐに趙雲だと分かります。

公孫瓚は既に滅んでおり、趙雲は正式に劉備の配下となったわけです。

 

曹操軍の名だたる将との戦い

劉備は曹操の留守を突き、許都を攻撃しました。

趙雲も劉備と共に出陣しています。

曹操は許褚(きょちょ)を戦いに投入した事で、趙雲と許褚が一騎打ちになったわけです。

趙雲と許褚は互角の一騎打ちをしています。

しかし、ここで夏侯惇が汝南に侵攻した情報が入り、劉備は敗走する事になります。

趙雲は曹操軍の許褚、于禁、李典らと戦っています。

劉備は安全地帯まで逃げたと思ったのですが、高覧と張郃から攻撃を受ける事になります。

劉備は命の危険に脅かされますが、ここに登場したのが趙雲です。

趙雲は一突きで高覧を落馬させ、張郃と戦いました。

ここで関羽が救援に来た事で、張郃は退却して劉備は助かっています。

趙雲は曹操における典韋や許褚、孫権における周泰の様な武将です。

 

的盧

劉備は劉表の元に身を寄せますが、張武と陳孫なる者が略奪を働いている情報を得ました。

趙雲は出陣して、張武を倒し的盧という馬を得たわけです。

趙雲は的盧を名馬だと感じ、劉備に献上しました。

しかし、的盧は凶馬と呼ばれており、乗る者に災いを招く馬だとされています。

後に劉備は蔡瑁に招かれて趙雲を連れて宴席に出ます。

趙雲は劉備を守る為に目を光らせていましたが、文聘に誘われた事で別室に行く事になります。

劉備は命を狙われますが、伊籍の手引きで宴席から逃れ、的盧のお陰で助かっています。

ただし、後に劉備は的盧を龐統に貸し与え、的盧は落鳳坡で命を落としています。

 

八門禁鎖の陣

劉備軍に軍師の徐庶が加わる事になりました。

曹操軍の曹仁が攻めて来て、八門禁鎖の陣で戦いを挑んできます。

徐庶は八門禁鎖の陣の弱点を見破っており、趙雲に東南から西に向かって攻撃を命じました。

この突撃で趙雲は呂曠を討ち取り、李典に泡を吹かせるなどの活躍をしています。

徐庶の策が辺り関羽、張飛の活躍もあり、曹仁に大勝したわけです。

ただし、徐庶は程昱の計略により、曹操の元に向かう事になります。

 

新野の戦い

徐庶は劉備軍から離脱しましたが、三顧の礼により諸葛亮が加わる事になりました。

諸葛亮は天下三分の計を説き、劉備を納得させたわけです。

ここで曹操軍の夏侯惇が攻めて来たわけですが、諸葛亮は趙雲に正面から戦い、関羽と張飛に伏兵になる様に命じています。

趙雲はわざと負けて引き下がります。

諸葛亮の火計もあり、夏侯惇の軍に大勝したわけです。

諸葛亮の知力が光る戦いでもありますが、趙雲のわざと負けるという芸当も玄人好みで光って見えます。

 

阿斗を助ける

曹操が自ら南下を始めると、劉備軍は南下しますが、長坂で追いつかれてしまいます。

乱戦の中で、趙雲は阿斗(劉禅)を保護しました。

この時に、麋竺、糜芳の妹で劉備に嫁いでいた糜夫人は、自分が足手まといになると感じ、井戸に身を投げて亡くなっています。

趙雲は糜夫人の遺体を曹操軍に見つからない様にする為に、井戸を破壊しています。

趙雲は阿斗を抱えて馬を駆り長坂橋まで行くと、張飛がおり「張将軍、後は任せた。」と言い劉備の本陣に追いついたわけです。

劉備は阿斗を地面に投げつけ「お前のせいで勇将を失う所だった。」と述べた話があります。

趙雲は劉備に涙ながら、糜夫人の最後を語っています。

 

諸葛亮を助ける

劉備と孫権は同盟を結び曹操と対峙する事になります。

この時に、周瑜は諸葛亮の命を狙っていました。

諸葛亮は趙雲に「十一月二十日の甲子の日に小舟で来て欲しい。」呼び出したわけです。

趙雲が小舟を出して、諸葛亮の元まで行くと呉軍の丁奉と徐盛が追いかけて来ました。

趙雲が迎えに来た事で、諸葛亮は助かった事になります。

 

曹操の旗を奪う

赤壁の戦いは、孫権と劉備の連合軍の勝利となりました。

趙雲は諸葛亮に命じられた様に伏兵となり、烏林に潜んでいたわけです。

趙雲は曹操が通りかかると、曹操を襲撃して旗を奪う活躍を見せます。

しかし、曹操は逃げ延び、関羽に見逃されて北に撤退しました。

 

桂陽を取る

荊州四郡を支配する為に、趙雲は桂陽に向けて進軍します。

諸葛亮の策略で趙雲は刑道栄を生け捕り、三千の兵で桂陽を降しています。

ここで史実と同じように趙範は、趙雲に縁談の話を持ち掛けてきます。

趙雲が断ると、趙範は逆恨みし配下の陳応と鮑隆に偽りの投降をさせ、趙雲を討とうとしました。

趙雲は陳応と鮑隆の策を見抜き、事なきを得ています。

 

孫夫人と劉備の縁談

甘夫人が亡くなると、孫権は妹の孫夫人を娶らないか?と劉備に持ち掛けます。

劉備と孫権の和平の為には、もってこいの話ですが、危険な匂いもしていたわけです。

諸葛亮は三つの袋を趙雲に与え、劉備の護衛を任せています。

呉では喬国老と呉国太が待っていましたが、趙雲が武者ぶりを見せつける事になります。

喬国老と呉国太は縁談には反対でしたが、趙雲を見た事で縁談に反対しなくなります。

趙雲は諸葛亮から与えられた3つの袋を使い、劉備を守り切る事にも成功しました。

 

張松を持て成す

劉璋配下の張松は主君を見限り、曹操に益州を献じようと考えます。

益州の地図を持って曹操の元に出向いたわけです。

しかし、張松は曹操に追い出されてしまい、劉備の元に向かいます。

趙雲は張松に会うと大いに持て成し、張松も劉備に会う決断をしました。

三國志演義だと蜀を手に入れるきっかけになったのは、趙雲だと言えます。

 

黄忠を助ける

劉備は蜀を取り、漢中を手に入れるべく動く事になります。

この時に、黄忠の台頭が始り、張郃を相手にすると述べたわけです。

それに対し、趙雲は次の様に述べています。

趙雲「老将の黄忠殿では張郃を相手にするのは難しい。」

しかし、この後に黄忠と趙雲はタッグを組む事になります。

黄忠が危機に陥ると、趙雲が助けに行く場面もあったわけです。

黄忠や趙雲の活躍により、漢中は劉備の領土となります。

 

五虎将軍

劉備が漢中王になると、関羽、張飛、趙雲、馬超、黄忠で五虎将軍に任命しました。

正史三国志では、関羽、張飛、馬超、黄忠に比べると、役職で劣る趙雲ですが、三国志演義だと同格となっています。

ここまでの三国志演義での活躍を見る限りだと、当然の結果だとも言えるでしょう。

ただし、この後に関羽が樊城の戦いで敗れてしまい、五虎大将軍の全員が生きていた時代は短期間しかありません。

尚、三国志演義では関羽の弔い合戦に劉備が出陣しますが、正史と同様に趙雲が止めています。

劉備は夷陵の戦いで敗れると白帝城まで逃げますが、趙雲が劉備を助けに向かい呉の朱然を斬っています。

ただし、趙雲が朱然を斬ったのは史実ではなく、演義の創作です。

 

 

北伐に参加

諸葛亮の北伐にも趙雲は参加していますが、この時には既に「老将」という扱いになっています。

しかし、趙雲の腕は衰えておらず、韓徳などを討ち取る活躍を見せています。

ここで趙雲は敵に囲まれますが、張苞と関興が助けに来た事で難を逃れました。

この後に、趙雲は姜維と一騎打ちも行い引き分けています。

これが三国志演義での姜維のデビュー戦であり、相手が趙雲だったわけです。

尚、三国志演義でも鄧芝と共に趙雲は撤退戦を行っていますが、一兵も失わずに撤退するという神業をも見せています。

しかし、史実と同様に街亭の戦いで馬謖が敗れた事で、第一次北伐は失敗に終わりました。

 

趙雲の死

三國志演義の趙雲の死ですが、病死となっています。

三國志演義の場合は、張遼や甘寧、孫策などの死がクローズアップされていたりします。

他にも、徐晃や楽進の様に正史とは、かけ離れた死に様として描かれる場合すらあるのです。

それに対し、趙雲の死は病死で片付けられるという事態になっています。

三國志演義では趙雲は驚異的な働きを見せているにも関わらず、最後が残念な結果になっている様な気がしてなりません。

しかし、趙雲の死は五虎将軍の最後の一人の死となり、五虎大将軍の終焉も意味している事になるでしょう。

 

 

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